第一ヨハネ 1:9 3

 第一ヨハネ 2:1「私の子供たち。私がこれらの事を書き送るのは、あなた方が罪を犯さないようになる為です。しかし、もし誰かが罪を犯したなら、私たちには、御父の前で執り成して下さる方、義なるイエス・キリストがおられます。」 

 「これらの事」とは、ヨハネが1章で書いた内容、イエス・キリストとの交わりの事です(第一ヨハネ 1:3)。ヨハネが「これらの事」を書いた理由は、その手紙を読んでいるクリスチャンが罪を犯さないようになる為だと言うのです。第一ヨハネ 1:8-9 を読んで、「人は罪の性質を常に持っていて、罪を犯さずにはいられない存在であり、それで常に罪を告白する必要がある」と解釈している人は、ヨハネの「私がこれらの事を書き送るのは、あなた方が罪を犯さないようになる為です」の言葉に戸惑うでしょう。しかし、クリスチャンは罪の性質から解放されていて、義人として歩む事ができると使徒たちは教えているのです。

 「もし誰かが罪を犯したなら、私たちには、御父の前で執り成して下さる方、義なるイエス・キリストがおられます」とヨハネは言っています。信仰の成長の過程で罪を犯した場合でも、イエスの十字架に目を向けるのが鍵だとヨハネが言っているのが分るでしょうか?犯してしまった個人的な罪そのものの告白が必要なのではなく、罪について「同じ事を言う」事が必要なのです。「同じこと」とは、ヨハネにして言えば、その手紙を読んでいるクリスチャンが既に知っている事です。その答えはもう少し先の節にあります。

 第一ヨハネ 2:7「愛する者たち。私があなた方に書いているのは、新しい命令ではなく、あなた方が初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなた方が既に聞いている御言葉です。」

 ヨハネの手紙を読んでいるクリスチャンは、既にヨハネから御言葉を聞かされていました。それは、イエス・キリストについての福音です。次の聖句で罪の赦しについて書いてあるので明らかです。

 第一ヨハネ 2:12「子供たち。私があなた方に書いているのは、イエスの名によって、あなた方の罪が赦されたからです。」

 ヨハネは彼らの罪が赦された(完了形)ので、手紙を書いていると言いました。ですから、罪の赦しの真理をきちんと理解している人は、罪を犯さなくなると言っているのです。更に、「もし誰かが罪を犯したなら、私たちには、御父の前で執り成して下さる方、義なるイエス・キリストがおられます」とも言いました。「罪を犯した時」ではなく、「犯したなら」という条件です。ヨハネにしてみると、彼らが罪を犯すのは「もしもの話」なのです。

 ヨハネはこの手紙で、既に福音を聞いた人々に、「罪について同じ事を宣言する」ように思い出させています。彼らが既にヨハネから罪について聞かされている福音、即ち、イエスの十字架によって罪が赦されたという真理が彼らにとって「同じ事」なのです。従って、犯した罪を告白するという意味ではなく、既に十字架によって赦されたという事を宣言し、同意して、認めるという事なのです。別の言葉で言うなら、罪に対してイエスが何をしたかを信じて告白するという意味です。

 「その罪を赦し、私たちを全ての不義から清めて下さいます」の部分については先に解説したように、「赦す」「清める」の動詞は時制の意味を含まないアオリストです。ですから、神は常に「赦す」のであり、「清める」のです。それは主の愛が、時間を超えた真理だからです。その真理とは、人の罪の告白によって罪が赦されるというものではなく、イエス・キリストの十字架の贖いの血によって罪が赦されているという事です。この神の愛と恵みに触れた人は自然と悔い改める(考えを変える)ようになり、主の御業を信じるようになるのです。

第一ヨハネ1:9 2

  第一ヨハネ 1:9の聖句を正しく理解するには、「告白」と訳されているギリシャ語が、「homologeō(同じ事を言う)」である事と、「赦し」と「清めて」の動詞がアオリストの形になっている事を知り、それに加え、イエスの贖いによる血によって、罪の赦しがある事を知らなければなりません。

 これらを理解せずに読み、悔い改めの意味を「犯した罪について反省する」と誤解して定義すると、第一ヨハネ 1:9を、「罪の告白の聖句」としてしまうでしょう。犯した罪を反省して神に告白をすれば、神がその人の罪を赦し、全ての悪から清めて下さるという解釈が典型です。しかし、既にイエスが十字架で全ての罪を赦して下さったのが真理です。犯した罪の告白の有無によって罪が赦されるのではなく、イエスの十字架の贖いによる血だけが人の罪の赦しを宣言しているのです。後は、その神の恵みを信じて、罪の赦しを受けるだけです。

 ある人は、十字架で罪は赦されているけれども、それを受け取る為に、「罪を深く反省するという悔い改め」をして、犯した罪を口で告白する必要があると言います。正しくは、イエスの十字架の御業を信じる事によって、既に罪が赦されている真理を個人的に受け取って、解放されるという事なのです。

 ある人は、「信じて口で告白する必要がある」と主張して、ローマの10章10節を間違って引用します。そこに書かれているのは、犯した罪の告白ではなく、イエス・キリストを救い主であると信じ、それを告白するという内容です。犯した罪を意識させる罪意識は、律法主義から見る視点によって、罪の告白を罪の赦しを受ける条件にしてしまいます。しかし、恵みは常に私たちをイエスとその十字架の御業に導きます。律法の義は裁いて刑罰を与えますが、イエスの義は人を憐れんで赦しを与えます。恵みによる義はキリストの義であり、私たちがイエスを信じる事によって、神に義と認められる点で、より優れた義
なのです。

 さて、誤解の下に罪の告白をしたからといっても、それ自体は悪いものではありませんが、それに力があるわけでもありません。罪を解放する力はイエス・キリストの贖いの血にあります。人はそこに目を向けずに、自分の罪を自分で処理しようとします。それは、自分自身の罪に目を向ける傾向(罪意識)があるからです。しかし、真理(イエス)だけが私たちを自由にするのです。残念ながら多くのクリスチャンでさえ、イエスの恵みに目を向けず、自分の罪に目を向けて、悔い改めという自己反省によって、神に赦されようとします。しかし、私たちが何かをする事によって、神が私たちの罪を赦されるという事ではありません。イエスの聖なる血だけが私たちの罪を取り除いたという真理を知らずにいると、私たちは罪意識から解放されないでしょう。

 それでは、第一ヨハネの手紙 1:9 に書いてある「告白」とは何を意味するか?という事になります。信仰によって罪の赦しを受けるのですから、そこを基本として「告白」の意味を考えれば良いのです。

 
第一ヨハネ 1:8「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」

 ヨハネは、私たちには常に罪があるという事を指摘する為に、このように書いたのではありません。人々の罪はイエスの十字架の前でも赦されてました。クリスチャンである私たちは罪人ではなく、義人となったのが真理です。ここでヨハネが意味したのは、誰かが「自分には罪はない、罪とは全く関係がない」と主張するのなら、それは間違っていると言っているのです。人が最初から罪と無関係だったなら、イエスは十字架に掛かる必要はなかった事になります。しかし、イエスが十字架に掛かった以上、人は誰でも罪ある存在として見なされている事が明らかです。しかしその十字架は、神の恵みを表すものとして私たちに示されています。何故なら、キリストの十字架の御業は、人の罪の取り除きと、罪の赦しを示すものだからです。

  第一ヨハネ 1:9「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちを全ての不義から清めて下さいます。 」

 罪の告白をすれば(条件)、神がその罪をその時に赦すのか、それとも私たちの告白以前に、既に罪は十字架によって赦されているのかが論点です。

 
第一ヨハネの手紙 1:10「もし罪を犯した事がないと言うなら、私たちは神を偽り者とする事になり、私たちの内に神の言葉はありません。 」

 ここも8節と同様に、罪を犯した事がないと言う人があれば、それはイエスが十字架に掛かった事を無にする発言であり、イエスのした事は意味のない、偽りな行為と定義してしまうのです。何故なら、イエスは私たち全ての罪の為に十字架に掛かられたからです。それとも、それは作り話でしょうか?もちろん、自分の無罪を主張して神を偽りとするのは正しくありません。

第一ヨハネ 1:9 3に続きます。

第一ヨハネ1:9 1

 第一ヨハネ 1:9「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちを全ての不義から清めて下さいます。 」

 この節で使われている動詞は「homologeō」から来ていて、同じ事を具体的に宣言する、同意する、認めるという意味を含みます。一般的には「告白する」という訳になっている為に、「犯した罪を告白する」という意味として誤解されています。しかし、この動詞は「罪について同じ事を宣言する、同意する、認める」という意味で捉えられるべきなのです。

 この語は KJVの新約聖書で24回出ていますが、ほぼ全て、イエスキリストを神と宣言する、同意する、認めるという内容、つまり、人がキリストを信じるかどうか、キリストの神性に関する内容です。

 マタイ 7:23「しかし、私はその時、彼らにはっきりと言います。『私はお前たちを全く知らない。不法を行う者たち、私から離れて行け。』」

 マタイ 10:32「ですから、誰でも人々の前で私を認めるなら、私も、天におられる私の父の前でその人を認めます。」

 ルカ 12:8「あなた方に言います。誰でも人々の前で私を認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。」

 ヨハネ 1:20「ヨハネはためらう事なく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。」

 ヨハネ 9:22「彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。既にユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。」

 ヨハネ 12:42「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。」

 その他「homologeō」の動詞が使われている箇所には、使徒の働き 24:14、ローマ 10:9-10、テトス 1:16、第一ヨハネ(1:9、2:23、4:2、4:15)、第二ヨハネ 1:7 があります。

 第一ヨハネ 1:9 に出てくる「homologeō」を正確に表すなら ὁμολογῶμεν(homologomen)であって、homo「同じ」、logeō「言う」、omen「~するべきの動詞」から成り立っています。同じ言葉を宣言する、同意する、認めるというのが直訳です。「同じ言葉の宣言」という事から、既に知っている事を再び宣言するという意味で「同じ」なのです。従って、ここの「同じ」とは何を意味するかを考える必要があります。それは文脈によって異なりますので、個々のケースで何が「同じ」かを知るしかありません。

 この語が単純に「告白する」として訳された場合、第一ヨハネ 1:9 は「犯した罪を単に言う」ものとして誤解されがちです。「罪について具体的に同じ何かを宣言する」という直訳の意味が伝わらないのです。実際に、殆どの人がこの聖書の箇所を「罪の告白」の聖句として勘違いしています。

 次に注目すべき個所は、「赦し」と「清めて下さいます」の動詞です。これらの動詞はアオリストになっているので、いつ「赦されたか」とか「清められたか」という時制に関わる問題を論点にしません。ギリシャ語でアオリストの動詞が出てくると、それらの動詞はいつ行われたかは問題になりません。何故なら、アオリストの動詞は動作が単に事実・真実として行われる事を意味するからです。時間という枠を超えて、神は私たちの罪を赦すのであり、清めるのです。つまり、過去、現在、未来という時間を超えて神は私たちを赦す事ができ、清める事ができます。この理解はとても重要です。時間という枠を超えて御業を行う神の性質(普遍・永遠)を知る鍵になるからです。

第一ヨハネ 1:9 2に続きます。

五役者とは

 Five Fold Ministryと呼ばれるているものがあります。日本では「五役者」と言います。一部のカリスマ派や聖霊派では、それは神に選ばれた「油注がれた者」で、この五人が教会の形成に必要だと教えられています。五役者(或いは、より正確には四役者)の回復運動は「後の雨運動」から注目され始めたのですが、90年代になってピーター・ワグナーによって再び強調されました。彼は、五役者は、イエスから直接任命された「油注がれた器」として、霊的エリートのように考えていました。

 エペソ 4:11「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師、又、教師としてお立てになりました。」

 ピーター・ワグナーは、五つの役割という見方をせず、霊的エリートの五人として見た為に、彼らの権威などを必要以上に主張しました。これらのリーダーがいないと、真の教会形成はできないとしました。そして、エペソ 2:20 を用いて使徒と預言者が「一番上」のリーダーだとしました。彼は自分たちを使徒や預言者と呼び、アメリカで顕著な活躍をしている人々を中心に、彼らの考えを推し進めました。彼らの中には、後に同性愛者である事が発覚した人がおり、教会全体にも大きな反響が起こりました。

 エペソ 4:11でパウロが強調しているのは、教会におけるリーダーの「役割」であって、これらのリーダーの権威やランキングではありません。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師は、軍隊の階級のようなタイトルではありません。一般に、それらのタイトルが、その人たちのアイデンティティーを表しているとして誤解されていますが、この聖句はそのような事を説明しているわけではありません。又、「お立てになりました」という動詞はギリシャ語の「与える」から訳したものであり、「任命」のニュアンスがあるわけではありません。

 「ある人たちを」と新改訳で訳されている箇所が四つありますが、ギリシャ語では定冠詞の the が用いられているだけで、イエスが「ある人たち」を宿命的に選び、「五役者」のポジションに配置しているという意味を含んでいるわけではありません。ですから、これら五人は教会の絶対的な存在ではなく、あくまでも適任の人々として、教会で活躍する役割について語っているのです。

 確かに、これらの役割をする人々は、リーダーとしての存在とは言えます。責任が伴いますし、権威もあります。しかし、彼らは高いランクに位置するエリートなどではありません。責任を持てるリーダーがそうした仕事をこなすという事だけです。ですから、使徒の働きをしている人のアイデンティティーは使徒ではなく、使徒の働きをしているクリスチャン、神の子なのです。実際、ある人たちは複数の役割をこなす事もあるので、それらは称号として見るべきではなく、奉仕の働きとして見るべきです。

 何か小さな仕事をしている人たちに、何かのタイトルをつけて呼ぶ事はしません。同じ事が、教会のリーダーたちにも当てはまるのです。預言者だからという事で、預言者と呼ぶ必要はなく、預言に関する、リーダー的な働きをしているだけの事です。全てのクリスチャンのアイデンティティーは神の子であって、五役者のタイトルにはならないのです。

 こうした誤解に、これらのリーダーを「油注がれた者」という旧約聖書的な考えが加えられた事によって、人に栄光を与えるような考えが、一部の教会で見られるようになりました。ですから、五役者の役割とそれらに従事する事は聖書的なのですが、「使徒と預言者の回復運動」においては、特に使徒と預言者の権威を主張する所で、聖書が意味するものから離れていったのです。私たちは、天においても、地においても、イエスだけが権威を持っている事をまず理解し、その権威をリーダーたちが使う時には、教会の土台としての立場で使うのであって、それは聖徒をに仕え、下から支える働きを意味する事を知らなければなりません。

 パウロによれば、教会のリーダーたちは、使徒(送られた者)、預言者(先について語る者)、伝道者(知らせる者)、牧師(牧する者)、教師(教える者)の役割を果たすべきだという事であり、神から特別扱いされている、油注がれたエリートではないという事です。つまり、リーダーとして責任を持てる人、その役割をこなす人であれば、誰でも使徒の働き、或いは、その他の働きに従事する事が可能なのです。神が特別に選んだ人たちを神格化して見る必要はありません。そうするなら、そうしたリーダーたちが失敗した時には、大きな混乱が見られるでしょう。神にそれらの仕事を任されたリーダーたちは、そこまで特別な存在ではありません。主は、彼らのする事に対して責任を負わせていますが、彼らの権威は、「一般信徒」を支配する為に与えているわけではありませんし、聖書にはない「聖霊の新しい啓示」を主張できるような権威でもありません。私たちが知るべき全ての真理は、既に使徒たちの手紙に書かれてあります。

 第一テモテ 3:1では「監督」、テトス 1:5 では「長老」の任命についてパウロは書いてあります。違う言葉ですが、リーダー的な役割である事は間違いありません。実際、これらの役割をする人たちは、「牧師」と同じ働きをしていました。「牧師」とは違う言葉でありながら、同じ意味としてパウロが用いていたのは、それらの呼び方でも良かったという事であり、牧師という絶対的な存在ではなかった事を意味します。同じように、「五役者」の称号は、教会の絶対的な存在としてのアイデンティティーではありません。呼び方にこだわる必要はないのです。ポイントは、どんな役割だったとしても、それらは責任の重い役割であるという事だけです。

 基本的に、真に使徒や預言者の働きをする人たちは、彼らが何と呼ばれようと気にしていません。称号にこだわっている人たちは、人々からの称賛を受けたいだけであり、高ぶりの思いを持っているに過ぎません。彼らの働きが本物かどうかは、彼らの実によって見分ける事ができるので、称号にこだわる必要はありません。

 間違った五役者の教えは、五人の絶対的リーダーによる教会作りを教えようとするものですが、それは、人間的な方法で教会を形成しようとする、肉の試みです。彼らは、服従霊的覆いを要求します。しかし、初代教会の時代に使徒たちがしていた事は、全ての信者に対する献身的な奉仕であり、信仰の模範を人々に見せていた事でした。使徒や預言者の称号をちらつかせて、自分たちに従うように教えていたのではありません。彼らは教会のかしらではありません。イエスが教会のかしらです。

 第一テサロニケ 2:7-8「キリストの使徒として権威を主張する事もできましたが、あなた方の間では幼子になりました。私たちは、自分の子供たちを養い育てる母親のように、あなた方をいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身の命まで、喜んであなた方に与えたいと思っています。あなた方が私たちの愛する者となったからです。」

 パウロは、使徒としての権威を主張しませんでした。むしろ、献身的に他の信者に仕え、導いたのです。使徒と預言者は教会の土台なので、彼らは下から人々を支えるのです。この二つの役割は土台という意味では重要ですが、他の働きよりも重要であるという主張はナンセンスです。パウロは、これらの働きが土台となっていると言っただけなのです。

 神はある人々に対して、これらの役割を果たすように命じる事はあります。しかし、だからといって、五役者が特別な神の召しを受けた者と考え、彼らを必要以上に高める必要はないのです。成長すれば誰もがリーダーになれますし、自ら進んで監督として奉仕する事も可能なのです。リーダーは使徒、預言者、伝道者、牧師、教師という役割を通して教会全体に影響を与える責任の重い仕事をするだけの事です。神から特別な召しを受け、一般信徒を支配する大きな権威を持つ者ではありません。

極端な恵み

 Hyper-Grace (ハイパーグレイス) とは、グレイス (恵み) を極端に解釈してしまった教えです。この教えの特徴は、罪を犯すのは人間だから仕方がないという態度で、罪に対する私たちの責任を軽んじている点です。

 クリスチャンは、罪の奴隷から解放されて義の奴隷となったとパウロは教えています。ですから、恵みの福音によって私たちはますます「キリストの義」を意識して、義の道を歩む事を目指すべきなのです。人は罪意識の生活をすればより律法主義になり、宗教的な努力でそれから逃れようとすればするほど、同じ罪を犯してしまうという悪循環から抜け出せなくなります。ハイパーグレイスの教えは罪から解放されたという恵みの視点は良いのですが、恵みの理解が中途半端な為に、神の義によって私たちが歩むという所に焦点を当てていません。ハイパーグレイスは罪の赦しについての真理ばかりを見て神の恵みを軽んじています。それによって、罪を犯しても赦されているから深く考えないで良いとしています。クリスチャンは一度救われたら自動的にずっと救われている状態にあるという教えも、カルヴァン主義と同様にハイパーグレイスの特徴です。

 エペソ 2:8「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。」

 恵みは神からのものであり、その恵みを信仰をもって受け取る時に私たちは賜物として救われるのです。この救いは行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によるものです。しかし、神の恵みと祝福は自動的に未信者を含む全ての人の上に降り注がれているわけではありません。神からの恵みや祝福はいつでも体験できるのですが、基本的に信じる人の信仰によってのみ体験・現実化する事ができるのです。いわゆる「救い(罪による神の怒りからの救い)」は本人のイエス・キリストに対する信仰によってのみです。

 時には、信仰のない人でも神の憐れみと恵みによって、何らかの祝福を得られる事もあります。しかし、救いの基本が信仰によるように、あらゆる祝福も信仰によるのが基本です。このことから、キリストに対する信仰を捨ててしまう人は自分で救いを捨てる事ができるのです。神の方からは信者を見捨てる事はありませんが、人はそれを自由意思をもってチョイスする事ができるのです。

 ハイパーグレイスはこの自由意志についての理解をおろそかにしている為に、恵みは全ての信者にあらゆる時に(信仰の有無に関わらずに)降り注がれていると教えています。一度信じてしまえば、後は全て自動的に救いのエスカレーターが天国へ運ぶと勘違いしているのです。そのエスカレーターに乗っている間は、たとえ罪を犯しても恵みがあるから特に深く考えないでも良いという立場を取っています。

 ハイパーグレイスはまた、恵みゆえに何もしなくても良いという極端な立場を取り、そこから全ての良い行いを宗教的なものとして誤解しています。宣教命令に従う等のクリスチャンとしてやるべき義の行いも「律法の行い」として曲解しています。彼らは「信仰ゆえの行い」も律法主義にしてしまい、あらゆる良い行いに対して消極的です。この教えを信じているクリスチャンは自分たちの自由を主張して、神の子として歩む意味やその責任を無視して、極端な恵みの解釈に酔っている人たちです。

 ハイパーグレイスの教えで時として大きな問題になるのが、罪を犯してもそれは既に赦されているので、特に考えの一新も必要ないという主張です。彼らは罪の反省にこだわっていない部分ではよいのですが、罪についての考えを一新させることさえしません。

 ローマ 6:14-15「罪があなた方を支配する事はないからです。あなた方は律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんな事はありません。」

 パウロが強く主張しているように、「恵みの下にあるのだから罪を犯しそう」という考えは絶対にありえません。確かに、私たちの罪は過去も、現在も、そして未来においても全ての罪は赦されています。私たちが罪を告白する時に罪が赦されるのではなく、イエスが既に十字架で赦して下さったというのが真理です。ところが、罪を意図的に犯しても良いという態度や、人は原罪を持っているがゆえに罪を犯し続けるのだから仕方がない、などの間違った考えは罪を軽んじてしまう事になります。

 ローマ 6:20-23「あなた方は、罪の奴隷であった時、義については自由に振る舞っていました。ではその頃、あなた方はどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着く所は永遠の命です。罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。」

 「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり」という部分に注目して下さい。罪から解放されて神の奴隷となったのは「今」だとパウロは言っています。この手紙を読んでいるローマにいる信者が「今」は神の奴隷となったのであり、キリストの福音を信じる以前は、罪の奴隷であったのです。つまり、全ての罪が十字架で既に赦されたという真理を信じる人は「義の奴隷」になったのです。

 ここのパウロの表現には注意が必要です。パウロは意図をもって「奴隷」という言葉を使っているのであり、クリスチャンが「義の奴隷」であるからと言って何かに「束縛」されているのではありません。パウロは「罪の奴隷」という表現と対比させて「義の奴隷」と言って、信者になったらあ たかも義の行いをせざるを得ないような、まるで「良い行いをする奴隷」(むしろこれは良い意味)であると説明しただけです。

 もう一つ注意したいのは、神の操作によって人がロボットのように義を行う者として歩まされるという事ではなく、人が自分の自由意志によって悪事を働く罪の奴隷だったように、今は信者となり、同じ自由意思によって義の道を選択できるとパウロは言っているのです。

 ローマ 6:16「あなた方は知らないのですか。あなた方が自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。」

 事実、クリスチャンは義によって歩む事を自然と求めているべきであり、それなら義を行う事が当たり前の者であり、それは義の奴隷とも言えるのです。以前は罪に従う者、罪の奴隷であったのに、今は神の義人となり、義の道を歩むようになった事を強調する為に、パウロはこのような表現を用いたのです。

 クリスチャンでも原罪があると信じている人たちや、律法主義に走って恵みを受けそこなっている人たち、或いは、ハイパーグレイスを信じている人たちに共通しているのは、神の恵みに対する理解が不十分な点です。彼らは、恵みが罪の赦しと救いの為だけに存在しているような理解を持っていますが、そうではありません。

 テトス 2:11-13「実に、全ての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」

 最後の方に「教えています」とありますが、「何を」教えているかを見極める必要があります。「その恵みは」と「教えています」の2箇所に注目すれば、全体が把握できるはずです。「その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています」とあるように、神の恵みは単に罪の赦しと救いに関するものだけではなく、救われた後のクリスチャンの歩みにも及ぶのです。

 パウロによると、神の恵みは「私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように」教えているのです。従って、神の恵みをきちんと理解しているなら、罪は赦されているから罪を犯しても問題ではないという考えにはなりません。

罪から離れる秘訣

   イエスを受け入れたクリスチャンは全て義人なのですが、このシンプルな奥義を理解していない場合は、信者でも罪意識を抱えてしまう事があります。罪意識を持って歩めば、勝利のクリスチャン生活を送る事ができません。多くの場合、彼らは宗教的な努力による解決を頼みにしている為、その束縛の中で疲れ切っています。

  ローマ 6:17-18「神に感謝します。あなた方は、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。」

 「罪から解放されて」という部分は、「罪の奴隷として解放された」という意味です。信者は、罪を犯してしまう呪いから解放されています。この2つの節に出てくる罪は、定冠詞が前にあり、単数形になっています。すなわち、限定された一つの罪からの解放を意味しています。罪には多くのものがありますが、17節と18節では一つの罪についてパウロは書いているのです。それは、罪の性質と呼ばれる、アダムの違反の事です。それが呪いの原点であり、これを取り除かずには、いつまでたっても人は罪の奴隷から解放される事はないのです。

 イエスの十字架での犠牲は、私たちに救いをもたらす為でした。救いが私たちのものになるのも、イエスの十字架で流された血のおかげです。

 へブル 9:13-14「雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、体を清いものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心を清めて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にする事でしょうか。」

 14節の「死んだ行いから離れさせ」と書いてある通りに、クリスチャンは罪の奴隷や律法に縛られているのではなく、義の奴隷として「生ける神に仕える者」となっているのです。義の奴隷として自分を意識しているクリスチャンよりも、罪を意識しているクリスチャンが意外にも多いのは、彼らが罪から解放されている事について良く分からないからです。残念ながら多くのクリスチャンは、「赦された罪人」などの表現を使う事によって、常に罪意識を持ってしまっているからです。赦されているのに、罪人という事があるでしょうか。キリストにある者は、誰も罪に定められる事はなく、義と認められているというのがパウロの教えです。

 ローマ 8:33「誰が、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めて下さるのです。」

 クリスチャン生活が、ただ罪を犯さないように必死に頑張るものだとして教えられるなら、信者は宗教的になり、肉の努力によって何かを試みるようになります。そうした努力からは、何の結果も出ないばかりか、神の魂の安息もありません。  一般的なクリスチャンのケースだと、犯した罪を意識する度に自然に神から遠ざかってしまいます。そうなると、ますます自己嫌悪に陥り、聖書も読まなくなり、祈りもやめてしまいます。教会にも行かなくなってしまうでしょう。このような悪循環からの解放は、真理を知る事によって自由を獲得するしかありません。何を知れば良いかと言えば、私たちの罪が赦されており、私たちが神の前に義として認められているという真理です。

 罪を犯してしまっても、私たちは、あらゆる罪から既に赦されているという神の約束を思い出して、宣言する必要があります。義の為に生きるようになった信者は、真理の言葉に考えを変えて、正しい生き方を歩めるようになっています。本当に救われているクリスチャンというのは、決して罪の中に留まり続ける事はできません。その一つの証拠に、信者が罪を犯してしまうと、良心の咎めをひどく感じるのです。良心が働いているからこそ、罪を犯したくないと真剣に思うのがクリスチャンです。真のクリスチャンはイエスの十字架の赦しの力に会う度に、その憐れみと愛を経験できます。「罪を犯しても、赦されているから大丈夫」という気持ちにはなりません。そして、間違った考えから悔い改める(考えを変える)必要がない、などと考えるクリスチャンは存在しないのです。

 ローマ 2:4「それとも、神の慈しみ深さがあなたを悔い改めに導く事も知らないで、その豊かな慈しみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」

 神の愛は、人を悔い改め(考えを変える)に導きます。例え少し時間が掛かかるケースがあるにしても、考えを変えて正しい道を歩んで行けば、自然と罪から離れてしまうのです。これは、新しく生まれ変わった霊がイエスを信じる人の内に宿っている為に可能になっているのです。私たちが本来の私たちとして歩み始める時、すなわち、神の子として目覚めて歩み始める時、私たちはこの地上を治める事、神の国をこの地上にもたらす事に忙しくなり、罪を犯すような事に興味がなくなって行きます。この奥義はとても深いものです。

 信者とは違って、未信者の場合には、罪を犯せば犯すほど抜けられなくなります。依存症のように罪を犯し続け、さらに大きな罪を犯してしまい、そして最後には死に至ります。彼らはイエスを信じていないので、罪の奴隷として歩んでいるので、このような生き方にしかならないのです。

 クリスチャンの場合は、例え罪を犯してたとしても、イエスの十字架に帰ってくる度に再び力を得る事ができます。罪の増し加わる所には恵みも満ち溢れるのですから、考えを変えて恵みを受け取るなら、罪の奴隷として歩み続けるという悪循環がありません。イエスはその悪循環を打ち壊されたのです。失敗の度にイエスの十字架に立ち帰るのなら、ある意味、罪を犯すほど、愛を経験する事さえクリスチャンにとって可能なのです。

 こうして主の愛を何度も経験すると、ついには、真剣に御霊によって歩む事を学び始めます。そこに至るまでは、何度も罪を犯してしまい、自己嫌悪や不安に陥る事もあるでしょう。しかし、クリスチャンが、キリストの贖いによって、罪が取り除かれているという真理を知り、考えを変えるなら、義の為に生きる事に目覚め始めるでしょう。

 ガラテヤ 5:16-17「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たす事は決してありません。肉が望む事は御霊に逆らい、御霊が望む事は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなた方は願っている事ができなくなります。」

 17節を見て下さい。「願っている事ができない」の表現は、ローマ書の7章でパウロが書いたものと同じです。もしかすると、パウロもまだ成長の途中にいた時は、その葛藤を経験た事でしょう。しかし、彼は解決方法も知っていました。パウロは、御霊によって歩むなら、肉の欲を満足させないと言っています。罪から離れる秘訣は、御霊によって歩む(霊によって歩む)という事です。肉の思いによって歩むなら私たちは必ず罪を犯します。しかし、御霊の思い(霊的な考え方)で歩むなら命と平安を得るのです。

 神はクリスチャンが成長の道を進む事を望んでおられます。私たちは、御国の力をこの地上で体験し、義人として歩む事ができます。それは、天国に行った後の事ではありません。私たちの内に住む聖霊の力と御言葉は、罪への誘惑を吹き飛ばしてしまう力があります。ただし、御霊によって歩む、御言葉によって歩むとはどういう事なのかを完全に理解しなければなりません。霊的成長を目指して歩む事はパウロの最も重要な教えの一つになっています。

聖霊のバプテスマ 2

 聖霊は、単に私たちの救いの証印として存在しているだけではなく、私たちを真理へと導き、私たちが御国の福音の為に働く時に、力を与えて助けて下さいます。

 ヨハネ 14:17「この方は真理の御霊です。世はこの方を見る事も知る事もないので、受け入れる事ができません。あなた方は、この方を知っています。この方はあなた方と共におられ、また、あなた方の内におられるようになるのです。」

「あなた方と共におられ」は、直訳すると、そばに住む(留まる)μένω(menō)となっています。また、「あなた方の内におられる」という箇所はギリシャ語では未来形になっているので、「(未来において)あなた方の内におられるでしょう」という訳が最適です。この時、弟子たちの中に聖霊は住んで(留まって)いませんでした。十字架の御業がまだ完成されていなかったからです。約束の聖霊は、その後に来るという事だったからす。

 使徒の働き 1:4-5「使徒たちと一緒にいる時、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなた方は間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

 ヨハネは水でバプテスマを授けたのに対し、聖霊によるバプテスマを授けられるお方はイエスです。ここから明らかなように、水によるバプテスマと聖霊によるバプテスマは別だという事です。

 使徒の働き 1:8「しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります。」

 弟子たちはこのイエスの約束の通り聖霊を受けて、力を受けました。このる力は聖霊のバプテスマを通してのものです。

 使徒の働き 8:14-17「エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らの所に遣わした。
二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らの内の誰にも下っていなかったからであった。そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」

 彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていたのですが、彼らの内の誰にも下っていなかったので、ペテロとヨハネは彼らが聖霊を受けるように祈り、彼らは聖霊を受けました。

 使徒の働き 19:1-2「アポロがコリントにいた時の事であった。パウロは内陸の地方を通ってエペソに下り、何人かの弟子たちに出会った。彼らに「信じた時、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いた事もありません」と答えた。「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。」

 この箇所からも分かるように、ヨハネのバプテスマ(水の洗礼)を受けていても、聖霊のバプテスマはまだ受けていないという事があります。ある教派では、水のバプテスマを受ける時に、自動的に聖霊のバプテスマを受けていると教えたりしますが、使徒たちはそのように考えてはいませんでした。パウロはヨハネのバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」であるとし、聖霊を受ける為のバプテスマとは区別しています。この聖霊を受けるバプテスマとは、厳密には、聖霊に満たされるというバプテスマの事です。これは、バプテスマのヨハネ自身が言ったもので、彼のバプテスマとは違って、イエスは聖霊と火とでバプテスマを授けると言いました。

 聖霊のバプテスマはイエスによるものであり、それを通して力を受けるようにとのイエスの命令です。従わないでもいいような、軽い助言ではありませんでした。イエス自身、御国の福音を語る前に、水のバプテスマをヨハネから受けました。その個所を引用して、私たちもイエスを模範として水のバプテスマの大切さを説く事があります。水のバプテスマそのもの(儀式)に力はありませんが、それを無視して良いという事でもありません。水のバプテスマの形式にこだわって、律法主義になるのも問題ですが、素直に水のバプテスマを信じる事は聖書的であり、全く健全なのです。使徒たちもそのようにしていました。

 水によるバプテスマと同様に、聖霊のバプテスマも必要だと見る方が聖書的です。聖霊のバプテスマは必要ないとしたり、軽んじて、水のバプテスマと同等とする事も問題です。これら二つのバプテスマは同じではなく、違う種類のものです。

 エペソ 4:5「あなた方が召された、その召しの望みが一つであったのと同じ様に、体は一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」

 この箇所を誤解して、バプテスマは一種類しかないと考える人もいます。しかし、ここでパウロが言っているバプテスマとは、信者は誰でも共通した召しにあずかっていおり、キリストの体につくという、唯一のバプテスマの事を指して言っているのです。すなわち、イエスを信じて、キリストの体に繋がるバプテスマは一つしかないと言っているのであり、いわゆる救いに関するバプテスマの事です。

> ヘブル 6:2「きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。」

 「きよめ」の部分はギリシャ語の聖書にはなく、「洗い」はバプテスマと同じ語が用いられています。モーセの律法では「洗い」の訳がより適切ですが、この同じ語が新約聖書で用いられているケースでは、いわゆるバプテスマとして使われています。そしてこの単語は複数形になっています。つまり、この聖句には「複数のバプテスマの教え」と書かれているのです。この事から、バプテスマには複数ある事が分かります。

 使徒の働き 1:4-5「使徒たちと一緒にいる時、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなた方は間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

 このイエスの言葉からも明らかなように、ヨハネの水によるバプテスマと聖霊のバプテスマは異なるものです。

 ルカ 3:3「ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」

 ヨハネの水によるバプテスマは、「悔い改めのバプテスマ」だとルカは書いていますし、パウロもそう呼びました(使徒 19:4)。

 ローマ 6:3「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」

 キリスト・イエスにつくバプテスマとは、イエスの死にあずかるバプテスマの事であり、イエスの死と同じ様に、私たちの古い人も死んだと見なす事であるとパウロは言っているのです。その他にも、「死者の為のバプテスマ」、「モーセにつくバプテスマ」などもあります。しかしそれらは、バプテスマという儀式とは違って、考え方や見方などのものです。

 これらの異なるバプテスマが何を意味しているかを学ぶ事が基礎的な事であって、異なるバプテスマという儀式を受けなければいけない、というものではありません。唯一の儀式として人が行う水のバプテスマでも、その背後には新生の真理がある事、そしてその真理に基づいて行うのなら、それは信仰の行いになるのであり、儀式にはなりません。こうした理解を得るには、バプテスマという基礎の教えを学ばなくてはいけません。

 バプテスマの意味についての記事も併せて読むと分かりますが、バプテスマという意味は「浸る」という動作を表すので、「聖霊のバプテスマ」は当然、「聖霊に浸る」事になり、それは常に浸かっている、それゆえに、御霊に満たされている事を意味するのです。私たちは、常に聖霊の中に浸っている状態であるべきだというのが聖書の教えです。聖霊のバプテスマを一回だけの「重要な霊的イベント」と考えるのではなく、「常に浸かっている」事として考えるべきなのです。それが、聖霊のバプテスマの本当の意味であり、別の言葉で言えば、御霊によって歩む事なのです。

聖霊のバプテスマ 1

 聖霊のバプテスマについて、イエスと弟子たちが何を教えていたのかを理解しないと、その損失は計り知れないものになるでしょう。聖霊のバプテスマは、霊的成長の観点からも欠かせないものです。クリスチャンは、新生とは別に、霊的な成長も必要だからです。つまり、聖霊のバプテスマの経験は聖霊が宿るという新生のものとは違うという事です。これは単なる「オプション」ではなく、イエスが弟子たちに命令されたものです。

 ヨハネの福音書 16:7「しかし、私は真実を言います。私が去って行く事は、あなた方の益になるのです。去って行かなければ、あなた方の所に助け主はおいでになりません。でも、行けば、私はあなた方の所に助け主を遣わします。」

  イエスは、ご自身がそのまま地上に残るよりも、聖霊のミニストリーが私たちにとって益であると言われました。私たちは聖霊の働きの重要性に気づかなければいけません。私たちが、イエスを直接見たり聞いたり、或いは触れたりするという事よりも、聖霊が私たちと共にいるのが良いとイエスは言ったのです。しかし、この事から「聖霊がイエスより重要なポジションに置かれている」などという考えは見当違いです。何故なら、御霊はあくまでもイエスに導くからです。

 十字架の御業がなされた後では、イエスは天において神の右の座に着座しておられるのですが、同時に聖霊を通して私たちの内にもおられるのです。私たちはイエスと共にいて、聖霊の助けを受ける事ができ、神の権威と力によって、この世に御国をもたらせる事ができます。しかし、神の力を更に活用するには、聖霊のバプテスマが必要になります。

 御霊の働きは、天地創造の時のから今日でも同じです。御霊の力によって世界が存在し、あらゆる奇跡が起こりました。イエスも、聖霊を受けてから、力あるミニストリーを始めているのですから、私たちが聖霊の力なしでミニストリーを始めようとするのは、愚かな考え方です。注意したいのは、御霊の力は牧師などのリーダーに限定された恩恵ではなく、クリスチャン一人一人が受けるられる恵みです。しかし、聖霊を否定するような考えを受けた人々の間では、御霊の働きを体験できていません。クリスチャンに与えられている力を知られたくないサタンは、そうした間違った教えを教会に広めました。全知全能の神の霊が、私たちのうちに住まわれているのに、私たちの生活が勝利で満ち溢れていないのは、そうした理由からです。多くのクリスチャンは罪の歩みの中に留まり、癒し主としてイエスを信じていると口では言っていても、病気で苦しんでいるという矛盾の中にいるのです。

 聖霊のバプテスマに関する真理を曲解しておけば、その必要性を説く必要もなく、一部の教派にとっては非常に都合よくなります。彼らは、水のバプテスマと同時に聖霊のバプテスマを体験できると主張しますが、この二つは異なるものであり、バプテスマのヨハネが言った事と矛盾します。別の人々は、「救われているから」という事で、聖霊のバプテスマは必要ないと主張します。しかし、聖霊のバプテスマとイエスを信じて新生する事とは、別の事なのです。「救われる為」に聖霊のバプテスマがあるという事ではありません。聖霊のバプテスマが必要なのは、私たちが力を得てイエスを証しする為であり、イエスがしたようなミニストリーをする為です。神の力で悪魔の仕業を打ち壊す為です。聖霊のバプテスマを通して得る神の力は、私たちがイエスのように働く為なのです。人間的な奉仕の働きの中には、殆ど癒しや解放はありません。教会で癒しや解放が見られない大きな理由の一つは、聖霊のバプテスマの理解が乏しいからです。力のないミニストリーは、神が望んでおられるミニストリーではありません。

聖霊のバプテスマ 2に続きます。

神の信仰 2

 マルコによる福音書 11:23「まことに、あなた方に言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる者には、その通りになります。」

 文脈から判断すると、イエスがいちじくの木にした事を通して、弟子たちに信仰について教えているのが分かると思います。何故なら、「山に向かって動いて海に入れ」という言葉を信じるなら、その通りになると言って、ご自身の行った奇跡を「山を動かす信仰」に結び付けたからです。つまり、信仰というのは、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる事だと言われたのです。

 アメリカの聖書学者ジョセフ・アディソン・アレクサンダーも、この箇所はイエスが弟子に信仰について教えているものだとしています。マルコの11章22節は、ギリシャ語の文法からすると、「神の信仰」となるので、そのような信仰を持つ事の大切さを教えていると言っています。

 これに批判する人たちは、「神ご自身が信仰を持っているはずはない」として信仰の対象となるのは神であって、「神に対する信仰」とするのが正しいという立場を主張しました。信仰の意味を「誰かに頼る」にすべきだとしたのです。そうして、「神が信仰を持つ」という意味での「神の信仰」ではなく、「私たちが神に対して信仰を持つ」という解釈を結論としました。信仰は私たちが持つ「確信」であるというのは、多くの人が認めているもので、Thayer's Greek Lexicon でも似たような表現でそれを信仰の第一の定義としています。信仰の定義はそれで確立しているというのは基本でしょう。しかし、ギリシャ語の文法から「神の」信仰という所有を表しているのは簡単に無視できません。この部分をどう捉えるかは重要です。

 文法に忠実に解釈するならば、次の三つの解釈の可能性があります。

  1. God's faith (神の信仰)
  2. The kind of trust that comes from God (神から来る信仰)
  3. God's faithfulness (神の誠実)
 これらの事に関して別の意見があったとしても、「神の」という部分は見逃せません。明らかに信仰という語の所有が神に属しているからです。正しい理解は、イエスが私たちに示した信仰の歩みにあります。イエスご自身、父なる神に信頼しておられました。それは、福音書の多くの個所から読み取れます。イエスが示された御父との信頼関係は、私たちが模範にするべきものである事は明らかでしょう。「神の信仰」はイエスの持っていた信仰、つまり、イエスが私たちに模範として示した信仰として捉えれば良いのです。

 模範にしなさいという意味でイエスが自分の信仰を彼らに見せたのなら、マルコ 11:22-23 がより分かりやすくなると思います。イエスが自らの言葉によっていちじくの木が枯れたように、そのような信仰を弟子たちも持つなら、山をも動かす事ができると教えたのです。つまり、命じた言葉を疑わずに信じるという信仰です。神に信頼を置くという意味の信仰に加え、命じた言葉通りになるという信仰も、イエスは弟子たちに見せられたのです。

 マタイによる福音書 21:21「イエスは答えられた。「まことに、あなた方に言います。もし、あなた方が信じて疑わないなら、いちじくの木に起こった事を起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、その通りになります。」

 同じ内容がマタイの21章にも書かれてあります。ここで明らかなように、いちじくの木でイエスが見せた奇跡と、山に命じて海に入れという宣言の言葉による信仰は、同等だとイエスは教えています。

 マルコによる福音書 11:23「まことに、あなた方に言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる者には、その通りになります。」

 「自分の言った通り」の信仰について、イエスは教えておられました。私たちが知らなければならないのは、「神に信頼を置く」という事を信仰の土台とし、「神の信仰」とは、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる事だと、実践を通して説明しておられたのです。神に信頼を置くとは、神と神の御言葉に信頼を置くという事です。この事を土台とするなら、自分の言った通りになると信じて宣言する時に、神の信仰を表す事ができるのです。

 ルカによる福音書 17:6「すると主は言われた。「もしあなた方に、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなた方に従います。」

 この個所も少し似ています。信仰によって宣言される言葉は奇跡を起こすという点です。「心に信じて口で告白する」というのが救いの信仰なのですから、信じて発する言葉には力があるという解釈は聖書的なのです。

 へブル 4:2「というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いた御言葉が益となりませんでした。御言葉が、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。」

 ある学者たちは The New International Dictionary of New Testament Theology において、命令によって山を動かしたり、いちじくの木が根こそぎ海の中に植わるようにするという信仰を「力ある言葉」という表現で説明し、マルコ11章24節のイエスの教えは、祈りと「力ある言葉」の関係を示すものだとしています。神への信仰を土台にした祈り(願い、宣言)が、命令(力ある言葉)に先立つ事を意味していて、祈りと力ある言葉の両方を信仰だというのです。

それでは、「神の信仰」という表現が「神が所有する信仰」で良いのでしょうか?結論から言えば、イエスが見せた信仰は「神が持つ信仰」であるとしても構わないのです。イエスご自身が、自分の命じた言葉を信じた事によって奇跡が起こるというのをいちじくの木の件で弟子たちに教えたのですから、「神の信仰」という訳自体は正しいのです。

 主が命じた言葉によって物事が存在したのなら、主がそうお命じになられた時に、ご自分の命じた言葉の通りになると信じたという事になります。この場合、クリスチャン一般が定義している「望みの信仰」ではなく、必ずそうなると確信している、見えてはいないけれども確信しているという信仰です。残念ながら、クリスチャン一般の信仰は、単なる望みでしかありません。

 「主は何も信じる必要がない。何故ならそうなると分かっているから」という反論もあるでしょう。ところが、信仰とはまさに事が起こる前からどうなるかを分かっている、理解している、確信している、目に見えない事柄を最初から見ている、という事なのです。どうなるか分からないのを望むという「望みの信仰」ではないのです。

まとめ

 信仰はあくまでも人が神と御言葉に対して、信頼を置くものです。その信頼を基礎として、イエスがいちじくの木に命じると、枯れてしまったのです。その奇跡を通して、神の信仰を学ぶようにと、イエスはマルコ 11:22-24 で教えられたのです。「神の信仰を持ちなさい」という意味は、イエスが実践して見せたような信仰を模範としなさいという事です。主に信頼して主の御言葉に頼る人だけが、そのような信仰を発揮できます。神に「神の信仰」を祈りによって求めて、それを手に入れ、それから信じる事ができるようになる、などのようなものではないのです。

神の信仰 1

 マルコ 11:22「イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。」

 「神を信じなさい」と訳されているのですが、ギリシャ語では「信じる」の動詞は用いられていません。むしろ、信仰を持ちなさいとなっています。22節はギリシャ語によると次のようになっています。

 echete(持つ)pistin(信仰)theou(神の[名詞・所有各])

 所有を意味する theou という事で、「神の信仰」と訳す事もできます。何人かの解説者は、この訳の可能性に関して言及しているものの、殆どの英語訳の聖書では、Have faith in God となっています。日本語にすれば、「神に対して信仰を持ちなさい」です。

 「神の信仰」を持つ事が祝福を受ける鍵だと教えた人たちが過去にもいました。人間的な信仰と比較して神の信仰を持たなければいけないなどと強調した信仰に関する教えの事です。自由意志と信仰の記事で書いたように、神の信仰が「信じる事ができる力」だとして、誤解されがちな方向に向かっているのは、信仰がそもそも私たちが信じるという決断をするという事であり、自由意志が関わるという点を見逃しているからです。信仰の定義の曖昧さが誤解を引き起こしているのです。

 このマルコ11章22節に関する解説者の殆どが、「神の信仰」を神のような偉大な信仰を持つ事と説明しています。人の気まぐれな信仰ではなく、不動の信仰という解説が一般的です。ところが、それを獲得するのが秘訣という考え方は大きな問題点があります。ある人などは「神の信仰」を得る事が本当の意味で信仰を持つ事だと教えています。つまり、神が与える神の信仰を得る事ができれば、信じる事ができるというものです。しかし、この教えの問題点は、私たちがどのようにして、神から神ご自身の信仰を受け取るかという所にあります。

 神は、私たちが神を信じた時に、神の信仰が与えられるのでしょうか?それとも、私たちが神を信じる前に与えられるのでしょうか?未信者の間は神を信じる事ができない理由を、彼らには神の信仰が与えられていないからだとすると、神はいつ彼らに信仰を与えるのでしょう?信者になった時に神の信仰が与えられるのなら、そもそもどのようにして神を信じる事ができたかという疑問も生じます。

 ある人々は、「救いの信仰」とは別に、救われた後の信者が信仰によって歩める為に必要な信仰も、熱心に神に求める必要があるとします。そうなると、その人の祈り次第で信仰が与えられるという事になります。神が人々に信仰を与え、その結果、人々が神を信じる事ができるのであれば、人々の信仰がない原因は、神が彼らに信仰を与えていないからだという事になります。 

 この種の問題は、信じるという事が私たちの決断である事を知らない為に生じるものです。神が何か不思議な力で私たちを信じるようにして下さるというものではありません。ですから、信仰が神からプレゼントのように与えられるのではありません。聖霊は人々が信じるように促す事はあっても、信仰そのものを与えて下さる事はありません。救いの信仰でも、キリスト者としての歩みの信仰でも、私たちが信じるという決断をしなければならないのです。

 仮に主から信仰を与えらえているとしましょう。実際にそれをほのめかしている箇所はマルコ 11:22 以外にもあります。しかし、主から信仰を与えられているという御言葉を信じないのなら、せっかく与えられている信仰も拒絶している為に意味がありません。つまり、信仰が与えられているから信じられるというのではなく、私たちの自由意思で、いつでも信じる事ができるというだけの話です。

 私たちは、信じる力を与えて下さるように神に祈る必要はありません。信じる事ができないのは、私たちが世的なものや、古い契約の視点から聖書を考えているからです。御言葉の真理を常に口ずさんで真理を思いを巡らす(口ずさむ)なら、自然と神と聖書の言葉を信じられるようになります。無駄な時間を減らして、御言葉を思い巡らす時間を設ければ、誰でも御言葉を信じる事ができます。御言葉に反するような考えで時間を過ごす程、信仰を持つ事が難しくなります。

 詩篇 1:1-3「幸いな事よ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった人。まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

 信じる事ができないもう一つの大きな理由は、間違った教えを真理としてしまっているからです。しかし真理を信じると、真理はその人を自由にします。あなたの今まで信じてきたものがあなた自身を自由にしていないのなら、それは間違った教えである可能性があります。「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」とヨハネは言いました。そして、イエスご自身が真理なのです。

 宗教的な解釈で御言葉を無効にしてしまった教えは人を自由にしません。真理を熱心に求める人は、必ず真理にたどり着きます。特に、信者の場合はそうです。聖霊が全ての信者を真理に導くからです。多くの人は誰かの教えを鵜呑みにしてしまい、自分で聖書を開いて読む事をあまりしません。このブログの内容も含めて、全て自分で聖書から調べて吟味する習慣をお勧めします。

神の信仰 2に続きます。

救いの確信を持つには

 誰でも一度は、救いの確信について考えた事はあるはずです。一体、救いの確信は何処から来るのでしょうか?

 第二コリント 13:5「あなた方は、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなた方は自分自身の事を、自分の内にイエス・キリストがおられる事を、自覚していないのですか。あなた方が不適格な者なら別ですが。」

 私たちのうちにおられるイエスを認める事によって、私たちは信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味する事が可能です。パウロは続けて、「それとも、あなた方は自分自身の事を、自分の内にイエス・キリストがおられる事を、自覚していないのですか」と言いました。信者にとって、イエス・キリストがうちにおられるという真理を認める事はごく自然な事です。パウロは、「あなた方が不適格な者なら別です」と言って、キリストがうちにおられるのを認められないなら、それはあなたが未信者である場合なので、そういう事なら別問題ですと言いました。

 漠然とした、「クリスチャンらしい言動」がしっかりとできているかどうかを一つ一つチェックする事で、信仰に立っているかどうかを判断する、などの考えは聖書的ではありません。仮に客観的に自分の言動に対して点数を付けて評価できたとしても、それが必ずしも信仰に立っているかどうかの基準にはなりません。神も又、私たちの言動を全て監視して点数を付けているのではないのです。

 律法主義者は私たちの失敗を見て減点します。悪魔も私たちの欠点を常に取り上げます。しかし神は、加点をする事はあっても、減点をする事はありません。イエスは私たちの罪に対して指摘せず、私たちを罪に定める事は決してありません。イエスご自身が私たちの罪を十字架で処分されたのですから、今更その罪に対して何か言う事なされないのです。義の道を示す事はあっても、サタンのように告訴するような事はしません。

 義人として歩む事は神の子として当然な事なのですが、それは成長の道でもあります。クリスチャンは、信仰の成長と共に罪から離れていきます。しかし、成長と罪からの救いそのものは別です。昨日救われた人も、20年以上クリスチャンとして歩んでいる人でも、同じ主にあって、霊的な救いを得ており、神の子としてのアイデンティティーは同じなのです。私たちの霊は新しくされていますが、それは、霊において救われたからです。

 救いの定義は永遠の命を得るだけではありません。聖書的な救いは、魂の成長を通して聖化される事や、病気の癒しも含む総合的な救い(sozo)なのです。従って、霊における救いは完成されていますが、魂や体の救いについては、現在進行中であって、まだ完成されてはいません。

 一般的な教会は成長に関する説教があまりない為、クリスチャンの多くは、「救われていれば良い」という考えを持っています。残りの人生をただ耐え抜いて、キリストの再臨を待ち望むというクリスチャンの態度は、幼子の考えです。聖書の忍耐は、信仰を保つという意味で用いられており、それは、迫害を受けてたとしても、信仰を貫くという事なのです。

 殆どのクリスチャンが勝利の生活を送っていない理由は、彼ら自身が成長して強くなっていないからです。それどころか、どうにか天国に入りたいと願っている人もいるくらいです。そこに全ての望みを置いて生きているクリスチャンにとっては、明確な救いの確信がないのも当然でしょう。
 さて、「うちにおられるキリスト」をどうやって知る事ができるでしょうか?結局、そこが分からないのであれば、救われているという信仰に立っているかどうかを吟味できません。「クリスチャンとして基本的な事をして生活していればそのうち分かってくる」、「教会に毎週来て学べばそのうち分かるようになる」といった漠然としたアドバイスは役に立ちません。教会に集う事は大切であっても、それだけで何かが起こるのではありません。その集いが意義あるものでないと、単なる社交的な場所でしかないのです。何年たっても救いの確信がないクリスチャンが多いのは、このような漠然とした考えが原因になっています。

 第二ペテロ 3:18「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい...」

 救いの確信は、時には信仰の成長と共に更に確立されて行くものです。御言葉を学んで、十字架の真理が分かるようになると、イエスの恵みとイエスご自身を知る事によって、私たちは成長します。成長と共に、私たちはより信仰が強くなり、結果として、罪からもっと離れるようになります。

 救われてから、何年もたっているクリスチャンなら、救いの確信を持っているべきでしょう。しかし、クリスチャンになったばかりの方が、より生き生きとしているケースもあります。殆どのクリスチャンは、救われた時は喜び一杯で周りからの祝福を受けて新しい人生に向けて大きな希望を抱いています。ところが、教会からの宗教的な教えの為に、その喜びを奪われてしまっています。クリスチャンらしくしないといけいないというプレッシャーと何年も戦いながら、自分の肉の努力によって何かを得ようとしても、成長はありません。皮肉にも、イエスを信じた頃が、彼らにとって最も救いの確信があった時なのです。

 第一コリント 12:3「ですから、あなた方に次の事を教えておきます。神の御霊によって語る者は誰も「イエスは、呪われよ」と言う事はなく、また、聖霊によるのでなければ、誰も「イエスは主です」と言う事はできません。」

 第二コリント 13:5 と合わせて、この聖書の言葉を信じる事ができるなら、救いの確信は比較的簡単に持てるでしょう。「イエスは主です」と心から言える人は、聖霊によってそうできるのです。細かい所はまだあまり分からなくても、イエスを主と認めているならそれで十分です。御言葉を学ぶにつれて、この確信は強くなっていきます。

 人はどんな素晴らしい霊的な体験をしても、それらによって信仰を確立する事はできません。それらの体験は、信仰を持つようになる為の助けになる事はあっても信仰の土台にはなりません。信仰が生じるのは御言葉によるのです。御言葉の力によって、人はイエスを主と信じる事ができるのです。何故なら、十字架の言葉は、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力だからです。(第一コリント 1:18)

 霊的体験には人を救う力はありません。これはとても大事な真理です。霊的体験に頼りすぎない為にも、常に御言葉を私たちの最終的な権威として考えておく必要があります。

 私たちが救われて永遠の命を持つ事ができたのは、新しい契約の下での恵みによってでした。この契約は父なる神とイエスが交わしたものです。私たちはキリストを信じる事において、その契約の中に入る事ができます。この契約は、古い契約とは違い、人がそれを破ったという事で契約が破棄になる事はありません。ただし、私たちは自由意思によっていつでも契約から離れる事は可能です。この自由意志は完全に自由であるという事も知っておくべきです。サタンでさえあなたをコントロールできません。自分は救われているか分からないと考えている人は、その考え自体があなたの自由意思によるものだと気付くべきです。ですから、あなたの自由意思でもって、イエスを信じ続ければ良いだけです。それが、救いの確信を持つ為の秘訣です。

油注ぎ 2

 第一歴代誌 16:22「私の油注がれた者たちに触れるな。私の預言者たちに危害を加えるな。」

 この聖句は、詩篇 105:15にもあります。ある預言者たちは自分たちの不利な立場を回避する目的でこれらの箇所を用いる事があります。こうする事で彼ら自身を「神から特別に守られている」事を主張します。第一歴代誌から見ると、この箇所の「油注がれた者たち」はアブラハムとサラの事で、「危害を加えるな」という警告はアビメレクに対してのものです。ダビデはそれを引用して、イスラエルの民を「油注がれた者たち」とし、「危害を加えるな」という警告を他の国の王たちに対して用いました。

 それでもある人たちは、この箇所が現代の「油注がれた」使徒や預言者の事も含むと主張して、彼らを「神の特別扱い」を主張します。

 第二コリント 1:21「私たちをあなた方と一緒にキリストの内に堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。」

 「私たちに油をそそがれた方は神です」とパウロは言いました。ですから、新しい契約の下では、クリスチャン皆が「油注がれた」のです。私たちは常に新しい契約を基準にして物事を判断する必要があります。古い契約の視点ではありません。この単純な事が分からないと、私たちが旧約聖書を読む度に、古い契約の視点で考えるようになるでしょう。しかし、私たちの考えは新しくなっているべきです。私たちが旧約聖書を読むとしても、考え方も古い契約に戻る必要はありません。

 歴史をたどれば、ペンテコステ運動が起こる前の時代でも、聖霊の力を「油注ぎ」と呼んでいた人たちが多くいました。ところが、彼らはその言葉の間違いに気づいていませんでした。このちょっとした定義のミステイクが大きな混乱につながってしまったのです。

 最後に、聖霊の力を求める事は良い事です。それは「聖霊のバプテスマ」によって力が与えられるという事であり、イエスも聖霊を受けて力を得るように指示しました。聖霊の力は私たちが「聖霊に浸かる」事によって、力が与えられる事になります。

 エペソ 1:19「又、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神の優れた力が、どれほど偉大なものであるかを、知る事ができますように。」

 「私たち信じる者に働く神の優れた力」とパウロが言っている通り、神の力は私たちの内にあり、「信じる者に働く」のです。神の力が本格的に働くようになるのは「聖霊のバプテスマ」を通してです。「聖霊のバプテスマ」の正しい意味は「聖霊の中に浸かる」事であって、私たちが御霊の中に浸かっている状態であれば、神の力を受ける事になるのです。しかし、御霊の中に時々しか浸っていないなら、神の力を時々だけ受ける事になります。この神の力の事を指して、多くの人々は、「油注ぎ」と言っているのです。従って、油注ぎを求めるのではなく、神の力を求める必要があるという事であり、それは、聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)によって受けるという理解が正しいのです。それから、聖霊の満たしは、神に求める事以外に、私たちが御言葉に浸ったり、異言で十分祈る時にも、聖霊に満たされる事も知るべきでしょう。 

油注ぎ 1

 油注ぎを受ける、それをキープする、その他の油注ぎに関連するメッセージは、幾らかの誤解を含んでいる事があります。諸々の事柄に関する解決策を油注ぎと関連付けて、油注ぎこそが究極の鍵だとするのは、極端な見方であり、古い契約に基づくものです。

 古い契約時代では、祭司、預言者、王は「油注がれた者」として特別に主の働きの為に選ばれていました。その頃、主の為に働いている人たちはごく僅かで、彼らはリーダー的な立場でイスラエルの民を導いていました。確かに、その時代では「油注がれた者」としての彼らは、特別な存在でした。しかし、新しい契約の下では違います。

 油注ぎは聖霊の力と関係していますが、それ自体は聖霊でも聖霊の力でもありません。シンボル的な意味において「油注ぎ=聖霊」として解釈される事はありますが、油注ぎ自体の意味は油などを塗る、こすりつけるというものです。これは、祭司、預言者や王を選ぶ時に行われた儀式で、「聖別する」という目的で行われました。確かに、油注ぎは聖霊の力と関係している事は間違いありません。何故なら、油を注がれた者には聖霊が臨み、聖霊が望むと力を受けるからなのです。しかし、油注ぎ自体は、聖霊に満たされる事や神の力を受ける為の儀式にしか過ぎないのです。

油注ぎと聖霊の満たし

 ギリシャ語訳のイザヤ書の 61:1は、以下の英語訳とほぼ同じで、主の霊がキリストの上に留まっているのは、主が油を注いだからだと書いてあります。

 英語 :「Spirit of the lord is upon me, because he anointed me to announce good news to the poor.」

 日本語 :「主の霊が私の上にある。何故なら、主が私に油を注いで貧しい者に良い知らせを伝える為である。」

 つまり、油注ぎ(聖別の為の儀式)があったから聖霊が望むという順序なのです。これがどういう意味を持つかといえば、油注ぎ自体が大切なのではなく、聖霊が望む事がより大事であり、その為に油注ぎが必要となっているという事です。聖書的には「油が注がれたので、聖霊を受ける」という事なのです。油注ぎ(聖別の為の儀式)が先で、その後、聖霊を受けるという順番です。

 さて、新しい契約の下において、聖別はいつ起こるかと言えばイエス・キリストを信じた時です。その時に私たちは、義とされ、聖い者とされるのです。同時に、聖霊の内住も起こります。これをきちんと理解していれば、聖霊が私たちクリスチャンの中に常に住んでいるのに、再び聖別の為の儀式(油注ぎ)を求めるというおかしな事をしなくても良いと分かるはずです。聖霊の内住そのものが、私たちが既に油注ぎという聖別の儀式が終わった事を証明しているのです。聖霊が私たちから去っていく事があるなら、再び油注ぎが必要になるでしょう。確かに古い契約、律法の下では罪の為に聖霊は去っていく事もありました。ところが、新しい契約の下では、イエスは聖霊を通して私たちといつも共にいます。主の恵みはそれほど偉大なのです。

 Χριστός(Christos)はキリストを意味し、それは「油注ぎ」を意味します。すなわち、イエスが油注がれた者だという意味です。古い契約の時代においては、油注ぎの儀式をする人は預言者だったのですが、新しい契約が始まった時からは、預言者による油注ぎの儀式もなくなりました。その代わりに、神ご自身がキリスト(油注がれた者)を私たちに注ぎます。信じる人に、神が油注がれた者(キリスト)を与える、そしてその結果、聖霊が与えられるという事です。

 さて、油注ぎ(聖別の為の儀式)を受けたら、癒しができるようになるなどのメッセージもあったりしますが、もしそうであったなら、もっと癒しが(或いはその他の賜物による奇跡が)頻繁に起こっていても良いはずです。これは御霊の賜物のテーマになってしまいますが、実は私たちの内にいる聖霊を通して、また、私たちが信者であるという事だけで御霊の賜物を表す事ができるのです。誰かの按手を必須としているのではありません。問題は信じるかどうかなのです。聖霊の賜物でもその他の祝福でも、それらを信じて行動に移す事が、最も重要な事なのです。何故なら、全ての霊的祝福は既に私たちに与えられているからです。

 そういうわけで、油注ぎを求める必要のない最大の理由は、イエス・キリストという油注がれたお方が既に私たちの中にいるからです。究極の「油注ぎ」が私たちと共にいるという真理だけで十分なのです。エリヤの二倍の油注ぎを求める必要はありません。エリヤよりも優れた方が私たちのうちにいるからです。この二倍の油注ぎに関する教えも旧約聖書の引用だけを元にしています。しかし、恵みの下にいる私たちは、そのような古い考え方を必要としません。間違った教えの多くは、律法と恵みを混ぜたものや、恵みを十分に理解していない所から発展したものです。イエスの十字架御業によって何が変わったかを知らないと、このような間違いに気づかないでしょう。

 旧約時代では油注がれた者は特別扱いされた人たちでした。ところが、キリストの十字架の恵みによって、聖霊が豊かに降り注いでいる現在では、キリストを信じる人全てに豊かに油が注がれているのです。何故なら、聖霊を通してイエスご自身も私たちの内におられるからです。ですから、「油注がれた牧師」などと呼ぶ必要はありません。彼らを特別扱いする考えは間違っています。こうした考えは、人を必要以上に高め、キリストの教えに従わないようにしてしまいます。

五職との関係

 五役者に関わる間違った教えも油注ぎと深く関連しています。彼らは何か特別な存在ではありません。しかし、油注ぎについての間違った教えが広まってしまった為に、多くのクリスチャンは、今日でも主が特別に特定の人々を用いられると勘違いしています。実際は、主が特別に選ぶ事だけではなく、成長してその責任を負える人なら誰でも、御霊の力によって神の子として働く事もできるのです。五役者とは、一般信徒とエリートのような区別で分けて考えるような存在ではありません。彼らはリーダーとしての役割を持ちますが、それぞれの働きに応じて、キリストの体の各部分として働きをしているに過ぎません。

 ある人たちは、使徒や預言者が主によって召されている最も権威のあるエリートだなどと言って、一般信徒は彼らに従うように教えていますが、そのような肉の思いで作られた教会を建てるようにとパウロは教えていません。これは、エペソ人への手紙 4:11-12 の箇所を勘違いして解釈してしまったのが主な原因ですが、こうした「五役者」に関する誤解は70年代の Shepherding Movement(羊飼い運動)などによって異端的なものにまで発展しました。ピーター・ワグナーを中心に推進された(New Apostolic Reformation)などは、少しは改善された所もありましたが、使徒と預言者の権威を主張し過ぎている点は、今も変わっていません。

 油注ぎに関する間違った教えは、御霊の賜物によって大きくミニストリーを展開していた人などが、自分自身を特別扱いする事から始まってしまったようなものです。彼らが「特別な存在」である事と、彼らの「特別な権威」を主張したがるのは、旧約聖書の誤用がその背後にあるからです。

 Shepherding Movement はカリスマ運動の中でも大きく失敗したものです。使徒と預言者が絶対的権力を持つ存在として教えられ、当時、一部の教会では、彼らによる極端な服従を要求されました。NAR を推進したピーター・ワグナーは Shepherding Movement を再興させたものではなく、使徒と預言者が教会の土台となっているという聖書の箇所からこの二つのポジションをより重要なリーダーとして見ているだけです。しかし、これらのリーダーによる人間的な教会(肉によって組織化された教会)に関しては正しいとは言えません。

 私たちがミニストリーにおいて真に成功するのは、神が私たちと共に働いて下さるからです。神は、私たちが御言葉に対して信頼を起き、献身的に神と人に仕える時、私たちと共に働かれるのです。神が特別にある人々を選んでいるので、その人のミニストリーが成功しているなら、その人は確かに特別な者となるでしょう。ところが、聖霊は私たち一人一人の中に住んでいるという真理から、皆がイエスによって油注がれて(聖別されて)います。

 彼らの誤解は、聖霊のバプテスマを通して神の力を受ける事と、油注ぎを混同している所から来ています。つまり、油注ぎの意味を聖霊の力だと勘違いしているのです。この誤解と、「特別な聖別された者」という旧約聖書の考え方が加えられた為に、言葉の定義の問題を超えてしまいました。しかし、私たち全てのクリスチャンが祭司であり王なのです。>
 私たちが古い契約の時代の預言者のように、奉仕の為に、神に特別に選ばれなくても良い理由は、私たちが既にそのような者として生まれ変わっており、後は成長して行くだけで、そのような者として働く事ができるからです。しかも私たちは、ただ神に仕える者という存在を超えました。イエスと同じように神の子となり、与えられた主の権威と力を信仰によって自由に働かせ、この地を治める事ができる存在に生まれ変わったのです。

油注ぎ 2に続きます。

リバイバルについて

  リバイバルの為に祈っているクリスチャンが大勢いるのに、どうして神はその祈りに答えて下さらないのでしょうか?その答えとして、祈りが足りない、断食が足りない、罪の悔い改めが足りない、その他の諸々の「神に訴えるべきもの」などが足りないと考えているクリスチャンは多いでしょう。しかし、こういった私たちの必死のアピールと願いによって、神がリバイバルの油注ぎを与えて下さるという事なのでしょうか?ある人は、必死に祈るなら神は動いて下さると言いますが、正しくは、「神の御心に従って願うなら、神は聞いて下さる」という事なのです。

 殆どの人が、熱心な祈りや罪の悔い改めなどがリバイバルの鍵だと思っています。これらの事をすれば神が憐れんで下さると考えています。必死に執り成しの祈りをすれば、神がそれに答えると思っているのです。祈りは確かに必要なのですが、信仰による祈り、御心に沿う祈りが力がある祈りなのです。又、リバイバルの為に祈るだけではなく、それに伴った歩み(信仰の歩み)をする必要があります。

 過去の時代において、クリスチャンが信仰によって歩んでいなかった中でもリバイバルはありました。それでも、祈り、断食、「反省の意味の悔い改め(一般的の誤った定義)」がリバイバルを引き出す原則ではありません。人の信仰が無い時には、神の特別な計らいがあったのであって、それは神の本当の御心とは離れたものだったのです。主は、リバイバルを熱心に求める人たちを望んでいるのではなく、クリスチャンが神の子として目覚め、信仰を持って彼ら自身がリバイバルを起こすように働く事を待っているのです。主はいつでも私たちの信仰の一歩を待っておられます。

 旧約聖書の時代では多くの預言者が執り成しをしました。しかし、十字架の救いの恵みが明らかにされた今は、私たちは旧約聖書時代の預言者のような立場よりも、もっと優れているのです。神の子として私たちはこの地上をイエスの権威と聖霊の力で御国の国を前進させる事ができるのです。もはや神に憐れみを乞いて、リバイバルを期待する必要がないのです。私たちはイエスの十字架における勝利ゆえに、あらゆる面において既に勝利を得ているのです。サタンでさえ私たちの足の下にいるのに、一体どれほど強い霊が地域を縛っていて、その為に福音のメッセージが届かない事になっているのでしょう?

 神の憐れみは既に十字架において完全に現れました。イエスが全人類の罪の為に死なれたので、神が人間に対して何か怒っている事はありません。罪の悔い改めや執り成しの祈りをすればリバイバルが起こるなどと勘違いしているのは、旧約聖書の箇所からそうした事例を拾ってしまったからです。私たちは救い主を待つ必要はもうありません。イエスが既に来られたからです。そしてイエスは、宣教命令を私たちに与えられました。

 イエスの十字架で何が変わったかを把握していないと、人はいつでも恵みと律法を混同してしまいます。リバイバルが起こる為に必要なのは単純に福音を宣べ伝える事です。ただしこの場合、御国の福音をよく理解していないと真のリバイバルは見られないでしょう。何故なら、この福音は、イエス・キリストの十字架の勝利を示すからです。それを理解していないのなら、霊の戦いに勝つ事はできません。

 聖霊によって私たち信者は力を与えられているのですが、多くの人はそれを漠然とした概念・知識としてしか知らない為に、何をどうすれば良いか分かっていません。それが原因で、再び古い契約の時代の古い考え方に戻って、必死に神に願い、助けて下さるようにと乞うのです。しかし、イエスの十字架の勝利の宣言、約束の聖霊と力、神の子としての特権などは既に私たちのものなのです。

 霊の戦いについての間違った教えは、クリスチャンを弱い者にしてしまいました。サタンや悪霊を追い出す権威と力を使わずに、ただ祈るだけでは意味がないのです。この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいる諸々の悪霊は私たちを恐れるべきなのす。何故なら、私たちは光の子供たちであり、私たちの内にはイエスがいつもおられるからです。私たちは神の次に力強い存在なのです。

イエスから神の子供として与えられた権威、聖霊のバプテスマを通して受け取った力を持って、力ある伝道で神の国を示すなら、私たちは完全に福音を宣べ伝える事になり、それがリバイバルとなります。多くの人たちは、ただ長い間祈ってきました。祈りの重要さは見逃せません。しかし、祈り自体がリバイバルをもたらすのではないのです。

聖化とは

 聖書によると、クリスチャンが義人となるのはイエスの十字架の御業を信じた結果によります。信仰によってのみ、私たちはキリストの義を獲得します。イエス・キリスト以外の義は全て、宗教的な行いによって人間が努力してつかもうとしている義であり、それは真理ではありません。こうした義についての理解は、殆どのクリスチャンが正しく捉えているのですが、これを聖化と関連付ける時にその正しい認識が失われてしまっています。聖書が示す聖化には二つあります。

 まず、クリスチャンは信じた時に、聖い者とされたという事です。

 第二テサロニケ 2:13「しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなた方の事について、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなた方を初穂として救いに選ばれたからです。」

 「聖霊による聖別」があったからこそ、私たちは聖徒となっているのです。新生による聖化とは、私たちの立場から見た場合、つまり、私たちの霊、私たちの真のアイデンティティーにおいてそうなのです。私たちの霊が聖化されているという事です。しかし、成長によって私たちの魂や体が聖化されていくという、経験を通して聖化されるというものもあります。

 一般に考えられている聖化は、長年の敬虔的な努力によるクリスチャン生活から少しずつ聖化されていくというものです。そこには、新生による聖化の理解は含まれていません。新生は、私たちを神の義にするだけでなく、聖なる者とするのです。私たちの義も、私たちの聖化も、私たち自身から出たものではなく、キリストを信じた結果です。

 しかし、既に霊においては聖化されている私たちが、信仰の成長と共にそれを少しずつ外に現わして、経験によって魂が変わり、私たちの全体聖化されるという経験による聖化がもっと重要でしょう。御霊の実もそのようにして内側にあるものが、その人のアイデンティティーとして外に現れて来るのです。単に慈善をしたからといって、その人が御霊の実を証明した事には必ずしもなりません。同様に、新生による聖化だけではなく、思考の一新による聖化も成し遂げる必要があります。

 聖化とは、思考の一新を土台としているので、漠然と慈善をしてゼロから聖化を積み上げていくようなものではありません。むしろ、既に内にある聖化が、成長と共に自然と外に出てくるものです。ちょうど子供の成長と似ています。子供が普通の環境で育って行くなら、およそ一歳くらいから歩き始めます。それは、成長の過程で自然と現れて来るもの、既に備わった能力(本能)なのです。もちろん、私たちは成長という道に入る事を決断しなければなりません。

 経験による聖化は、時間が掛かり、その過程があります。注意するべき点は、良い行いによって聖化するという宗教的なものではありません。聖書の言う聖化とは、既に聖化された霊を思考の一新によって、魂と霊が一致し、その結果として、自然に良い行いができるようになる事です。

 1コリント 1:2 「コリントにある神の教会へ。すなわち、いたる所で私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めている全ての人と共に、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はその全ての人の主であり、私たちの主です。」

 この箇所で出てくる「聖徒」も(hagios)から来ています。この単語は、「聖い」(hagios)霊(pneumatos)という形でよく出現します。つまり、聖いの形容詞が、ここでは人に用いられて「聖徒」となっているのです。

 このようにして、パウロは教会の信者を聖徒と呼んでいます。コリントの信者は「肉に属している」とパウロは言ったのですが、それでも彼らは聖徒なのです。従って、新生した信者は誰でも聖徒なのです。しかし、それは、彼らの霊的な立場から見るとそうであって、彼らの経験や成長から見ると、コリントの信者たちはまだ幼子であったのです。従って、人は新生の時点で聖化されたものの、それを経験しなければいけないのです。聖化とは、思考の一新と同様に、ある種の経験を積んで内なる聖化が外に現されて来る変化を指すのです。

 肉の努力による聖化の獲得は、単なる宗教です。それは、思考を変えずに、成長を目指す事と同じです。思考の一新がないまま、聖化される為に良い行いをするなら、失敗を繰り返すだけです。しかし、思考の一新をしながら良い行いをするなら、失敗が減っていきます。何故なら、人は考えが変わる時に、それに伴う行動をするからです。考えが肉の思いのままなら、外側の行動を変えても、内側の肉の思いが出てきてしまうのです。

 木の実が成るのは自身の努力ではありません。枝が実を結ぶのは、木につながっているからです。私たちが実を結ぶには、イエスという木につながり、イエスの教えに繋がる必要があります。すなわち、私たちはイエスの教えに留まり、思考をそれに一新させるのです。これが実を結ぶ秘訣です。

教会の定義 2

エクレシアの機能

 呼び出された人たち(エクレシア)が、その目的をしっかりと理解してい集会をもつなら、そこには様々な役割の調和が見られます。ローマ12章や、第一コリント人への手紙12章に書いてある通りです。集合体としてのクリスチャンは、キリストという一つの体であり、それぞれの役割はキリストの体の各部分(私たち)であって、ユニークな仕事があります。

 第一コリント人 12:27「あなた方はキリストの体であって、一人ひとりはその部分です。」

 クリスチャンにはそれぞれ違う役割があるので、ある一つの集会(呼ばれた人たちが主役の集い)において、全員が使徒の役割をこなす必要がありません。皆が預言の役割をするリーダーとなる必要もありません。

 第一コリント 12:29「皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。全てが力あるわざでしょうか。」

 ここで注意したい点は、パウロは、人はそれぞれ決まった一つの役割の為に、その役割以外の事はできないと言っているわけではないという事です。パウロは、皆が一つの役割をする事はないと言っているだけです。お互いが助け合う事ができるように、バランスよくそれぞれが各自の役割を果たしなさいと言っているのです。霊的に成長して、大人の考えによって歩めば、誰でもどのような役割でもこなせる事ができるのです。しかし、あくまでも、お互いを支え合うようにしなさいというのがパウロの教えです。いわゆる五職というリーダーの役割は、責任のある人たちに限定されます。しかし、それは、神の絶対的な選択によるとは限りません。責任を取れる人であるなら、その人が選ばれ、自ら率先してリーダー的な役割に従事する事もできます。

 第一テモテ 3: 1「次の言葉は真実です。「もし誰かが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求める事である。」

まとめ

 今日、間違った定義で使われている「教会」という語は、ローマ・カトリックからの強い影響によるものです。残念ながら、ルターによる宗教改革の時に全ての宗教的、律法主義的なものは改革されなかったのです。

 ですから、現代のプロテスタントの教会の中でも、「一般信徒」は聖職者のパフォーマンスを受け身的に観察するようになっています。聖職者以外は聖書の解説はできない、専門家に教えてもらわらないと聖書は理解できない、素人はただ座って聞くだけ、というような事すら刷り込れてしまったのです。しかし、ルターが聖書をラテン語から翻訳した努力が、無駄になって良いはずがありません。私たちは、一人一人が聖書をよく読んで理解する責任があります。

 教派を超えて共通しているものと言えば、人間的な組織として機能している教会は、どこでも似たようなスキャンダルが起きているという悲しい事実でしょう。これには他の色々な原因もあるのですが、人間的な考えで運営されている事が、大きな原因の一つなのです。何故なら、肉による組織は、聖書の意味しているキリストの体(エクレシア)としての機能を果せないからです。イエスによって呼ばれた者たち(エクレシア)が目的を持って集う所に、キリストの体の機能が見られ、各信者は成長を遂げます。彼らに対して権威を持っているのは、かしらであるキリストです。

 イエスは、私たちを福音の為に外に出るように呼びました。ですから、エクレシア(外へ呼ばれた人々)は私たちであって、キリストの体(エクレシア=私たち)はお互いを助ける為に存在しています。信者一人一人がエクレシアであり、信者の集合体として表現される「キリストの体」もエクレシアです。ちょうど、家族を構成する一人一人がエクレシアであり、神の一つの家族もエクレシアであるという見方と同じです。事実、私たちの国籍は天にあるので、神の家族なのです。

 この理解を土台にして、私たちはお互いを励まし合い、助け合う為に集まるのです。集会の為に、私たちが犠牲になるのではありません。何かの霊的イベントを盛り上げる為に、私たちが奉仕するのではありません。リーダーも同様に、集会の成功を収める為に、そこに集う人たちを励ますべきではありません。リーダーは自らを含む「呼ばれた人たち(エクレシア)」に仕えて、彼ら(聖徒たち)を整えて奉仕の働きをさせ(各自がお互いを助け合うようにさせ)、彼らの成長を促すのです。

 聖書のエクレシア(教会)の場合、私たちを呼んだのはイエスであり、イエスが私たちに目的を与えています。ですから、呼ばれた私たちが集まる時には、明確な目的や機能がなければいけません。それは、第一に、私たちの成長です。そして、第二に、信者が一致して敵と戦う事です。

 マタイの福音書 16:18「そこで、私もあなたに言います。あなたはペテロです。私はこの岩の上に、私の教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つ事はできません。」

 イエスに呼び出された信者たちが、イエスの名によって集まるなら、ハデスの門もキリストの体(エクレシア)に打ち勝てません。 私たちは、敵との戦いの為に、一致して集まるべきでもあるのです。

教会の定義 1

 教会という語は、コイネーギリシャ語(当時のギリシャ語)によると、「ekklesia = エクレシア」で表されています。その意味は「外へ呼び出された者」が第一の定義です。「ek = 外へ」という語と「klesia = 呼ばれた」(kaleo/klesis/kletos から)の語から成り立っています。

時代背景

 このギリシャ語は、アレキサンドリア大王が周辺地域を支配していた事とも関係があります。彼は近辺の国々を植民地化していたのですが、そうした地域では、ある特定の人たちが政治的な役割を果たしていました。彼らは、自らをエクレシアと名乗っていました。その言葉をイエスは使い、使徒たちもまた、神の国において政治的な役割を持つ者だとしたのです。従って、使徒たちが考えていた教会(エクレシア)は、政治的な役割を果たす事も含んでいたのです。

 さて、新約聖書中では3回「集会」という意味で使われていますが、「外へ呼び出された者」という本来の意味を踏まえて見てみましょう。

 使徒 19:32「人々は、それぞれ違った事を叫んでいた。実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何の為に集まったのかさえ知らなかった。」

 この箇所の「集会」は、パウロの伝道によって収入を失っていたデメテリオという銀細工人が、その職人たちや同業の者たちを集めたものでした。ここでは、「エクレシア」という語がパウロの福音伝道に反対していた「未信者の集会」に対して使用されています。いわば、「反キリストの集会」です。つまり、コイネーギリシャ語の「エクレシア」は、本来、特に宗教的な意味を含んだ語ではなかったのです。コイネーギリシャ語の定義によれば、「呼び出されて集まった人々」は宗教的な目的以外のケースでも「エクレシア」の語で表現可能でした。「エクレシア」は、元々「クリスチャンの集会」という宗教用語ではなく、どんな集会に対しても用いられる一般的な言葉だったのですが、それをイエスが用いた事により、イエスによって呼び出された者となったのです。

 注意したいのは、集会そのものがエクレシアではなく「呼ばれた複数の人々」がエクレシアです。焦点は「呼ばれた人々」にあって、呼ばれた人々の「集会そのもの」ではありません。何かの「集会」は人々によって構成されているので、集会の存在は人々に依存しています。従って、教団や組織がその中にいる各信者を中心とした活動をしていないのなら、コイネーギリシャ語の意味する「エクレシア」ではありません。

 第一コリント 12:27「あなた方はキリストの体であって、一人ひとりはその部分です。」

 コロサイ人 1:18「また、御子はその体である教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、全ての事において第一の者となられました。 」

 エクレシア(教会)は「キリストの体」だとパウロは言っています。これは、全てのクリスチャン、或いは、クリスチャンの集まりの事を指しています。全て外へ呼び出された人たち(この場合はキリストによって呼び出された人々)は一つのキリストの体を構成します。体は一つです。これは統一教会主義ではありません。全てキリストによって外へ呼び出された人たち(信者)は、「一つの体」としてみなされるのです。

 第一コリント人 12:12「ちょうど、体が一つでも、多くの部分があり、体の部分が多くても、一つの体であるように、キリストもそれと同様です。」

 ガラテヤ 3:26-28「あなた方はみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子供です。キリストにつくバプテスマを受けたあなた方はみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなた方はみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」

 キリストの体を教会(エクレシア)として、それが一つであるなら、全てのクリスチャンは、キリストの体であり一つなのです。残念ながら、現在の教派ごとに分かれた教会で教えられた信者の間には、こうした本当の一致(信仰の一致)の考え方がありません。キリストの体は一つなのに、お互いの間に教派という壁を作ってしまい、主にある兄弟姉妹に対して敵対するような環境を作ってしまいました。その原因は、ローマカトリックの影響を受けた事にも関係しています。つまり、宗教改革と言っても、聖書の教えに完全に沿ったものに戻ったのではなく、幾らかの教えを正しただけで、人間的な組織の継承があったという事です。それにより、本来のエクレシアではなく、特定の人や集団をかしらとしてしまったものが教会と呼ばれるようになったのです。 

 そこで学ぶクリスチャンも、意識が集団や教団の発展に向いてしまい、自分の成長に目を向けるよりも、教団の為に力を入れる傾向があります。その為、教団の活動をサポートするように信者に十分の一の献金が強制的になっているのもありがちです。そこでは、人間的に作った宗教組織のビジョンを達成させる事があまりにも強調されすぎて、信者の成長をおろそかにしているのが普通になりました。

 イエスに呼び出された者(エクレシア)が集まってできたもの、つまり、私たち一人一人はお互いの為に存在しているという意識から集会を見るのが、正しい見方です。これが新約聖書によるエクレシアです。信者(キリストに呼ばれた者=エクレシア)の集会は、そこにいる全ての人の成長の為に存在するもので、集会の為に信者が何かをするのではありません。何かの「集会、聖会、カンファレンス」を成功させる為に、皆が奉仕するのではなく、そうした集まりの機会を利用して信者の成長を促すのです。

 また、集会のリーダーだけが主役ではありません。皆がそれぞれ役割を持っています。信徒の成長を促して奉仕するのが使徒、預言者、伝道者、牧師、教師等のリーダーたちなのですが、「エクレシア」のかしらはイエスです。ですから、例えリーダーであっても、それぞれの役割において奉仕するというだけの事なのです。役割の大きいリーダーほどより大きな奉仕をしなければならないのですが、だからといって、彼らが教会のかしらではありません。リーダーは他の信者との間に上下関係がありません。リーダーはその権威を自分の為に使って、彼に従うように他の信者に命令する事はできません。リーダーの権威は、かしらであるイエスのもので、それは教会の成長の為に使われます。全ての権威はイエスが持っています。エクレシアのリーダーは尊敬されるべきだとしても、軍隊のように上下の階級がある組織とは違います。

 クリスチャンの集いが人間的(肉的)な組織によるものだと、創立者が「かしら」のように振る舞っているのは、よくある事です。しかし、本当のエクレシアでは、イエスだけが教会のかしらであり、信者は一つの体です。人間的な考えで組織を創立した人は、その中で自分の都合の良いルールを設ける事は出来ますが、それはもはや聖書的な教会(エクレシア)ではありません。その集会のルールがイエスの教えに基づくものでないのなら、その集会は本来のエクレシアの機能を持っていない事になります。それぞれの集まりは独自のルールを持っても良いのですが、あくまでも新しい契約の範囲で作らなければなりません。

 クリスチャンが「教会」という時、信者とその成長にあまり注目しません。本来は、皆が成長の為に集まっているのにも関わらず、その目的が達成されずとも、熱心に教会に集う状況があるのです。それは、祈りが聞かれなくとも祈祷会に参加する事と同じであり、儀式をひたすら行う事に満足している宗教と同じです。「義理」を感じて献金を捧げている事も同じです。本質を見逃しておいて、形だけの儀式にこだわる考えは、全て宗教です。

教会の定義 2に続きます。

悲しみを克服する

 神は私たちを神ご自身に焦点を当てて人生を生きる為に創造されました。最初から、神の目的は、私たちが自己意識ではなく、神意識を持つようにされたのです。アダムとエバが善悪の知識の木から食べるまでは、彼らは自分自身を意識していなかったので、自分たちが裸である事さえ気にしませんでした。しかし、彼らが罪を犯した後、彼らは自分自身に意識を向け、彼らの罪に意識を向けたので、神から隠れたいと思ったのです。彼らの焦点は神から自己に移っていました。

 自己意識は、言い方を変えれば、高ぶりの事です。それは、あらゆる悲しみの根源であるのです。人々は多くの理由で悲しんで、不幸な環境にいますが、彼らの悲しみの理由を分析してみると、それは、彼らがいつも自分たちの欲望が奪われた結果である事に気づくでしょう。ですから、悲しみに対処するには、高ぶりに対処する事で解決するのです。

 例えば、欲望を満たす為に、限度を超えて散財するなら、経済的な問題が発生します。あなたが大きな家、新しい車、最新のテレビなどがないという事に、悲しみや不満があるなら、あなたには問題があります。欲望をニーズに変え、それを個人的な問題にしてしまうのは、人の自己意識、暮らし向きの自慢が原因です。御霊に満たされた事のある信者が、世的な人々と同じくらい利己的になってしまった事もあります。このような人々は、聖書が言う富についての原則を知りません。

 マタイ 6:33「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられます。」

 神は、まず神の国と神の義を求める事による副産物として、私たちが必要なものが加えて与えられるという原則を作られました。これは私たちが神の富を得る為の、第一の原則であり、御国の原則です。

 ルカ 6:38「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」

 2コリント 9:6「私が伝えたい事は、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。」

 イエスとパウロは、「種蒔きの法則」を教えました。この原則は、蒔いた分のものを刈り取るという事です。これらの原則を無視して、私たちが自分なりの方法で富を得ようとするなら、自己意識によるもの、肉の思いによる方法に頼る事になります。そこには常にリスクがあります。

 愛する人が亡くなった場合でも、私たちの悲しみは個人的な損失に根ざしている場合があります。「愛する人なしで、この先、どうやって生きていけば良いのですか?もう二度と会う事はないでしょう」と言って、主観的にその事を捉えがちです。もちろん、私たちは亡くなった人々の死を悼んでいる事は間違いありませんが、それが私たちにどう影響するかについては、どうしようもないのです。

 その人が新生された信者であったなら、主と共にいる事を喜ぶべきです。私たちが自己意識によって、失ったものについて考えるのではなく、イエスと共にいる人に焦点を当てるなら、それは悲しみではなく、喜びになるのです。又、あなたが信者である場合、御霊の実である喜びは常にあなたの中にあります。ですから、肉の思いで考えるのをやめ、御言葉を思い巡らすなら、その喜びを外に表す事ができます。

 箴言 13:10「高ぶりがあると、ただ争いが生じるだけ。知恵は勧告を聞く者とともにある。」

 私たちの経験する悲しみは、人との関係から来ます。何故なら、人との関係の中に争いがあり、それは高ぶりが原因になっているからです。高ぶりは自己意識から来る肉の思いで、他の人の事を考えません。しかし殆どの人は、高ぶりを傲慢として認識しています。高ぶりには、偽りの謙虚、臆病、卑下なども種類もあります。内気な人や、恥ずかしがり屋の人も、高ぶりを持っているのです。彼らは、自分が何か間違った事をしてしまった場合、他の人がどう思うかを非常に気にしています。彼らは自分が批判されるリスクを避け、自己防衛の手段として、臆病になるのです。又、偽りの謙遜を持つ人は、自尊心を低くする事を謙遜だと思い、大胆に主張する事などは高ぶりだと信じています。しかし、これも間違っています。

 ヤコブ 4:10「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなた方を高く上げて下さいます。」

 例えば、卑下という種類の高ぶりを持っている人の場合、神によって高く上げられる事を拒みます。その人は、他人の批判を恐れている為、自分自身を卑しくする事によって、それを回避しようとするのです。しかし真に謙遜な人は、神の言葉を受け入れます。真の謙遜とは、あなたが誰であるかについて、神の言葉が語っている事に同意し、あなたはできると神の言葉が約束している事を実践します。人々があなたの事をどう思うかを、あなたが心配しているのなら、あなたは自分を中心に考えているのです。

 謙遜な人は、肉の思いで考えません。その人は、自分の肉のわざに死んでいます。自分の古い人に死んでいるのなら、他人の言葉に傷つく事はありません。あなたが奉仕の働きへと自分の行く道を進めるのなら、他人の言葉ばかり気にしてはいけません。それは、自分自身の事を気にしすぎる事なのです。むしろ、奉仕するべき人々に心を配る必要があります。そうすれば、神はあなたをいつもサポートして下さるでしょう。ですから、自分の為の教会を建て上げるのではなく、主の教会を意識して下さい。人々はあなたの羊ではなく、神の羊であり、あなたの兄弟姉妹なのです。彼らはあなたの部下ではありません。御言葉を教える時も、大胆に権威を持って教えなければなりません。恐れや疑いは、肉であり、悪霊からの影響によるものです。

 2テモテ 2:11-13「次の言葉は真実です。『私たちが、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍んでいるなら、キリストと共に王となる。キリストを否むなら、キリストも又、私たちを否まれる。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否む事ができないからである。』」 

 ガラテヤ 2:19-20「しかし私は、神に生きる為に、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私の為にご自分を与えて下さった、神の御子に対する信仰によるのです。」

 これらの聖句は、私たちが古い自分に死んで、キリストの中で生きる事を教えています。古い自分に死んだ人は、侮辱されても気分を害しません。何も気にする事はないのです。高ぶりのある人は、肉によって歩んでいる人であり、古い人のまま歩んでいる人なのです。そういう人は、簡単に他人の言葉に傷つき、気分を損ねます。ですから、古い自分に死んで、自分に意識を向けない事が謙遜への第一歩なのです。とはいえ、自己に対処する正しい方法は、古い人に死ぬ事に全力を注ぐという事ではありません。あなたは、古い人に死ぬと同時に、新しい人にあって歩む事が必要です。自分自身がキリストにあって何者かを知らずにいる間は、謙遜にあって歩む事にはならないでしょう。つまり、あなたが新しい人として歩む時こそ、真の謙遜を理解する事になるのです。新しい人は、キリストと共に歩む事に意識を向ける為、常に神を意識するでしょう。そこには、神に対する献身的な思いがあり、もはや自己意識で何かを考える事はありません。

 ローマ 12:1「ですから、兄弟たち、私は神の憐れみによって、あなた方に勧めます。あなた方の体を、神に喜ばれる、聖なる生きた捧げ物として献げなさい。それこそ、あなた方にふさわしい礼拝です。」

 私たちが自分たちの体を、神に喜ばれる、聖なる生きた捧げ物として献げる事は、ある種の自己犠牲です。それは、私たちにふさわしい礼拝だとパウロは教えています。ここで大切なのは、献身の道を進んで行く事を日々決断するという事です。私たちは、常に自分の古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着ていなければなりません。別の言い方をすれば、私たちは常に思考を一新して、御言葉によって私たちを清く保つ必要があるのです。そうすれば、私たちは毎日、キリストに意識を向けて歩めるでしょう。

 神を意識している人は、隣人を愛する事も考えます。その為、人々のニーズに目を向け、自分自身のニーズを忘れるようになります。このように歩み始めると、以前は重要だと思っていたものが、本当には重要でなかったと分かるようになります。他人への愛は、自己意識、肉の思いを過ぎ去らせ、人に仕える精神を確立させます。そこに焦点を当てている人は、悲しむ事はありません。何故なら、神を愛し、人を愛するという事は、本来、私たちの最高の喜びだからです。

信仰とは

 へブル人への手紙 11:1 をギリシャ語から見てみると、

estin(である is)de(接続詞)pistis(信仰)elpizomenon(所有格: 期待する・望む・信頼する)hupostasis(理解・自信)pragmaton(所有格: 実際のもの・事柄)elegchos(確信)ou(~ない否定)lepomenon(見る)

 elpizomenon(期待する・望む・信頼する)と pragmaton(事柄)は所有格なので、それぞれは直後の語とあわせて、hupostasis(理解・自信)についての elpizomenon(期待する・望む・信頼する)、elegchos(確信)の pragmaton(実際のもの・事柄)となります。

 まとめると、「信仰は理解している事、自信がある事について(期待する・望む・信頼する)ものであり、確信についての実際的なもの(ここでは「見えない」という事)」

 もう少し分かりやすい訳にすると、「信仰とは、理解している事や自信がある事に対して、当然そのようにそうなると期待している事であり、目に見えないけれども、実際にそれがあるとする確信です。」

 私たちが何かについてよく理解していれば、そのよく理解している物事に対して、「~になって欲しい」という望みを置くような事はしません。「絶対こうなる」と自信があるものに対しても望みを置く事はありません。むしろ、現実的な事柄、当たり前に起こる事として捉えます。私たちがそれほどまでに「~になる」と確信している理由は、そうなるという結論を知っている、理解しているからです。まだ実際には見えていない結論、結果が分かる(理解している)というのが信仰です。それが分からない間は信仰ではなく、ただの希望になります。

 たとえ、結果をまだ見ていなくても当り前のようにそうなるという自信・確信のある状態が信仰です。聖書では見えていない事柄に対して信頼する事を信仰の定義としている点に注目するべきです。

 2コリント 5:7「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。」

  肉眼では見えないのだけれども、その事について確信できるケースは私たちの生活の周りにもあります。レストランでは通常、入って来る客が食べた後に会計するのが普通になっていますが、どうしてその事が成り立つのでしょうか?それはレストラン側が、食べにくる客が食後にお金を払ってくれると信頼しているからです。目にはまだ見えていない食事代を後に払ってくれると期待・信頼して食事を提供するのは、レストラン側が客に対して信仰を持っているからです。

 同じ様に、私たちの信仰の対象である神は目では見えません。しかし、私たちは神を聖書からしり、そのお方に信頼を置いています。また、私たちの信仰は、主の言葉もその対象となります。すなわち、イエス・キリストとイエス・キリストの教えの言葉に対して私たちは信頼を置くのです。

 信仰が掴みどころのない概念となっている為に、多くのクリスチャンは信仰を複雑に考えてしまいました。信仰を一言で言うならば、「信頼する」という事です。ですから、ある御言葉を信じるのが難しい(信頼する事が難しい)とするなら、恐らくその御言葉の意味がよく分からないからでしょう。十分に理解しているなら、もはやその理解ゆえに「~になって欲しい」という願いにはなりません。むしろ、「聖書にはこう書いてあるから~になる」という理解ゆえに、その約束に信頼を置く事ができます。

キリスト・イエスにつくバプテスマ 2

 さて、バプテスマはギリシャ語の baptizo に由来しますが、その意味は「潜水させる、もぐる、浸す」です。そして「キリスト・イエスにつくバプテスマ」とは「キリストの中に浸される」が直訳です。それは、私たちがキリストと一つになる事を意味しています。

 ガラテヤ 3:27-28「キリストにつくバプテスマを受けたあなた方はみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなた方はみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」

 「キリストを着た」とは、私たちがキリストのアイデンティティーを持ったという事であり、クリスチャンが「キリスト者」と呼ばれるのもそれが理由です。私たちはもはや単なる人ではありません。新生は私たちを全く新しい人に変えたのです。ただし、それは私たちの霊が生まれ変わったという事であって、全体的な成長という視点から見れば、思考の一新をしてキリストの身丈にまで達する必要はあります。

 さて、パウロの幾つかの「キリストにあって」という表現も、私たちとキリストの関係を示すものです。

「キリストにあって豊かな者」(第一コリント 1:5)
「キリストにあって賢い者」(第一コリント 4:10)
「キリストにあって義と認められる」(ガラテヤ 2:17)
「キリストにあって励ましがあり」(ピリピ 2:1)
「キリストにあって満たされている」(コロサイ 2:10)

 パウロが「キリストにあって」と言ったのは、私たちがキリストの中に入る事になったからです。それは、私たちがイエスを信じた時にそうなりました。つまり、キリストを信じるという事がキリストの中に入って浸かるという事です。これが「キリスト・イエスにつくバプテスマ」です。浸っている状態を表すのがギリシャ語の baptizo なので、ずっと浸かっている必要があります。ちょうど漬物が浸かっているものであるように、私たちは常にキリストの中に浸かっている必要があります。それは、私たちが常に信仰によって、御霊によって、新しい人として歩む事を意味します。

 その歩みは、日曜日の主日礼拝を守る事だけではありません。或いは、特別な人だけが「献身する」ようなものでもありません。信者は誰でも神の子であり、キリストの弟子としてイエスを証しするのが当然であって、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着て、御霊によって歩んでいるべきなのです。こうした当り前の事が出来ていない私たちは、霊的に幼いのです。

クリスチャンの負う十字架

 さて、私たちがキリストの歩みを模範にする事がキリストの弟子となる事ですが、キリストの贖いだけは別です。イエスは私たちの身代わりになったので、私たち自身が罪となって、十字架で死ぬ必要はありません。病や貧困で苦しむ必要もありません。しかし、イエスが肉において死んだように、私たちも古い人に死ぬ必要があります。

 マタイ 16:24「それからイエスは弟子たちに言われた。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」

 「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい」という意味は、「試練」という名目で「全ての困難を耐え抜きなさい」という意味ではありません。宗教的な考え、困難に耐える事を美徳としているような事ではありません

 ローマ 6:6「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる為です。」

 パウロはここで、「私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられている」と言いました。それは、私たちの古いアイデンティティーであり、その古い人はもう死んだのです。ですから、キリストにつく私たちは、古い人は死んだ者としてみなして歩む必要があります。

 私たちがイエスを模範にする理由は、私たちが「キリスト・イエスにつくバプテスマ」を受けた者として、イエスの教えの中に留まるべきだからです。そうする為には、まず古い人を死んだ者としてみなさないといけません。人は、(古い人に死んで)新しく生まれなければ、神の国を見る事はできないからです。イエスはその道を私たちに示しました。もし、私たちがキリストの十字架を模範にしないなら、古い人がキリストと共に十字架につけられたという真理を知らないまま歩み、結果として、私たちは古い人として歩む事になります。古い人で生きるという事は、肉の思いで生きるという事でもあります。それでは、私たちは新しい人として歩む事ができません。

 キリストの復活は私たちの新生(新しく生まれる、霊によって生まれる)を意味するので、私たちは復活した、新しい人なのです。そして、その復活にあずかるには、古い人が過ぎ去った存在である事を信じなければならないのです。未信者の場合は、古い人が過ぎ去ってはいません。しかし、クリスチャンとしての私たちの歩みが幼かった時も、私たちは古い人として歩んで来たのです。パウロは、そうした真理を知らず、古い人のまま歩んではならないと教えたのです。古い人を脱ぎ去り、新しい人、キリストを着なさいと教えました。何故なら、キリストを着ていない人は、キリストの香りを放って、キリストの証人となる事はできないからです。

 私たちが「キリスト・イエスにつくバプテスマ」を受けた以上、私たちの古い人はキリストと共に葬られたと見なさなくてはなりません。そうでなければ、私たちは決して勝利のある歩みができないでしょう。何故なら私たちは、キリストが中におられるという認識があるからこそ、勝利者として考える事ができるからです。それは、私たち神の子の本来の考え方であり、キリストの考え方なのです。

キリスト・イエスにつくバプテスマ 1

 ローマ 6:3「それとも、あなた方は知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」

 バプテスマの定義が分かればこの箇所の意味が理解できるでしょう。一般的にはギリシャ語でバプテスマが何を意味するのかはあまり知られていないので、ここを読む人の殆どが「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」事について理解している人は少ないと思います。何故なら、殆どのクリスチャンがバプテスマと聞くとすぐに水の洗礼式を連想してしまうからです。

 ローマ 6:4-5「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中から蘇られたように、私たちも、新しい命に歩む為です。私たちがキリストの死と同じ様になって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じ様になるからです。」

 私たちが「キリストとともに葬られた」理由は、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするため」だとパウロは言っています。これは、いわゆる「新生」の事を指します。何故なら、「私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるから」とある通りです。

 私たちの霊が新しく生まれ変わって(新生して)いるのは、イエスの十字架の御業によるものです。従って、キリストの復活に私たち自身の復活の秘密があるのです。しかし、私たちが新しくよみがえる為には、まず一度、イエスが十字架で死ななければなりませんでした。その方法が絶対条件であるのは、私たち自身も古い人に死ななければいけないからです。

 イエスご自身が道であり真理でありいのちである以上、その他の方法で父なる神の所へ行くことは不可能です。これは、誰もが知っている真理です。そしてそれが意味するのは、イエスの贖いなしには私たちが父なる神の子供たちとしての特権(権威)が与えられないという事です。何故なら、イエスだけが道であって、私たちがそこを通らなければいけない事をイエスが十字架によって示されたからです。

 イエスは十字架上で罪になりました。

 第二コリント 5:21「神は、罪を知らない方を私たちの為に罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となる為です。」

 罪そのものになったイエスは肉体において死にました。何故なら、罪に対する究極的な刑罰は死だからです。本来は私たちが私たち自身の罪ゆえにその刑罰を受けるべきでした。それがモーセの律法の義です。しかし、更に優れたキリストの義は赦しと憐れみでした。イエスが自ら子羊となってその汚れのない血によって私たちの罪を取り除いて下さったのです。しかし、罪自体は処分される事になっていたので、イエスの犠牲は必須でした。その犠牲は私たちの為です。

 エペソ 4:8-9「その為、こう言われています。『彼はいと高き所に上った時、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。』「上った」という事は、彼が低い所、つまり地上に降られたという事でなくて何でしょうか。」

 この箇所はイエスが死んだ事を意味しています。「いと高き所に上った」はキリストの復活を意味しているからです。復活とは、イエスが死んで蘇った事です。

 黙示録 1:17-18「この方を見た時、私は死んだ者のように、その足元に倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れる事はない。私は初めであり、終わりであり、生きている者である。私は死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。」

 死んだイエスはよみがえりました。そして、今も生きています。この真理は現在の私たちにとっても適応されます。

 使徒の働き 13:33「神はイエスを蘇らせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就して下さいました。詩篇の第二篇に、『あなたは私の子。私が今日、あなたを生んだ』と書かれている通りです。」

 第一コリント 15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中から蘇られました。」

 エペソ 1:20「この大能の力を神はキリストの内に働かせて、キリストを死者の中から蘇らせ、天上でご自分の右の座に着かせて、」

 
エペソ 4:10「この降られた方ご自身は、全てのものを満たす為に、諸々の天よりも高く上られた方でもあります。」

 蘇られたイエスは御父の所に上られました。そして神の右の座に着座しておられます。

キリスト・イエスにつくバプテスマ 2に続きます。

御言葉から真理を得る  2

 「シングル」の目、つまり、私たちの目が真っすぐ素直に、純粋に神だけを見るなら、私たちの全身は明るくなります。世の光であるイエスを見る事によって、私たち自身も世の光になるのです。私たち自身に光があるのではありません。ちょうど、私たちの力や私たちの権威や名前によって神の子として働く事はないように、全ての権威と力、神の栄光の光、それらはイエスのものであり、またイエス自身なのです。 そしてイエスが真理である以上、私たちがイエスに目を向け、イエスの御言葉に心を向けるのは当然でしょう。そして、真理は私たちを自由にする力があります。御言葉を信じる事によって私たちはあらゆる束縛から解放されるのです。

 ところが、御言葉が信仰によって私たちを自由にするという神の素晴らしい計画を破壊してしまうものがあります。神の言葉は私たちに信仰を促す最も力のあるものですが、それを破壊する力は悪魔による嘘や世の知恵や知識です。せっかく御言葉を聞いても、世的な情報を聞いていては信仰の芽がでない事もあります。生まれながらの人間は肉の思考の為にそれらのものに影響されるからです。

 ルカ 8:14「茨の中に落ちたものとは、こういう人たちの事です。彼らは御言葉を聞いたのですが、時がたつにつれ、生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません。」

 せっかく聖書の御言葉を読んで学んでいても、その一方で世的な、悪い情報を取り入れているなら、信仰の実が熟さない可能性も十分あります。世的な情報を得る事自体は必ずしも悪くはないのですが、それに影響されて聖書の御言葉に反するような考えを持つようになるなら、そういったものは見たり聞いたりするべきではありません。信仰と癒しで有名なスミス・ウィグルスワースは新聞を全く読まない生活をする事で、自身の信仰を保つようにしたくらいです。

 さて、御言葉による成長に関しては、私たちが良い環境の下で聖書を読む事がとても大切になります。御言葉を集中して読む環境を確保するだけでなく、成長に必要のないものの排除も必須です。この作業がないと、私たちの思考は一新されず、私たちの成長は遅くなります。また、成長の過程で直面する様々な問題や悪霊からの攻撃に対しても、何をするべきかを知っておかなければなりません。敵に対する勝利は既に私たちのものですが、勝利を得るには戦いに勝つ事、悪魔に対抗する事が必須になります。その時に鍵になるのが、いかに信仰を保つかでしょう。そして、その方法も聖書からヒントを得る事ができます。次の聖句から、それを学べます。

 マタイ 11:2- 6「さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じてイエスにこう言い送った。『おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。』イエスは彼らに答えられた。『あなた方は行って、自分たちが見たり聞いたりしている事をヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちが清められ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。誰でも、私につまずかない者は幸いです。』」

 バプテスマのヨハネは、ヨルダン川でイエスを最初に見た時、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と大胆に宣言しました。しかしここでは、イエスに対して「おいでになるはずの方は、あなたですか」と弟子たちを送って確認させたのです。つまり、バプテスマのヨハネでさえも疑ったという事です。

 獄中で自分の置かれている状況を見て、バプテスマのヨハネは神の子イエス・キリストの権威と力を疑ったのでしょう。救い主として信じている方が既に来られたのに、自分は獄中で死を迎えているという状況が、彼に疑いの思いを起こさせたのです。バプテスマのヨハネの問いに対して、イエスはイザヤ書から聖句を引用しました。それによって、彼を励ましたのです。イエスは彼に直接自分がキリストだと言って彼の信仰を支えませんでした。バプテスマのヨハネに同情して慰めの言葉をかけたのでもありません。何故でしょうか?それは、バプテスマのヨハネにとって何よりも慰めになったのは、御言葉だったからです。

 バプテスマのヨハネは生まれた時からその目的を知っていました。「主が来られる道を整える」事が自分の使命である事を知っていたのです。ですから、彼にとって御言葉を信じるというのはむしろ当たり前でした。つまり、イエスが彼に聖句を与えて答えられたのは、彼に御言葉を信じ続けなさいという励ましだったのです。

 考えてみて下さい。あなたは誰によって励まされると信じるようになるのでしょう?信頼している教会の牧師先生でしょうか?それともあなたの信頼する兄弟姉妹の言葉でしょうか?或いは、信仰良書からのアドバイスでしょうか?預言の言葉を求める人もいます。しかし、これらは全て間接的なものです。最も直接的にあなたの信仰を支えるのは、神の御言葉なのです

 どうしたらもっと信仰を持てるようになるのだろうかと考えているクリスチャンは、その答えが聖書にある事を意外に知りません。確かに読んでも分かりにくい所もあるでしょう。そうだからと言って、読まずにいては成長もありません。真剣に読むなら、真理を理解できるようになるというのは本当です。注ぎの油は私たちを全ての真理へと導く事ができるので、諦めずに、信じて聖書を読む習慣を身につけましょう。

バプテスマの意味

 「バプテスマ」という言葉は、コイネーギリシャ語の「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」の音訳からできています。これはまた、「βάπτω(baptō)バプト」から来ています。ギリシャ語からラテン語に翻訳する際、この語は音訳になったので、元々のギリシャ語の意味が十分伝わりませんでした。しかし、ラテン語には「浸す」という単語「immergo」が存在していましたので、ギリシャ語の「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」は「immergo」で訳されているべきだったのです。ラテン語から英語に訳したジョン・ウィクリフもそのまま音訳にしています。それがそのまま続いてしまい、英語でも「baptism」となったのです。こうして、この単語は宗教用語となってしまいました。

 本来「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」は宗教的な単語ではありませんでした。例えば、服の汚れを効果的に取り除く為に服をぬるま湯に浸して置く必要があったとすると、この場合、浸たすという動作が「バプテスト」なのです。コイネーギリシャ語で書かれた他の古典や文献から見ても、「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」が宗教的な単語ではない事が分かります。つまり、「バプティーゾ」自体には、何か特別な霊的な意味があるというわけではないのです。

水と切り離す

 今日私たちが「バプテスマ」という単語を聞くと、すぐに水の洗礼式を想像してしまうのですが、当時の人たちからするとその発想はなかったのです。彼らがその語を聞けば「何かに浸す」という理解だけでした。

 マルコ 7:4「市場から戻った時は、体を清めてからでないと食べる事をしなかった。他にも、杯、水差し、銅器や寝台を洗い清める事など、受け継いで堅く守っている事が、たくさんあったのである。」

 「洗い清める」の箇所は「バプティーゾ」の語が用いられているのですが、その訳だと「浸す」という本来の意味は読み取れません。浸礼(洗礼式の一種)で見られる行為がまさに「バプティーゾ」を正しく表しています。「バプティーゾ」は、何かに浸した状態にする事によって変化をもたらす事もあります。さて、洗礼式では人を水に浸すのは僅かな時間だけです。文字通り人をずっと水に浸けておくと、洗礼式はそのまま葬式になってしまいます。教派によれば、水に濡れるだけでも良いとしたりして、「浸る」という本来の定義から離れてしまっていますが、それはバプティーゾをよく理解していない為です。Joseph Henry Thayer(ギリシャ語コンコーダンスと辞書の編集者)による次のコメントを見て下さい。

 「バプティーゾ の意味を示す最も明瞭な例は、およそ200 B.Cに生きていたギリシアの詩人で医師でもあるニカンダーのテキストです。それはピクルスを作る為のレシピでありますが、両方の単語を使用しているので役立にちます。ニカンダーは、ピクルスを作るには、まず野菜を沸騰水に浸して(「βάπτω(baptō)バプト」)から酢溶液でバプテスマ「βαπτιζω(baptizo)バプティーゾ」しなければならないと言います。」

オリジナルは、以下です。
 "The clearest example that shows the meaning of baptizo is a text from the Greek poet and physician Nicander, who lived about 200 B.C. It is a recipe for making pickles and is helpful because it uses both words. Nicander says that in order to make a pickle, the vegetable should first be 'dipped' (bapto) into boiling water and then 'baptised' (baptizo) in the vinegar solution."

 上の説明から、「バプト」も「バプティーゾ」も、基本的に「浸す」という意味である事が分かります。しかし、「浸す」という動作は、「一度浸してすぐ引き上げる」という意味ではありません。浸した状態をも示しているのです。従って、「浸けておく」がより正しいのです。聖書が示している様々な真理(キリストの体、赦免、死など)に私たちが浸る時、私たちは浸っている状態であり続けるべきなのです。

 ポイントは、「バプティーゾ」が何かに浸っているという意味である事、短期間だけ「浸す」事ではなく、「浸けておく」が、「バプティーゾ」なのです。さて、水によるバプテスマの儀式では、水に浸かっている人を起こす部分、すなわち「新しい人としての復活」も含まれますので、「古い人を浸けておく」事を洗礼式で完全に再現する事はできません。洗礼式は聖書の真理を形として表す事にしかすぎず、それ自体には霊的な力や恩恵がないのです。ですから洗礼式をしないと「救われない」などという主張は宗教的な考えだと分かります。しかし、この新生の真理は、新しい契約の教えの中でもとても重要なので、それを象徴するバプテスマの儀式は、それを正しく理解して信仰によって行うのなら、聖餐式と同じ様に、恩恵を受ける事ができます。余談ですが、正しい理解と信仰に基づいて、クリスチャンがバプテスマや聖餐式を行う事をサタンはとても恐れています。

 さて、私たちが何に「浸り続ける」かは文脈によってしか、分かりません。聖書ではバプテスマが水を用いてやるものだと書いてありますが、水以外の表現もあります。悔い改め、聖霊によるバプテスマはどうでしょうか?

ペテロによるバプテスマ

 使徒の働き 2:38「そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦して頂く為に、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

 新改訳聖書によるこの部分の翻訳は問題があります。「何に浸る」かが全く読み取れません。しかも、罪を赦して頂く為にバプテスマの儀式が必要だという意味に取れてしまう訳も問題です。

「それぞれ罪を赦して頂く為に、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」の部分をギリシャ語で見ると、βαπτισθητω(浸されなさい*アオリスト)εκαστος υμων(一人一人が)επι(前置詞 on)τω(定冠詞 the)ονοματι(名)ιησου χριστου(イエス・キリスト) εις(前置詞 into)αφεσιν(免除)αμαρτιων(罪*複数)

 前置詞を翻訳に含めて訳すると、「罪の赦しの中へ浸されなさい」という意味になります。つまり、ペテロはイエス・キリストの名によって水の洗礼式を受けなさいと言っているのではなく、悔い改めて(考えを変えて)、イエス・キリストの名によって「罪の赦しの中へ浸りなさい」と言っているのです。

 ペテロはユダヤ人たちに、「律法主義から考えを変えて、キリストの十字架の御業を受け入れて、既に十字架によって赦されているという真理の中へ浸りなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と言ったのです。罪を赦して頂く為に水の洗礼式を受けなさいではありません。そうなると、その儀式に罪の赦しの力がある事になります。罪の赦しの力はイエスの血にあるのであって、洗礼式自体にはありません。

 私たちは今現在も「罪の赦しの中へ浸っている」べきです。その恵みの外から出てしまうと、罪の赦しを退けてしまう事になり、それは私たちを罪意識にしてしまうでしょう。「罪の赦しの中へ浸っている」というのは、洗礼式そのものにこだわるという事ではなく、あなたが考えを変えた時から継続的に、罪の赦しの恵みに浸っている状態を意味するものであり、これが本来のバプテスマという意味なのです。キリストの罪の赦しを信じて、継続してその恵みを信じているかどうかです。ですから、「浸かっている」という表現が意味するのは「信じ続けている」という事なのです。

儀式か信仰か

 イエス様は十字架によって既にあなたの罪を赦されたのか、そしてその真理を受け入れるには、水による洗礼が必要かどうかを吟味すると良いでしょう。水の洗礼を律法のように捉えてしまうと、私たちは再び律法の奴隷になってしまいます。実は、使徒の働き 2:38 には水という単語すらありません。もちろん、水のバプテスマを無視して良いという事でもありません。水のバプテスマは信仰を外に表すという一つの方法であり、それを新生したばかりの人が実践するという意味では価値あるものです。又、「水」は単に「浸る」動作を目で見る為に利用されるだけで、水自体が私たちを罪から清めるような意味はありません。ですから、洗礼式は究極的には必要不可欠ではありませんが、きちんとした理解と信仰を持って行うならそれはとても意義あるものになります。結局、信仰によるかどうかがいつでも鍵になるのです。

 信仰によって行う事の大切さは、聖書を読む時にも、祈る時にも、施しをする時にも、聖餐式にあずかる時も、その他のあらゆる場面でも同じです。「信仰なしにただ行う」という単なる儀式や宗教にしてしまうか、信仰によって行い、その背後にある真理から恵みを受けるかは、いつでも私たち次第です。今日の教会で教えている多くのものは、信仰と全く結びつけずに、ただ機械的に行うだけの儀式です。本来の意味を知らずにただ規律を守る事ばかりに執着していると、パリサイ人の律法主義に戻ってしまうでしょう。

聖霊のバプテスマ

 水のバプテスマとは違って聖霊のバプテスマはどうでしょうか?それは、イエスと使徒たちによって、積極的に求めるように言われています。もちろん、「救われているかどうか」という問題にだけこだわるなら、聖霊のバプテスマは必要ではないでしょう。ちょうど、救われて天国に行けるから癒しの為の祈り、経済的な祝福、その他の神からの祝福は全く必要ないという「変なこだわり」を持つのと同じです。クリスチャンであるなら、救われているかどうかは、もはや問題にならないはずです。神の子となった私たちが御国に入る事は当然の特権なのです。しかし、救いをゴールにして、それだけで満足してしまい、キリストの身丈にまで成長する事を求めないのは幼い考え方です。私たちはそのような初歩の教えから卒業して、神の力を得て他の人を助け、もっと積極的に伝道できるように、私たち自身が成長する事を目標にするべきです。

御言葉から真理を得る 1

 真の信仰は真の神に対するものである以上、私たちは聖書から神に関する真理を知る必要があります。御言葉を聞かないのなら、神に対する信仰もありません。

 ローマ 10:17「ですから、信仰は聞く事から始まります。聞く事は、キリストについての言葉を通して実現するのです。」

 聖書の真理が分かれば、そのままそれが信仰となる事では必ずしもないのですが、基本的に御言葉を理解する分だけ信仰が働くという関係は見逃せません。例えば、癒しに関する聖書の知識がないなら、癒しに対しての信仰は働かないのです。

 しかし、もし私たちが御言葉を正しく理解しているのなら、後は信じるという選択をするだけで、全ての祝福を体験する事ができます。ただし、悪魔の誘惑やその他の悪い影響がこの世に存在している為に、御言葉を信じる事がクリスチャンの中でも困難なケースがあります。実際に、福音を聞く全ての未信者の人々がキリストを信じるわけではないのと同じです。しかし、本来ならば神の力ある御言葉を聞いた人なら、信じる事ができるようになっているのです。

 第一コリント 1:18「十字架の言葉は、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」

 この聖書の箇所では、十字架の言葉を信じて救いを受ける人にとっては神の力だとパウロを言っています。ここで気づくべき事は、神の力は人が信じるかどうかによってその効果が現れるという事です。百人隊長が信じたイエスの言葉には力があったのですが、彼自身がそれを信じたので彼のしもべは癒されたのです。

 実は、聖書の正しい知識を得るという事は難しくありません。しかし、人の伝統として教えられているものは、人の中に疑いをもたらします。現代では間違った教えが蔓延っている為に、多くのクリスチャンが真理にたどり着けていません。今の世は偽りの教えがあまりにも多いので、真理にたどり着く人は少ないものです。

 ヨハネ 1:17「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 イエスによって恵みとまこと(真理)が実現しました。

ヨハネ 14:6「イエスは彼に言われた。「私が道であり、真理であり、命なのです。私を通してでなければ、誰も父のみもとに行く事はできません。」

 イエス自身も「私が道であり、真理であり、命なのです」と言われました。ですから、真理を知る鍵はイエスにあります。別の言葉で言うなら、イエスの教えに沿った御言葉を優先的に学ぶ事によって、真理を知る事になるという事です。イエスの教えにあまり関係のないものを聖書から勉強するなら、より真理に遠いものを学んでいる事になります。

 究極的に、人が真理を知るには、イエスを受け入れるしか方法がありません。何故なら、イエスを信じて人は聖霊を受け取り、その御霊が全ての真理に導くからです。その上で聖書を読み、真理を理解する必要があります。幸いにも、クリスチャンは既にイエスを信じているので、聖書を読めば真理を理解できるという段階にいます。未信者の場合だと、霊が新しく生まれ変わっていないので、聖霊がうちに住んでいない状態、つまり、聖霊が真理に導く事ができない状態にあります。ですから、彼らの場合は、イエスをまず信じなくては真理を知る事にはならないのです。

 第一ヨハネ 2:20「あなた方には聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。」

 第一ヨハネ 2:27「しかし、あなた方の内には、御子から受けた注ぎの油が留まっているので、誰かに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、全てについてあなた方に教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなた方は教えられた通り、御子の内に留まりなさい。」

 私たちのうちに留まっている注ぎの油は聖霊です。聖霊が私たちを全ての真理へと導くので、私たちは真理を知る事ができるのです。しかし、そういった状況で多くのクリスチャンが未だに真理を見出していないのは、先程も言った、人の伝統の教え、つまり、間違った教えが存在しているからです。それに加え、世の知恵や知識も真理から遠ざけるものです。何故なら、それらは聖書とは逆の事を教えているものが多いからです。ですから、聖書の学びと平行して、聖書の教えに反するものを私たちの思考から排除する作業が必要になります。そうした否定的な考えを一新せずに聖書を読むと、真理を悟る事が遅くなります。

 また、聖書を読む時に御霊が私たちを導く事を信じないのなら、真理を知る事は難しいと言えます。何故なら、その不信仰の故に、聖霊が聖書の真理を教えている事に気づかない事があるからです。自分で聖書を読んでも分からない、神から特別な啓示を受けないと真理が分からないというのは人間的な考え方です。一部の人々は、「聖書を読む事よりも、聖霊から啓示を受けるのが大事」などと極端に教えたりしますが、基本的にそそぎの油である聖霊は私たちに真理を示す働きをして下さっているのです。

 聖書が理解できたなら、後は行動に移すだけです。実行に移すのが難しいと思うのなら、実行に移すのが当たり前になるほど御言葉で考えを一新する必要があります。知識だけを頭の中に蓄える事だけでなく、自然と実行してみたいという思うようになるまで、御言葉を思い巡せるなら、やがて心で信じるようになります。

 クリスチャンは、幾つかの原因があって、理を悟れません。一つには、間違った教えが真理を悟る事の障害となっている場合があります。偏見や聖書的でない知識を排除して、聖書を学ばないのなら、真理を知る事にはなりません。間違ったものを信じていても、意味がありません。本来はそそぎの油である聖霊が私たちを導く事によって、私たちは真理を知る事ができるのですが、諸々の間違った教えは、私たちの聖書に対する考え方や理解に混乱をもたらす事が可能なのです。

 マタイ 6:24「誰も二人の主人に仕える事はできません。一方を憎んで他方を愛する事になるか、一方を重んじて他方を軽んじる事になります。あなた方は神と富とに仕える事はできません。」

 相反する二つに従う事はできません。神と富、或いは、聖書の真理と世に仕える事は不可能です。世的なものは全て無駄なものとは言いませんが、聖書に反するものは排除するべきです。また、日曜日に教会にいる時だけ正しい考えを持ったとしても、残りの六日は世的な考えで生活をしていれば、信仰によって歩む事ができないのはむしろ当然でしょう。神か富か、どちらかに仕える事しかできないという結論の前の節を見て下さい。

 マタイ 6:22-23「体の明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたの内にある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。」

 この個所で「目が健全なら」と新改訳聖書で訳されていますが、ギリシャ語の「シングル」の意味の単語が使われています。複雑になっていない、単純、純粋という意味で「一つのもの」を表します。私たちの目が「シングル」であるなら、全身が明るいとイエスは言われました。「目が悪ければ」は「邪悪」というギリシャ語の単語が使われています。世的な知恵や知識、サタンによる嘘などに目を向けていては、私たちの全身は暗い状態になります。私たちの目を光に向けるのなら、全身を明るい状態にできます。光と闇は同時に存在できないように、二人の主人に仕える事はできません。神に仕えるか、世に仕えるか、どちらか一つ(シングル)しかできません。

御言葉から真理を得る 2に続きます。

新しいアイデンティティー 3

 へブル 10:11「さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去る事ができませんが、」

 動物のいけにえは、罪を取り除く事ができなかったのですが、イエスの贖いは、罪を取り除く事ができました。アウグスティヌスが言う「原罪」はイエスの愛に対して限界を設定しています。十字架の恵みの御業を過少評価しているのです。彼はギリシャ語をあまり知らなかった事から、哲学に頼って聖書を解釈したのかもしれません。しかし、彼の原罪の教えは主の十字架の御業を無にしてしまう、人間的な解釈に過ぎず、真理ではないのです。少なくとも、キリストの御業を信じる私たちは、罪が除き去られたという真理が適応されます。何故なら、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者、新しく創造された者だからです。これが意味する事は、私たちの霊の中には罪がないという事です

 さて、別の角度から人のアイデンティティーについて聖書から見ます。

 箴言 23:6-7「物惜しみする人のパンを食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに「食え、飲め」と言っても、その心はあなたと共にない。」

 物惜しみする人が「食え、飲め」と言っても、彼の心は勘定ずくなので、その心はあなたと共にありません。何故なら、物惜しみする人は、気前よく「食え、飲め」とは言わないのです。つまり、人というのは結局のところ、その心の部分がその人の本質であるという事を言いたいのです。口先だけの言葉ではなく、その人のアイデンティティーはその人の心にあるという事です。箴言ではこの「心」という語をほぼ全ての章で見る事ができる大変ユニークな書物です。下の箇所もそうです。

  箴言 4:23「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。命の泉はこれから湧く。」

 似たような事をイエスも言われました。

 ルカによる福音書  6:45「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。」

 このたとえを用いて、イエスは人を見分ける秘訣を教えました。ここでも人の本質はその人の「心」にあるというのがポイントです。箴言で頻繁に出る「心」と訳されているギリシャ語(kardia)は「人の本質」「人間の中心的な部分」という意味を含みます。ヘブル語では「レーヴ」(לֵב)です。

  一般的に理解されている感情的なニュアンスを含みがちな「心」の表現(心温まるなどの表現)よりも、kardia は、むしろ頭で考える部分も含みます。つまり、人の本質(中心)に関わる部分がその人の思考にあるということです。ただしこれは、一般的な考えの意味の(nous)ではありません。その人自身(本質)、或いは、その人の中心的な思考、つまり、人の霊です。聖書で、心と霊が殆ど同じものとして扱われている箇所が幾つかあるように、これらは非常に近いです。何故なら、両方とも人の本質を表すからです。

 例えば、明るい人でも悲しいという感情や考えを持つ事はあります。ところが、明るい人の中心的な思考は、常にポジティブな考えばかりです。一つの考えがその人の本質を定義するのではなく、その人の中心的な思考がその人を定義します。つまり、アイデンティティーを形成している思考が「心」とも言え、パウロはそれを、思考の霊とも表現しました(エペソ 4:23)。

 そういうわけで、人のアイデンティティーはその人の中心的な考え(霊、心)に基づいています。罪の性質や原罪と呼ばれるもの、或いは、アダムの違反が人に入り込んだ時から、人は「古い人」として歩め事が可能になりました。しかし、だからといって、人のする事全てが悪になったわけではありません。悪魔の性質を持つ事になり、それゆえ、イエスの贖いによる救いが必要になったとはいえ、全ての人が常に悪い事ばかりをしてしまう事にはなりませんでした。

 罪の奴隷であるとパウロは言いましたが、奴隷はその身分を喜んではいません。自身が奴隷であるという束縛を認識しています。それから解放されたいと知っているのです。一般の人が自分自身の罪についてよく考えるなら、その悪を認め、束縛から解放されたいと望みます。罪の性質であれ、肉の思いであれ、人を悪い方向へ誘惑するものが私たちのうちにあったとしても、それゆえに、罪の奴隷になったとしても、どこかで、その悪を嫌い、それから解放されたいと望む、本来の人の霊や心の機能は存在しています。それを知るだけでも、私たちは創造主の存在を知る事になるのです。

 人が罪を犯す時、人の弱さにつけ込む者、誘惑する者がいます。それが悪魔です。しかし悪魔も、人の肉の弱さ、肉の思い、或いは、それを罪の性質や原罪と呼んだとしても、それらを利用し、人が悪をするように同意させなければなりません。つまり、悪魔でさえ、人を完全にコントロールできないのです。未信者も信者も、人には自由意志があり、それを働かせる事によって、罪を犯すのです。従って、人がどんなに罪を犯してしまうという弱さがあったとしても、それ自体が人間を操り人形のようにコントロールしているわけではないのです。カルヴァン主義でいう、「全的堕落」という考えは誤りで、人には自由意志があります。実際、どの時代でも、人は神と共に歩める事、信仰による義があった事が聖書から読み取れます。恵みの時代から、信仰を通して義と認められるようになったのではないのです。

 ある意味、人の自由意志が最も強いものと言えます。それによって、人は神さえも退ける事が可能だからです。しかし、イエスの愛に触れられるなら、人はそれを喜んで受け取るでしょう。福音の素晴らしさを知った時、人は自由にその愛を求めるようになるのです。何故なら、福音の真理の言葉には、私たちを自由にする力があるからです。そして幸いな事に、私たちクリスチャンは「古いもの全て」が過ぎ去っている状態に留まる事が可能になりました。それは、新しい人として歩む、御霊によって歩むという意味です。その歩みを始めたばかりの人は、油断して罪を犯してしまう事がよくありますが、そうだからといって、神の子としてのアイデンティティーは失いません。何故なら、御父は、イエスを通して私たちを見て下さるからです。イエスを信じ続ける者の罪は、イエスが代価を払ったものとしてみなされ、私たちはその罪の刑罰から免れています。もちろん、そうして自由になったがゆえに、私たちは義の道を歩まなければいけません。

 思考が、まだ完全に一新されていない私たちにとっては、義の為に生きる事が不可能のように見えるかもしれませんが、私たちは、そのようにして歩める事のできる新しい人となっているのです。実際、クリスチャンは自由になっています。ですから、イエスを模範として、神の子として歩み始めるか、それとも肉の思いに影響されて、再び古い人(罪の奴隷)として歩むかは、私たち次第なのです。

新しいアイデンティティー 2

 第二コリント 5:17「ですから、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」

 「古いもの」は archaia というギリシャ語が使われていますが、これは複数形で表わされています。「単一の古いもの」ではなく、「複数の古いもの」が正しい訳です。新しく造られた者は明らかに「人」を指しています。それと対になるのが「古いもの」であるのは文脈から明らかでしょう。ですから「古い人」が「複数の古いもの」に含まれているとするのが自然の運びではないでしょうか。ここでパウロが「新しい人」と言っている以上、その比較の対象である「古い人」を「複数の古いもの」の中に含むという読み方は無理のあるものではないはずです。

 更に、パウロは別の箇所で「古い人」と「新しい人」の二つの表現を用いて、両者が相反するものとしています。

 エペソ人  4:22-24「その教えとは、あなた方の以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなた方が脱ぎ捨てる事、又、あなた方が霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着る事でした。」

 さて、「複数の古いもの」ですから「古い人」以外に何か他に含まれているという事になります。単純に「古い人に関係するもの」として無難だと思います。仮に「古い人」とは全く関係のない何かが「複数の古いもの」に含まれる場合は、それを示す聖句がないといけませんが、そこの方面に憶測を置くのは解釈上のリスクが高くなります。従って、「古い人」を生み出した「アダムの違反」が最有力候補になるのは間違いありません。それが古い人に最も深く関わるものだからです。

 クリスチャンが新しいアイデンティティーとして生まれ変わったなのなら、もう古いもの(古い人、そしてその全て)はないのです。古いもの全てが過ぎ去っているという意味は、私たちが罪と死の法則から解放されているという事と関係しています。一人の「罪」=アダムの違反によって「死」が支配したのですが、それら二つから解放されているとパウロは言いました。それら二つが過ぎ去って、人は新しく生まれ変わったのです。罪も死も、イエスの贖いによって、もはや私たちを束縛する事はありません。

  第二コリント  5:21「神は、罪を知らない方を私たちの為に罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となる為です。」

 ここの箇所の「罪」も単数形です。「私たちの代わりに罪となった」イエスは、私たちの身代わりになったのです。子羊はいけにえの象徴であり、神の子羊は世の罪を取り除く為に来られました。イエスが私たちの罪の為に、その代価を払う為にこの世に来られたのです。しかし、私たちの代わりに罪(単数)となったのに、全ての罪(複数)を赦す事になったのはどういう意味があるのでしょう?ある人々は、「罪の代価となったイエスでも、原罪だけは取り除いてはいませんでした」などと言います。しかし、アダムの犯した違反を取り除いたからこそ、それから出てきた全ての罪(複数)をも取り除く事となったのではないでしょうか?

 私たちの罪が赦されているのは、イエスご自身が罪となられ、罪として死んで下さったからです。つまり、罪を取り除くという事を実践した事によって、罪の赦しがあるのです。同様に、死に勝利したのは、死から蘇る事によって死を克服したからです。

 ローマ 8:1-3「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められる事は決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、命の御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になった為、律法にはできなくなっている事を、神はして下さいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」

 「定められることは決してありません」の部分の動詞は κατάκριμα(katakrima)罪の宣告(罪に定める)という意味です。「解放した」の動詞は ἐλευθερόω で自由にするという意味です。「罪のために」と「肉において罪を」はそれぞれ単数形の「罪」です。「罪を処罰された」の動詞は先ほどの κατάκριμα(katakrima)罪の宣告(罪に定める)が使われています。父なる神がイエスを罪に定めたという事です。それは私たちの為であり、私たちが罪に定めらず、死ななくても良いのは、イエスが私たちの為に罪(単数形)となり、死んで下さったからです。

 それでは、イエスが背負った罪はどれでしょうか?どの一つの罪において、父なる神はイエスを罪に定めたのでしょうか?嘘でしょうか?盗みでしょうか?イエスご自身は一つも罪を犯しませんでした。完全に律法を守った唯一の人としてイエスは自ら罪となり、いけにえとなったのです。イエスが背負った罪は、罪の性質そのものであり、アダムの違反であり、それを取り除いて下さったのです。

 ある教義は、全ての罪からは解放されていても、罪の性質(原罪と呼ぶ人もいる)からは解放されていないと主張します。それが本当なら、主の十字架の御業は一体どういう意味があったのでしょう?私たちの主が一番重要な罪を逃す事があり得るのでしょうか?

新しいアイデンティティー 3に続きます。

新しいアイデンティティー 1

 私たちのアイデンティティーは、新しく創造された霊であり、それは、古い契約がなくなり、新しい契約にとって変えられた事に関係があります。その事をイエスは、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなさいというたとえで表現されました。

 第二コリント 5:17「ですから、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」

 「新しく造られた者」は次の2つの単語で成り立っています。

kaine 新しい
ktisis 創造されたもの

「新しく造られた者」があるのは、まず、古いものが過ぎ去ったからです。新しく造られた者にとって、古いものと共存する事は不可能です。つまり、新しいぶどう酒と古い皮袋の共存ができないという事です。或いは、古い契約が続行中なのに、どうして新しい契約を結ぶ事が可能でしょうか?

 ローマ 7:2 「結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。」

 パウロは「律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけ」だというのを説明する為に、夫婦の関係をたとえに用いました。夫が死んでしまったら、妻は再婚しても姦淫にはならないとパウロは言います。夫のいる妻は、再婚という選択肢を持つ事ができません。それが可能になるには、夫との死別が前提です。それを無視して新しい夫を迎える事はできません。或いは、それを姦淫とみなされてしまいます。

 キリストのうちにあるクリスチャンは全て「新しく造られた者」であり、それは何よりもまず、古いものが全て過ぎ去る(アオリスト形)からです。古いものの中には、古い人も含まれます。古い人は、キリストと共に葬られた人の事であり、罪の奴隷です。そして、罪ゆえに、律法による刑罰を受けるべき古い人は、死ななければなりません。私たちの古い人は、キリストと共に死んだとみなされています。そうする事で、新しい人として復活できるからです。

 ローマ 6:6-7「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる為です。死んだ者は、罪から解放されているのです。」

 6節には罪が二回、7節には一回出ています。これらは全て単数形で表されています。例えば、ガラテヤ5章を参考にして、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興などの罪のうち、どれか一つだけから解放されたという事をパウロは言ったのでしょうか?

 「単数の罪」がアダムの違反 Adam's transgression(これも単数)以外で用いられているケースは、基本的に文脈上で明らかに一人の人の特定の罪を指している時(その場合、文法的に単数とする必要がある時)です。「世の罪を取り除く神の子羊」とバプテスマのヨハネも単数形で「世の罪」と表現していますが、ここも誰かが犯した特定の罪とは考えにくいでしょう。ちなみに7節の「罪から解放された」は(δικαιόω)の動詞が使われているので、「罪から義となり解放された」がより正しい訳です。解放・自由という意味で訳されているのは新約聖書ではここだけなので、「義となった」を入れてより明確にした方が無難な訳になると思います。何故なら語源(dikaios)が「義」を意味するからです。

 「古い人がキリストと共に十字架につけられた」という真理はキリストの十字架によって表されています。それはイエスの復活を通して、私たちが新しく生まれ変わる為に必要な出来事でした。イエスが死ぬ必要があったのは私たちの古い人を葬り去る為です。その古い人は罪と共に死ぬという事になっているです。それは「私たちがもはや罪の奴隷でなくなる為」なのです。

 ところで、古い人は肉の思いによる古いアイデンティティー、或いは、アダムの罪ゆえのアイデンティティーです。

 第一コリント 15:21-22「死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあって全ての人が死んでいるように、キリストにあって全ての人が生かされるのです。」

「アダムにあって全ての人が死んでいる」のは死が「一人の人を通して来た」からです。同じ事をパウロはローマ書でも書きました。

 ローマ 5:17「もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらの事、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、命にあって支配するようになるのです。」

 「一人の違反により、一人によって死が支配するようになった」のはアダムの違反の事です。彼の罪によって死が全人類を支配するようになったのです。しかし今は、イエスによって、信者は命にあって支配するようになりました。新しいアイデンティティーとして生まれ変わった私たちにとって、古い人、罪、モーセの律法、古い契約、死、その他の古いものに属する全てのものとの共存はあり得ません。

 人はいわゆる Dual Nature (二つの性質)を持ってはいません。ある   人々は、罪の性質、原罪となどと呼んだりしますが、私たちは、そうしたものを持つ聖徒ではありません。クリスチャンは罪の性質を持ちながら、罪を犯すのではなく、肉の思いが働いて罪を犯したり、五感が訴えかけるものに対して肉の思いが同意して、罪を犯すのです。霊、魂、体のどこかに、罪の性質が未だに宿っているのではありません。それは取り除かれたのです。

 ヘブル 9:26「もし同じだとしたら、世界の基が据えられた時から、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除く為に現れて下さいました。」

新しいアイデンティティー 2に続きます。

祈りとは 5

 さて、主の祈りをもう一度ギリシャ語から見てみます。主の祈りで使われている以下の動詞が命令形であるというのが、主の祈りの理解の助けになります。日本語では、尊敬語が含まれている為に、以下の動詞が単なる「お願いの祈り」に見えてしまうのですが、これらは全て命令形になっています。

 「御名が聖なるものとされますように」「聖なるものとされる」の命令形
「御国が来ますように」「来る」の命令形
「御心が天で行われるように」「成る」の命令形
「私たちの日ごとの糧を、今日もお与え下さい」「与える」の命令形
「私たちの負い目をお赦し下さい」「赦す」の命令形
「悪からお救い下さい」「救う」の命令形

 英語で見ると命令形で訳されているのがより分かると思います。

 Hallowed be Your name「御名が聖なるものとされますように」
Your kingdom come「御国が来ますように」
Your will be done「御心が天で行われるように」
Give us this day our daily bread「私たちの日ごとの糧を、今日もお与え下さい」
Forgive us our debts「私たちの負いめをお赦し下さい」
But deliver us from the evil one「悪からお救い下さい」

 文法という壁が影響しているという事ですが、命令形という事から、これらの動詞が強く要求するものとして理解する必要があります。ですから、「強い要求、訴え」がより適切です。「私は~を願っています」というよりも、「~が絶対そうなるように」くらいの強い訴えや宣言です。「願ってもそれが叶うか分からない、それでも一応お願いする」という適当なものではないのです。「願った事は絶対そうなる」という「強い確信、信仰に基づく大胆な宣言」なのです。

 律法の下では、神に向かって大胆に訴えるような事はできなかったのですが、イエスはそのようにしなさいと「主の祈り」を通して教えていたのです。律法の下にいた彼らのよく知っている日常の必要を例に挙げ、それらに対する今までの「お願いの祈り」を、今度は命令形に変えて大胆に要求しなさいと教えていたのです。

 私たちの神は父なる神です。その子供たちを愛しておられるという事を知らないと、主の祈りの本質は分からないでしょう。どんな親であっても、子供が求めると与えるのが当然だとイエスは言われました。ですから、私たちは大胆に父なる神に向かって要求する事ができるのです。長い間律法の下にいたイスラエル人は神に対して恐れを持っていました。間違った神の認識を持って祈るなら、私たちは信仰を持てず、自分自身を無意味に卑下してしまい、しかもそれを「謙遜」という美徳だと考えて、ますます宗教的な上辺だけの行いをするようになります。

 本当の謙遜はイエスの教えを素直に信じる信仰に基づいています。神を信頼ぜず、自分勝手な解釈による聖書の理解や祈りこそ高ぶりであり、そのような偏見はパリサイや律法学者が持っていたものです。全てを知っている父のような神だからこそ、その方を信頼して大胆に要求するべきだとイエスは意図したのです。

 小さな子供が何か欲しい時に親に遠慮するでしょうか?親の機嫌を伺ったり、まずは親のご機嫌をとってから頼むでしょうか?残念ながら確かに人間の親子のケースでは実際にそうなっている事もありますが、一般的に言えば、健全な人間関係の下で育った子供は、親に欲しいものを率直に要求するものです。

 「どうか~して下さい」という「信仰のないお願い」は、今日の殆どのクリスチャンの祈りの定義になってしまいました。いかに「アバ、父よ」の意味を知らないかが露わになっています。もし、天の父なる神がどういうお方かを知っていたなら、そのような信仰のない祈りにならないはずです。神に求めたら、神は必ず与えて下さると分かっている、確信している前提で祈るのが本来の祈りです。

 第一ヨハネ 5:14-15「何事でも神の御心に従って願うなら、神は聞いて下さるという事、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願う事は何でも神が聞いて下さると分かるなら、私たちは、神に願い求めた事を既に手にしていると分かります。」

 神を父親のような身近で信頼できるお方と認識して、求めるものは全て与えられるという強い確信に基づくなら、あなたの祈りは自然に大胆になるでしょう。要は、信仰による祈りや信仰によって山を動かすというのが祈りなのです。イエスは、私たちがそのように祈る(要求する)事を願っているのです。

 もう一度言いますが、このような大胆な祈り(大胆な要求)は、イエスが祈りについて教え、それを聞いていた当時の弟子たちにはまだ理解できませんでした・・・聖霊を受けるまでは。 彼らがそれまでよく祈っていた祈りのリスト(日々の糧、罪について、悪からの救い)を大胆に要求する事はできなかったのです。大胆に神の御座に近づくには、イエスの十字架の恵みが必要だからです。

 視点を少し変えますが、次の聖書の個所からも祈りが大胆な要求である事が明らかです。

 マルコ 11:23-24「まことに、あなた方に言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる者には、その通りになります。ですから、あなた方に言います。あなた方が祈り求めるものは何でも、既に得たと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」

 この箇所からも、祈りが必ずしも神との会話や神に向かってお願いを聞いてもらう事ではないのが明らかです。神と会話する祈りもありますが、それは主に、異言による祈りです。又、神にリクエストを聞いてもらって、もし御心に叶うなら奇跡を起こしてもらうという「信仰のない祈り」ではなく、私たちが神に信頼する時に奇跡が起こるという信仰が鍵なのです。もはや「憐れんで下さい。どうかお願いを聞いて下さい」という古い契約の下で、人々が祈っていたような祈りではなく、神の子として大胆に要求し、不可能な事を可能にしてしまう(山を動かす)信仰に基づく祈りであるべきなのです。

 最後に、ルカによる福音書にある「主の祈り」の直後にイエスが語られた箇所を見ます。

 ルカ 11:5-10「また、イエスはこう言われた。『あなた方の内の誰かに友だちがいて、その人の所に真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私の所に来たのだが、出してやるものがないのだ。』すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないで欲しい。もう戸を閉めてしまったし、子供たちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげる事はできない。』あなた方に言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげる事はしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。ですから、あなた方に言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。誰でも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」

 ここでイエスは、熱心に求める事の重要性を説いておられます。しかし、「何を求めるか」という部分もきちんと言われています。引き続き引用します。

 ルカ 11:11-13「あなた方の中で、子供が魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良いものを与える事を知っています。それならなおの事、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えて下さいます。』」

 ルカ 11:9-10 はよく引用される箇所ですが、これらだけを引用してしまうと、あたかも漠然と「何でも求めればその願いが叶えられる」と誤解されがちです。実際に、この誤解が土台となって、「単に求める事」が祈りだと多くの人々が思っているのです。ところが、この箇所で「求めれば与えられる」のは聖霊です。

 イエスはルカによる福音書で、主の祈りの解説として聖霊を求めるという私たちのする事と、その願いを聞いて聖霊を与えて下さる天の父なる神について述べているのです。その理由は、聖霊なしには主の祈りの意味が理解できないからであり、信仰による祈りができないからです。私たちが神の子となって、初めて、信仰による祈りが可能になります。そうすれば、神の子たちである私たちは、大胆に父なる神に求める事ができます。そして、父なる神がその子供たちに最良のもの(聖霊)を与えたいという願いを持っておられる事、又、私たちが究極的に求める事とは、聖霊を求める事だと悟らせる為に、このたとえを語られたのです。

 マタイの福音書による「主の祈り」の解説部分では、その結論として、神の国と神の義を第一に求めるようにとイエスは教えられました。この事とルカによる福音書にある聖霊を求める事は関係しています。何故なら、私たちが聖霊を受ける前に、神の国と神の義を第一にして歩む事ができないからです。

 神が見ているのは私たちの心であり、それは信仰です。人は心で信じるのです。頭ではありません。神は上辺だけの形や行いに興味はありません。ですから、神に喜ばれるような祈りは、信仰による祈りだけなのです。信仰のない祈りは宗教的なものであり、真の祈りではありません。それを、イエスは主の祈りで示されたのです。

 人の立派な祈りを見て神が喜ぶ事はありません。それが神の為になる訳でもありません。祈りはむしろ、私たち自身の益となる為にあります。信仰の祈りを通して多くの祝福を実現化していくのは、他ならない私たちの為です。この事が理解できると、無意味に神に良い印象を与える事ばかりにこだわった祈りをしなくなります。そのように考えていたのは、パリサイ人であり律法学者だったのです。この事が分かると、宗教という型にはまった祈りから解放されるでしょう。そして、自由で素直な祈りに変わっていき、信仰による祈りに変わって行くでしょう。ヤベツの祈りを真似して唱えてみたり、その他の祈り方にこだわらなくなるでしょう。

 ここまできちんと理解できたなら、「主の祈りを唱えると何か不思議な恩恵がある」というような考えが間違いである事に気づき、それを闇雲にリピートする事をやめるでしょう。そして、イエスの十字架によって恵みが私たちに降り注がれている事を知れば、大胆に山に命令してそれを動かす事ができるようになります。そうなると、私たちの祈りは、「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように」の箇所が示すように、心から神を褒め称える事ができるようになります。また、恵みによってあらゆる祝福が既に私たちの内にある事が分かると、小さなものを願い求める事をやめ、「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」と言って、もっと核心的な事柄に対して、大胆に要求し、宣言するようになるでしょう。

 こうした祈りが出来るには、私たちが自分たちのアイデンティティー(神の子である事)を明確に知り、本来のやるべき事と人生の意義(地上を治め、神の国を前進する事)を悟っていなければなりません。真の祈りとは、新生した神の子だけが祈れるものであり、信仰に基づく大胆な宣言です。その祈りを、御霊の助けを得てやると、異言の祈りになります。

祈りとは 4

 マタイ 6:13「私たちを試みにあわせないで、悪からお救い下さい。」

 ギリシャ語の「試み」は「誘惑する」という単語と同じです。ここでは「誘惑に会わせないで」が適切でしょう。何故なら、神が人を誘惑して悪に導く事があると当時の人は考えていました。彼らは良いものも、悪いものも全て神から来ると考えていました。病気も、その人の罪ゆえの神からの刑罰だと考えていたのです。

 ヤコブ 1:13「誰でも誘惑されている時、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑される事のない方であり、ご自分で誰かを誘惑する事もありません。」

 「誰でも誘惑されている時、神に誘惑されていると言ってはいけません」とヤコブが注意した以上、ユダヤ人(イスラエル人)が、神は誘惑して悪に導いたり、災いをもたらされると考えていた事は明らかです。しかし、イエスによって明らかにされた真理によれば、私たちは既に罪からも病気からも、そしてあらゆる悪からも救われているのです。

 ローマ 16:20「平和の神は、速やかに、あなた方の足の下でサタンを踏み砕いて下さいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなた方と共にありますように。」

 サタンを踏み砕くのは誰の足でしょうか?私たちはサタンを怖がる必要はないのです。「悪からお救い下さい」という祈りは、十字架の後ではもう意味がないのです。何故なら、イエスが既に勝利を得たからです。

 さて、ここまでの解説によると、主の祈りの後半部分は、私たちにとって必要にない内容だという事ですが、実はそれに気づく事が重要です。その気づきと関連しているのがイエスの次の言葉です。

 マタイ 6:8「ですから、彼らと同じ様にしてはいけません。あなた方の父は、あなた方が求める前から、あなた方に必要なものを知っておられるのです。」

 この個所を読んで、では一体何の為に祈るのかという所から考えた事はあるでしょうか?イエスは異邦人のように祈るなと注意してから、「主の祈り」でどのように祈ったら良いのかのヒントを示したのです。そしてその中で、彼らの今までの祈りとは根本的に違う祈りについて示されたのです。もし、神が私たちの祈りの内容を既に知っているとしたら(事実その通りです)、私たちは何の為に祈るのでしょうか?まさにそれに気づかせる為にイエスは主の祈りを用いて、祈りの目的やその意味についても教えられたのです。何故なら、律法の下での祈りはその目的や意味が誤解されており、形だけの、宗教的な儀式となっていたからです。

 マタイ 6:31「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくて良いのです。」

 クリスチャンにとって、心配が祈りの原動力となっていると最初の記事で書きましたが、それはこの聖書の箇所からも明らかです。多くの人の祈りが主の祈りの後半部の項目(以下の三つ)を心配して祈っています。そしてそれらを願い求めるというのが、当時のユダヤ人の儀式化された祈りでした。

1.日ごとの糧
2.罪の赦し
3.悪からの救い

 上の三つを心配して祈る必要がないというのが、恵みによって明らかにされている真理ですが、それでは何故イエスはこれらの事を含めたのでしょうか?その理由は、祈り方を教わった弟子たちがまだ律法の下にいたからです。律法の考えを持っていた彼らユダヤ人は、律法の下での祈りしか分からなかったのです。イエスは彼らが理解できる範囲で、真理を解き明かそうとされました。

 ですから、主の祈りの後半部分は彼らが理解できる律法の下で彼らが祈りについて理解していたものが含まれているのです。しかし、だからと言ってイエスは律法を教えていたのではありません。むしろイエスは律法を成就し、恵みを実現される為に来られました(ヨハネ 1:17)。イエスがモーセの律法を引用し、その解説をなさる必要があったのは、モーセの律法の限界を彼らに悟らせる為だったのです。主の祈りでも、モーセの律法に基づく祈りの描写があるのは、それをするようにではなく、その事にはもはや力はなく、恵みがもたらす真理はそれらを超えている事を悟らせる為だったのです。もちろん、真理を知るには、御霊が必要なので、当時の彼らには、主の祈りはまだ理解できなかった内容だったのです。

 ここで鍵になっているのは、聖霊によって初めて私たちは主の祈りでイエスが言いたかった事を悟れるようになるという真理です。ですから、基本的に主の祈りは、恵みの下にある人たちがする祈りについてです。聖霊はイエスの言った事を思い起こさせ、私たちを全ての真理へと導きます。聖霊は聖書の全ての個所を理解する為の最大の鍵です。イエスの教えのたとえ話は、人間的な聖書の研究に頼りすぎず、聖霊に頼る必要があります。既に私たちのうちに留まっている注ぎの油が私たちに真理を教えるのです。

祈りとは 5に続きます。

祈りとは 3

 マタイ 6:9「ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ...」

 当時、神に対して「父」と呼ぶユダヤ人はいませんでした。彼らにとってはそのように考える事もできませんでした。何故なら、神を「父」として見ていなかったからです。律法の下にいる彼らにとって、神はいつも恐ろしい存在でした。ですから祈りは、祭司が代表として行った仕事であって、少しのミスも許されない完璧な儀式でもあったのです。そういうわけで、彼らにとって神を「父」とする表現は神に対する冒涜というくらい不適切な呼び方だったでしょう。

  言うまでもありませんが、誰でも口先だけなら「アバ、父よ」と発言する事はできます。イエスはここで口先だけでも良いからそのように言いなさいと教えていたわけでもありません。口先だけの偽善者の祈りであって良いはずがありません。真理によれば、聖霊無しには誰も「アバ、父よ」と呼ぶ事ができません。リップサービスではなく、本当に心から「アバ、父よ」と言いなさいと教えたのです(ローマ 8:15)。つまり、イエスは当時のユダヤ人にはできない祈りを教えていたのです。彼らにできもしない事を教えていたという事に気づけば、主の祈りでイエスが何を言おうとしたのか見えてきます。聖霊が与えられたのはイエスの十字架の後ですので、イエスが主の祈りをユダヤ人に教えていた時には、彼らにとって不可能な祈りだったのです。

 マタイ 6:10「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように。」

 神の国が来る事と神の御心が地上でもなるように求めなさいとイエスは教えています。「御国が来ますように」の部分もユダヤ人にとってまだ分かりませんでした。これは、単に世の終わりの日が早く来て「万々歳のハッピーエンド」になるようにという、浅はかな願いではありません。御国が来るという意味は、神の国が地上に実現化するようにという期待とその宣言の事です。この実現化は神の子供たちであるクリスチャンが成すべき事であり、これがクリスチャンの地上で生きる目的なのです。当時のユダヤ人は、世の終わりに神ご自身が地上を神の国になさると考えていました。ところが、この地上を治めるのは私たちなのです(詩篇115:16)。

 「御心が天で行われるように、地でも行われますように」の祈りも、当時のユダヤ人は理解できなかったはずです。彼らは全て地上で起こっている事は神がコントロールしていると考えていたからです。この部分は現在のクリスチャンでも同じように考えています。もし神の御心通りに事がなされているのなら、全ての人がイエスを信じて救われているはずです。

 マタイ 6:11「私たちの日ごとの糧を、今日もお与え下さい。」

 「日ごとの糧」は当時のユダヤ人だけでなく、誰でも理解できる箇所だと思います。何故なら、毎日の糧を求めるという肉の欲求は、誰でも知っているからです。「日ごとの糧」は私たちに必要なものなのですが、必要なものは求めなくても良いとイエスは言われます。ここをおろそかにすると主の祈りの本質を見逃してしまいます。

 マタイ 6:12「私たちの負い目をお赦し下さい。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」

 この部分もユダヤ人にとっては理解できた箇所です。彼らは律法主義でしたので、常に罪意識があったからです。しかし、神が私たちを赦されるのは、私たちが私たちに負いめのある人たちをまず赦すからなのでしょうか?それならばどこに恵みによる赦しがあるのでしょうか?この個所が「目には目を、歯には歯を」という律法と同じ視点である事に気づいて下さい。真理によれば、主が最初に私たちの罪を赦して下さったのです。私たちがある条件を満たすと罪が赦されるのではありません。無条件の愛によって、まず主が先に私たちを赦して下さいました。だからといって、他人を赦さないでも良いというわけでもありません。ポイントは人の罪はキリストの十字架によって赦されている(十字架がその象徴ゆえに)というのが真理であり、十字架以前にイエスが教えた主の祈りでは、この部分が律法の視点になっているという所です。

祈りとは 4に続きます。

祈りとは 2

 一部の例(下に解説)を除いて、旧約聖書から祈りを学ぶ必要はありません。恵みの下での祈りは全く新しいものになったので、律法の下での祈りは参考にならないからです。イエスが私たちを宗教的な祈りから解放して下さった事に気づいていますか?旧約の律法の視点からだと人間は取るに足らない存在です。律法の下では、人は汚れた罪人であり、聖なる神に近づく事はできない、価値のない存在という視点なのです。ですから、その視点から私たちが神に祈ろうとすると、どうしても大胆に神の御座に近づく事はできないのです。ちなみに、エリヤの祈りは旧約聖書の中でも例外な祈りの一つです。彼の大胆な祈りは、私たちが参考にすべき祈りです。

 へブル 4:16「ですから私たちは、憐れみを受け、又、恵みを頂いて、折にかなった助けを受ける為に、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 恵みが十字架によって人に完全に知られる前は、人間は誰も神の恵みの御座には近づけないのです。十字架の恵み以外の方法で私たちは神に近づく事は不可能です。

 へブル 10:19「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入る事ができます。」

 イエスキリストの聖なる血によって、つまり、イエスキリストの十字架による贖いによって初めて、私たちは初めて父なる神の聖所へと大胆に入ることが可能なのです。旧約聖書の時代では、祭司しか聖所に入る事ができなかったので、まさに選ばれた人のみが神に祈る事が許されていました。この幕屋の至聖所は地上で作られたものでしたが、祭司は命がけでその任務をこなす程でした。ですからユダヤ人にとって、祈りはミスを許されない聖なる行為であったのです。

 恵みの下では、どのようにして祈るべきでしょうか?ヒントは主の祈りの中にあります。ただし、主の祈りは正しく解釈される必要があります。イエスがどのような意味で主の祈りを用いて私たちに祈り教えていたかを理解しなければ、結局、主の祈りが「祈りの型」として宗教的なものとして誤解されてしまいます。さて、福音書の主の祈りは祈りについて知る事のできる重要な個所である事は間違いありません。そして主の祈りについて一般的な誤解を取り除く鍵となるのが三つあります。

  1. ギリシャ語の「祈り」の意味の理解
  2. イエスが教えていたユダヤ人はまだ律法の下にいたという事実
  3. 主の祈りでイエスが意図していた事
1は聖書全体に関わるのですが、2は福音書に関わるものです。3は2を理解した上で主の祈りを読むと理解できます。それではここからは主の祈りの解説を中心に書きたいと思います。

 マタイ 6:8「ですから、彼らと同じ様にしてはいけません。あなた方の父は、あなた方が求める前から、あなた方に必要なものを知っておられるのです。」

 まず主の祈りの前にイエスは偽善者の祈りについて注意を促しています。彼らの形式的な、宗教的な上辺だけの祈りを真似してはいけないとマタイの6章5節辺りから言っています。言葉をたた繰り返したり、言葉の数だけを増やせば良いという祈り(異邦人の祈り)ではだめなのです。イエスはここで、私たちの父なる神は私たちの必要なものを既に知っておられると言いました。次の聖書の箇所も同じ内容です。

 マタイ 6:31-33「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくて良いのです。これらのものは全て、異邦人が切に求めているものです。あなた方にこれらのもの全てが必要である事は、あなた方の天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられます。」

 イエスは必要なものについて心配して祈る事はないと言っています。神の国とその義をまず第一に求めているなら、それに加えて必要なものはすべて与えられると言っています。実は33節は主の祈りの結論に当たる部分です。主の祈りの中で一番肝心なのは神の国とその義とをまず第一に求める事なのです。主の祈りと神の国とその義を第一に求める事は別々の教えではありません。マタイ6章全体をゆっくり読めば分かります。イエスは主の祈りを通して祈りの模範を示した後、それの解説をしています。そして6章33節が結論なのです。イエスによる主の祈りの解説が理解できないと、主の祈りを単なる祈りの模範としてリピートするという上辺だけの祈りになってしまうのです。

祈りとは 3に続きます。

祈りとは 1

 今日、クリスチャンの祈りほど宗教的な行いとして扱われているものはないくらいです。その根本的な原因は、祈りの定義が聖書からかけ離れてしまったからです。殆どのクリスチャンの祈りは、信仰と関係なく神に何かをお願いするというものになっています。聖書の教えている祈りは、単なる希望に基づくものではありません。又、願っている内容によってはその祈りの意味がないものもあります。簡単な例を一つ挙げると、既に罪による神の怒りと刑罰から救われているクリスチャンが、救いの為に求めても意味がありません。たとえ本人が救いに確信がなかったとしても、イエスを信じている以上、神の怒りから救われているという真理は変わらないのです。

 さて、癒しも救いの一部として十字架の御業によるものです。イエスが鞭でご自分の体に傷を受けたのは私たちの病いが癒される為でした。私たちは主のうち傷によって癒されているのです。ですから、癒して下さるように神にお願いするように祈るのは意味がないのです。何故なら、神は私たちを既に癒されたからです。後はそれを信じて現実化させるだけなのです。そもそも、祈りの定義が「単なる願い」になってしまっているのが誤解いの元ですが、それに追い打ちをかけるものが二つあります。

何か問題があった時に祈る

 もし、あなたの祈りの多くが神に何かお願いしているようなら、それはバランスの崩れた祈りなのです。ギリシャ語によれば「祈り」は「強い懇願」の他にも「決断」や「誓い」という意味があります。問題がある時にだけ祈るのであれば、それはご利益主義です。

不安が祈りの動機になっている

 ペテロが水の上を幾らばかりか歩いて、イエスの所へ行こうとした時、彼は風をみて怖くなったと聖書は書いてあります。それまではイエスを見て歩いていたのに、風という問題を意識した為に不安になったのです。クリスチャンの一般的な祈りも、問題ばかりに意識を向けている為に心配や不安が先行しています。それが祈りの動機になってしまっているのは、聖書の教えと真逆です。聖書では信仰による祈りを強調しています。気づくべき点は、祈りそのものに力があるのではなく、「信仰による祈り」に力があるのです。ヤベツの祈りをすれば自分も祝福されるというのは大きな勘違いです。イエスご自身も、同じ言葉を繰り返すだけの祈りや、言葉数の多い祈りは異邦人がやるものだと言って、宗教的な祈りをしてはいけないと言われました。


定義

 ギリシャ語の「euche」というのが祈りの語源です。これは主に誓いや懇願、決断という意味があります。「pro-seuche」は祈りという名詞であり、「pro-seuchomai」は祈るという動詞で使われています。「pro」は主に方向を示す前置詞です。ですから、「願い・誓い・決断へ向う」というのがギリシャ語の意味する「祈り」です。一般的なクリスチャンの祈りは、神にリクエストするという単なる願いです。このギリシャ語は文脈から、「大胆に願う」という信仰に基づく願いを意味します。律法の下での祈りは大胆な祈り、つまり、信仰の祈りではありません。しかし、恵みの下では「信仰による祈りに力がある」という教えが基本です。

 ところで、語源から見れば分かるように、祈りの対象として通常考えられている「神」がありません。異言による祈りの場合にのみ、「神との会話」としているのは、より正しいのですが、基本的に、ギリシャ語の「祈り」は「神」や「話す」という単語に関連しているわけではないのです。つまり、聖書的な祈りは、必ずしも神に対してするものとは違うのです。そして、先ほども触れましたが、祈りとは単なる呪文や繰り返される一連の言葉などではありません。ですから、神に良い印象を与えるような儀式としてとして祈るのは、旧約聖書の律法の下ではそう考えられていても仕方のない事でしたが、恵みの下では不信仰と見なされるのです。

 マタイ 6:7-8「また、祈る時、異邦人のように、同じ言葉をただ繰り返してはいけません。彼らは、言葉数が多い事で聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じ様にしてはいけません。あなた方の父は、あなた方が求める前から、あなた方に必要なものを知っておられるのです。」

 イエスは、天の父なる神は私たちがお願いする先に、私たちの必要なものを既に知っておられると言いました。全知全能の神は私たちの心を見る事ができるので、私たちが何かを言う前に既に知っておられるのは当然でしょう。この事から言えるのは、祈りはそもそも「神に聞いてもらう為」ではないという事です。例え、あなたの立派な祈りが周りには謙遜に見え、いかにも聖書知識が豊富なような表現を使って流暢に祈る事ができても、それをもって神に良い印象を与える事はできません。祈りが必ずしも神に向かって話す事ではない理由がここにあります。

 「神との会話」を祈りの定義とするのは、先程も言ったように、御霊による祈りのケースです。御霊による祈りは、それまでユダヤ人が常識だと考えていたもの(儀式的・宗教的なもの)を完全に超越してしまったものです。しかし新約聖書が示している祈りは、従来の型にはまった宗教的な祈りではなく、信仰を前提としたものであり、儀式的な要素が全くないものなのです


祈りとは 
に続きます。

罪の性質 2

 第二コリント 5:17「ですから、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」 

 新しい霊によって生まれ変わったクリスチャンは、義人であり、聖い者として認められています。それは、私たちから罪が取り除かれたからです。それならば、どうして私たちは罪の性質を持っていると考えるのでしょうか?むしろ、リストの御業の恵みによって、私たちは義人となったと信じるべきなのです。実際、ヨハネはキリストにあるクリスチャンは罪を犯す事がないと教えているです。もちろん、その条件として必要なのが、キリストの思考によって、キリストの義によって歩む事です。

 ローマ 6:14-18「罪があなた方を支配する事はないからです。あなた方は律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんな事はありません。あなた方は知らないのですか。あなた方が自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。神に感謝します。あなた方は、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。」

 殆どのクリスチャンはちょうど未信者と同じように生きていて、罪を犯す者として自身を見ています。それなら次の聖句はどのように捉えるべきでしょうか?

 ローマ 6:6-7「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる為です。死んだ者は、罪から解放されているのです。」 

 私たちの「古い人」はキリストと共に十字架でつけられ死んだ事になっているのです。これは、人の古いアイデンティティーを生み出していた罪が取り除かれた為に、古い人は死んでいる状態であるという真理を表しています。

 コロサイ 3:3「あなた方は既に死んでいて、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」

 クリスチャンは新しい霊として生まれ変わったので、古い人や肉のものに対して死んでいるのです。それゆえに、罪を犯さない状態にあるべきです。ただし、この聖句を信じないのなら、その歩みは未信者と同じになってしまいます。この御言葉を信じる事が、罪に関わる問題から抜け出す第一歩なのです。

 ローマ人 6:4「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中から蘇られたように、私たちも、新しい命に歩む為です。」

 新しい命に歩む事ができるようになったクリスチャンなのですが、それを知らないでいると、罪が取り除かれているにも関わらず、「古い人」のままで生活してしまうでしょう。知らないがゆえに、ある意味、死んでいるべき古い人を復活させてしまうのです。ただし、この真理を知っただけで直ぐに罪を犯さなくなるわけではありません。何故なら、私たちの思考はまだ一新されていない、肉の部分があるからです。ですから、その肉の思いを御言葉の真理に変える必要があります。この成長過程においては失敗する時も多々ありますが、次第に信仰の成長が加速していき、結果として、罪を犯す事もなくなって行きます。これは宗教的な努力によるものではなく、思考の一新によって信じた結果の実なのです。

 私たちの思考というのは経験や学習という過程を経て形成されていきます。一度ある種のパターン思考が確立すると、人はそのように考える傾向を持ちます。確立された考えのまま長い間生活していると、それとは真逆の考え方に切り替える事は難しいものです。いわゆる伝統的な教えなどは、人をある種の考えに強く縛ってしまいます。一度そうなると、人は伝統だからというだけの理由でよく理解しないまま、儀式を熱心に行ったりします。

 マルコ 7:6-8「イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなた方偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている。彼らが私を礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』あなた方は神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」

 一般的に広く教えられている教理や神学の多くは、人による伝統の教えになってしまっています。その全てが間違いではないのですが、その全てにおいて、どこか間違いがあります。それらは主に、古い契約の視点で見ている為に、真理が宗教的な行いと結び付けられて、モーセの律法の教えに戻ってしまっているのです。罪の性質についても同様です。罪を取り除く為にキリストが十字架に掛かって下さったのに、神学は信者でもまだ原罪を持っていると教えるのです。

 「クリスチャンでも原罪はまだある」のが正しい真理なのか、それとも世の罪を取り除いた神の子イエス・キリストの十字架の御業が真理なのか、そこに答えがあります。しかし答えは明白なはずです。イエスの流された血が、全ての罪を取り除く聖なる血である事が理解できれば易しい問題です。それでもまだよく分からないのなら、ローマ書7章の誤解が主な原因となっているからでしょう。ローマ書の7章と8章をしっかりと理解していれば、人は肉の思考だけではなく、霊的思考によっても歩む事が可能であると知る事ができます。そして、私たちは肉の思考によって歩む必要がないのです。

 クリスチャンでも肉的思考になる傾向があるのは、思考そのものは新生の後も変わっていない為です。「原罪」と呼ばれる罪の性質は、十字架の御業によってもう存在しないのですが、肉の思いはまだ知性の中に、そして古い考えはそのまま脳に記憶として残っています。ただし、それらに頼って生きなければならない訳ではありません。確かに、イエスは十字架で肉の思いや古い記憶を罪と一緒に取り除く事はしませんでした。何故なら、各自の肉の思いそのものは、魂の領域にある、思考や知性の問題だからです。神は私たちの霊は再創造されましたが、私たちの魂や知性はそのままにされたのです。何故なら、それらを再創造するという事は、私たちに与えた自由意志を取り去るような事だからです。実は、この自由意志こそが神からの素晴らしい賜物であるのです。

 主の十字架の御業によって、もう私たちは罪から解放されています。ですから、御霊の思考によって歩む事が可能なのです。ただし、御霊の思考になるように常に聖書の言葉を蓄えて信じ続ける必要があります。これは律法の行いとは違い、御言葉による信仰の歩みです。クリスチャンでも、肉の思考のまま長年人生を過ごしてきたなら、諸々の判断が未信者と同じになっていてもおかしくありません。そうではなく、全ての事をイエスの教えに沿って考えるのが御霊の思考による歩み方です。

 イエスと使徒たちによって明らかにされた真理を信じて、それを普段の生活で実践し、新しい人としての視点によって物事を判断していないのなら、あなたの考えは肉の思いなのです。それによって歩んでいるうちは、罪の奴隷に戻ってしまいます。そういう人が、とっさの判断が要求される場面では、つい感情的になって怒ってしまうでしょう。普段の肉の思いの影響による、悪い習慣が出て来るからです。そうではなく、真理の御言葉で全てを判断するようにします。そのような歩みは非常に難しいと思うかもしれませんが、それはイエスの教える新しい考え方に慣れていないからです。クリスチャン成功の秘訣は、考え方を変える(本当の意味での悔い改め)だけで良いのです。

  ローマ 12:2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにする事で、自分を変えて頂きなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

 心の一新する、つまり、思考を新たにするのは、主に私たちです。神が私たちの代わりにやって下さる事ではありません。パウロは思考の一新によって自分を変えなさいと促しています。「変えて頂きなさい」という訳は、神によってそうして頂きなさいのニュアンスがありますが、原文ではそのように書かれていません。思考の一新については、私たちが何かをアクションを起こさなければならないのです。何故なら、クリスチャンにはそれができるからです。罪を犯さずにはいられない未信者と何も変わっていないのなら、どうして私たちは罪と死の原理から解放されていると言えるのでしょうか?イエスを信じていると言っても、生活が何も変わっていないのなら、どこかがおかしいはずです。一般的なキリスト教から見れば、「それはあなたの努力が足りないから」となるかもしれません。しかし、宗教的な律法の行いと信仰の成長は無関係であり、信仰のない行ないによる義はイエスの教えではありません。

 多くのクリスチャンは、そもそも正しい成長の道も知りません。そこへ向かってもいないのです。「原罪」や「罪の性質」などを持っていると思いながら、信仰の成長を考えている時点でアウトです。そうではなく、罪に対して、既にキリストと共に死んでいるという所からクリスチャンの歩みはスタートするのです。

 成長の為にあらゆる慈善を試みるという視点がアウトです。正しい成長とは、御言葉の実践を通して、自然とそのようになるというプロセスであり、御言葉を信じ続けた結果なのです。思考が変わるので、その変化が外に出てくるようになるべきものが私たちの成長なのです。私たちは、外側の言動など目に見える物ばかりに意識を向けていますが、思考が変わらないのなら、その人自身は何も変わっていきません。一時的な慈善パフォーマンスをしても、それは神に栄光を帰すものではなく、はかない人の努力にしか過ぎないのです。