神の性質

 私たちが本当に神の素晴らしさを知るなら、神を愛し、神の為に生きて行こうとするでしょう。そうなったら、きっと世界のあらゆる問題を解決する事に繋がるはずです。しかし、多くの人は神に対して間違った考えや意見を持っています。殆んどの人は、神を良いお方として理解していないのです。

 その原因の一つに、モーセの律法に対しる誤解が挙げられます。律法はモーセによりますが、恵みと真理はイエスによって明らかにされています。モーセの律法は悪いものではないのですが、それによって人を義にする完全なものではありませんでした。そして、それが誤解されて利用されると、逆に神に栄光を帰すものではなくなってしまいます。

 イエスは、父なる神を私たちに完全に現わす事ができました。ですから、イエスは次のように言ったのです。

 ヨハネの福音書 14:9「...私を見た人は、父を見たのです...」


 ヨハネの福音書 5:19「イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなた方に言います。子は、父がしておられる事を見て行う以外には、自分から何も行う事はできません。全て父がなさる事を、子も同様に行うのです。」

 イエスは、御父のわざを行っていました。それは、人を愛するという事でした。そして、父なる神が愛のお方だと示されたのです。ところが、パリサイ人や律法学者は、イエスはモーセの律法を犯していると責めたのです。姦淫の現行犯で捕まった女を赦し、取税人や罪人と共に食事をした事などは、律法主義のユダヤ人がする事ではありませんでした。しかし、誰も見向きもしない人たちをイエスは助け、愛されもしない人たちを愛したのです。イエスは、イスラエル人が考えた事もなかった憐みと恵みを示されたのです。

 モーセの律法の目的をきちんと理解しないでいると、神に対して大きな誤解を持つでしょう。一部のクリスチャンは、神はモーセの律法を通して私たちとの関係を望んでいると勘違いしています。しかし、神は憐れみを好み、律法によるいけにえを好みません。モーセの律法が現れたのは、私たちの罪を指摘し、それから救われる必要があるのを悟らせる為でした。それによって、人が罪の奴隷として歩んでいる事を教える為であり、それから人が解放されるには、神の助けが必要であるのを悟らせる為でした。

 モーセの律法の意味を悟れなかったイスラエル人にとっては、モーセの律法は返って、神から遠ざけてしまう要因になりました。それは宗教的な考えをイスラエル人に植え付けさせ、自己の義を追及する教えとして受け入れられてしまったからです。

 ガラテヤ 3:19「それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られる時まで、違反を示す為につけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。」

 ガラテヤ 3:24-25「こうして、律法は私達をキリストに導く養育係となりました。それは、私達が信仰によって義と認められる為です。 しかし、信仰が現れたので、私達はもはや養育係の下にはいません。」

 イスラエルの人々は、モーセの律法を守る事によって神の罰則を逃れるという事を学習しました。そこからさらに、神から祝福を受ける為の儀式、そしてそれを守る事によって、自分の義さえも求めるように考えたのです。しかし今は、十字架の贖いの完成によってモーセの律法が成就され、神と人との間にあった敵意がなくなっているのです。十字架によって、神の恵みがキリストを通して、人に完全に明らかにされたので、モーセの律法はもはや必要ありません。クリスチャンであるなら誰も、古い律法の時代の神としてのイメージをもう持たなくて良いのです。

 モーセの律法は、キリストの新しい戒めによって変えられました。イエスの十字架を通して、父なる神の愛は完全に明らかにされているのですから、私たちは自信をもって御前に進む事ができます。新しい契約が始まった以上、私たちは古い契約を見る必要がありません。

 パウロによれば、イエスの福音は恵みの福音です。

 使徒 20:24「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分の命は少しも惜しいとは思いません。」

 神からの良い知らせは恵みであって、モーセの律法ではありません。福音がモーセの律法の教えと同じであったなら、イエスは地上に来る必要はなかったのです。モーセの律法と恵み、これら二つは相反するものです。そうであるなら、私たちはどちらかを選ぶ必要があります。しかし、古い契約に基づく考え方で神を知る事は不可能です。恵みによって神を知る時に、神が良いお方だという事を知り、私たちは信仰を保つ事ができます。

基礎から学ぶ十字架の贖い

 福音の土台はキリストの十字架の御業にあります。それは神の恵み、憐れみと愛を完全に示したものであり、人間の罪の贖いであって、そこに全てを解放する力があります。イエスは私たちの為に十字架に掛かって私たちを罪の刑罰から救う為に来られました。それは、モーセの律法ができなかった「神の義」を与える事と、永遠の命を与える事を可能にしたもので、世の基が定められる前からの神の計画でした。

罪からの解放

 キリストの十字架での贖いは二つの解放を約束しています。まず一つには、私たち自身の犯した罪からの解放です。キリストは完全な子羊としてその聖なる血を流されました。それは、全ての罪を取り除く力があります。私たちの罪と罪の奴隷としての解放が約束されているのは、キリストの血によります。また、それは新しい契約の象徴でもありました。キリストの血によって私たちは聖い者とされています。いわゆる聖化はクリスチャンになった後から始まるのではなく、クリスチャンとして生まれ変わった時に、私たちの霊において完成しています。その完成を外に表すのが霊的成長であり、聖化なのです。聖別は終わっているのですが、新しい人として歩む中で、私たちの思考は一新され、それに応じて聖さが表れてくる必要があります。それは、私たちが世の光、地の塩となる為であり、キリストに倣う者として、人々を救いに導く為です。

 キリストの血による聖別が、新約聖書での「油そそぎ」の儀式なので、それ故に私たちは聖霊を受ける事ができます。私たちクリスチャンは、油注がれた祭司であり王です。誰かが特別な霊的エリートというわけではありません。信者は皆が油注がれている神の子供たちなのです。

 第二コリント 1:21「私たちをあなた方と一緒にキリストの内に堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。」

病いからの解放

 私たちの病いから解放したのもキリストの十字架の御業の一部です。贖いの中に癒しがあります。これはイザヤの預言よりも遙か前にダビデによって預言されていました。

 詩篇 103:3「主は、あなたの全ての咎を赦し、あなたの全ての病を癒し、」

 第一ペテロ 2:24「キリストは自ら十字架の上で、私達の罪をその身に負われた。それは、私達が罪を離れ、義の為に生きる為。その打ち傷のゆえに、あなた方は癒された。」

 この聖句は、キリストが私たちの罪を負う為、そして、打ち傷によって癒やされる為に十字架に掛かった事を最もよく示しています。多くのクリスチャンは十字架によって罪が赦されて、罪から解放されている事を知っていますが、罪から離れて義の為に生きる事をよく理解していません。また、病いが癒やされていて、病いから解放されている事も知りません。癒しが神の御心である事を知らないという致命的な無知がある為、癒しの体験がないのです。多くの場合、信者でさえも「神の御心」なら癒やされると考えています。その考え方は、人の罪が赦されるのも「神の御心」次第と言っているようなものです。

聖餐式

 正餐式はキリストの十字架の御業を思いだし、神の恵みを思いながら歩む事を促します。その目的の為に私たちは正餐式をします。理解なしに、ただ儀式として行うのであれば、それは宗教になります。聖餐式の実践的な側面は、十字架の恵みに立ち返って罪から離れ、聖い生活を送る事を可能にするだけでなく、病気の癒し、健康を保つという恩恵もあります。多くのクリスチャンが罪の中に浸り、病気で悩んでいるのは、聖餐式を単なる儀式として行っているからです。今では、聖餐式を通して人が癒やされなくなったのも普通になってしまいました。

十字架の前後

 十字架は古い契約の終わりと新しい契約の始まりを意味しています。一方では旧約聖書のモーセの律法と預言者が成就し(マタイ 5:17)、もう一方では新しい契約が成立しました。イエスの贖い、イエスの流された血によって何がどう変わったかを知らないと、私たちはどちらの契約が大事かを見失う事になります。

  • キリストの血によって私たちは義と認められている(ローマ 5:9)
  • キリストの血によって近い者とされた(エペソ 2:13)
  • 永遠の贖いを成し遂げられた(ヘブル 9:12)
  • 私たちの良心を清め、死んだ行ないから離れさせる(ヘブル 9:14)
  • イエスの血によって、聖所に入る事ができる(ヘブル 10:19)

 上の他にもヘブル人への手紙では、十字架でのキリストの血について色々説明しています。イエスが血を流された以上、何かが変わった事は明らかであり、それは古い契約の時代にはなかったものです。

 又、十字架でキリストが死んだように私たちの古い人も死んでいるべきです。

 ローマ 6: 6-8「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる為です。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きる事にもなる、と私たちは信じています。」

 十字架がもたらした最大の変化は、私たちの古い人が死んで、新しい人として歩む為にキリストと共によみがえった事、新しい霊が私たちの内に創造されて、私たちが新生した事です。もしこの真理を知らないのなら、解放されている私たちが、再び古い人によって歩んでしまうでしょう。古い人の歩みとは、古い契約に基づくもの、肉の欲求を満たすもの、或いは、宗教的な考え、肉の思いによって歩む事です。しかし、私たちの内にはキリストの思い(新改訳ではキリストの心と誤訳)があるのです。

 ガラテヤ 5:24「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望と共に十字架につけたのです。」

 キリストを主とし、その贖いのわざを信じているなら、私たちは新生しています。それならば、新しい人として歩まなければいけません。何故なら、私たちの古い人は死んでいるべきだからです。そして、新しい人として歩むには心の一新(考えを変える事)が必要になります。

 ガラテヤ 2:19-20「...私はキリストと共に十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私の為にご自分を与えて下さった、神の御子に対する信仰によるのです。」

基礎から学ぶ信仰

 ローマ 1:17「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてある通りです。」

 福音には「神の義」が啓示されているとパウロは言ってます。それは、私たちがイエス・キリストを信じる時に与えられるものです。

 ローマ 3:22「すなわち、イエス・キリストを信じる事によって、信じる全ての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」

 誰でもイエス・キリストを信じるなら、神の義を与えられ、神に義人と認められるます。これが福音の土台です。しかし、多くのクリスチャンの信仰はここで止まっています。クリスチャンとしてイエス・キリストを信じた後も、その信仰によって進んで行く必要があります。いわゆる霊的成長の道があるのです。信仰とは義とされ、永遠の命を頂く為のものだけではありません。信仰によって始まった私たちの歩みは信仰によって進んでいく必要があるのです。

 信じて救われた後は、ただキリストの再臨を待ち望めば良いという事ではありません。霊的成長に関しての教えを受けないのなら、神に対する信仰も弱くなってきます。多くのクリスチャンは成長を遂げてキリストのみたけまで達するという事をせずに、困難と試練から逃れる事ばかりを考えているのです。信者はキリストの弟子であるという事さえも理解していません。献身する人は一部の人で良いという間違った常識は、私たちのなまぬるい歩みを大きく助長させてきましたが、もう、その様な幼い考えから卒業する時が来ています。


 さて、信仰を一言で分かりやすく言えば、それは私たちが主に信頼する事、御言葉を信じて行う事です。「どうにかなるだろう」というような漠然とした神に対する信頼ではなく、個々の状況に応じて適切な解決に至るようになる事を強く期待し、そうなると
宣言する事が信仰です。すなわち、信じている人は信じている事柄を宣言する(祈る)のです。多くの場合、クリスチャンは「神様がなんとかしてくれるだろう」という受け身的な考えを持っているだけで、積極的に問題を排除するような信仰を伴った行動に移しません。

 例えば、泥棒が家に入ったのを見たなら、誰でもその泥棒に対してアクションを起こすでしょう。警察を呼んだり、自分でその泥棒を捕まえたりするはずです。ところが、多くのクリスチャンは、その泥棒をそのままにしておいて「神がなんとかしてくれるだろう」と言って、漠然と良い事を期待するのです。私たち神の子が、地を治める事を忘れてしまったのかもしれません。私たちのうちには全知全能の神の聖霊が宿っています。それとも、その聖霊の力より大きい問題がこの世に存在するでしょうか?

 従って、神様に信頼しているからこそ、大胆に多くの問題を解決していく積極的な態度になるべきなのです。そうなっていない、主な原因は、成長へと促す教えがないからです。圧倒的勝利者として歩めないクリスチャンが多いのは、悲しい事に、ただの組織として機能している諸教会の至らなさがあるのです。諸問題に立ち向かう為の実践的な教えをせず、再臨のメッセージばかりを説く教会では、様々な問題を抱えている人で溢れています。私たちの信仰は再臨オンリーに向けられるものではありません。私たちはこの世に勝利した者であって、ただこの世から逃れる為に再臨を待ち望んでいる者ではありません。

 第一ペテロ 5: 8-9「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなた方の兄弟達が同じ苦難を通ってきているのです。」

 ペテロは、悪魔を「吼えたける獅子」のようだと表現しています。百獣の王と言われる獅子が吼えたけるなら、それはとても強い者として私たちはイメージするでしょう。実際に、聖書のあらゆる箇所で獅子は強さを象徴しています。しかし、「この悪魔に対抗しなさい」とペテロは言っているのです。積極的に悪魔に対抗できるのは、神の子である私たちがさらに強いからです。逃げる必要はありません。ただし、堅く信仰に立つ事が鍵です。それは神を信頼して、御言葉に沿って考えて行動する事です。

 悪魔が吼えたけるのは強く見せる為であって本当に強いからではありません。ユダの獅子であるイエス・キリストが最も強いお方です。そして、イエスは私たちの中にいるのです。主が共におられるという認識をありとあらゆる場面で私たちは思い出し、信仰による一歩を踏み出して物事を解決していく事、そして御言葉を実践する事が信仰の歩みです。問題ばかりを見ていては問題に押しつぶされてしまいます。しかし、私たちはイエスを見ているべきです。

 ヘブル人への手紙 12: 2「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びの為に、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」

基礎から学ぶ新しい契約

 ガラテヤ 4:17「あの人達はあなた方に対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなた方を私から引き離して、自分達に熱心にならせようとしているのです。」

 福音の基礎は神の恵みにあり、それはキリストの十字架によって全ての人に完全に明らかにされています。何故なら、十字架の恵みは全ての人に対するものだからです。しかし、もし私たちが福音の土台である恵みを失うとしたら、その様なものは福音(良い知らせ)ではなくなってしまいます。

 ここでパウロが言っている内容は、あるユダヤ人クリスチャンがエルサレムから来てガラテヤの教会の人々に割礼を受けるように教えていた事に対するものです。パウロによれば、その様な教えは福音ではないとの事です。それどころかパウロは、彼らはにせ兄弟であり「あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしている」とさえ言いました。福音によって信仰が明らかになった以上、モーセの律法の行いについてもはや考える必要はないというのがパウロの主張です。

 ガラテヤ 3:25「しかし、信仰が現れたので、私達はもはや養育係の下にはいません。」

 モーセの律法は養育係という役目を持っていましたが、その役目も終わっています。役目の終わったモーセの律法は、イエス様の教えている新しい戒めに変わりました。これが十字架の後の変化です。もし、私たちがこの事を知らないなら、私たちは完全に恵みを知る事にはならないでしょう。モーセの律法に片足を入れておきながら、恵みを受け取る事は不可能だからです。それは新しいぶどう酒を古い革袋に収めるようなものです。モーセの律法と恵みは視点が全く違うからです。私たちクリスチャンは、最初からイエスの新しい契約の中に入っているので、古い契約との関わりがないのです。

 ヨハネの福音書 1:17「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 モーセの律法に従いながら、御霊に仕える事は不可能でだとパウロは言いました。

 第二コリント 3: 6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」

 私たちは新しい契約の下にいます。古い律法に仕える必要はもうありません。御霊が降り注がれた以上、御霊に導かれるべきであって、モーセの律法によって神に近づこうという考えは必要ないのです。その考えは旧約時代のイスラエル人が持っていたものですが、それは彼らが何も分からなかったからです。彼らの無知を参考にして、今日の私たちの「キリストに似た者」(クリスチャン)としての歩みの中に取り入れてはいけません。既に古い契約は過ぎ去って、キリストの十字架によって新しい契約が確立されています。

 新しい契約にいる私たちはどの様な歩みをしたら良いでしょうか?それはには、まず私たちが古い人に死んだという認識から始まります。

 ローマ 6: 6「私達は知っています。私達の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私達がもはや罪の奴隷でなくなる為です。」

 パウロは、罪の奴隷から解放される為の真理が、私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられるという事にあると言っています。そして、イエスが蘇った事は、私たちが新しい霊として生まれ変わる事の型です。もし、私たちがキリストにあるなら、私たちは既に新しくなっています。ですから、古い考えの原因となっている古い契約、或いは、肉の思いに戻る必要はありません。

 コロサイ 3: 9-10「互いに偽りを言ってはいけません。あなた方は古い人をその行いと共に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方の形に従って新しくされ続け、真の知識に至ります。」

 私たちの古い人は古い考え方に基づく為にその行いは肉です。しかし、新しい人として生きるなら、私たちは新しい戒めによって新しい考え方を持つ必要があります。この新しい歩みはキリストに似た者となるのです。この歩み方は新しい契約にいる私たちの歩みであり、それはキリストと共に歩む事なので、古い契約とは全く違うものです。

 ルカによる福音書 5:37-38「また誰も、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんな事をすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。」

 古い契約の考えを持つという事は、モーセの律法を行うという事です。しかし、私たちはキリストによる新しい戒めを守る事になっているのです。愛の行いを旧約聖書を開いてやろうとすれば、律法主義になりかねません。しかし、御霊と共に自由に愛の視点で全てを判断すれば、自然と新しい人として人を愛する事ができます。何故なら、私たちの霊は既に新しく造り変えられたからです。後は、その新しく創造された霊によって良い影響を受けて、思いを一新すれば良いのです。

 第二コリント 5:17「ですから、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」

基礎から学ぶ神の恵み

 全ての宗教は共通して概ね良い事を教えています。しかし、聖書が教えている良い知らせ(福音)は、他の全ての宗教と違ってある決定的なものがあります。それは神の愛です。神の愛は、一方的な神の好意によって与えられるもので、それは恵みと呼ばれます。今回は、この神の恵みについて学んで行きましょう。

 自己の義に焦点を置く宗教は、あなたの行いによってあなた自身が「良い人間」になれるような事を教えます。しかし聖書では、キリストの贖いの業を信じる事によって、キリストの義を獲得できるという神の恵みについて教えています。パウロも、この福音を「恵みの福音」と呼びました。

 使徒 20:24「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分の命は少しも惜しいとは思いません。」

 滅びに向い、病んでいる世が最も必要としているものは神の恵みです。福音の恵みは希望を失った人に希望を与え、見捨てられた人には慰めとなり、弱い人にとっては力となります。また、クリスチャンである私たちは、救われて恵みの中にいるので、大胆に歩む事ができます。

 恵みとは、先程も言いましたが、受け取る側である私たちから見える神の愛です。これこそが私たちを引き付ける神の力です。この恵みは、私たちが信じた時に、私たちのものとなります。しかし、信じて恵みを受け取ったと同じように、信じ続けてその恵みを保つ事も必要です。

 神の愛は、キリストの十字架において人に完全に明らかにされました。またヨハネが言うように、神ご自身が愛である為に、イエスキリストご自身が愛なのです。すなわち、恵みゆえに私たちの彼に対する信仰によって、私たちは永遠の命を持つ事ができるのです。

自己の義ではなく恵み

 まことの神は、自らの行いによって義を得た者が天国に入れると言われませんでした。そうではなく、ご自身の恵みによって、イエスを通して救いの道を示して下さいました。モーセの律法よりも遥かに優れた道をイエスによって示して下さったのです。

 ヨハネ 1:17「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 神の恵みは論理的に分かるものではありません。それは神学や教理を超えた神の御業であり、また神自身の性質に関わるものなので、私たちがはっきりと神の恵みを理解するには、霊的な道を歩んで行く時に始まります。成長してクリスチャンの道を歩むにつれ、私たちはより神の恵みを理解できるようになります。

 神の恵みは、私たちに新しい生き方を示し、また新しく生きていく力をも与えて下さいます。もし天国に行けるのが立派な人だけだとしたら、誰も天国にたどり着ける自信がないはずです。自分で自分の義を主張しても、それはその人の尺度で測っているだけです。しかし、神が恵みによって私たちに道を示して下さったのなら、私たちは大胆に救いへの道に入る事ができるのです。神が恵みによって私たちを義と認めて下さるのなら、私たちは恐れがありません。

 ローマ 8:33-34「誰が、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めて下さるのです。誰が、私達を罪ありとするのですか。死んで下さった方、いや、蘇られた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私達の為に、執り成していて下さるのです。」

恵みに留まる

 私たちは恵みによって自由になれたのなら、恵みのうちに留まるべきです。再び律法の束縛に入る必要はありません。現在ある、様々な教えは宗教的な要素が混ざっているので、多くのクリスチャンは、気づかないうちにそうした束縛の中にいる事もあります。

ガラテヤ 3:3「あなた方はそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなた方が、今、肉によって完成されるというのですか。」

 ガラテヤの教会では割礼を教えていたユダヤ人の影響で、そこの信徒たちが律法主義に戻っていたのでした。この事件の為に、エルサレムで使徒たちが異邦人の教会のクリスチャンはどうするべきか議論したのです。パウロによれば、私たちは一度信仰によって恵みを受け、また約束の御霊を受けて新しい人生が始まったのなら、同じ信仰によってそのまま恵みの中でしか私たちは完成されない(霊的に大人になれない)のです。再び律法に戻る事は、肉に戻る事と同じであり、御霊で始まるものが肉によって完成されるはずがないという事です。

 2コリント 3:6「神は私達に、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」

 新しい契約に仕える者とは、私たちクリスチャンの事です。ですから、私たちは文字(律法)に仕える者ではなく、与えられた御霊に仕える者です。律法は私たちの罪を指摘し、刑罰を要求します。しかし、御霊は私たちに命を与えます。命の御霊から離れて、再び律法に戻るなら、私たちは恵みから離れてしまうのです。クリスチャンになった私たちは恵みによって生かされているのですから、恵みの中で歩む必要があります。

恵みにおいて成長する

 2ペテロ 3:18「私達の主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。」

 クリスチャンの新しい生き方はイエス・キリストの恵みと知識において成長する生き方です。ちょうど赤ちゃんの成長が欠かせないように、私たちも霊的な成長が必要です。

 1ペテロ 2: 2「生まれたばかりの乳飲み子の様に、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得る為です。」

 ペテロはここで、聖書の言葉を「乳」という表現をしています。みことばは、私たちの霊的成長に欠かせない食物です。神の恵みは、新約聖書から学ぶと効果的です。それによって私たちは成長していきます。何故なら、イエスの言動が記録されている福音書とその福音の解説をしたパウロやその他の使徒たちの手紙は全て福音の恵みを語っているからです。

祈りが聞かれていないような時

 祈りが聞かれなかったような経験は誰にでもあるでしょう。しかし、本当に神に私たちの祈りが聞かれなかったのでしょうか。

 マタイ 7:7「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」

 多くの人は、何かを求めたが受け取れなかったという経験を挙げ、この聖句を真剣に受け止めていないようです。

 ローマ 3:4「...たとえ全ての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです...」

 神が真実な方である以上、御言葉の方が常に正しいと私たちは判断しなければなりません。例え、人々が様々な意見を主張したとしてもです。多くの教義上の分裂が生じた理由の一つは、神学を含む、人々の意見を神の言葉よりも上にしてしまったからです。御言葉の教えは明確ですが、誰かが御言葉を試みて約束された結果が得られなかった場合、自分の失敗を認める代わりに、別の解釈があると考え、「それは使徒たちと共に過ぎ去ったに違いない」と言ったり、「必ずしも神の御心ではない」と決めつけるのです。しかし、神が私たちの祈りに答えられなかったのではなく、私たちがその約束を受け取る事ができなかったというのが、正しいのです。

 私たちが御言葉の原則に従って神に祈り求める時、何が起きているかというと、神は即座に動いて下さっています。そして、私たちの霊に答えを与えて下さっています。私たちはそれを信じ、それに従って行動し、その答えを物理的な領域ににもたらす責任があるのです。霊の領域とは、私たちの立場上の領域であり、私たちはそこで神の約束を受け取ります。しかしそれは、まだ、経験として目に見える現実には現れていません。目に見える現実を、霊の現実によって変えて行く事が必要なのです。何故なら、神は霊だからです(ヨハネ 4:24)。神はいつも、私たちの霊に答えを与えて下さるからです。信仰を通して、私たちは、約束のものを持つ事ができるのです(ヘブル 11:1)。

 神の約束は霊的なもので、それが物理的な領域にもたらされる事、これが神の約束を手にするという事です。目に見えない領域のものは、見えないからと言って、存在しないわけではありません。しかし、それを信仰によって考え、信仰によって確信していなければなりません。信仰によって、私たちの目に見える現実は、霊的な現実に変わる事ができます。何故なら、霊の領域にあるものが、真の姿だからです。

 このようにして、私たちの祈りに対する答えがもたらされるのです。神は霊の領域で動き、私たちがそれを信仰によって既に得たと信じ、信じた通りの行動によって、それを物理的な現実にもたらすのです。だからといって、私たちが自分の力で祈りの答えをもたらしたという事ではありません。奇跡を起こすのは神であり、私たちはそれを信仰によって、受け取り、現実化させただけなのです。神がおられなければ、私たちは何もできません。しかし主は、私たちをキリストと共に共同相続人とされ、私たちなしでは何もなさらないように決めたのです。

 私達の内に働く御力は、神の力です。しかしそれは、私たち次第でもあるのです。私たちには、信仰によって神から祝福を受け取る役割があるのです。この事を知らない事が、私たちの最大の問題なのです。

 マルコ 11:24「ですから、あなた方に言います。あなた方が祈り求めるものは何でも、既に得たと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」

 私たちが信仰によって祈り求めたものは、すぐに霊の領域において受けとっているのです。それが、後になって、物理的な領域に現実化されるのです。それは、1日掛かるかもしれないし、1年かもしれません。しかし、神が既にあなたの祈りに答えて下さったという信念を揺るがす事はできないのです。忍耐を働かせ、信じ続ける事が必要になります。結果が現れるまでの時間は、多くの事柄に左右されますが、それを決定するのは神ではありません。祈り求める時、既に受けたと信じる事が鍵です。神は、聖書で約束されていない事を信じるようにとは言いません。私たちは、信仰によって、霊において神の約束を即座に受け取り、それが後になって、目に見えて現実化されるのです。

 ダニエル書の9章と10章に、彼の祈りが直ぐに答えられたケースと、三週間も掛かったケースが書いてあります。殆どの人は、「神はどうして最初の祈りには直ぐに答えられたのに、二回目の祈りには三週間も掛かったのだろう」と考えます。しかし、ダニエル書10章12節を見ると、神は二回目の祈りにも即座に答えているのです。従って、神の応答が遅いというのが問題ではないのです。ダニエルの二回目の祈りには、悪霊の働きが背後にありました。それが原因で、答えが遅くなったのでした。 

 私たちの祈りの場合も、時には、悪霊が邪魔をする事があるのです。ですから、神に対して不満を抱くのではなく、そのようなケースもあると考えて、こちらも、霊の戦いに入って、戦わなければいけないのです。私たちは神の子として、悪魔のわざを打ち破らなければなりません。それ以外にも、人々の不信仰などが邪魔してしまうケースもあります。しかし重要なのは、神が私たちの祈りの答えを遅らせているのではないという事です。神は、多くの人々が考えているような、予測不可能なお方ではありません(詩篇 102:27、マラキ 3:6)。

 神がどういうお方であるかを知る事は、私たちの信仰にとって、大きな助けとなります。神が信頼できるお方である事が分かれば、私たちは疑う事をしなくなります。疑いを持たず、そのまま信じ続けるのです。この態度が、より早い結果を生むのです。祈り求めて、受け取った後と、結果が出るまでの間に、私たちがするべき事は、感謝の賛美です。この信仰の行動によって、私たちはより早い結果を見る事になります。その他にも、異言で祈り続けたり、宣言を続けたりする事で、邪魔しているものを全て排除すれば良いのです。

御言葉の種

 神の祝福を望んでいるにも関わらず、それを体験できない理由の一つに、御言葉が心に植えられていない事が挙げられます。御言葉を心に植える事によって、私たちは信じる事ができます。御言葉を頭で理解するという事について話しているのではありません。信仰は、霊的な事柄について、私たちの心で信じるもので、御言葉を知性で理解するという事とは違いがあります。

 イエスは、神の言葉を「種」として、たとえ話しの中で表現していますが、それは私たちの心の中に植えられて始めて、実を結ぶ事を教えられました。ここで、自然の法則によって植物の種が、実を結ぶまでのプロセスを考えてみて下さい。それ自身は小さなもので、何も生み出しません。土の中に植えられないと成長しません。同様に、奇跡をいくら期待して祈っても、その奇跡を生み出す為の「御言葉の種」をまず植えなければ、その実を見る事は不可能なのです。

 マルコ 4:13「そして、彼らにこう言われた。「このたとえが分からないのですか。そんな事で、どうして全てのたとえが理解できるでしょうか。」

 さて、種蒔きと刈り取りの法則は、神様が定めたものですが、種を蒔いて芽が出るまでには、幾つかの過程があります。この過程を無視して実を結ぶ事はできません。つまり、御言葉を心の内に蒔いたとしても、その実を結ぶまでには時間が掛かり、刈り取るまでには更に時間が掛かるのです。

 マルコ 4:26-29「またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」

 ちょうど蒔いた種が土の中に留まっていなければならないように、神の御言葉も私たちの心の中に留まっている必要があります。直ぐに実を結ばないからといって、植えた種を疑って、それがどうなっているかと掘り出してみるなら、せっかくの成長を台無しにしてしまうかもしれません。それと同様に、心の中に御言葉の種を植えたなら、それが成長するまで、信じて待っておく必要があります。

 マルコ 4:28「地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。」

 私たちは忍耐がないので、直ぐに実が成るのを期待しますが、成長には幾つかの段階がある事を知らなければいけません。信仰を持って忍耐を働かせて、御言葉の種が成長するのを待つのです。そうしないと、神からの約束を実現化できません。

 神の国は神の法則に従っています。信仰も神の法則です。信じたものが実を結ぶ為には、御国の法則のプロセスを通る必要があります。このプロセスを幾らか早める事は可能です。逆に、間違った教えを信じていた場合は、思考の一新が遅くなる事が多い為、実を結ぶのに時間がかかるでしょう。ですから、なるべく早い段階で御言葉の真理を正しく理解し、それを心に植える必要があります。「木を植えるのに最もよい時期は 20 年前であり、二番目に良い時期は今です」という古いことわざが言うように、私たちは今から御言葉の種を植えておく必要があります。そして、
私たちの心を良い状態に保つ事が秘訣です。心が良い土地であるなら、私たちは御言葉を信じ続ける事ができ、忍耐を持って待てば、必ず実を結ぶ事になるでしょう。

人間関係と霊の戦い

 あなたの直面している問題が何であれ、その背景にはサタンが働いているケースが多い事を知っているべきです。特に人間関係のトラブルなどは、背後で働くサタンを意識しつつ、それらの問題を解決して行くようにする必要があるでしょう。その理由の一つは、未信者の大多数は、悪霊による影響を強く受けやすいからです。もちろん、悪霊の悪い影響によって歩んでしまっている信者もいます。私たちが持つべき考え方は、目の前にいる人を敵と見なさない事です。実際サタンは、クリスチャンでさえ、あなたの敵であるかのように仕向ける事が可能なのです。サタンは、人の肉の思考に働きかけて、誘惑したり、惑わしたりして、油断している人を狙います。

 霊の戦いというのは存在します。多くのクリスチャンは、物事を人間的な考えや見方で捉えているので、表面的な部分しか分かりません。霊の現実、霊的な存在、霊の法則などがある事を知りません。日常生活で起きている様々な事は、単に物理的に、自然に起こるようなものでは必ずしもないのです。目には見えませんが、私たちは霊の現実の中に生きている為に、日々の生活において、霊的な戦いがあります。そしてその戦いとは、私たちの思考の中と、人間関係の領域でよく見られます。

 神は全ての人を引き寄せて、ご自身の恵みによって、一人でも救おうと働きかけています。しかしその一方で、サタンは神に近づこうとする人を邪魔したり、可能なら人の信仰や心も壊そうとします。サタンは、人の考えの中にあらゆる汚れや腐敗を持ち込んで来るという方法を第一の攻撃とします。多くのクリスチャンは、この霊の戦いが、いかに激しいものであるかを知りません。そして、霊の戦いに対する彼らの無知が、どのように彼ら自身に影響を及ぼしているかも知らないのです。神の知識を得て、敵に対する戦い方を学んで実践するなら、私たちは敗北の人生から解放されるでしょう。

 何をどう判断するべきかを知り、信仰に基づく言動によって問題に直面すれば、あなたの生活は大きく変わります。しかしまず、次の事を知って下さい。サタンは、あなたの自由意志をコントロールする事はできません。神でさえも、あなたが信仰によって行動を起こさないと、殆どのケースで何もやらない(むしろできない)のです。「神の御心のままに、諸々の問題はどうにか成る」という事ではありません。あなた自身が霊の戦いに積極的に参加しているべきなのです。敵であるサタンは容赦しません。知識がないクリスチャンは、食い尽くそうと探し回っているサタンにとっての、絶好のターゲットになります。

 エペソ 6:10-12「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つ事ができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいる諸々の悪霊に対するものです。」

 注目すべき個所は、「私たちの格闘は血肉に対するものではない」、つまり、私たちの戦いは霊的なものであるという事です。そこには当然ながら、霊的な判断や考えが必要になります。しかし霊の戦いは、いわゆる「悪霊追い出し」に関する事だけではありません。私たちの多くが見逃してしまいがちなのが、あらゆる否定的な考えや聖書の真理に逆らう考えが、サタンからの惑わしであるというものです。人の考えに悪い影響をもたらすサタンは、私たちの周りの人にも悪影響を与え、できればその人間関係を破壊しようと企んでいます。

 人間関係におけるサタンの攻撃は、見抜く事、気付く事が難しい部類です。それに気付かないでいると、相手が同じ主にある兄弟・姉妹であっても敵とみなしてしまう事もあるでしょう。サタンは、私たちが目で見て、耳で聞く事に頼り、五感からの情報に基づいて判断させようとする為に、様々な事を仕掛けてきます。別の言い方で言えば、クリスチャンに聖書的な判断をさせないように邪魔をするという事です。従って私たちは、五感に頼りすぎず、背後で動くサタンを見抜く必要があります。

 例えば、人の言動で感情的になってしまうのは、私たちの肉の弱さが主な原因ですが、この感情という扉からサタンは入って来る事がよくあります。私たちは、感情的になって判断するのではなく、霊の目で物事を見ていないといけません。例え、あなたの友人の言動がおかしいと感じても、その人を見るのではなく、敵を見抜いていないといけない場合もあるのです。サタンが機会を狙って、あなたの友人という、あなたの弱点を攻撃しているかもしれません。こうしたサタンの働きが背後で起きている事もあるのだと、常に頭の片隅に置いておけば、人に対して怒ったりせず、冷静に対応できますし、その人を赦す事も容易くなるでしょう。

 マタイ 16:21-23「その時からイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目に蘇らなければならない事を、弟子たちに示し始められた。すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもない事です。そんな事があなたに起こるはずがありません。」しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、私をつまずかせるものだ。あなたは神の事を思わないで、人の事を思っている。」

 イエスは、ペテロに「下がれ、サタン」と言ったのではなく、ペテロの背後で働いていたサタンに向かって言いました。サタンはイエスを殺す事を密かに計画していましたが、それを見抜いてたイエスは、ご自身に起ころうとする事をはっきりと弟子たちに示されました。しかしサタンは、ペテロにささやき、ペテロはそれに同意して、イエスをいさめて、復活を含むその預言を否定したのでした。このように、サタンは人を通して自分の考えを話す事もあります。私たちはそれを見抜いている必要があります。

 サタンは、私たちを惑わそうとする為に、私たちの考えの中に疑問を起こさせます。ちょうどエバを騙したように、御言葉の真理に対して逆らうような疑問を投げかけるのがサタンの手口です。福音に激しく反発する未信者などは、サタンの影響を受けているかもしれません。一方、真理に逆らう考えがクリスチャンの中に入ると、不安を覚えたり違和感を感じる事があります。これは聖霊が私たちに教えているからです。そうした違和感をが聖霊の導きになっているケースもあります。

 罪を犯す衝動が止められないといったもの、依存症、うつ病、魔術や霊媒といった事をして、直接サタンが入りやすくしている人は、悪の影響を強く受けやすいでしょう。こうした人々の背後には強い悪霊が働いていて、他のクリスチャンの協力によって悪霊を追い出してもらう必要がある事もあります。

 霊の戦いで勝つには、私たちがまず敵に対する権威を与えられている事を知って、敵はイエスによって既に敗北を宣言された者であるという事を知る事です。イエス・キリストの御名には力があり、全ての悪霊は私たちの内にいるイエスに怯えています。ただし、この勝てる戦いも私たちが何もしないなら、私たちがやられてしまうのです。私たちが霊の戦いに参加し、与えられた権威と力を用い、勝利を掴む事は、天の父の御心です。それが、私たち神の子がやるべき事なのです。

新しい戒め その2

 ヨハネの福音書 13:34~35「私はあなた方に新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなた方が私の弟子である事を、全ての人が認めるようになります。」

 イエスは「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と弟子たちに言いました。ですから、キリストの愛は、まず最初に、弟子たちの間で見られるべきものである事が分かります。

 愛を実践するように教えている教会は数多くあります。しかし、神の愛で人を愛する事だとはっきりと教えている所は、まだ少ない方です。実際に、人間的な愛で人を愛そうとしているクリスチャンが沢山います。それが理由で、信者間での愛は、周りが認めるような力強いものでもありません。

キリストの弟子

「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなた方が私の弟子である事を、全ての人が認めるのです」とイエスが言われたように、キリストの弟子たちである、私たちクリスチャンの間に神の愛があるなら、それによって「全ての人」が私たちをイエスの弟子として認めるの事でしょう。注意したいのは、全ての人が私たちを「クリスチャンとして認める」とイエスが言っていない事です。私たちクリスチャンは、自分自身のアイデンティティーを漠然とした「クリスチャン」にしていますが、本来は、「キリストの弟子」であるべきなのです。

弟子の単語は、ギリシャ語の mathētēs が示すように、「学んでいる者」という意味があります。従って、キリストから学んでいる者がキリストの弟子になります。残念な事に、多くのクリスチャンは、キリストから学んでいる者ではなく、「何らかの良い基準」に漠然と歩んでいる者です。殆どのクリスチャンは、聖書を学ぶ事をしません。日曜日、毎週欠かさず教会に行く事だけで、クリスチャンとして十分やっていると考えている人たちは多いものです。しかし、こうした上辺だけで良いはずがありません。この程度で、クリスチャンが「キリストに似た者」として歩めているはずがありません。イエスが言ったように、私たちがアガペーの愛をお互いの間で示さないとするなら、周りの人たちは彼らを「キリストの弟子」として認識できません。実際、人々は私たちの事をクリスチャンと呼ぶかもしれませんが、誰もキリストの弟子と呼ぶ事はないのです。私たちの間で神の愛を示していないのなら、どうして彼らはキリストの愛が分かるでしょう。そして、その愛なしに、どうやって彼らを救いに導く事が可能なのでしょうか。

 キリスト教の中では、「献身者は一部の人たちだけ」という考えが一般的になってしまいましたが、それは間違いです。私たちクリスチャンは本来、全員がキリストの弟子となっているべきなのです。従って、本来は「クリスチャン=キリストの弟子」であって、ただイエスを信じている者というような漠然としたアイデンティティーなのではありません。誰でもキリストを「信じる者」としてスタートしますが、それ自体がゴールなのではないのです。キリストから学んで、キリストに従う者、キリストと共に歩んで行く弟子になるべきなのです。人はキリストを信じた瞬間に、人生のゴールに到達するのではなく、そこから成長して新しい歩みが始まるのです。

内側から

 クリスチャン、つまり、キリストの弟子の間に愛がないのなら、それを見た未信者は私たちと関わりたくないと思うでしょう。従って、まずは教会の内側から神の愛を示す必要があります。聖書の教えはいつでも、「内側に起こる良い変化が外に表れる」原則になっています。

 マタイによる福音書 23:26「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側を清めなさい。そうすれば、外側も清くなります。」

 内側が清められて初めて外側も清くなれます。この聖書の法則は、私たちの心の一新(正しくは思考の一新)の事です。心が清い人は良い言葉を出し、心が汚れている人は悪い言葉を出すとイエスは語られました。心理学的な行動療法による人格の改善方法の事ではありません。そうした人間的な努力は、ある程度、思考の一新に基づくものですが、根本的な内側の変化には至りません。人が本当に変わるのはその人の内側が変わるからです。ですから、神はまず、私たちの古い人をキリストとの十字架と共に葬る(死ぬ)という事に導き、キリストの復活と共に新しい霊を私たちの内に創造する必要があったのです。そうしなければ、私たちは新しい霊的歩み方ができなかったからです。ただし、私たちの霊は新しく創造されたのですが、思考の方は、その大部分が古いままなので、新しくされる必要があります。

 さて、キリストにある者は全て新しくなっていますので、新しい人としてキリストの弟子として、アガペーの愛によって歩む事ができます。「イエスを信じるが、自分はキリストの弟子ではない」という考えを持つ人は、聖書を正しく教えられていません。キリストの弟子であるという意識は、漠然としたクリスチャンというアイデンティティーよりも、もっと明確な目標や使命を私たちに与えます。そうした土台から、私たちは神の愛を実践できて行けるのです。そして、主にある兄弟姉妹に対してその愛を示す事から全てが始まって行くのです。当然、外に出て福音を宣べ伝えるる事も大事ですが、キリストに呼ばれた者たち(エクレシア)の集りでお互いを愛し合う事から始めるのが正しい順序です。 

現在のキリストの体である教会は、そこに集う人々がクリスチャンであっても、キリストの愛で愛し合ってはいません。私たちは、イエスの示した隣人の定義ではなく、パリサイ人や律法学者の定義する隣人で、誰かを愛そうとしているのです。それは、感情に基づく人間的な愛であり、究極的には、愛とは呼べないものです。少なくとも、アガペーではありません。私たちの間にこの愛が見られなければ、いくら外で伝道したとしても、キリストの愛が伝わる事はないでしょう。

 では、クリスチャン同士が互いに愛し合うにはどうしたらよいでしょうか?それには、まず、私たちがキリストの弟子であるという認識を持たなければなりません。「弟子」は「キリストから学ぶ者」であるのなら、キリストの愛を模範として生きる者です。そこから、アガペーが自己犠牲の愛であり、他の人を常に優先させて考えるものだと分かってくるのです。 キリストの愛で人を愛するには、自分の肉の思いに対して死んでいる事が絶対条件になります。キリストの弟子には、その様な心構えがあります。何故なら、自分の肉の思いに死ぬ(古い人に死ぬ)という、自らの十字架を背負って歩む事が、キリストの弟子としての歩みだからです。

 キリストの弟子である事、そしてそれ以上に、私たち自身がキリストにあって何者であるか、という事を知らずに「御霊の実を結ぶ」という名目で慈善をしましょうと教えても意味がありません。「立派なクリスチャン」という、人が作った曖昧な基準を目指して良い行いをするという考えは宗教であって、イエスの教えではありません。私たちの生き方、考え方の模範はいつでもイエスです。自分を愛せないと人を愛せないという教えにこだわる事もズレています。自分の存在を忘れるくらい、相手の霊的な成長を促す事を優先させるのが理想です。その様な考えを持てないのは、私たちの多くがキリストの弟子という意識がないからです。

愛するとは

 隣人愛の第一義的な定義は困っている人を助けるという事です。良きサマリヤ人の話でイエスが示したように、困った人を助けてあげる事が愛の行いです。「自分にしてもらいたい事は、他の人にもそのようにしなさい」という教えも同じです。イエスが言っている「良い行い」は箇条書きになっているモーセの律法とは違って、私たちが大人の考えと信仰をもって行うものです。「書いてある事、言われた事以外はやらない」というものではありません。

 私たちがキリストの弟子としてイエスに従う事を考えないで、どうやってアガペーの愛で人を愛する事ができるでしょうか。まずは、そこの意識改革が必要です。私たちがキリストの弟子としてアガペーの愛を実践しようとするなら、それが可能になって行きます。そうした私たちの姿を未信者が見る時に、その仲間に加わりたいと彼らは思うようになるのです。キリストの弟子である私たちがお互いに愛し合うのは、キリストに対する証しとして大きなインパクトがあるものだからです。

 ガラテヤ 6:10「ですから、私たちは、機会のあるたびに、全ての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」

 パウロも同じような事を言っています。まず、信仰の家族の人たち、信者同士の間にキリストの愛があるべきです。その愛を未信者も見たいと望んでいるのかもしれません。彼らがクリスチャンに対して「完璧さ」を求める傾向が強いのは、キリストのアガペーの愛に答えがあると期待しているからです。ただし、私たちが肉の行いによって何かを示そうとすると失敗します。しかし、私たちが肉(古い人)に対して死に、私たちの思いが御霊の思いになるなら、神の愛を実践できるようになります。このような考えは、一般的には、キリストの弟子として歩んでいるクリスチャンだけが、持っているものです。

新しい戒め その1

 ヨハネの福音書 13:33-35「子供たちよ、私はもう少しの間あなた方と共にいます。あなた方は私を捜す事になります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなた方にも言います。私が行く所に、あなた方は来る事ができません。私はあなた方に新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなた方が私の弟子である事を、全ての人が認めるようになります。」

イエスがこのように弟子たちに話されたのは、十字架に掛かる前夜の「最後の晩餐」の時でした。それはイエスにとって、弟子たちとのしばしの別れの場面でもあり、とても大切な時でした。その時に語られたイエスのこの言葉は、単なる助言ではなく、彼らに対する戒めであったという事は、注目すべき所です。

 「互いに愛し合う」事は誰もが理解している教えです。しかし、現実にどれ程のクリスチャンが、互いに愛し合う事の大切さを知っているでしょうか?この愛は、神の無条件の愛「アガペー」です。それについて真剣に考え、実践しようとするなら、多くのクリスチャンは、人を愛する事は難し過ぎると思うでしょう。しかし、イエスは弟子たちに不可能な事をしなさいと命じたのではありません。では何故、愛の実践が私たちにとって難しいように思え、時には、それが不可能にさえ感じるのでしょうか。

 一般的に私たちが考えている愛とは、神の愛とは違って、条件付きの、人間的な、感情的な愛です。アガペーがまだ分からない間は、クリスチャンでも他の人に対して必要以上に批判的になったり、相手を言葉で傷付けてしまう事もあります。又、人の愛とアガペーの違いを、定義上十分に理解していたとしても、単なる知識となっている間は意味がありません。アガペーは、知性において理解するだけでは十分ではなく、信仰に基づいて、それを実践する事で学ぶものです。神の愛を体験するには、神があなたを愛しておられる事を、まず信じなければいけません。その後に、私たちは実際に人を愛する事ができ、その愛の実践を通して、アガペーを理解して行くのです。

 人は自分が愛されている分だけ、他の人を愛する傾向があります。一般に、愛を受けていない人は他の人に対しても愛を示す事ができません。クリスチャンでも神の愛を知らない人が多いのですが、その知らない分だけ、他の人を愛する事ができないのです。ですから、まず大事な事は、私たちは神に愛されているという真理を信じる事です。神の愛は私たちに無条件で与えられているのであり、私たちの努力や、品性、その他の人間的な基準とは関係ありません。信仰によって神に愛されていると知る時、人を愛せるようになり、それによってアガペー知るようになります。

 黙示録 4:11「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。御心のゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」

 万物が創造され、それらが存在しているのは、神の御心がそこにあるからなのです。人が創造されたのは、それを良しとした神の御心があったからでした。人の創造を良しとされた神は、私たちを愛しておられます。それが理由で、神は人との関係を持つ事を望んでおられ、親密な交わりを持つ事を望んでおられるのです。立派な行いに対する報酬として、神が私たちを愛しておられるのではありません。この愛の関係は「Give And Take」ではなく、無条件です。この事がきちんと理解されていないと、人は何かの条件を満たす事で、神の愛を得ようとします。

 アガペーによる神との正しい関係性を理解しないと、他人との関係も上手くいきません。私たちの多くは、まだ肉的な考えに大きく影響されているので、自らの努力や信仰深さに応じて、神は私たちを愛すると勘違いしています。その様な尺度でアガペーを測っていると、他人に対しても愛を制限してしまいます。「相手が自分を愛する分、自分もその人を愛する」という考えになってしまうのです。

 ローマ 5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちの為に死なれた事によって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

 神の愛はいつでも無条件です。その愛ゆえに、神は人を癒します。癒される為の条件を幾つも満たさないと癒やされない、という考えを持つべきではありません。或いは、聖化されなければといって、その達成の為に何か宗教的な行いが必要だと考えるべきではありません。一方的な神の好意によって与えられる愛を素直に受け取るだけで良いのです。それは、信仰によって受け取るという意味です。努力に応じた報酬は恵みではありません。恵みは神を信頼する事で得るものです。

 「こうしないとそれに応じた罰を受ける」というモーセの律法の考えに戻る必要もありません。神の愛は、恐れに基づく教えでも、強制的な教えでもありません。「~しなければならない」という考えに基づく教えではなく、自主的に喜んでする行為がアガペーなのです。神は私たちを自由にする事によってご自身の愛を示し、その愛を持って、私たちが他の人を自由に愛する事を望んでおられます。

 神は私たちの心を見ます。私たちの行いが素晴らしいものであったとしても、内側の動機が悪いものであったら、その行いがアガペーに基づいていない事も知っておられます。聖書の言う良い行いというのは、内側にある正しい心が外側に表れた結果なのです。そうするには、神の性質を知り、神との親しい交わりを持つ事によって、アガペーの愛を土台に置いて、その愛にねざさなければいけません。神の愛なしで良い行いに走ってしまうと、必ず宗教になってしまいます。

 神が無条件で私たちを愛して下さったという御言葉を読んで、信じましょう。神の愛に対する信仰を基礎に、私たちは他の人を愛していきます。そうすれば、私たちのこれまでの愛が、人間的な見方によって定義していたものであった事が見えてくるはずです。それは、多くの場合、感情的に判断したものなのです。聖書では、そのような人間的な愛で他人を愛しなさいとは教えていません。

 神の愛をよく知るにはどうしたら良いでしょうか?第一コリントの13章では、パウロはアガペーを端的に説明しています。しかし、神の愛は、あくまでもキリストの十字架が土台になっています。アガペーについて、もっと具体的に語っているのは、次のヨハネの言葉かもしれません。

 1ヨハネ 4:10-11「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪の為に、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛して下さったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」

 私たちがイエスの十字架に戻る時、私たちは神の愛を知る事ができます。そこに、神の愛が完全に明らかにされているのです。神の愛の基準はイエスの十字架にあります。そこから私たちは、神の無条件の愛が与えられている事が分かり、神が私たちを愛しておられる事が、神の御心である事も分かるのです。