召しについて 3

神からの依頼

 自分が御国の為に何をしたら良いか、よく分からないという人の多くは、「神に示されたら何かをやる」事に徹しているようです。この考え方はまだ主流かもしれませんが、次の世代のクリスチャンは違う考え方を持つようになります。もちろん、神は私たちにやるべき事を示して下さる事はあります。本来は私たちが成長し、大人として考え始め、その成長に応じた働きを自由に選ぶ事ができるのですが、この事を知らない場合でも、神は人々に役割を当てる事はあります。

 実際に、過去の偉大な人たちの多くは、神に何をすべきかを言われてから行動しました。しかし、これが神の召しに対する正しい行動ではありません。基本的に、もうしばらくの間は、「神のしもべ」の視点を持つ人が多い為に、神も彼らに何をすべきかを指示されるでしょう。神の子に目覚め、自主的に御国を前進させる為の働きに従事しようとする人々は、まだ少ないのです。本来は、私たち神の子が何をやるべきかを見極めるほどに成長して、自由に奉仕しても構わないのです。神は、むしろそれを望んでおられます。

 必死に祈らないと神は何をすべきかを教えてくれない、神から許可を得ずに行動を起こすと必ず失敗する、などの消極的な固定観念が根強いのは、多くの信者が旧約時代の「神に仕えるしもべ」の考えを持っているからです。逆に言えば、新しい契約の中にいる「神の子」という考えが弱いという事です。神の子は御父の御心を知っている存在として新しく生まれ変わっています。旧約時代の預言者たちは、神が御父である事、キリストによって彼らが神の子になれる事などを知らなかったので、様々な制限が彼らの人生にあり、その結果、消極的な考えを持っていました。しかし、現代の多くのクリスチャンは、まだ古い契約の下にいる者として自分を考え、御国を相続する神の子、地を治める為に贖われた者というアイデンティティーに目覚めてはいません。キリストにあって、圧倒的な勝利者であり、神の霊と共に歩む神の子は、自由に人々に奉仕し、積極的にやろうとします。この考えは、旧約時代の預言者の考えとは違います。

 例えば、リバイバルが起こるように「神にひたすら祈る」という考えは「神のしもべ」の考えですが、「行動してリバイバルを起こす」という考えは神の子が持つ考え方です。リバイバルの為に祈る事は必須ですが、祈った後は、やるべき事をするのです。自分の成長に見合う仕事が集会にあるか、何かのニーズがあるか、或いは、欠けた部分を探して、そこを補えるかという考えを持つのが大人です。しかし、消極的な考えは、御霊によって歩む事が分からない、神の御心が分からない考えから来ています。実は、そこの部分が原因なのです。

 「主の御心が分かれば動く」という束縛から出るには、神の御心を知る事で解決されます。そうするには、神の子として歩み、神と共に歩む中で、神の御心を知る事が必須となります。それは敬虔的な歩みとも言えます。しかし私たちの多くは、普段は御霊による歩みをせず、中途半端な人生を送りながら、神の御心を求めているのです。普段から神の御心から離れて歩んでいる為に、御心が分からないという現実を知らないのです。神の御心を知るには、イエスの教えを知り、思考を一新させ、神の子の意識を強く保ち、聖霊の中に浸かる歩みをする必要があります。御父は、神の子たちが、そうして自然と神の御心を知るようになり、自ら進んで様々な事にチャレンジして欲しいと願っておられるのです。

 神に召されないと、ミニストリーを始めてはいけないという考えにこだわるなら、ヨシュアを見習う方がまだ良いでしょう。モーセは神の召しを受けてから、行動しましたが、呼ばれた後でも一度は否定しました。何故なら、自ら進んでやろうとしなかったからです。ヨシュアの場合、モーセを通して働かれる神に注意して見る事によって、次のリーダーとして自分を整えていたのです。「言われたからやる」という、モーセの考えよりも、やらなければならない事を知り、自分を整えるという、ヨシュアの考えは優れています。しかし、私たちはイエスによって神の子とされたので、モーセやヨシュアを超えて、神の子として歩む中で、御心を知り、今自分が何をすべきかを知る事ができるのです。

召しについて 2

神のしもべと神の子

 五役者、正確には教師が羊飼いの役割をするので、四役者です。やるべき事は、五つあります。ここでの問題は、それらの役割やタイトルにこだわり、それらの奉仕の働きを「神からの召し」だと勘違いしている事です。その原因の一つには、人々が「神のしもべ」の意識を強く持っているからです。奉仕の働きは色々ありますが、信者のアイデンティティーは神の子だけです。私たちは、神の子としてそれらの働きをしますが、それらの働き自体が私たち自身ではありません。クリスチャンが自分のアイデンティティーをよく知らないのは、その教えがあまり浸透していないからでしょう。又、「神の召し」を「絶対的な任命」として教えられているのは、次の聖書の引用が原因になっている事もあります。

 ローマ 11:29「神の賜物と召命は、取り消される事がないからです。」

 この箇所はよく誤解されています。ローマ人への手紙 11章はイスラエルの救いについての内容が書かれており、29節の「神の賜物と召命」とは「選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者」、つまり、イスラエル人の救いに関する神の約束を指しています。ここで使われている「賜物=恵みの現れ」を「御霊の賜物」や五職として解釈してしまっているケースがしばしばあります。パウロはその前の節までイスラエルの救いについて書いているのに、この節で突然、御霊の賜物や五職について語る事ができるでしょうか?話の流れを無視して、それらをここで説明する(一般的にそう誤解されている)という事はあり得ません。又、「賜物」の直訳は「恵みの現れ」なので、文脈から判断すると、イスラエルの救いが神による恵みの現れだと分かります。

 更に、κλῆσις(召命)の単語は「招待」の意味を持ちます。新約聖書では「救いへの招待」という意味で主に用いられ、この箇所では神がイスラエル人の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブに約束された救いの招待について考えを変えない(ἀμεταμέλητος)という意味なのです。 新改訳では、「取り消されない」の訳になっていますが、使われているギリシャ語は、ἀμεταμέλητος であって、μεταμέλομαι(考えを変える)という動詞に否定の意味を持つ α が前についている形です。直訳は「考えを変えない」です。この語は、新約聖書で「悔い改め」と訳されていますが、μεταμέλομαι のより正確な訳は「考えを変える」です。

 従って、ローマ 11:29 をもとに、神から五職のうちのどれか、として召されたしてしまうと、その奉仕の働きが永遠に変わらないという誤解になります。実際には、その人の成長と共に神は仕事をお任せになるのです。五職の働きですら、同時に二つも三つもこなす人も実際にいますし、教会の外でなら、より多くの働きをする人々もいます。リーダーは複数の役割をこなすのが理想であり、パウロもそうしました。もし、リーダーが自分のポジションやタイトルを気にして、やるべき事ができないのなら、その人は旧約時代の神のしもべのように考えていて、自分が神の子である事を忘れているのです。

 とはいえ、現時点では複数の役割をこなすリーダーも多くはいません。それ相応の成長が必要だからです。各自がキリストの体の部分として、最低でも一つの役割を果たすべきですが、リーダーは成長しているという意味で、雑用を含めた、複数の仕事もこなさなければなりません。時には、五職の中の二つもやらなければならないようなニーズがあります。私たちのアイデンティティーは神の子であり、ミニストリーの模範はパウロであり、究極的にはイエスなので、何でもできるように成長し、実践して行かなければいけません。しかし、その成長に合わないのであれば、責任の重い仕事を引き受けるべきではありません。実際、リーダーとして仕事は責任の重さが他よりも大きいので、使徒が預言者としての役割もこなすという事は、多く見られないのです。
一般には、一つの働きに専念している事が多く、私たちは自分の出来る所から始めるのと良いでしょう。

 結論として言えるのは、いわゆる「御霊の賜物」による奉仕の働きや五職は、私たちのアイデンティティーではないという事です。誰か使徒の働きをしているから、或いは、癒しの賜物を持っているからといって、その人を何か特別扱いするような考えから卒業し、その奉仕者も同じ主にある者として見なければなりません。又、奉仕者は、自分の働きによって自分自身に注目を集める事をせず、イエスに導くように心がけなければいけません。それが大人の考えであり、神の子の考え方なのです。

召しについて 3に続きます。

召しについて 1

 聖書の言う「神の召し」とは、私たちが成長して、キリストのようになる事を指します。各信者が教会の体の一部として働く役割の事ではありません。神は特定の役割に従事するように指示する事はあります。しかし、それは「神の召し」ではなく、ただ神が特定の奉仕の働きをするように指示しただけです。それは、あなたの「宿命」ではありません。

成長に応じる役割

 全ての信者は教会において何かしらの役割を持つ事になります。その役割はあなた自身が知っていたり、周りから言われたり、集会のリーダーから任せられたり、或いは、神から直接、示される事もあるでしょう。あなたがするべき役割を実行するのはとても重要です。しかし神は、あなたがするべき事を一つの働きだけだに限定してはいません。あなたが成長してより責任の重い役割をこなす事ができるにつれ、神は様々な働きをお任せになります。

 しかし神は、率先して御心を実践する人も望んでおられます。つまり、神は私たちが自由に正しい選択をして、自ら責任を取って奉仕の働きをする事を望んでおられるのです。サタンは、私たちの自由を奪ってコントロールしようと試みますが、神は私たちを強いて動かそうとはしません。神は人がやりたくない事を強いてさせるお方ではありません。このように、役割は様々で、成長につれて変化しますが、神の召しは一つであり、それは私たちがキリストへと成長する事です。

 へブル 5:12「あなた方は、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げた言葉の初歩を、もう一度誰かに教えてもらう必要があります。あなた方は固い食物ではなく、乳が必要になっています。」

 教師は教えます。それはリーダー的な役割です。普通に成長しているクリスチャンなら、いずれ教える側に立つべきです。信者は全員が成長を目指して、主の為により多くの働きに務める意識を持つべきです。ただキリストの再臨を待つだけの「一般信徒」として安住してしまっているなら、その人は霊的成長の大切さを理解していません。クリスチャンの多くは、一部の人だけが献身するという誤解を持っています。皆が弟子としてイエスの後に従う事を知りません。皆が神の子として歩む事が神の御心であって、それは霊的成長の道を歩む事であり、キリストの満ち満ちた身たけに達する事です。この目標に到達するには、弟子訓練の道を通る事が必須になります。

 一方、成長しているクリスチャンは教会の徳を高める為に色々な手伝いに積極的になります。あなたの成長次第で役割が違ってきたり、より責任の重い事を任されたりします。つまり、誰でもリーダーとして責任を持ってできるなら、どの役割でもこなす事が可能なのです。これは全ての信者が成長の道を進む限り、誰もがリーダーになるという事を意味しています。なぜなら、神の子はイエスのように行動するからです。

 リーダーの役割をしている人たちは、神から特別に召された者、特別な霊的エリートなどではありません。もちろん、誰でもすぐにリーダーの役割をこなすわけではありません。御言葉による土台はもちろんの事、キリストに従う道に入った人でないとリーダーにはなれません。また、真のリーダーたちは、自分のタイトルや栄光を求めず、やるべき事が何であるかをしっかりと見つめ、「誰かがやらなければ何も始まらない」という積極的な態度を持って行動します。こうした考えは主からのものです。こうして責任を取って、やるべき事をやろうと積極的に考える人、すなわち、古い人に死んでいるクリスチャンは多くはありません。

アイデンティティー

 いつの時代でも、ヨシュアのように、主のなさる事に心を留めている人は多くありません。ダビデのように戦いの前線に向かう人もあまりいません。多くの人の選択は、リスクの少ない安易な生活ばかりです。意外かもしれませんが、過去において、リーダーになった人たちは、神から指示された役割(牧師、伝道者など)を拒んだ人が多くいます。彼らは長い間逃げ回って、ようやく神に応答して、リーダーとなりました。何故なら、自ら積極的に何か新しい事をやろうとする人たちは、過去をさかのぼる程、より少なかったからです。その理由は、私たちが神の子として、この地上を治めるという真理を彼らがまだ良く知らなかったからです。

 近年、クリスチャンとして、自分のアイデンティティーを理解している人が増えて来ました。御国の前進の為なら何でもやるという積極的な考えを持っている人が出始めているという事です。そういう人たちは、自分たちが神の子であるという認識をしっかりと持っているので、五職の中の役割にこだわらずに様々な事をします。それはちょうど、「御霊の賜物」にこだわらずに、何でもやろうとする考えと同じです。多くの人々は、全ての信者が成長すれば、イエスのように何でもできるという事を理解できていません。神が示さないと、どの役割をするべきかを知らないほど、幼いのです。この考えの背景には、神に示されるないと、神の御心を知る事ができない、という考えがあるからです。神の御心は、イエスの教えの原則に沿うものです。誰がどの役割を果たすかという、詳細が聖書に書かれてはいませんが、成長するにつれて、それを知る事ができるものなのです。

それぞれの働き

 さて、教会の中で果たすべき役割は、各自一つある事が基本であり、各自が違う働きをこなす事が必要なので、皆が一斉に使徒、預言者、教師などの働きをしてしまうと、バランスが悪くなります。そして、例えそれらのリーダー的な役割をする場合でも、神に何か特別なしるしを求める事は必須ではありません。多くの人は、しるしばかりを気にして、その責任負う事と、その仕事をこなせる能力があるかどうかに気を配りません。しかし同時に、責任を負う事の大切さを心がけている人、自己の肉において死んでいる人は、神から自然と何をどうすれば良いかを尋ねているのです。

召しについて 2に続きます。

狭き門について

狭き門という表現は聖書から来ています。これは大学などに「入る事が難しい」という意味として理解されて使われていますが、聖書でも同じ意味で使われているのでしょうか?

 ルカによる福音書 13:23-24「すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」イエスは人々に言われた。狭い門から入るように努めなさい。あなた方に言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなた方が外に立って戸をたたき始め、『ご主人様、開けて下さい』と言っても、主人は、『お前たちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。すると、あなた方はこう言い始めるでしょう。『私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教え下さいました。』しかし、主人はあなた方に言います。『お前たちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け。』あなた方は、アブラハムやイサクやヤコブ、また全ての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」

 「救われる人は少ないのですか」との質問にイエスが答えられたので、狭い門とは、真理に至る門、救いに至る門の事です。しかし、救われる事自体が難しいという意味で、「狭い門」という事ではありません。人が救われるのが難しいかどうかは、実は、その人の持つ視点によって変わります。もし律法によって救われようとするなら、それは難しいのです。つまり、「金持ちの青年」のように自分で救いを獲得しようとするならば難しい、というよりも不可能なのです。しかし、恵みゆえにそれを信じる事によって救われようとするなら、それは簡単な事です。何故なら、その方法は神の恵みと憐れみに頼るからです。主に助けて頂くのなら、救いそのものは非常に易しいのです。

 狭い門に入る人が少ないのは、信じる人よりも、信じない人々が多いからです。大学入試のように、競争相手が多い為に、入るのが難しいという事ではありません。ただ、神を信頼するという、単純な真理を見出す人々が少ないというだけです。これは特に、全てのユダヤ教徒と、モーセの律法に頼って生きて来た当時のユダヤ人にとってはそうです。彼らの数よりも、遥かに多くの異邦人の方が先に救い主を信じて救われていますし、今後もその比率は変わらないでしょう。多くのユダヤ人が救われるには、これまでのユダヤ人として誇りとして持っていたものを捨てて、信仰によって歩まなければなりません。パウロはそれの良い模範者でした。

 ヨハネの福音書 1:17「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 真理はイエスによって明らかにされました。つまり、救いの真理はイエス・キリストの教えにあり、その教えを信じる事によって救われるのであり、それは複雑でも、難しくもありません。それを複雑に考えるのは、人間的なものを加えるからです。実際に、救われるのは難しいという考えから、「では何をすれば良いか」と人間的に考えてしまうと律法主義に戻ってしまいます。救われるのが難しいのは、自分でそれを獲得しようとするから考えがあるからです。多くの人々は、神に頼るという謙遜の道を退け、自分の考えに頼るという道を選ぶのです。

 世のあらゆる宗教は自己の鍛錬に頼って何かを得ようとします。これは人間本来の弱さとも言える宗教的な考えであり、肉の思いです。自身の弱さを認める素直な気持ちが必要なのに、それを自分で克服しようと考え、自己の義で救いを得ようとしているのです。しかし人は、自分の義を獲得する事ができなません。中には、クリスチャンでさえも、既に狭い門であるイエスを通ったのに、モーセの律法を守る事によって、その救いを維持しようします。しかし、救いは神の恵みを信じる事によるのであり、その救いの維持も信じ続けるだけなのです。

 イエスだけが完全にモーセの律法を守ったお方でした。ユダヤ人の多くがイエスの福音を聞きました。しかし、その教えは長年にわたるモーセの律法の影響で、彼らにとってはとても信じ難いものでした。まるでモーセの律法を否定するような教え、それとは全く逆の教えに聞こえたはずです。 しかし、イエスはモーセの律法を悪いものと定義したのではなく、むしろ、それは不完全で人を救う事ができないという事を示されました。ユダヤ人に限らず、人々が理解に苦しむ部分は、神の恵みが救いの鍵だという単純な真理です。何故なら、その神の恵みは私たちの理解を超えているからです。

 人は、律法による裁きの正当性と義を良いものとし、それを追求してしまう傾向があります。先に言ったように、それは人間的な考え、肉の思い、人の弱さであり、悪魔が促すものです。しかし、人に対する神の義とは、ただ善悪という判断だけでなく、恵みと憐れみを与えるものです。人に対する神の義の裁きとは、無罪を宣言し、救いをもたらすものです。サタンや悪霊に対する神の律法の義は、火の池に投げ込むというものです。

 狭い門はイエスですが、その他の宗教、イエス以外のものは全て滅びに至る大きい門です。その救いを見出す者があまりいないのは、それを見つける事が難しいというよりも、多くの人が自分で難しく考え、自分の考えで歩もうとするので、結果的に、狭い門となっているのです。

 マルコによる福音書 10:26-27「弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、誰が救われる事ができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできない事です。しかし、神は違います。神にはどんな事でもできるのです。」

 「それは人にはできない」の「それ」とは、救いの事です。人は自分を救う事ができないのですが、神はできるのです。「神にはどんな事でもできるのです」このイエスの言葉は「誰が救われるか」の答えです。

癒しは子供たちのパン

 マルコ 7:27「するとイエスは言われた。「まず子供たちを満腹にさせなければなりません。子供たちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くない事です。」

 イエスに自分の娘を癒して下さるようにと頼んだカナン人は、ユダヤ人ではなかったので、癒しを受け取る権利はありませんでした。イエスはその事を彼女に言う為に、彼女を「子犬」扱いされました。彼女はそれでも諦めませんでした。自分が契約の下にいない者、選ばれた民ではない事を承知の上でイエスに頼み、子犬と呼ばれたのに対しても文句も言わず、子犬でも何かをもらえるはずだと主張しました。その粘り強い信仰の結果、彼女は彼女の娘を癒してもらったのです。

 「子供たちのパン」とは癒しを意味します。イエスご自身が天からのパンであり、それはみからだを象徴していて、自らの体に受けた傷によって、私たちの癒しが保証されている事を意味します。

 第一ペテロ  2:24「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義の為に生きる為。その打ち傷のゆえに、あなた方は癒された。」

 罪の赦しが完全に十字架によって贖われたように、全ての病気も贖われました。ペテロはイザヤ書の53章にある、罪の赦しと病の癒やしの両方をここで書いたのです。しかし、多くの人々は、神は全ての罪を赦しても、全ての病気を癒す事はないと考えています。多くの場合、信じるだけでは足りず、何かをして神を説得させたら、癒やされると考えているのです。

 悔い改めや熱心な祈りがなければ、神に癒してもらえないという考えは典型です。しかし、そうした事を純粋な心から行ったとしても、そうする事によって神を満足させ、神に癒してもらうという考えは必要ありません。何故なら、イエスが受けた打ち傷は、私たちの病、患い、痛みであって、既にそれらを代わりに背負って下さったからです。

 ある人は、第一ペテロの手紙 2:24 がイザヤ書の53章からの引用だという事で、その意味を病気からの癒しではなく「霊的な癒し」と間違って捉えてしまい、肉体的な癒しという解釈にはならないとしています。

 マタイ 8:16-17「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスは言葉をもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒された。これは、預言者イザヤを通して語られた事が成就する為であった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」

 マタイもペテロと同様に、同じイザヤ書の53章から引用して、病に対する癒しと解釈しています。ですから、肉体的な病に対する癒しが正しい解釈なのです。又、イエスが癒し主である事は明らかです。イエスは今日も、私たちの癒やし主であって、変わる事がありません。

 イエスを信じる事によって私たちは神の子供とされています。癒しというのは、神の子供たちのものなので、「子供たちのパン」という事ですが、パンは「日々食べる糧」ですから、ごく日常的なものです。つまり、神に特別扱いされて、癒されるという事ではなく、癒しという祝福は神の子供としてごく日常的なものなのです。

 私たちの熱心な祈りが直接癒しをもたらすのなら、それは報酬になってしまいます。イエスご自身が天からのパンであり、その体を私たちの為に捧げられたので、その御業を信じる事によって私たちは癒しの祝福を受け取る事ができます。イエスの受けたみからだの打ち傷は私たちの病の為で、全ての病を背負って下さったので、私たちはもはや病を患う必要はないのです。

 私たちの祈りや悔い改めに対して神が動いて、それから神の憐みによって癒しが起こる、という順序ではありません。神に「病気を治して下さい」と祈る以前に、癒しの祝福は私たちのものという約束になっています。何故なら、十字架の御業は既に完了したからです。私たちの罪が既に十字架の御業によって取り除かれているように、病もキリストの打ち傷によって取り除かれています。それ故、私たちには、癒されているという約束が保証されているのです。問題は、その恵みを信じるかどうかです。

 イエスの十字架の恵みは信者だけでなく未信者にも及びます。何故なら、イエスは十字架で全ての人の罪と病の為の代価を払って下さったからです。しかし、「子供たちのパン」は、まず私たち信者に対する特権です。クリスチャンは聖餐式であずかるパンを食べる事によって、癒しを体験できるという特権があり、この恩恵は未信者には当てはまりません。主の十字架を信じる者にとっての聖餐式だからです。

 サタンの敗北は御言葉によって確定しているのにも関わらず、この地上で悪を続けています。間接的なものを含めると、全ての病気はサタンが原因です。何故なら、神が天地を創造した時には、病の原因である菌やその他の悪影響を及ぼすものはなかったからです。それらは、地上を破壊して来たサタンによってもたらされたのです。

 ですから、私たちは病気を自然の一部などとして考える必要はありません。イエスの御名で、病気や悪霊に命じて追い出せば良いのです。私たちには、イエスの権威が与えられているので、あらゆる悪(病気も含む)に打ち勝つ事ができるのです。

 癒しに対して不信仰になりがちになるのは、私たちが癒しに関する御言葉をしっかりと握りきれていないからです。揺らぐ事なく、信じ続ける事が勝利の鍵です。私たちの内におられるイエスに目を向け、主を信頼するだけで良いのです。目に見える現実ではなく、御言葉の真理に目を向ける事が信仰です。

 薬は病気を癒すというよりも、症状を抑えたりするものです。薬を服用してもしなくても、十字架でイエスが打ち傷を受けた真理は揺るぎません。これを理解すれば、例え薬を飲んだからといっても、それが不信仰になっているとは限らないのです。ですから、賢く薬を用いて、症状を抑えたり、痛みを和らげて、それから信仰の祈りをすれば良いのです。

 私たちの目指す所は、薬に頼らずに神の癒やしをもっと体験して行く事です。その信仰の歩みの中で、時には薬を賢く使う事は悪くありません。しかし、クリスチャンの特権である「子供たちのパン」を食べて祝福されるチャンスを逃す事はありません。主も私たちが信仰を持って歩めるように望んでおられます。ですから、すぐに薬に頼るのではなく、まずは聖書の真理に目を向ける事が先です。病気に向かい、御言葉を用いて勝利の宣言をして、信仰がどのようにして働くかを学ぶ必要があります。クリスチャンは病気になって苦しむ必要はありません。これは神からの祝福であり、イエスが伝えた御国の福音なのです。

完全なもの

 第一コリント 13:10-11「完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であった時には、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になった時、幼子の事はやめました。」

 「完全なもの」の意味を「聖書(聖典とされている66巻)」だとする見方があります。確かに、聖書には私たちが知るべき全ての真理(信者が生きる為の原則)があり、真理は完全です。しかし、10節と11節を「字義通り」に読んでも、そのような意味は取れません。パウロはそのような解釈をするべきだとするヒントを与えているのでもありません。

 この教えを主張する人々は、いわゆる終焉説というものを主張しているのです。「聖書66巻=完全なもの」とする事によって、終焉説を確立させようとしているのです。一部の人々がこの解釈に至った理由は、いわゆる「御霊の賜物」は廃れたものと主張したいからであり、その発端はカリスマ・聖霊派のグループの行き過ぎた行動に対する批判も含まれます。

 カリスマ・聖霊派のグループによる過剰なものがなかったのなら、人々は必ずしも御霊の賜物に疑問を持つ事はなかったでしょう。つまり、単なる教義の違いの主張だけではなく、彼らの行動に対する批判が主な原因の一つでもあったのです。しかし皮肉にも、批判する側も、いつの間にか過剰になってしまい、終焉説を考えだした事によって、適切な批判や反論という一線を超えてしまいました。終焉説は、神の真理に対する批判となってしまい、自らが曲解したものを真理と訴える存在になったのです。

 第一コリント 13:8-9「愛は決して絶える事がありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」

 終焉説はこれらの聖句を土台に、御霊の賜物は今日では「廃れたもの」とみなします。それらが廃れるという事に関しては、パウロがそう言うように正しいのです。しかしその理由を、「聖典が完成されるから」という根拠はどこから来ているのでしょうか?もし、その根拠をパウロ以外の所から来ているとするなら、著者であるパウロの書いたものを、そのように自由に解釈して良いのかという事になります。しかし、パウロが意味している「完全なもの」は、文脈から明らかです。

 第一コリント 13:11-12「私は、幼子であった時には、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になった時、幼子の事はやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見る事になります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じ様に、私も完全に知る事になります。」

 人が幼子のうちは、幼子として思い、幼子として考えるしかありません。大人として理解できないからです。パウロはその事を「鏡にぼんやり映るものを見ている」と表現しました。鏡を見ると、自分自身が映るのですが、霊的に幼いうちは、自分の姿を「ぼんやり」と映るものを見ているとパウロは言いました。しかし、「その時には」、つまり、完全に成熟した時には「顔と顔を合わせて見る」事になります。何故なら、成熟して大人になる時には、幼子の事(ぼんやりと映るものを見る事)をやめるからです。

 第一コリント 13:13 「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。」

  「こういうわけで」とあるので、この節とそれ以前に書いた内容と関係している事が分かります。つまり、この節の前の内容と「愛」は深く関係しているという事です。前の内容と関連させて読むなら、パウロが言っている事が理解できるでしょう。つまり、パウロは愛によって考え、行動する事を「大人になる事」とし、そうでない間は、「幼子」としているのです。ですからパウロは、愛を知って、その愛によって歩むという成熟に至る時には、「私が完全に知られているのと同じ様に、私も完全に知る事になる」と言ったのです。

 「完全に知られている」とパウロが表現したのは、この手紙を書いた時のパウロは、キリストの満ち満ちた身丈にまで到達していませんでした。しかしパウロは、自分がいずれは大人になる事を、神に完全に知られていると知っていました。実際、神は未来を知っています。しかしパウロは、「私も完全に知る事になる」と言って、自分の成長を確信していました。

 第一コリント 13:10-11「完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。

 「完全なもの」は、teleion(欠けのない、成熟した)という意味のギリシャ語です。この語は、次の聖句にもあります。

 エペソ 4:13「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまでたちするのです。」

 この箇所以外でも、人に対して(欠けのない、成熟した)という意味で「teleios」が使われています。キリスト者(クリスチャン)の私たちが幼いうちは、鏡を見てもそれに映るのは、まだ幼いままの私たちであり、本来の成長した姿ではありません。しかし、私たちがキリストの満ち満ちた身丈にまでに達すると、成熟した者になります。成長すると、御霊の賜物を用いての奉仕の働きは必要なくなります。何故なら、御霊の賜物は肉に属する、キリストにある幼子のが用いるものだからです。そして、私たちの成熟した姿を鏡で見るなら「顔と顔」とを合わせて、イエスを見るようになります。何故なら、私たちの中におられるイエスが、私たちの成熟を通してご自身が私たちの人生を完全に歩む事になるからです。

安息の真理 2

 モーセの律法の中の「安息」は、イエスという実物の影であって、表面的なものであり、真理を示す為のもの、イエスに導く為のものでした。従って、モーセの書いた律法の書からは、安息の真の意味は分からないのです。何故なら、イエスこそが真理であって、その時代にはまだイエスが来られていなかった為に、真理が明らかにされていなかったからです。

 古い契約の時代、特に、旧約聖書が書かれた時代には、真理についてストレートに書いてある箇所は、詩篇やイザヤ書などを除くと、多くはありません。イエスご自身が真理であり、イエスが真理を明らかにする事になっていたからです。そしてその後、全ての真理に導く御霊が、福音の奥義をパウロを通して明らかにされました。

 マタイ 12:1-8「そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。『ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならない事をしています。』しかし、イエスは言われた。『ダビデと供の者たちが空腹になった時に、ダビデが何をしたか、どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだ事がないのですか。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、という事を律法で読んだ事がないのですか。あなた方に言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。「私が喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」とはどういう意味かを知っていたら、あなた方は、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。』」

 パリサイ人にしてみれば、弟子たちが安息日に穂を摘んで食べる事は罪だったのですが、イエスの解釈はそうではありません。イエスはダビデが神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたと言って、弟子たちもダビデと同じ事をしたのだと言いました。イエスは、ダビデのした事は罪とはならない理由も言いました。それは、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないという律法に基づいています。

 さて、ダビデはエポデを着て踊った事が書かれています(2サムエル 6:14)。彼は王として油注がれた者であったのに、祭司の格好をしていた事は、モーセの律法を破る行為です。しかし、新しい契約の教えの視点(真理の視点)で見れば、イエスを信じる人は全て祭司です。では、ダビデは古い契約の下にいながら、イエスを信じる者が祭司の役割を持つという真理を既に知っていたのでしょうか?その通りです。

 ダビデは多くの啓示を与えられていた数少ない信仰の人でした。彼は、祭司として神の家に入り供えのパンを食べたのです。彼はモーセの律法の下にいながら、それに縛られず、真理の教えを見つめていたのです。ダビデはモーセの律法を守る事による義による生き方ではなく、信仰による義をアブラハムと同様に知っていたのです。ダビデが信仰によって義と認められた根拠は、彼の名がへブル人への手紙11章で取り上げられている事からも明らかです。

 ダビデは、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」事を生き甲斐としていました。「モーセの律法」ではなく、「主の教え」を喜んだのです。ここの主の教えがモーセの律法でないのは、ダビデが「主が良くして下さった事」、すなわち、全ての咎を赦し、全ての病を癒やし事を何一つ忘れなかったと言っている事から明らかです。ダビデは古い契約の下にいましたが、イエスの十字架の贖い知っていたのです。

 詩篇 103:10「私たちの罪に従って私たちを扱う事をせず、私たちの咎に従って私たちに報いをされる事もない。」

 ダビデは律法の下にいながら、どうしてこのような事が言えたのでしょうか?モーセの律法によると、罪ゆえの報いは刑罰でした。しかし、それに従って神は報いをされる事もないと言うのです。ダビデは何故、キリストによって罪が赦される事を知ったのでしょう?それは、彼が神を慕って御心を求めたからに他なりません。

 ヨハネ  9:16「すると、パリサイ人の内のある者たちは、『その人は安息日を守らないのだから、神の元から来た者ではない』と言った。他の者たちは『人である者に、どうしてこのようなしるしを行う事ができるだろうか』と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。」

 パリサイ人の人々は、イエスを罪人だと考えていました。その理由が、イエスが安息日に癒したからです。実際イエスは、安息日を意図的に選んで癒しを行なっています。イエスは、本当の安息についてのヒントを彼らに与える目的で、そうされたのです。あえて、彼らの前で安息日に人を癒し、彼らの律法主義を混乱させたのです。この個所からも分かるように、同じパリサイ人の間でも分裂が起きました。

 モーセの律法の意味する、「安息日を守る」とは、「週一度の労働からの休み」や、「礼拝する日」という定義ではなく、イエスを信じるという事でした。イエスを信じる私たちにとっては、毎日をイエスを信じる日(安息日)とするべきです。そこには真の休息があり、自由があります。そして、自由に人を助ける事が出来る毎日があるのです。

安息の真理 1

 殆どのクリスチャンは、モーセの律法やローマ・カトリックの観点から「安息」を見ています。モーセの律法においては、週に一度、労働から休む為の日として安息日が設けられました。その後、ローマ・カトリックの影響による安息日の廃止によって、土曜日ではなく、日曜日に礼拝をする日と定められました。これが、「週に一度労働から休んで、教会に行く日」という「現代版安息日」の考えになったのです。しかし、ローマ・カトリックのそうした教えに異議を唱えた宗教改革者たちは、旧約聖書の安息日と日曜日は別である事を主張していました。

 実は、「安息日」の定義は、へブル人への手紙から読まないと、その真理を知る事にはなりません。そこに本当の意味が明かされているのです。

 へブル 3:9-12「あなた方の先祖はそこで私を試み、私を試し、四十年の間、私のわざを見た。だから、私はその世代に憤って言った。 『彼らは常に心が迷っている。彼らは私の道を知らない。』私は怒りをもって誓った。『彼らは決して、私の安息に入れない。』」兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」

 これは、荒野で主を試みたイスラエル人が、彼らの不信仰ゆえに、彼らが安息に入れなかった事について書かれてあります。

 へブル 3:18-19「又、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、誰に対してですか。他でもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰の為であった事が分かります。」

 この箇所で言っている「安息に入る」の意味は、「主を信じる」という事になります。つまり、「信仰によって入る安息」が真の意味であって、週に一度の「労働からの休み」というモーセの律法の定義ではないのです。パウロは、「安息に入れなかった」という表現を「約束の地に入れなかった」イスラエル人の歴史の話に基づいて使っています。

 へブル 4:3「信じた私たちは安息に入るのですが、「私は怒りをもって誓った。『彼らは決して、私の安息に入れない』」と神が言われた通りなのです。もっとも、世界の基が据えられた時から、御業は既に成し遂げられています。」

 クリスチャンは安息に入っています。何故なら、神を信じているからです。「神の御業が既に成し遂げられている」のは、神は世界の基が据えられる前から、神の計画した贖いの通りに、人が信仰によって安息に入る事を決められたからです(エペソ 1:4)。

 へブル 4:6-7「ですから、その安息に入る人々がまだ残っていて、又、以前に良い知らせを聞いた人々が不従順のゆえに入れなかったので、神は再び、ある日を「今日」と定め、長い年月の後、前に言われたのと同じように、ダビデを通して、「今日、もし御声を聞くなら、あなた方の心を頑なにしてはならない」と語られたのです。」

 この箇所から、もし人が福音を聞いて信じるならば、その人は「安息に入る」という事が分かるでしょうか?しかし、信じないのなら「安息に入れない」のです。神はこの事を、世界の基が据えられる前から決めておられました。労働から体を休める事(モーセの律法)は信じなくてもできますが、この聖句の「安息」は信仰によるものです。

 パウロは、不信仰で神に不平不満を言っていたイスラエル人は「安息に入れなかった」としています。これは彼らが荒野で神に対して不従順だったという、歴史上の事実に基づくものです。

 へブル 4:8「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。」

 ここでも、ヨシュアの導きでイスラエル人が「約束の地に入った」事が「安息に入る」事だとしています。しかし、それも究極の「安息」ではなかった事を示しています。実際に、神は「別の日」の安息があるという事を、ダビデを通して語られたました。しかし、真の安息は次のイエスの言葉が示すものです。

 マタイ 11:28「全て疲れた人、重荷を負っている人は私のもとに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。」

 一週間に一度は労働をしないという「安息」の定義は、モーセの律法においてです。初代教会の時代では、土曜日に教会に集っていた習慣が、ローマ・カトリックによって、日曜日にされてしまいました。現代のプロテスタント教会では、それを「安息日」と見なし、その定義を「週に一度教会」に行く日と考えています。しかし、新しい契約が始まってからは、ある特定の日が安息日ではない事をパウロは説明しているのです。

 パウロによれば、真の安息はイエスを信じ、その中に入るという事なのです。ですから、週に一度の休みという、漠然とした、狭い意味ではありません。主を信じて留まり、その中に「安息」を得るという事なので、それを実践する人にとっては、毎日が安息にもなれるのです。

 ルカ 6:5「そして彼らに言われた。『人の子は安息日の主です。』」

 イエスが「安息日の主」なので、「安息日」はイエスに従います。ですから、キリストによって安息日の定義が成される事になります。旧約聖書をどんなに調べてもこの真の安息を知る事はできません。何故なら、その時代にはまだ安息の真理が明らかにされていないからです。

わざを終える

 へブル 4:10-11「神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。ですから、誰も、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。」

 さて、この箇所には、私たちがどのようにして休むかについて、もう一つの事が書かれてあります。まず、「神がご自分のわざを休まれた」というのは、第七日目に「全ての創造のわざを休まれた」という事に基づいています。これが週に一度労働から休むという、モーセの律法になったのです。神がそれをモーセの律法の中に「安息日」として設けたのですが、その理由は、イエス・キリストの「影」とする為であり、真理についてのヒントをモーセの律法の中に置く為でした。モーセの律法の中の安息は、上辺の理解のものであり、儀式化されていたものでしたが、神は、その時はそれで良しとされたのです。しかし、イエスが表れた時には、真の安息として、神がご自分のわざを休まれたように、私たちは「自分のわざ」を終えて休む必要があります。

 「この安息」に入るように努めなさいとパウロは促しています(へブル 4:11)。「この安息」とは「信仰による安息」ですから、私たちが努める事とは、信じる事であって、モーセの律法を守る事とは違います。そして、「神の安息」に入った者は「自分のわざ」を終えて休むとあります。「わざ」というギリシャ語の単語は、ἔργον(ergon)で、「行い」と同じ意味です。

 同じへブル人への手紙で「死んだ行い」という表現が、その後に出てきます。

 へブル 6:1-2「ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、清めの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠の裁きなど、基礎的な事をもう一度やり直したりしないようにしましょう。」

 「死んだ行ないからの回心」はモーセの律法を守る事からの回心です。それは初歩の教えの一つです。パウロはモーセの律法に戻っていたへブル人クリスチャンたちにこの手紙を書きました。彼らが、モーセの律法を守るという死んだ行い(わざ)を終えて、休みに入る(信じる)なら安息を得られると説いたのです。私たちも、宗教的な行ない、肉による努力などを終えて、神のわざを信じないと休む事はできません。律法を守る事により、神の義を得ようとする事は、どんな人にとっても重荷です。しかし、その重荷を私たちの代わりに負って下さったのがキリストでした。私たち自身はもう重荷を負う必要がありません。しかし、私たちが重荷から解放されるには、自分でそれを背負うという自分のわざをやめて、イエスの十字架のわざを信じる必要があります。

 「安息日」を「週一度の礼拝の日」と定義している間は、イエスにあって安息があるという真理を掴む事はありません。正しい曜日に礼拝する事が、「安息日」でもありません。教会に来ないと「安息」が得られないというのも考えがズレています。教会という場所が「安息」を与えるのではなく、イエスに信頼を置く者が「安息」を得るのです。
自分のわざをやめ、イエスを信じ、イエスの教えを実践する事が安息に入る事なのです。

 本来は、クリスチャンは安息に入っていて、そこに留まっているべきなのです。一週間に一度だけ安息に入るような考えは古い契約の視点です。私たちは、あらゆる信仰の障害となるものを避けて、イエスを信じ、安息に入るよう努めなければなりません。そうでないと、古い考え方、モーセの律法、自分の勝手な行いに戻る事になるでしょう。それらは、宗教的な観点で安息を見ています。正しい理解を得れば、土曜日か日曜日かという無駄な議論もしなくなります。

励ましの言葉

 第一コリント 14: 1「 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言する事を熱心に求めなさい。」

 「愛を追い求める」事と「預言する事を熱心に求める」事が同等の関係性を持つ事を、パウロはここで示しています。第一コリント人への手紙の13章で、パウロは「預言ができても愛がないなら意味がない」と言っていますが、預言も異言も、その他の恵みの現れ(御霊の賜物)による奉仕も、愛がないのなら、虚しいものだとパウロは言いました。

 第一コリント人 14:3-4「しかし預言する人は、人を育てる言葉や勧めや慰めを、人に向かって話します。異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。」

 預言は相手を思う心から来るべきです。何故なら、人を育てる言葉、勧めや慰めを与える言葉は、愛に基づくべきであるからです。ですから、預言の賜物は特に愛に関係していて、他の人を成長させる事に焦点を当てます。預言の言葉は、それが純粋であるほど、それを受ける人に大きな力となります。そのような理由で、パウロは、預言の賜物を最も価値のある恵みの現れ(御霊の賜物)として見ていました。
 
 本来の預言は、「未来の事をそれとなく当てる」という種類のものではありません。それを受け取る人にとっては、非常に大きな助言や励ましになるものであって、聞いて理解できないような、ミステリアスなものではありません。残念ながら、多くの預言は、それを聞いた殆どの人が理解できず、特に大きな助けにはなっていません。その大きな原因の一つは、預言者の成長が幼すぎるからです。曖昧な預言は、その内容が漠然としたもので、どのように適応させれば良いか、言った本人も、受けた人も理解できないものです。しかし、本来の預言(本物の預言を含む)はそのような薄っぺらいものではありません。本来の預言は、愛に根ざし、愛に土台を置いたものなのであり、預言者は愛について良く理解しているべきであり、御言葉の真理を理解している者であるべきなのです。

 従って、預言に興味を持つ人は、人を愛する事に興味を持つべきです。しかし、相手を愛せるようになるには、まず神によって、そして誰かによって愛され、励まされる必要もあります。基本的に、一度も励まされた事のない人は、他人を励まそうという気持ちが起こりません。相手に良い事をしようという気持ちが起こる為には、まずあなた自身が誰かによってその模範を示される必要があるのです。その経験をすれば、今度はあなたが人を助けるチャンスがあった時に、相手を助ける事ができるのです。

 パウロによると、賜物としての預言は、信者であるなら誰でもできるとしています。これはお互いが励まし合う為です。いわゆる「個人的な預言」とは、人を育てる言葉、勧めや慰めの言葉を話します。相手の未来についての細かい啓示や召しに関わるもの、教会全体に対するものや、警告の預言などは、通常、「預言者」の役割をしている人にしかできません。

 励ましの言葉は、個人的預言として誰でもできます。そして、それは相手を愛するという動機から始まります。そのような態度を常に持っていれば、自然に預言の言葉が出てくるでしょう。これは個人的預言をする上で最も大切な部分です。興味本位だけで預言をしたいという動機で行うなら、肉の思いからの言葉ばかりになりがちです。そうしたものは表面的には良い言葉であっても、霊的な力がない為に、インパクトは弱いものです。預言の言葉が霊から語れる時、それは人を育てる言葉となり、相手にとって価値のある言葉となるでしょう。そのような預言はその人を変えるきっかけにもなります。

信仰と愛との関係

 第一コリント 13:13「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。」

 この聖句から、信仰よりも優れているのは愛という部分だけをみて、「信仰ではなく愛を求めるべきだ」と極端に捉えて、信仰を軽視している人々もいるものです。この誤解の原因の一つが、第一コリントの13章全体の文脈をよく捉えていない為です。パウロは、12章と関連させて13章を書いています。つまり、信者の集いにおいては、恵みの現れ(御霊の賜物)による働きがあるとしても、その役割自体が重要ではなく、「大人の考え」がある事を示す為に、13章を書いたのです。コリントの人々は教会で分裂を起こしていたほど、秩序がありませんでした。パウロは、彼らが霊的な事柄については、知識があったのにも関わらず、肉に属している人々だと言いました。(第一コリント人 3:1-3)

 パウロは、私たちの歩みが信仰によって始まり、最終的に神の愛に到達する事を説いたのです。信仰よりも愛が大事だといっても、信仰を無視して愛を求めるといった事を説いたのではありません。アガペーの愛に到達する為に信仰は必須であり、信仰なくして神を愛するという事もできません。希望から信仰が生まれ、信仰から愛へと進むのです。ですから、信仰なくして愛というゴールに到達する事はできません。

 ガラテヤ 5:6「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。」

 この聖句でも、パウロは信仰よりも愛が優れていると教えてはいません。「愛によって働く信仰」とあるように、愛に根付いた信仰がより優れていると言っているのです。「愛がないと信仰が働かない」と間違って教えている人もいますが、そうではありません。信仰は愛がなくても働くのですが、そのような信仰は何の価値もないとパウロは第一コリント人への手紙の13章で説いたのです。愛がないと信仰が働かないという事ではなく、愛のない信仰は価値がないという事です。

 正しい考え方は、成長して大人になるという事、すなわち、信仰だけで良いと子供のように考えるのではなく、愛を目指して、愛を土台にして信仰を働かせる事が重要なのです。