御霊の賜物を理解する その4

私たちは、その肉の弱さゆえに、「賜物を持っている人」を「油注がれている特別な存在」と見てしまう傾向があります。このような呼び方をする理由の一つは、御霊の力を現す役割に従事している信者が少ないからでしょう。「献身者は一部の信者」というのが、現代の教会では一般です。しかし、全ての信者はキリストの弟子となるべきであり、「平信徒」、「献身者」、「油注がれた人」などの呼び方は必要ありません。このような考え方が信仰の土台にあるうちは、御霊の現れを通して役割に従事する事はできません。私たちクリスチャンは、皆がキリストの弟子になるべきです。そして、教会全体の徳を高める為に、お互いが自分の役割を果たす事に行動に移すのなら、聖霊も、最低でも各信者に一つの役割(恵みの現れ)を示して下さいます。

第一コリント 12:7「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」

賜物は特別ではない

教会がもっと成長して、一人一人がやるべき事に従事するなら、私たちはもっと御霊の働きを見る事になるでしょう。古い契約に基づく考えのままなら、神の為に働く人が特別に見えてしまい、「油注がれた者」としてしまいます。しかし、こうした誤解を全て解き明かすには、全ての信者に聖霊がギフトとして、神から与えられているという真理を知る事です。父なる神からの約束である聖霊こそ神からの唯一のギフトであり、神の子供であるなら、皆が持っている(聖霊が内住している)のです。そして、charisma は「恵みの現れ」という訳が最適であり、全ての信者が「恵みの現れ」という聖霊の働きと聖霊の助けを通して、教会の奉仕に携わる事ができるのです。特別に選ばれた人に与えられる何か特別なものではありません。これを知ると、使徒や預言者が「誰よりも大きな権威を持っている」という事も誤解だと分かります。彼らは、その役割が教会の土台に関するという事で、責任が重いというだけです。これらの役割に携わっているからという理由だけで、他の信者よりも優れているとは限らないのです。

第一コリント 1:28-29「有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。」

旧約聖書の視点は、十字架で人に明らかになった恵みを知らないものです。その時はまだ聖霊が豊かに降り注いでおらず、人々はモーセの律法を守る事で神の義を得る事ができると考えていました。イエスの十字架の御業が完成されていなかったので、キリストの義がモーセの律法の義よりも優れている事を知らなかったのです。その時代の「油注がれた人たち」は、多くいませんでした。しかし、今では全ての信者に聖霊が内住しておられ、また、全ての信者の中にキリストがおられるのです。神ご自身を持つ信者は、何かが欠けているという事がありません。私たちのうちには、神の力だけでなく、神ご自身が住んでおられるのです。

エペソ 1:3「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」

「賜物」や「油注ぎ」に欠けていると考えている人は、この御言葉を深く瞑想する事が必要でしょう。この聖句を悟る時、全ての必要は私たちの中にあると分かります。

「賜物」と訳されている教会における役割は、別の言葉で言うなら、「聖霊の助け」でしょう。それをもっと見たいのなら、御霊と共に歩み、教会での奉仕に励んで下さい。そうせずに、ただどうしたら霊的な力が与えられる事ばかりを考えている人は、霊的現象を追いかけるようになります。そうすると、悪霊による惑わしを見抜けなくなり、聖霊の声と悪霊の声の聞き分けもできなくなってしまい、最初は聖霊の働きで始まったのが、いつの間にか極端な教えに走って、肉による働きとなってしまいます。

このようなものは、パウロに言わせれば、幼子の考え方なのです。恵みの現れという聖霊の助けを毎回借りて教会で奉仕するというものは一時的なものであり、一部分であり、その様なものは幼子が考えるものだとパウロは言っているのです。究極的には、御霊の助けに依存せず、信仰によって歩んでいても、愛が欠けていたら価値はありません。ですから、第一コリントの13章の理解が重要なのは言うまでもありません。結局、愛という動機で行う奉仕が価値のあるものだからです。

コリントのクリスチャンのように、自分の利益を目的としたような下心のある奉仕の働きは、アガペーに基づくものではありません。こうした考えがあるのは、恵みの現れをただの神の力として見ているからです。そうではなく、神の恵みは、相手の必要に応じて現わされるという、相手を優先する事に基づいています。つまり、相手を助けるという愛の行動です。パウロはそれを教えているのです。

第一コリント 13:8-11「愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。」

恵みの現れという聖霊の働きも廃れます。それは、それ自体が虚しいものだからではなく、幼子が必要とする一時的なものだからです。聖霊が幼い信者を助けて、様々な教会の役割が機能するという、この種の聖霊の働きは、「廃れるべき理由」があります。それは、私たちが大人になる必要があるからです。パウロは、恵みの現れについて、「大人になった時、幼子の事をやめた」と言って、取るに足らないものと結論付けています。実際、霊的に成長してしまえば、その信仰が成長し、幼子が頼るような聖霊の働きは、もはや
必要としなくなるからです。霊的な大人は、信仰も成長しており、助けるべき人を優先して愛の動機で彼らを助けます。パウロはこうした考え方を持っていた為、時間をかけて一つ一つの役割がどういうものか、詳しく解説しなかったのです。パウロはむしろ、愛によって行動して人を助けるように、大人の考え方を持つように促したのです。

パウロが詳しく説明したのは、預言や異言に関しての賜物だけであって、その他が重要ではありませんでした。それは、それらの賜物だけが預言的な機能を持っており、教会の徳を高めるという愛の行動に関係する役割だったからです。ですから、パウロが注目しているのはこれらの役割自体ではなく、むしろ、愛に基づく行動なのです。

第一コリント 13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」

12節はイエスの再臨の事についてではありません。恵みの現れのテーマから逸脱して、パウロはここで突然、全く異なる事を書く事ができるでしょうか?パウロは「鏡にぼんやり映るものを見ている」という表現を使って、いかに幼子の時には一部分しか見えず、視野が狭くて小さなものばかりにこだわっているかを言っているのです。しかし、大人になって成長した時には、全てのものが理解して分かるようになるとパウロは言っています。その時には、鏡で映るものがはっきりと分かるようになります。

ここの「鏡」とは御言葉を意味します。御言葉を良く理解している人にとっては、御言葉によって自分自身を理解します。ところが、霊的に幼いクリスチャンは本当の自分の姿(アイデンティティー)を知らないので、鏡(聖書)を見た時、それをまだ理解出来ていない為に、ぼんやりと自分を見る事になります。彼らにとっては、真の自己の姿が鏡(聖書)にはっきり映って見えないのです。

あなたが肉の目で見ているなら、鏡である聖書を土台としていない事になります。そうすると、一時的なものにこだわったり、一部分のものを極端に重視したりしてしまうでしょう。そうではなく、本来あなたが聖書から見えるべきものは、本当のあなた自身です。それはあなたの中におられるイエス・キリストであり、それゆえに、あなたが神の子として悟り、霊的大人として歩んでいる本来のあなたなのです。


御霊の賜物を理解する その3

「御霊の賜物」は聖霊という神の恵みであり、それが様々な形で現われるというものです。今回は、同じ恵みの現れでも、それが教会における信者の役割とは異なるケースについて見て行きます。

さて、先にも言ったように、恵みの現れを「霊的能力」として見てしまいがちですが、より重要なのは、神から与えられた聖霊です。聖霊は私たちを通して様々な形でご自身の力を現すだけなのです。

ルカ 11:13「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

「良いもの」と訳されている語は、「ギフト」を意味するギリシャ語「doma」であり、それと聖霊を比較させて、主は説明されています。文脈から、聖霊が神からの賜物(ギフト)である事が分かります。しかし、第一コリント12章の御霊の賜物と訳されている「賜物」は「恵みの結果、効果、現れ」が正しい訳なのです。「charismata(複数)」が「ギフト」として訳されてしまった為に、様々な誤解が出て来たのです。しかし、同じ聖霊が恵みを現すケースでも次の箇所は別の事を意味しています。

ローマ 6:23「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

ここの「賜物」は
「charisma」であり、第一コリント人への手紙12章に出て来るものと同じ恵みの現れの意味を持ちます。この聖句での神の賜物とは永遠の命の事ですが、それは9つの奉仕の役割と同じ種類の恵みの現れではありません。「賜物」として考えると混乱するかもしれませんが、「charisma」を「恵みの現れ」という意味で読むと良いのです。永遠の命は、まさに、神の恵みが現わされた事です。

ローマ 11:29「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」

この個所も、文脈を完全に無視してよく引用されます。ここの「charisma(単数)」を「9つの役割」と同じなどと考えていると、神から一度与えられた役割の一つは、人の上に永遠に留まる、などの解釈に至ります。実際に、あるグループの人々の間では、こうした考えが一般となっています。

ここ の「賜物」も「charismata(複数)」となっているので、「恵みの現れ」という意味です。もう一度言いますが、これはギフトという意味の語ではありません。さて、この聖句の解釈は、前の節から見て判断するべきです。

ローマ 11:26-28「こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。」彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。」

この後に、29節の「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです」と続くのですから、ここの「charismata(複数)」は第一コリント12章にある「9つの役割」とは違う聖霊の現れです。それとも、パウロはここで語っている主題とは無関係に、ランダムに教会の役割について書いているのでしょうか?

聖霊の現れを「教会における9つの役割」と定義するのではなく、恵みを様々な形で現わす聖霊の働きと捉えましょう。そうすると、福音に関して言えば、神に敵対している者に見えても、父祖たちのゆえに、神に愛されているイスラエル人の救い、彼らから不敬虔と罪を取り除く事が「神の恵みの現れであり、召命である」と分かります。

聖霊が与える?

第一コリント 12:7「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」

「charis(恵み)-mata(効果、結果、現れ)」という語を使ったパウロは、「恵み=聖霊」とし、その御霊の効果、結果、現れだと表現しました。ここでは、「恵みの現れ」が「皆の益になる為」に与えられているとあります。次の聖句も似たような事を言っています。

第一コリント 12:11「同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。」

ここに出てくる「bouletai」という動詞を正しく把握しなければなりません。この語は、「~するつもり」という「意図」を意味しており、これが「みこころのままに」と日本語に訳された理由です。「聖霊が意図する」という事であるなら、「御霊は、みこころのままに」という訳で間違いありません。英語でも、「as He wills(聖霊が意図するままに)」という訳になっています。

ところが、この「bouletai」は受け身の形になっています。つまり、主語が「意図する」のではなく、「意図される」と訳されるべきなのです。ですから、「主語が~される」という事になります。そうすると、聖霊が「意図される」とはなりません。つまり、別の主語が「意図される」のです。前の説を見れば一目瞭然です。

第一コリント 12:8-10 「ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」
ここでの「charisma」は、同じ恵みの現れでも、教会における信者の役割として聖霊が助けて下さるという聖霊の現れであり、それが一人一人に与えられるという事なのです。ですから、11節の「意図される」のは、聖霊ではなく、これらの役割が意図されるという訳が最適なのです。

聖霊がどの様にしてその力を現すかは、聖霊の気分次第ではなく、そのニーズ次第なのです。つまり、聖霊が意図する(決める)のではなく、恵みの現れが「決められる」のです。必要が神の力を引き出すという視点です。長血を患った女も、イエスからその力を引き出しました。イエスが癒そうと決意する前に、彼女がその力をイエスから引き出したのです。

一般には、人間の必要とは関係なく、神の絶対的な主権により何かが決められると考えられていますが、それは間違いです。まず、主は私たちの必要を知らない事はありません。その必要を無視して、それとは異なる事を決断するお方でもありません。むしろ、主は私たちの必要を知っておられ、予め用意なさって下さるお方です。ですから、病人が苦しんでいる状況においての最適な恵みの現れは、癒しという形であり、知恵が必要な人に対しては、知恵の言葉が最適な神の恵みなのです。この様にして、助け主である聖霊は、私たち全ての益を考えておられます。この恵みは、無限の恵みです。

この真理には幾つかの重要な意味があります。すなわち、恵みの現れは神の恵みを必要としている人たちのニーズに応じて、形が変わるという事実です。ですから、キリストの信者が、「私はこの賜物は持っていないから助けてあげる事ができない」という考えは、的が外れているのです。或いは、パウロの挙げた幾つかのものだけが「恵みの現れ」でもありません。恵みの現れは、全て恵みを必要としている人に神が応えるものです。神の恵みはとても豊かであるが故に、人のあらゆるニーズに応える事ができます。ですから、聖霊による恵みの現れは、人のニーズに応じて現れされるものであり、制限がないのです。

御霊の賜物を理解する その4に続きます。

御霊の賜物を理解する その2

 御霊の賜物が幾つあるかご存知ですか?御霊の賜物が9つあるとよく言われるのは、第一コリント人への手紙12章だけに限定して見た場合です。


第一コリント 12:27-28「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。」 


同じ第一コリント人への手紙12章でも、パウロはここで「9つの賜物」以外の役割、すなわち、使徒、預言者、教師を例に挙げています。これらはエペソの4章にも出てきますが、28節にある「援助」と「管理」とは具体的にどのような働きなのでしょうか? 


ローマ 12: 4-8「一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。」 


これは、第一コリント人への手紙12章でパウロが言っている内容と同じです。この個所でも「一人ひとりは互いに器官」としてお互いが助け合うようにパウロは教えています。役割は人それぞれ違っていて、預言をする事、奉仕、教える事、勧める事、分け与える事、指導する事、慈善を行う事などを挙げています。いわゆる「預言の賜物」以外は、全てここにしか出てこないものばかりです。しかし、これらが劣っている役割であるとしたり、別の賜物が「より優れている」としたりするのではなく、教会においてどういった役割が信者にあるか、そして、信者を通して聖霊は様々な形で神の恵みを現わされると考えるべきなのです。 


そうして見た場合、第一テモテへの手紙で「監督」や「執事」といった人たちも、教会での役割、奉仕の働きであると分かると思います。つまり、一般に言われている「御霊の賜物」は、聖霊がそれぞれの働きに応じて現わされるものであり、それゆえに、数に限りがないのです。御霊の働きは無限ですから、それに合わせて毎回「~の賜物」という風に定義をしてもきりがありません。実際、パウロが挙げている教会での役割は毎回一致してはいません。私たちは、「御霊の賜物=9つの賜物」という連想をしますが、パウロは常に9つの役割に言及しているのではありません。パウロはそれらが限られたものだとか、決まった幾つかのものであると示唆してはいないのです。考えてみて下さい。パウロは自分でこれらの役割を挙げておきながら、預言、異言、異言の解き明かし以外のものについて解説をしていません。 


教会における全ての役割は、それぞれユニークな御霊の現れであり、各信者の異なる奉仕の働きであり、バランスと秩序を保ちながら、それらを通してお互いの為になるように生かしましょうというのが、パウロの言わんとしている事なのです。パウロにしてみれば、預言的な働きをする以外は、特に助言は必要ないという事だったのでしょう。9つの役割も「五役者」と呼ばれている役割も、教会における役割であって、誰かが偉いというランクを示唆するものではありません。パウロはただ単に御霊の賜物というのは様々あって、その例として第一コリント人への手紙12章、ローマ人への手紙12章、エペソ人への手紙4章、第一テモテへの手紙1章、その他の箇所などで、その例を挙げただけなのです。それらは全て聖霊の現れであって、お互いの益になる為の教会での役割なのです。 


「御霊の賜物」がしばしば「霊的能力」として捉えられているようですが、それはやむを得ないものかもしれません。私たちは神よりも神の力に注意が行きがちです。しかし、恵みの現れとして、聖霊が信者を通して働かれるという、「教会における役割」に目を向ける事が重要です。そうすれば、誰がより優れているかという考えには至らないでしょう。 


第一コリント 12:22-24「それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。」 


「御霊の賜物」は、「聖霊が与えるギフト」ではなく、恵みという聖霊の現れです。神の恵みである聖霊が、その力を発揮して様々な形で現れて下さるのです。第一コリント12章における恵みの現れは、教会における信者の役割に関係しています。神から特殊な霊的能力が与えられたから何かができるという事ではなく、私たちのうちに住む聖霊が私たちの必要に応じて様々な形として現れて下さり、私たちと共に働いて下さるという事なのです。


ですから、誰かが癒しを必要としている状況において、信者が癒しの働きを病人にする時、聖霊は癒しという恵みを現して下さるのです。特別な油注ぎを受けていないと癒しの賜物を用いる事ができない、という事ではありません。実際には、各自が奉仕の働きに熱心であるなら、霊的に幼いクリスチャンでも、御霊が助けて下さるのです。


 御霊の賜物を理解する その3に続きます。