神の臨在

 コロサイ 1:27「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」

 これは、聖書中で最も重要な所の一つです。パウロはこの奥義を述べ伝える為に、教会で仕える者になったと言いました。パウロの書簡を読めば、キリストが私たちの中におられるという奥義を伝える為に、いかに彼が全てを捧げていたかが分かります。イエスが信者の中におられる事を示したパウロは、インマヌエルという名でキリストが呼ばれると書いてある預言が成就した事を宣言しているのです。しかし、今日のクリスチャンの多くは、キリストが彼らの中におられると認識はしていません。むしろ、「神の臨在」を求めて「渇いている」と言います。主が、「私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇く事がありません」と言ったのにも関わらずです。

 神の右に着座しているイエスは、聖霊を通して私たちの中にもおられます。イエスが共におられるという真理を悟っていれば、いかなる場面でも不安になったりする事はないでしょう。神が遠くに感じる事もありません。しかし、多くの人は神が遥か遠い、天国にいると思っているので、その距離を埋めようと必死になっています。主は、私たちから一瞬たりとも離れた事はありません。ですから、神の臨在を求めるという事は、ある意味、おかしな話ですが、そうした矛盾の原因の一つは、インマヌエルの預言が成就された事を信じていないからです。

 人々が神の臨在を求めるのは、大抵の場合、何かを感じたいからです。それは、殆ど感情的なものです。五感で主を感じたいと望んでいるのは、信仰による歩みが分からないからです。しかし、普段から主と共に歩む人は、主からの水を常に飲んでいて、渇く事がないので、小さな霊的な体験ではもはや簡単に興奮しません。一方、肉の思いによって歩んでいる人は、霊的に渇いているので、神の臨在やその他の霊的体験を求めるようになるのです。そのような人は、神の臨在を少し感じただけでも、リアクションがオーバーになりがちで、霊的にアップダウンが激しく、安定していません。ちょうど、子供のテンションが急に高くなるのと似ています。

 理想としては、神の臨在が常に認識できるほど、信仰の歩みをする事です。イエスが私たちの中におられ、私たちから一瞬でも離れた事がないというのは真理です。私たちがどんなに興奮状態になっていて、何かを感じていても、そうでなくても、主は私たちと共におられるのです。ですから、誰かが「主がそこにいます」と言っても、特別な反応をする必要はありません。何故なら、主の臨在は、常に私たちのものだからです。「神の臨在がここにあります」という、誰かの発言の一分前にも、主はあなたの中におられたのです。それとも、その発言があなたを興奮させて特別なリアクションを取るべきだと促しているのでしょうか?ある意味、私たちはそのような事を学習させられたのです。

 主の臨在は、「感じる」事もありますが、感覚にこだわる必要はありません。最初のうちは、そればかりを求めがちですが、私たちは五感によって歩まず、大人の考えで、信仰によって歩む事ができます。常に冷静でいる事はできるのです。しかしそれは、必要以上に感情を殺し、聖霊の流れを拒否するという事とも違います。御霊が特別に何かをしている時には、それに委ねる事も大事です。感情は、コントロールされているなら、表現を現す手段として、神から与えられた素晴らしいものです。しかし、感情的になると、感情が私たちを支配し、良い判断ができなくなるのもまた事実です。子供のように素直でいながら、感情的にならないように成長する事は可能です。真の喜びとは内から湧き上がるものであり、感情に支配される事とは違います。実際、聖書の言う喜びとは、霊的なものです。愛もまた、霊の域に属するものであり、感情はむしろ、後からついてくるものです。

 イエスがあなたにとってインマヌエルでないのなら、あなたは信仰によって歩む事が出来ないでしょう。あなたは、あなたの祈りを主が聞いて下さっている事に確信があるでしょうか?神に関する事が全てミステリアスだと勘違いしているクリスチャンは、神の御心を理解していません。その理解のなさを埋めようとして、主の導きを必死に求めます。何事も主の導きなしでは動けないと考えながら、それが最高の生き方だと思っているのです。しかし、それは幼子の考えです。霊的な幼子は、常に聖霊の導きばかりを求めていて、主が手を引っ張らないと歩めないと思っています。

 この種の問題を解決する一番良い方法は、イエスが私たちの中におられるという真理を知る事です。そうすれば、その満たされない思いを、五感を満足させるような方法にこだわらなくなります。クリスチャンにとって、霊的な事柄がミステリアスになっているのは、最も重要なミステリー(ギリシャ語で奥義の意味)を知らないからです。イエスが私たちの中におられるという奥義を知らないなら、全ての霊的な事柄が隠されている状態になってしまうのです。

使徒と預言者に従う?

 Shepherding Movement 或いは Discipleship Movement(弟子訓練ムーブメント)とも呼ばれるカリスマ運動が70年代に広がりました。これは、使徒と預言者の権威が強調された教えです。人々は、使徒と預言者が教会の最高権力者のような立場だと勘違いし、カルト的な方向に流されてしまいました。実際、人生の重要な決定(結婚など)も、使徒や預言者が決めるものと教えていたのです。

 「五役者(五職)」の教えも、未だに誤解されていますが、特に、リーダーの権威が間違って強調されている点が問題です。これらの役割に従事するリーダーは、神に特別に選ばれた霊的エリートではなく、ただ教会をまとめる役割をするだけであり、彼らに他の信者を支配するような権威が与えられているのではないのです。教会のかしらはイエスであり、土台となっている使徒と預言者は、その他の人たちを支える為に一番下にいて、一番使えている人たちなのです。

 エペソ 2:20「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」

 「使徒たちや預言者たちという土台」とあるように、使徒や預言者は、教会の上の立場にいるのではありません。真の教会は、ローマ・カトリックのような、ピラミッドの形ではなく、むしろ逆ピラミッドです。現在でもこの種の考えが「五役者(五職)」の教えにあります。使徒と預言者の回復運動は、それ自体は悪くないのですが、彼らに対するリスペクトが必要以上になっている(肉的になっている)ところが難点です。リーダーに対する尊敬は重要ですが、彼らの権威は、信者に仕え、教える為のものであり、彼らをただ無意味に従わせる為のものではありません。

 1コリント 4:15-16「たとえあなた方にキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなた方を生んだのです。ですから、あなた方に勧めます。私に倣う者となって下さい。」

 パウロは最終的に、彼の愛する子供である、コリントのクリスチャンたちに、「あなた方に勧めます。私に倣う者となって下さい」と言っています。パウロは使徒の役割を担ったリーダーでしたが、神からの特別な権威が与えられたというだけで、ただ彼に従うようにと言っているのではありません。パウロは彼自身が人々の模範となった上で、彼に倣うようにと言ったのです。

 1コリント 4:9-13「私はこう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、最後の出場者として引き出されました。こうして私たちは、世界に対し、御使いたちにも人々にも見せ物になりました。私たちはキリストの為に愚かな者ですが、あなた方はキリストにあって賢い者です。私たちは弱いのですが、あなた方は強いのです。あなた方は尊ばれていますが、私たちは卑しめられています。今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、中傷されては、優しい言葉をかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。」

 私たちが使徒たちをリスペクトする必要があるのは、彼らがこうした苦労をしていて良い模範を示しているならばの話です。自らを使徒と名乗る人々が、使徒としての模範を示していないのなら、私たちは、彼らの発言を吟味する必要があるでしょう。今のところ、信頼できる使徒や預言者の働きをしているリーダーは、それほど多くはいません。その主な理由は、彼らがまだ模範を示せる事ができるほどに、成長していないからです。しかし、前の時代から続いている、間違った教えの修正を加え、これらのリーダーたちが立ち上がる時代は、もう来ています。