使徒と預言者に従う?

 Shepherding Movement 或いは Discipleship Movement(弟子訓練ムーブメント)とも呼ばれるカリスマ運動が70年代に広がりました。これは、使徒と預言者の権威が強調された教えです。人々は、使徒と預言者が教会の最高権力者のような立場だと勘違いし、カルト的な方向に流されてしまいました。実際、人生の重要な決定(結婚など)も、使徒や預言者が決めるものと教えていたのです。

 「五役者(五職)」の教えも、未だに誤解されていますが、特に、リーダーの権威が間違って強調されている点が問題です。これらの役割に従事するリーダーは、神に特別に選ばれた霊的エリートではなく、ただ教会をまとめる役割をするだけであり、彼らに他の信者を支配するような権威が与えられているのではないのです。教会のかしらはイエスであり、土台となっている使徒と預言者は、その他の人たちを支える為に一番下にいて、一番使えている人たちなのです。

 エペソ 2:20「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」

 「使徒たちや預言者たちという土台」とあるように、使徒や預言者は、教会の上の立場にいるのではありません。真の教会は、ローマ・カトリックのような、ピラミッドの形ではなく、むしろ逆ピラミッドです。現在でもこの種の考えが「五役者(五職)」の教えにあります。使徒と預言者の回復運動は、それ自体は悪くないのですが、彼らに対するリスペクトが必要以上になっている(肉的になっている)ところが難点です。リーダーに対する尊敬は重要ですが、彼らの権威は、信者に仕え、教える為のものであり、彼らをただ無意味に従わせる為のものではありません。

 1コリント 4:15-16「たとえあなた方にキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなた方を生んだのです。ですから、あなた方に勧めます。私に倣う者となって下さい。」

 パウロは最終的に、彼の愛する子供である、コリントのクリスチャンたちに、「あなた方に勧めます。私に倣う者となって下さい」と言っています。パウロは使徒の役割を担ったリーダーでしたが、神からの特別な権威が与えられたというだけで、ただ彼に従うようにと言っているのではありません。パウロは彼自身が人々の模範となった上で、彼に倣うようにと言ったのです。

 1コリント 4:9-13「私はこう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、最後の出場者として引き出されました。こうして私たちは、世界に対し、御使いたちにも人々にも見せ物になりました。私たちはキリストの為に愚かな者ですが、あなた方はキリストにあって賢い者です。私たちは弱いのですが、あなた方は強いのです。あなた方は尊ばれていますが、私たちは卑しめられています。今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、中傷されては、優しい言葉をかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。」

 私たちが使徒たちをリスペクトする必要があるのは、彼らがこうした苦労をしていて良い模範を示しているならばの話です。自らを使徒と名乗る人々が、使徒としての模範を示していないのなら、私たちは、彼らの発言を吟味する必要があるでしょう。今のところ、信頼できる使徒や預言者の働きをしているリーダーは、それほど多くはいません。その主な理由は、彼らがまだ模範を示せる事ができるほどに、成長していないからです。しかし、前の時代から続いている、間違った教えの修正を加え、これらのリーダーたちが立ち上がる時代は、もう来ています。

聖書的な教会 3

5.聖霊の導き

 クリスチャン生活の秘訣が、御霊によって歩むという真理にある事を知っている人は多いものです。しかし、御霊によって歩むという意味と、それがどのようにして可能になるかが鍵です。実は、聖霊のバプテスマはその第一歩となります。そこから、御霊と共に信仰の歩みを学ぶ必要があります。さて、聖霊の導きに関して言えば、それは私たちが聖書を読んで聖霊の導きを知る事が最も重要です。聖書にある真理をよく分からずに聖霊の導きを求めると、霊的体験主義になってしまい、聖書の解釈が個人の体験に偏ってしまいます。

 クリスチャンの霊的歩みの半分は、御言葉が鍵を握っていると言えます。私たちが気づかないだけで、聖霊は聖書を読むように指示しているのです。イエスの言った事を思い起こさせ、御言葉にある全ての真理に導く事が、御霊の第一の目的だからです。また、聖霊の導きを吟味するには、聖書の真理の理解が不可欠です。個人的体験から学ぶような、感覚的なものだけでは、聖霊の声を完全に吟味する事は不可能です。御霊の導きをよく理解する為には、まずイエスの教えと福音の奥義を理解し、その上で御霊の語りかけ、夢、幻、その他の御霊が導かれる方法を学ぶべきです。

5.賛美と礼拝

 私たちは、個人的な好みに偏りがちな選曲や、音楽のスタイルを超えた、霊的な事を知る必要があります。真の礼拝とは、霊とまことによる礼拝であり、集う信者が心を合わせてお互いの一致を保つ為に重要な役割があります。主に賛美と礼拝を通して、喜びにあふれる経験は、私たちを大いに励まします。賛美によって、皆が一致になると、神の働きがより大きなものとなるでしょう。

6.聖餐式、献金など

 聖餐式はオプションではありません。聖餐式を軽んじていたコリントのクリスチャンは、病人が大勢いました。十字架の恵みを体験するには聖餐式は欠かせません。同様に、献金もオプションではなく、皆が喜んで与えるべきです。しかし、何も理解しないで、これらの事を儀式として行うなら、その恩恵を無駄にする事になります。聖餐式によって健康を保つ事が出来たのに、それを単なる食事として済ませていたコリントの信者は、パウロから注意されました。献金に関しても、強いられたり、喜びと信仰を持って行わないなら、神からの祝福を体験できなくなります。


まとめ

 使徒たちがいなくなった後、初代教会がなくなり、ローマカトリックが代わって、クリスチャンを支配しました。当時のような、聖書的な教会は、少しずつ回復に向かっていると言えます。ペンテコステ運動からは大きな混乱もありますが、それはサタンも必死に、御霊の働きを止めようとしているからです。しかし、御霊とその力が回復される時、私たちは、かしらであるキリストに向かって成長する事になるでしょう。

聖書的な教会 2

2.全ての信者の奉仕

 ローマ 12:6-8「私たちは、与えられた恵みに従って、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。」

 客席から聖職者のパフォーマンスを見ているような、傍観者の立場としてただ参加しているだけの信者は、現在の教会でも多いようです。ローマカトリックの影響を引きずっているのが、その理由の一つです。しかし、パウロは、皆がそれぞれの役割を持っているとしています。プロテスタント運動によっていわゆる「万人祭司」が教理として、形だけは回復されたのですが、まだ実行されていない部分は多いでしょう。全員参加型の集会は、これからもっと見直さなければならない課題だと思います。コリントの教会のクリスチャンは肉に属するキリストにある幼子でしたが、それでも賜物に欠けてはいませんでした。今日、御霊の賜物が十分に活用されていて機能している教会は、世界でもまだないくらいです。キリストの体としての教会はそれ程、真理からかけ離れているのです。

3.信徒の成長と弟子訓練

 イエスの宣教命令の一つは弟子を作る事でした。未信者を信者するだけではなく、その後のフォローアップもあります。一部の献身した人や聖職者以外は観客席で見ているだけの「一般信徒」でも良いと考えている人が多いのは、しっかりした聖書の教えを受けていないからです。聖書の教えは信徒の成長の為であり、その成長は弟子訓練の為、そしてキリストに似た者となる為です。多くの教会ではこうした教えがない為に、クリスチャンはイエスの再臨を待つだけの受け身的な信仰しか持っていません。自ら伝道したり、他の人を積極的に助ける事は少なく、それどころか、自分の信仰を保つのに精一杯なのが現状の様です。

 キリストの弟子として訓練される人は、霊的に成長します。そして今度は彼らが福音を伝えていく番になります。信者が集まるのは、お互いの成長を促す為であり、こうして訓練された人たちが世界に出て行って、より多くの人に福音が伝わるようになるのです。使徒たちの手紙の内容の殆どは、信者の成長の為に書かれてあります。それは単に御言葉の乳だけではなく、成長した大人の為の堅い食物についても書かれています。救われているからそれで良いという消極的な態度では、クリスチャン生活が勝利に満ちたもので、全ての霊的祝福を与えられている約束を、現実化できないでしょう。

4.聖霊のバプテスマ

 多くのクリスチャンに力がないのは、聖霊のバプテスマをの体験がないからです。神の力は、私たちが神の子として歩む為、つまり、力による伝道をする為に必要です。イエスと使徒たちが行った伝道は、力による伝道でした。

 第一コリント 2:4-5「そして、私の言葉と私の宣教は、説得力のある知恵の言葉によるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなた方の信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなる為だったのです。」

 パウロの言葉と宣教は、説得力のある知恵の言葉によってではなく、聖霊の力と現れでした。彼の宣教の言葉を聞いた人の信仰が、神の力によって支えられる為だったとパウロは言っています。神の力とは、ただ御言葉を語るだけではなく、神の力を伴います。聖霊のバプテスマを体験しないでも良いと考えるなら、聖書の言葉をあまり体験しないまま、歩んでしまうでしょう。癒しやその他の奇跡は、単に福音書に書かれる為に起きた事実だけでなく、今でも体験できる普遍的な神の恵みなのです。

 正しい聖書主義とは、イエスが聖霊のバプテスマを授けになるお方だという事を信じ、その約束に忠実である事を意味します。御霊によって御言葉が生きたものとなる為にも、聖霊のバプテスマを受けて、御霊の力を受ける事が必要です。また、神の力を伴わない宣教なら、イエスがしたわざよりも大きなわざをする事ができません。

 ヨハネ 14:12「まことに、まことに、あなた方に言います。私を信じる者は、私が行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。私が父の元に行くからです。」

 イエスご自身も、ただ説教しただけでなく、癒し、悪霊追い出し、死人を蘇らす事や、その他の奇跡も起こしました。御国の福音を宣べ伝えていたパウロも御国の力をよく理解していたので、その御霊の力によって伝道していたのです。

 第一コリント 4:20「神の国は、言葉ではなく力にあるのです。」

 神の力が伴わない宣教でも、ある所までは、ミニストリーで成功を収める事ができます。未信者を救いに導くだけなら、多くの奇跡を必要としません。実際、キリストの権威に対する信仰を持ち、それを行使するだけでも、多くの事をこなす事が可能だからです。しかし、聖霊のバプテスマを通して神の力を発揮するなら、より多くの奇跡にあって歩む事が可能になります。御言葉と御霊の力両方によって歩むなら、私たちはより大きな結果と祝福を体験する事になるでしょう。

 使徒 8:14-16「エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らの所に遣わした。二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らの内の誰にも下っていなかったからであった。」

クリスチャンと聖霊のバプテスマ

 ペテロとヨハネは新しく加わった信者に対して、聖霊を受けるように促しました。パウロも同じような事をしています。

 使徒 19:2-6「彼らに「信じた時、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いた事もありません」と答えた。「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。」

聖書的な教会 3に続きます。