キリストへと成長する教え

 エペソ 2:10「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをする為にキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いを予め備えて下さいました。」

 この聖句が私たちクリスチャンにとって、現実的にならない間は、私たちの信仰は机上の空論に過ぎず、伝道も単なる宗教への勧誘にしか見なされないでしょう。私たちが救われて、キリストにあって良い行いをする為に、神の作品として造られたという事が現実にならないのなら、周りの人々は、何故キリストを信じなくてはいけないのか、と思うに違いありません。

 幸いな事に、例え私たちが、今は良い行いに歩めていなくても、そのような備えは私たちの霊のうちにあるのです。しかし、私たちがクリスチャンとして歩むのであれば、その歩の中のどこかで、キリストのように歩み始めなければならない時が来ます。いつまでも、名ばかりのクリスチャンであってはなりません。

 救われても、キリストのように歩めていない、矛盾した私たちがいるのは、私たちがキリストへ向かって成長して行く道を歩んでいないからです。では何故、その成長の道を歩んでいないという事があるのでしょうか?それは、この事に関して、私たちがまだ真剣に考えた事がないからです。私たちの考えの大部分はまだ肉の思いのままであり、それゆえに、肉に属する者、霊的な幼子のままなのです。これが理由で、私たちは予め備えられている良い行いができないのです。

 肉的な考えを捨て、御霊によって歩まなければ、私たちは成長しません。そして、御霊によって歩む事の中心的なものは、思考の一新であり、クリスチャンの成長にとって中心的なものです。思考の一新は真理の言葉によってなされますが、漠然と聖書の学びをしているだけでは、成長しません。私たちが知らなければいけない事は、成長に欠かせない、土台となる教えが聖書にあるという事、そして、その教えに沿った御言葉を心に刻んで、実際に思考を一新させなければ、成長がないという事です。

 例えば、終末論を完全に学んだとしても、キリストの身丈に成長するという事には殆ど繋がりません。その他の神学でも同じです。私たちは、もっと直接成長に関する学びについて知る必要があり、尚且つ、思考を一新させる事が必要なのです。これを知らずにいるなら、この先、私たちは同じ問題の中で歩み続け、知識を幾らか増す事はできても、決してイエスのように歩む事はできないでしょう。

 私たちの目標とするところは、イエスのように歩むという事です。それは、人から認められようとする為の「立派なクリスチャン」をアピールする事ではなく、正しい動機でキリストのわざを現し、世の光として、神の子として地上を治める歩みです。その為には、私たちが成長していかなければなりません。この成長は、漠然と立派なクリスチャンになる事ではなく、イエス・キリストというゴールに向かうものです。