ロゴスとレーマ 4

ロゴスの力

 マタイによる福音書 8:8「しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなたようを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば私のしもべは癒されます。」

 百人隊長が言った「お言葉」はロゴスです。それによって彼のしもべは癒されると彼は言ったのです。彼はイエスのロゴスにより、彼のしもべが癒されると信じていました。実際、ロゴスを信じると結果を伴う事になりました。ですから、ロゴスを信じるなら、レーマになるのです。イエスは「私はイスラエルの内の誰にも、これほどの信仰を見た事がありません。」と言って、百人隊長を誰よりも褒めました。下の聖書の箇所でもロゴスの力によってイエスが悪霊を追い出したと書いてあります。

 マタイによる福音書 8:16「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスは言葉をもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒された。」

 この箇所の「言葉」はロゴスです。従来の間違ったレーマの定義によると、聖霊が導いたので奇跡が起きたという理解なので、この個所の言葉はレーマだろうと考える人は多いでしょう。しかし、イエスは聖霊の導きという意味のレーマによって、悪霊を追い出したのではありません。既に解説したように、レーマの正しい定義は「結果を伴う語られた言葉」です。

 百人隊長がイエスのロゴスを信じて結果を出したケースも、イエスがロゴスによって悪霊を追い出したケースでも、共通している点は、ロゴスには力があるという事です。「書かれた言葉には力がない」というニュアンスを含む、従来のロゴスの定義とは違います。

 例えば、同様な考え方は、癒しの賜物によって癒しをする人々のケースでも見られます。こうした人々は基本的に、癒しは神の御心だと言いますが、究極的には「誰が癒されるかは聖霊が示さないと分からない」とします。つまり、彼らとしては、ロゴスは大まかなガイドラインにしか過ぎず、最終的には全て聖霊の導き次第とするのです。この聖霊の先導をレーマという定義だと勘違いしている為に、レーマがロゴスよりも重要だと結論づけたのです。

 奇跡が起こる理由は、全て聖霊の声(レーマ)次第だとしている為に、多くの人が聖霊の導きばかりを追い求め始めました。しかし、聖書ではロゴス(言葉、イエス)を信じるだけで、癒しが起こるという単純な真理を教えています。聖霊の先導そのものが、毎回奇跡を起こすのではなく、私たちがロゴスを信じて、一歩踏み出す時に、聖霊が私たちをサポートして下さるのが真実なのです。

 では、イエスもロゴスを信じて、その力を発揮させたかという点はどうでしょうか。信仰はギリシャ語の定義から「知る、理解する、悟る」という意味を持つので、イエスが自分の言った言葉の通りになると知っていたのは当然だと考えられます。イエスはご自身がロゴスであり、ご自分の言葉を信じて歩まれ、私たちもイエスの言葉を信頼して歩むように示されました。同じ例が、イエスが御言葉でサタンに対処された時にも見られます。その場でサタンを全能の力でねじ伏せずに、主が御言葉で対処されたのは、私たちに御言葉によって歩む事を示す為でした。

まとめ

 ロゴスもレーマも「語られた言葉」という意味を持ちます。ですから、書かれた言葉だけがロゴスではありません。それは聖書からも確認できます。そしてレーマは語られた言葉ではありますが、それを聖霊の声や導きにしてしまった所が間違いです。レーマは、より正確には、「語った言葉の結果」という意味になります。

 ですから、ロゴスを信じて、結果が出たら、それはレーマとなるのです。新約聖書の著者たちは、これらの言葉を使い分けて、結果を伴った場合は、レーマを使ったのです。読む側としては、どの言葉がレーマとなったかは、現場にいなかったので、分からないという事もあります。

 ローマ人 10:17「ですから、信仰は聞く事から始まります。聞く事は、キリストについての言葉を通して実現するのです。」

 ギリシャ語では「始まる」の動詞はありません。この箇所を直訳するなら、「信仰は聞く事から、キリストのレーマを聞く事から」という感じです。ここでは、結果や力を伴うイエスの語った言葉を聞いたら、私たちは信じる事ができるとパウロは言っているのです。パウロが言いたいのは、イエスの言葉は結果を伴うもの、つまり、何らかの神の力を伴うものであり、それを聞事から信仰が始まるのだとパウロは教えているのです。

 ロゴスにも力がありますが、それを私たちが信じて結果を出す必要があります。ちょうど、福音を聞いて、それを信じて、救われるという結果を出す必要があるのと同じです。福音を聞いて、本当に信じたのであれば、その人は新生を体験する事になります。
 
 結論として言えるのは、聖霊の声(レーマ)だからという事で、ロゴスよりもレーマが大事なのではありません。或いは、書かれている言葉(ロゴス)には力がないという定義でもありません。御霊は真理であるイエス(ロゴス)に導かれます。イエスの言葉、イエスの教えを信じるなら、その結果が現れる事になり、それがレーマになるという事なのです。

ロゴスとレーマ 3

 ヨハネによる福音書 16:13-14「 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導いて下さいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いた事を全て語り、これから起こる事をあなた方に伝えて下さいます。御霊は私の栄光を現されます。私のものを受けて、あなた方に伝えて下さるのです。」

 御霊は御言葉(ロゴス=イエス)を思い出させて下さり、真理に導く(イエスに導く)最も重要な働きを持っています。御霊は、私たちの助け主というサポートの立場を維持します。ですから、御霊の語る事(ロゴス)だけで事が成就するのではなく、それに従って私たちが行動する時、その御霊の導きや啓示が成就します。従って、聖霊の導きによる語りかけそのものはレーマではないという事です。私たちの信仰による行動が常に関わっているというのが重要なポイントです。もし、聖霊の語った言葉が直接レーマになっているのなら、聖霊が全ての事を成就させる事になります。それなら私たちとは無関係になり、私たちが世界宣教などしなくても良い事になります。

 私たちの何が関わっているかと言えば信仰です。そして信仰の結果である行動です。私たちがロゴスを信じてその通りに行動に移すと、そのロゴスが効果を伴う事になり、それがレーマとなるのです。既に説明したようにロゴスも「語られた言葉」という意味があります。聖霊が私たちに語られる指示や導きは基本的にレーマではなくロゴスです。聖霊が私たちの信仰を必要としない形で(レーマで)事を成し遂げるケースは、私たちが霊的に幼い時が主になります。成長して私たちが信仰によって歩むように導くのが聖霊の導きである為、御霊の声の多くはロゴスになっています。御霊が私たちに語るのは、私たちを通して働きをしたいと望んでいるからです。そこには当然、私たちの信仰が関わっています。それゆえ、レーマによって生きるとは、私たちがロゴスを信じて、それを実践する事によって生きるという意味です。

 聖霊が私たちの信仰なしに私たちを通して働く事があっても、それを毎回期待しなさいと神が言っているのではなく、御霊が私たちをサポートする存在であるという事を教えているのです。つまり、例え私たちが信仰によって歩んでいないケースでも、時にはバックアップして下さる恵みがあるという意味です。もちろん、そうだからといって信仰によって歩む必要はないと考えるのは間違いなのですが、多くのクリスチャンはそう考えているのです。

 本来の聖霊の働きは、私たちが信じて一歩を踏む出すタイミングで、私たちの信じた結果を出す部分にあります。ですから、「聖霊様、どうそ事を成し遂げて下さい」といった信仰のない希望の祈りは間違っているのです。神次第といよりも、むしろ私たちの信仰による行動と、神に対する私たちの献身的な歩み次第です。

 逆に言えば、私たちが忍耐を持って、長年何かを信じて行動に移していても、その結果が見られないのなら、正しく御言葉を理解していない事になります。何故なら、ロゴスを信じて実行するなら、それは確実にレーマになるからです。ロゴスがレーマになる為には、私たちがロゴスが言わんとする真理を信じる必要があります。聖書の教えている信仰とは真理に対して働くものであるので、御言葉を勘違いして信じているなら、それはレーマ、つまり、結果を伴う事にならないのです。

 ロゴスとレーマ 4に続きます。

ロゴスとレーマ 2

レーマ

 ῥῆμα(レーマ)を語源から見ると、 (Rheo + ma) から成り立っている事が分かります。Rheo は「言う、話す」という意味の動詞です。「μα」という語尾は注意が必要です。動詞等の後ろにつくと、「動作の結果や効果」という意味を含みます。この場合、Rheo の「言う」という動作の結果や効果を伴う事になります。

 マタイ 4:4「イエスは答えられた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

 ここの「言葉」はレーマになっています。レーマが「言う」という動詞の効果を伴うもの、つまり、話された言葉の効果が現れるという意味を含んでいます。神の発言された言葉には、その結果や効果が伴うという事で説明できます。イメージとしては、「光よ、あれ」と言って天地を創造した言葉の効果がそれです。その言葉は光を創造してしまう効果(力)を伴いました。

 ルカ 1:37「神にとって不可能な事は何もありません。」

 ここでも、「レーマ」が使われています。より直訳なら、「神にとって、不可能な言葉は一つもない」になります。ギリシャ語では「一つ一つ」(πᾶν)と「言葉」(ῥῆμα)という2語が使われています。これは、預言の成就を指したり、言葉の効果が現れて、奇跡が起こるなどのケースでも同じです。

 エペソ 6:17「救いの兜をかぶり、御霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」

 御霊の剣はレーマです。Vine's Expository Dictionary によれば「御霊の剣としての言葉は、聖書全体としてのロゴスではなく、御霊が私たちに思い起こさせる一つ一つの御言葉であり、それらは必要な時や状況に応じるもの」としています。そして、「そのようにして聖霊が私たちに思い起こさせる為には、私たち自身がまず御言葉(ロゴス)を蓄えておく必要がある」としています。これは、ロゴスだけでは剣としての役割を果たさない事を意味しています。

 ここにロゴスとレーマの違いのヒントが隠されていますが、ロゴスが生かされる為に必要なのは、信仰なのです。ロゴスよりもレーマが重要だという部分は、そこにあります。しかし、レーマが「聖霊が話された」という事、それがより重要だと教えられたのです。こうして一部のグループが、レーマを「聖霊の声」として御言葉よりも重要視した為に、様々な極端な考えが出てきました。しかし、レーマは誰が語ったかさえ限定しません。

 マタイによる福音書 12:36「私はあなた方に言います。人は、口にするあらゆる無益な言葉について、裁きの日に申し開きをしなければなりません。」

 「あらゆる無益な言葉」を話すのは人です。そして、ここではレーマが使われています。レーマを「聖霊の声」として定義していると、この箇所の聖書の解釈はどうなってしまうのでしょうか?

 ロゴスは、幅広い意味で「言葉」です。ロゴスはレーマと同様に「話された言葉」の意味も含みます。レーマは単に「話された言葉」ではなく、「結果を伴う話された言葉」がより正確な定義です。

ロゴスとレーマ 3に続きます。

ロゴスとレーマ 1

 一部のグループでは、λόγος(ロゴス)と ῥῆμα(レーマ)が大事だと主張されています。その主な理由は、レーマが聖霊の声だと、彼らの間で認識されているからです。これらの単語には相違点がありますが、共通点もあります。

 第一コリント 12:8「ある人には御霊を通して知恵の言葉が、ある人には同じ御霊によって知識の言葉が与えられています。」

 パウロによると、知恵の言葉であれ、知識の言葉であれ、同じ御霊によって与えられるという所がポイントです。さて、「霊的なもの」に傾倒しているクリスチャンなら、知恵の「言葉」と知識の「言葉」は「レーマ」だと思うかもしれません。しかし、両方ともロゴスとなっています。

 ヨハネ 12:48「私を拒み、私の言葉を受け入れない者には、その人を裁くものがあります。私が話した言葉、それが、終わりの日にその人を裁きます。」

 イエスの言われた、「私の言葉」はレーマですが、「私が話した言葉」はロゴスが使われています。ロゴスの意味を「書かれた言葉」として定義しているなら、それが間違いである事がここで分かると思います。

 マタイ 7:24-27「ですから、私のこれらの言葉を聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえる事ができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、私のこれらの言葉を聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえる事ができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」

 「私のこれらの言葉」はイエスが話された言葉なのですが、ロゴスの単語が使われています。イエスはここで、ロゴスを聞いて行わない人は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人だと言いました。

ロゴス

 ロゴスは「話された言葉」を含む「語り」「教え」「宣言」「預言」など「言葉」に関する、幅広い意味を持ちます。又、必ずしも聖書に関する言葉という意味だけに限定されません。ここれに対してレーマは「話された言葉」という限定された意味があります。注意したいのは、両方とも「話された言葉」の意味を持つという事で、一部の人々が誤解しているような、「ロゴス=書かれた言葉=聖書」ではないという事です。

 ロゴスとレーマ 2に続きます。

罪を赦された罪人?

 信仰義認という神学用語があります。これは、ルターがローマ書を基に「イエス・キリストを信じる事によって義と認められる」として、ローマ教会に抗議した事から始まりました。いわゆる宗教改革の三大原理の一つです。免罪符(贖宥状)にとても批判的な立場だったルターは、ローマ・カトリックに立ち向かった教会史の中でも最も重要な一人です。プロテスタント教派の起源はルターの大きな貢献、そして彼を通して働いた神の恵みによるものです。ルターの活躍により、信仰の真理は、より多くの人に正しく伝わるようになりました。

 キリストの十字架の御業を信じる事によって、神に義人として認められる事が信仰義認であり、そして、それが救いでもあります。しかし、皮肉にも「クリスチャンは赦された罪人」という表現も彼によるものでした。彼のこの発言は多くの人にとって、「クリスチャンは罪が赦されていても罪人と変わらない」と誤解されています。

 実際には、ルターは、義人となったクリスチャンでも罪を犯す事があるという事実を認めているだけであり、「義人ではなく罪人のままである」とまではしていません。彼は、クリスチャンでもまだ「罪の性質」が残っているとし、「将来的に義人」としての望みがあるだけで、現実には罪人だとしました。つまり、罪人の状態のままでいる事はなく、神がいつの日か罪を全く取り除いて、義として下さるという考えを持っていました。

 彼の説明は、彼自身、信仰義認を完全に理解していないという事が明らかです。「神から見ると義人」でも、「人の目から見ると罪人」だという視点がまず聖書的ではありません。もし、神がクリスチャンを義人と定義するなら、どうして人間的な見方をして、その逆の主張ができるでしょうか?できるとしても、それは神の言った事に対して反対する事になるのです。主が私たちを義とするなら、それに対して「アーメン」と主の御言葉を信じるのが謙遜な態度です。

 一見すると、自分の罪を認め、自分はまだ罪深いと言う人の方が謙遜のように思われるのですが、例え、自他共に認める罪があったとしても、信仰によって「私は罪赦された義人です」と宣言するのが正しい理解なのです。人が誰かの犯した罪を見れば、その人を罪人だとするでしょう。しかし、イエスの十字架の御業を見て、クリスチャンの罪を見るなら、その人は義人だと宣言できるのです。この理解はとても重要です。

 ルターの誤解は結局、義人になるには「聖化」というプロセスを経て完成されるという誤解が根底にあります。義としての立場が与えられつつも、それの完成は聖化という神の働きを経る必要があるとしています。彼のこうした聖化に対する誤解があった為に、ルターでさえ聖書的な義についての理解は十分ではありませんでした。これはつまり、私たちが義を正しく理解するのには、聖化もきちんと知る必要があるのです。これらをはっきり理解していないなら、救いの定義も揺らいでしまいます。

 ルターは以下の三つを理解していたのですが、その理解は少し浅かったようです。
  1. 信仰によって神によって義と認められる
  2. 義人であるクリスチャンでも罪を犯す事はある
  3. 聖化はプロセスである
上の三つの中で彼が間違っていた部分は以下です。
  1. 神の目から見たら義人でも、人から見れば罪人である
  2. クリスチャンは義人であり罪人でもある
  3. 聖化の完成は地上ではない
 1は既に少し解説したのですが、次の聖書の箇所を見るだけでも問題が解決されます。

 ローマ 8:33‐34「誰が、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めて下さるのです。誰が、私たちを罪ありとするのですか。死んで下さった方、いや、蘇られた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちの為に、とりなしていて下さるのです。」

 罪に定めようとするのは、まずサタンがいます。次に人です。人というのは他人もそうですし、自分自身も罪に定めようとします。しかし、神はそうしません。この理解はとても重要です。イエスの罪の赦しを軽く考えてしまうと、十字架の御業よりも自分勝手な判断に頼る事になり、その結果、罪の赦しの恵みを台無しにしてしまうでしょう。神が義と認めたのなら、それでもう終わりなのです。例え罪を犯しても、イエスが私たちの為に執り成して下さるのです。それでも「私は罪人だ」と言うなら、その発言が御言葉よりもその人の中で上位になっていて、その考えを神の言葉としているようなものなのです。御言葉に反するものを神とするなら、それはもはや偶像崇拝です。

 クリスチャンでも罪を犯すという現実はありますが、それだからといって、クリスチャンが神の子であるというアイデンティティーを失う事はありません。ですから、罪を犯したとしても私たちは義人なのです。これには違和感を感じる人もいるでしょう。しかし、これがまさに驚くばかりの恵みなのです。神の恵みゆえに、私たちはイエスを信じる事によって義人となったのです。もちろん、罪を犯したのなら、考えを変えて、歩むべき道を修正しなくてはいけません。

 クリスチャンの場合、たとえ罪を犯しても、罪人に逆戻りする事にはなりません。もし、クリスチャンが罪を犯すたびに、罪人に再び逆戻りするなら、イエスの血には力がないという事になります。それなら、動物のいけにえの血と同じであり、モーセの律法にあるように、毎年いけにえが必要になる事になります。恵みの真理がモーセの律法よりも勝っているのは、刑罰やいけにえよりも、主の憐みが永遠だからです。

 真理によれば、イエスの血には、全ての罪を取り除く力があります。過去の罪、現在も未来の罪も全てです。イエスの十字架の贖いは一度だけです。人の罪は、動物のいけにえの血によっては赦されませんでした。その儀式が人を義人にする事もできませんでした。イエスの十字架の御業のみが人を罪から解放したのです。しかし、罪が既に赦されているからと言って、罪を犯しても良いという考えではないとパウロも言っています。

 そこでカギとなるのが、聖化の理解です。私たちが罪を犯しても、私たちの新しいアイデンティティーは義人である為に、本来の聖書の通りの生き方をすれば、「既に聖化された」神の子の性質が外に現れてくるのです。一般に、聖化はクリスチャンになった時、ゼロからスタートすると考えられています。そして、ルター派などでは聖化の完成は生きている間はないと言います。そして、聖化されていない義人であるクリスチャンでも、死んだ場合なら、突然、聖化の完成に達して天国へ行くと教えています。それはそれで、多くの混乱を招くでしょう。 

 義化と聖化は別ですが、それらは、霊において同時に起こるのが聖書の真理です。「完成された聖化」が外に現れるには、成長というプロセスを経ます。新しく生まれ変わるという事が分かれば、この事がはっきり理解できるでしょう。すなわち、新しく生まれ変わったクリスチャンの霊は、アイデンティティーが罪人から義人になったという事であり、同時に聖くされた者(聖化)でもあるのです。生まれ変わったクリスチャンは神の子であり、神の子が聖化されていないというのはあり得ません。クリスチャンは、イエスを信じた瞬間に神の子となり、その霊において聖化されたのです。しかし、魂の変化は殆どなく、思考はあまり変わっていません。この部分の成長は必要です。ですから、魂における聖化は、過程を経ます。

 第一ヨハネ 3: 1-2「私たちが神の子供と呼ばれる為に、御父がどんなに素晴らしい愛を与えて下さったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子供です。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」

 クリスチャンの新しいアイデンティティーの形成は瞬間的です。何故なら、新しい霊によって生まれたのは瞬間的であり、それから魂が成長してそのアイデンティティーをより外に現して行く事も聖化です。この理解が鍵です。人の成長を例えにしましょう。人は赤ちゃんであっても、大人であっても、人というアイデンティティーは同じです。成長する過程を経て「より人間らしくなる」という事は言えるかもしれませんが、生まれた瞬間から人です。

 ところで、子供は食べる事によって成長します。もし子供が何も食べないなら成長しません。睡眠や運動などの条件も挙げるべきかもしれませんが、食べる事よりもそれらを優先に考える事はないでしょう。ある意味、普通に食べてさえいれば、子供は自然に成長します。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」という聖書の言葉からも、私たちが生きて行く上で大切なのが食べる事と関係しているのは明らかです。この場合、いわゆる霊の糧である御言葉(レーマ)が食物よりも重要であるのは明白です。 

 聖化と、御言葉を食べる事によって私たちの魂が成長する事には共通点があります。しかし、私たちのアイデンティティーは霊において確立されています。それだからこそ、罪の生活をやめて、神の子として、義の奴隷として歩むようにとパウロは勧めているのです。その歩みは、律法の行いによるものではなく、新しい人としての歩みです。私たちは罪から離れて聖い生活ができるのです。新しい人の奥義はそれほど偉大なのです。キリストの贖いによって、私たちはもう古い人のまま歩んで、罪を犯さなくても良いのです。キリストの心(思い)によって歩めるように生まれ変わりました。キリストと共に歩むという完璧な環境は整っています。ただし、そうした良い環境の中にいても、食べる事をしないなら成長はありません。御言葉を読まないのなら成長せず、既に霊において聖化されたアイデンティティーの実を結ぶ事はありません。つまり、イエスに繋がっていないなら実を結ぶ事もないのです。イエスに繋がるとは、イエスとイエスの教えに留まる事です(ヨハネ 15:7)。