思考の一新 7

ステップ4

 御言葉を宣言する。肉の思考に対して戦うには、御言葉を武器として用いるのが最も効果的です。御霊の剣は要塞をも打ち破る事ができます。例えあなたが長年ずっと考えてきた悪習慣として確立した思考(要塞)でも、御言葉によって打ち破る事ができます。不安の考えによって悩まされているなら、平安の御言葉を宣言するのです。病に対しては健康や癒しの御言葉を用います。このステップは御言葉を知らないといけないので、普段から聖書を読んで御言葉を蓄えておく必要があります。

 ただ口で御言葉を宣言すれば、自然と思考が一新されるという事もあります。何故なら、御言葉に既に神の力があるからです。従って、信じてはいないけれども、とにかく御言葉を口ずさむ事をしていても効果は幾らかはあるでしょう。しかし、思考を一新させる事は魂の領域の働きなので、知性がうまく機能するには物事が理路整然としていないとなかなかスムーズに行きません。従って、「ただ口で御言葉を宣言する」という考えで行うよりも、御言葉が信じるに値し、最終的な権威を持っている事などをまず知るなら、私たちは御言葉に頼る事に納得するでしょう。その納得・理解の上で御言葉を宣言するのなら、あなたのその時の態度はもっと積極的になるので効果的になります。知性は、何故そうする事が必要か・どんな意味があるのかを知りたがります。それで、そのプロセスとかメカニズムが分かると納得します。納得した人は、それを信じて実践する傾向があります。

ステップ5

 宣言した御言葉通りに行動に移します。最初の一歩は小さくても良いのです。御言葉を宣言して信じるなら、その結果として何かの行動をするのが自然になるまで、御言葉によって思考を一新させます。肉の思考を口にするのではなく聖書の言葉を語り、それに伴う行動をします。不安であっても信仰によって喜び賛美し、苦しい時でも主の平安を宣言して思い煩いを止めます。ついつい肉のままに流されてしまうようでも、御言葉の真理に頼る事が鍵です。

 最後は、1から5のステップをしばらくやってみて、自分にどう変化があったか、そしてどこを修正すればより良い結果が望めるか、などといった評価をします。改善の為の調整は各個人の判断によって異なりますが、これらのステップを根気強くやらなければいけない点は共通しています。最低でも毎日30分、集中してやるなら、1週間くらいで何らかの良い変化が期待できます。2週間もすれば、新しい思考パターンがあなたの中で強くなっているのを実感するでしょう。一か月後には、その健康的な考えによるライフスタイルが確立され、早ければ90日を過ぎる頃には、前に考えていた古い肉の思考に悩まされる事がなくなっているはずです。そして、その新しい思考は御言葉によって支えられ、しっかりと根がついているでしょう。

まとめ

 多くのクリスチャンの持っている霊の戦いの認識は、問題が表面化しているのを見た後で「サタンに攻撃されている」と言う様なものです。事が大きくなってから、或いは、事が起こってからそれはサタンの仕業だという認識ではあまり意味がありません。ちょうどエバが罪を犯したのはサタンが誘惑したからだと言い訳したのと同じです。散々あれこれと罪に関与した挙句に、そうなってしまったのはサタンの攻撃があったからだとするのは、あまりにも気づくのに遅いのです。車がぶつかった後で事故が起きましたと言ってもしょうがありません。事故になる前にその前兆を認識して、ブレーキを早い段階で踏んで事故を未然に防ぐのと同様に、サタンの攻撃を認識してブレーキを踏む(攻撃を打ち破る)為には、サタンの攻撃とそのやり方を知る事がまず必要になります。

 サタンが戦いの場として選んだ所は彼の得意とする領域です。それは私たちの思考の中です。サタンは長い間人を見てきたので、私たちが肉の思考に弱い事をよく知っています。空中で天使と悪霊が戦っている様なものが霊の戦いの主な戦場ではありません。教会の歴史で同じ失敗が繰り返されてきた大きな理由の一つは、霊の戦いの戦場に気付いていないクリスチャンが多いからです。サタンは賢いので自身の存在を見せずに攻撃します。地域の縛っている霊をとりなしの祈りで追い出す事よりも、まず私たちの思考の中でサタンの攻撃を打ち砕く必要があります。

 思考の中でやられてばかりのクリスチャンの集いには、あまり力がありません。そうした人たちが集まって祈っても信仰による行動を起こさないので、その結果いつも神様に事をして下さいとお願いする祈りになっています。その集いの祈りはただひたすら、主の油注ぎ、聖霊の臨在、或いは不思議なしるしやリバイバルを祈って待っているだけの受け身の態度です。しかし、神様の子供であるというアイデンティティーの認識と、私たちのうちにおられるキリストが思考の一新によって主の祝福を現実化するなら、私たちは大胆に歩む事ができるのです。事実、神様が私たちの信仰による一歩を待っておられるのです。私たちの宗教的で熱心な希望の祈りが神様を動かすのではありません。そもそも祈り自体が神様を動かすのではなく、信仰による大胆な祈り(宣言・誓い・命令)が山を動かし、それによって既に私たちのうちにある祝福(霊的に既に存在している祝福)を現実化させるのです。

 思考を一新する(考えを変える)事によってのみ、私たちは肉の思考(サタンの攻撃)を排除できます。それは日々の霊の戦いであり、それはまた聖化という信仰の成長なのですが、私たちはそれをゼロからスタートするのではなく、既に聖なる者とされているという真理からスタートします。難行苦行を経て到達するという宗教的な努力ではありません。聖化とは既に与えられた恵みを思考の一新(考えを変える事)によって外に表していくというもので、御言葉を信じる事から始まります。今までの悪い習慣による肉の思考を排除するには時間が掛かるでしょう。これは信仰の戦いです。信仰が鍵です。敵の火矢を打ち消す信仰の大盾は、唯一私たちがサタンの攻撃を受けてもダメージを受けない防具です。

 思考の一新は根気強くやる事はもちろん、それ自体が成長のプロセスなので時には失敗もあるでしょう。しかし私たちクリスチャンにとって、各個人の霊の戦いは、キリストの十字架によって最初から勝てるという前提に立っています。思考という私たちの弱い領域を、サタンは主な霊的戦いの場として選んだのですが、私たちの自由意志はとても強いものです。特にクリスチャンの場合は、キリストの思考によって自由意志が良い方向へ働くように影響されているので、後は御言葉に沿って考えて変えるだけなので勝利の道を突き進む事ができるのです。パウロはそれを悟ったので目標に向かって走っていました。サタンや悪霊は私たちの無知ゆえに強いのであって、私たちが御言葉を心に刻んでいけば、敵は弱くなって行きます。クリスチャンの成長の全ては神次第ではなく、その半分は私たち次第なのです。これが、新約聖書でパウロが説き明かした偉大な奥義の一つです。

思考の一新 6

自分の中の考え

 多くのクリスチャンでも、自分の中にある全ての考え(良いのも悪いのも)は、自分自身で思いついていると思っています。しかし、先に書いたように、クリスチャンの根本的な思考は既にキリストの心(思考)であるので、自ら悪い事を生み出す事はありません。肉の思いは、サタンが私たちにその悪い思考パターンを思い出させているケースもあります。

 肉の思いとは、あなた自身が肉的に深く考えた結果ではあります。しかし、最初にその悪い考えや発想を入れたのは、サタンであるケースもあります。サタンが悪い考えを入れた事に気付かないなら、それを自分のものとして扱うでしょう。それは、サタンが入れた肉の考えに同意する事と同じです。あなたが同意した時点で、あなたは戦いに負けたのです。最初のうちは、肉的な考えがサタンから来たのかどうか、よく分からないかもしれません。しかし、肉的な考えは全て敵の攻撃と見なして排除しましょう。それが大事なポイントです。参考として、サタンがクリスチャンに対して肉の考えを入れるケースを紹介します。

ケース1

 一つ目は、肉の考えが突然頭の中に浮かんでくるようなケースです。急に悪い事を思いついたのなら(実際にはあなたが思いついたのではないのですが、そのような錯覚はあります)、それはその考えが外から入って来た証拠です。また、自分では考えたくない悪い考えに悩まされる場合もそうです。自分では考えたくないのに、何故かその事が頭に浮かんでくるようなものはサタンからの攻撃です。

ケース2

 私たちが他人の事について考える場合です。他人に対する見方は、偏見になりやすいです。偏見に妄想を加えて、さらに極端にしてしまうと、相手に対する憎しみなどが大きくなります。想像の中でその人と口論し始めるかもしれません。その口論がヒートアップするような展開が思考の中で起きているなら、その声はサタンからのものです。サタンは、その人に対する間違ったイメージをあなたの中に入れようとしているのです。

 敵が悪い考えを持ってくるケースもあるという事を覚えておいて、それを見抜けるようになれば、「自分で悪い事を思いついた」という勘違いからすぐに解放されます。私たちはそうした肉の考えに浸るのではなく、それを追い出します。最初は一日のうちに、何度もそれをしなければならないでしょう。長年パターン化された肉の考えは、あなたの一部となっているので、ついその考え方をしてしまうものです。しかし、それを徹底的に締め出す忍耐が必要です。誰でも意図をもって悪い事を考え、それを行動に移そうという自由意志はありますが、そのような事をするのは基本的に未信者だけです。

 第一ヨハネ  3:9「神から生まれた者は誰も、罪を犯しません。神の種がその人の内に留まっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯す事ができないのです。」

 新しくされた私たちの霊は、罪を犯す事はできません。クリスチャンが罪を犯すのは、魂と体においてなのです。未信者は新しい霊と、そのうちにあるキリストの思考を持っていない為に、罪を犯す方向に進む傾向が強いです。人が犯した罪は事実ですが、幸いな事に、全ての罪は既に赦されているという真理があります。そして、キリストの聖なる血を受けた私たちには、罪に打ち勝って生きていく道をも用意されているのです。パウロによって明かされたこの奥義はとても重要です。

 その勝利の生き方は、思考の一新を主とする、魂の成長という過程を経て現実化して行くものです。既に罪と死の原理から解放されたという、霊における真理を魂と体の領域においても現実化する事です。キリストにおいて、私たちは全ての霊的祝福を霊の内に頂いていますが、それを魂と体の領域に表すには、私たちが成長の道を進んで行かなければなりません。既に霊において癒されている真理に対して、信仰を働かす事によってその癒しを魂と体において現実化するのは、私たち次第とも言えるのです。

思考の一新 7に続きます。

思考の一新 5

ステップ1

 クリスチャンの場合、新しい霊によってキリストの心(思考)があるので、肉の思考で歩む必要がありません。ですから、まず私たちがする事は古い人は既に死んでいるという真理を信じる事です。古い人は罪の性質と肉の思考によって、そのアイデンティティーが確立されていたので、罪を犯してしまう奴隷として歩んでいました。その古い人はキリストと共に十字架につける必要があったのは、肉の思考も捨てる必要があるという事を示唆しています。そして、新しく生まれ変わったクリスチャンは御霊の思考を選択できる自由が与えられています。これらを知い、信じる事が最初のステップです。

 第一コリント 2:16「誰が主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。」

 新改訳聖書ではキリストの心という訳になっていますが、ギリシャ語では kardia ではなく nous になっています。ですから、より適切な訳は「キリストの思考」でしょう。

ステップ2

 普段から肉の考えで色々と考えずに、すぐに聖書の御言葉を思い出す習慣をつけるようにします。相手の欠点を見てそれを肉の思考であれこれ考えると、次第にエスカレートしてその人に対する間違ったイメージが作られてしまいます。サタンはこのように仕向けるのです。そのような否定的な思いが入ったらすぐに止める事です。日常でこうした注意を敏感に払っていれば、次第に何が肉の考えなのか特に聖書に詳しく書かれていなくても分かるようになります。

 肉の行ないは比較的明確なものです。パウロも次の箇所でそう言っています。

 ガラテヤ 5:19-21「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなた方に予め言っておきます。このような事をしている者たちは神の国を相続できません。」

 聖書から御霊の思考(霊的思考)を学ぶ事によって、何が逆に肉の思考かを知る事もできます。

 ガラテヤ 5:22「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」

ステップ3

 次に、自分の考え方をチェックして、その中で何が肉のものかを見極めます。基本的に良心が痛むようなものは肉の考えです。何らかの形である罪の行いを理論的に正当化できたとしても、良心が痛むような事をしたのなら、それは罪であって肉的考えである事が分かります。自分の思考を分析する方法の一つとして、自分の考えた事をノートなどに書いてみると良いかもしれません。思っている事を書き始めると、どういった思考の過程だったかまで思い出す事もあります。最初は面倒かもしれませんが、このステップはとても重要なので、日記を書くつもりで習慣づけると良いでしょう。多くの御言葉が分かって来ると、自分の考えをチェックする時に、毎回ノートに書いてみなくても、何が肉的な考えかすぐに分かるようになります。肉の考えかどうかをいかに素早く見極められるかが成長の鍵です。気づくのが遅い程、肉の考えを放置している時間が長くなり、ついには、肉の歩みになってしまうのです。

思考の一新 6に続きます。

思考の一新 4

肉の思いはどこから?

 未信者の霊は再創造されていないので、キリストの考え方を持っていません。彼らにとっては、肉の思考パターンしか形成されません。その思考パターンは生まれながらに持っているのではなく、世の影響を受けて学習するものです。御霊の考え方を知らないなら、感情や五感が訴えかけるものに思考が形成されてしまいます。肉の思いに基づく自らの言動は、その人自身に死をもたらしているのですが、未信者はそれに全く気付いていません。クリスチャンの場合は、キリストの考え方が霊のうちにあるので、それによって歩むなら、命と平安に至るという選択があります。その歩みは、別の言葉で言えば、御霊によって歩む事なのですが、それがクリスチャンの歩みの鍵だと知っている人は多くても、実践していない人が多いのが現状です。

 クリスチャンには、肉の思考パターンと御霊の思考パターンを選ぶ事ができます。クリスチャンの霊は常に神に従いたいと考えているので、クリスチャンが肉の考えで歩もうとするなら、葛藤を覚えます。肉の思考は、人がアダムの違反の影響を受けた証拠です。いわゆる罪の性質は、イエスの贖いによって取り除かれたものの、肉的思考という思考パターンを形成する人の弱さは取り除かれていません。肉の思考が罪の性質と同じ、死に導く働きをするのなら、私たちは思考を一新する事の必要性を知るでしょう。

 しかし、肉的思考が単なる思考パターンという存在でしかないと分かれば、あなたの自由意思によってそれをどうにかできる事に気づくようになります。これがパウロの明かした奥義です。つまり、あなたが考えを一新させる事であらゆる束縛から解放されて歩めるようになっている、そしてその大きな恵みが既に与えられているという事です。その一方で、人が肉の思考という自分の悪い考えに支配されてしまう弱さはリアルです。その原因一つには、周りの環境が大きく関わっています。もし人が良い環境で育つのなら、例えイエスを知らなくても要塞なしに歩む事ができるでしょう。逆に、クリスチャンであっても周りの環境が悪ければ、肉の思考によって歩んでしまい、要塞を持つ事もあります。それに加え、サタンからの直接的な攻撃もあります。サタン自身も、私たちが肉の欲を満たすように、悪い考えを私たちの思考の中に入れます。エバを誘惑したように、考えるべきでない事を考えさせるのです。

 私たちの多くはまだ幼く、しっかりと御霊によって歩む事すら分からない、或いは、その歩みを継続できないくらい、信仰の成長の初期にいます。御言葉の真理に思考を一新させて来なかった信者の場合、救われる前の肉の思考で歩んでおり、その歩みに慣れています。そうすると、サタンは時々彼らを誘惑するだけで、十分悪い影響を与える事ができます。成長の道を歩んで来たクリスチャンはそう簡単には騙されません。常に聖書の言葉によって歩んでいるからです。全ての判断を聖書の言葉によって見極めようとするからです。しかし、一体どうしたらそのような歩みができるのでしょうか?

思考の一新 5に続きます。

思考の一新 3

 ローマ 12:1‐2 がよく引用される事もあって、思考を一新するという教えは、多くの人が知っているかも知れません。私たちが大人に成長する為に思考を一新させなさいとパウロは言っていますが、実践しないでは成長はないのです。御言葉を聞くだけで実践しないとせっかくの恵みによる祝福を受け損ないます。これが理由で、クリスチャン生活が長く、ある程度の聖書の知識を持っていたとしても、信仰的にはとても弱い人たちが大勢いるのです。彼らは、多くの御言葉に対する信仰を持っていません。基本的に、永遠の命に対する信仰以外は、信仰が働いていないのが多くのクリスチャンに共通するものでしょう。

要塞の形成

 例えば、ある人が長い人生を掛けて短気の生活を送って来た場合、短気の思考パターンを一新するのには時間が掛かる可能性があります。何故なら、その生活を長く続けて来たからです。その人の中で強くなった思考パターンは、要塞となっている為に、簡単に落ちないのです。一方、どのような罪や悪習慣でも、短い期間の間だけであったのなら、比較的簡単に思考を変える事ができます。

 何度も同じ考え方で考えると、それは要塞となります。一度要塞になってしまうと、直ぐには思考が変わりません。この要塞は、聖書では悪い意味で使われていますが、イエスの教えに沿った考えを要塞にするなら、その人の信仰はとても強いものとなります。従って、要塞とは、同じ思考パターンを何回も繰り返し経験して築き上げたものであり、習慣化された考え方の事です。

 さて、誰でも悪習慣から解放される事はありますが、クリスチャンの場合は御言葉の力で要塞を砕く事ができる点で非常に有利な立場にいます。悪習慣が悪霊の力によって大きく影響されている場合だと、御言葉による力なしでは解決できないので、未信者の場合はクリスチャンの助けを借りないと悪霊からの解放は、基本的に望めません。

 固執した考えや強い信念などは何でもその人の中で要塞になってしまうので、聖書的なもの以外で何かに没頭するのは危険です。人が何かに集中したり意識を強く向けたりして深く考え、しかもそれを長く続けて行うなら、それは偶像礼拝になるからです。私たちが心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くす対象は主だけです。

戦いの場

 霊の戦いとその戦場は、空中で悪霊と天使が戦っているようなもので説明される事がありますが、そこが主な霊の戦いではありません。私たちの霊の戦いは思考の中にあります。サタンや悪霊が最も大きく人に影響を与える攻撃は一つしかありません。それは非聖書的な言葉でもってその人の思考をかき乱す事です。人は自らの欲(肉の思考)という弱さを持っている上に、サタンから誘惑を受けます。普段から肉の思考で物事を考えているのなら、その時にサタンが誘惑すれば簡単にサタンの言う事を聞いてしまうでしょう。肉の思考を捨て、御霊の思考で歩む時にしか、サタンに打ち勝つ事ができません。サタンのこの攻撃は昔から今も同じです。

 
創世記 3:1「さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、他のどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」

 アダムとエバは肉の思考で考えた事もありませんでした。サタンは「神は、本当に言われたのですか」とエバに言った事は、自分の神に対する立場を表しています。つまり、神に反逆する者だという事です。そう言われたエバは、初めて神の言った事に対して考えるようになったのです。そこから、疑いが生じました。

 
創世記 3:3「しかし、園の中央にある木の実については、『あなた方は、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなた方が死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」

 神はアダムに園の中央にある木の実について忠告したのですが、エバには言っていません。エバの創造の前にアダムがいて、その時に神はアダムに言ったのです。エバが神から直接聞いていないのは明らかです。何故なら、エバは「それに触れてもいけない。あなた方が死ぬといけないからだ」と言ったからです。「触れただけ」で死んでしまうような超危険な木の実ではありませんでした。彼らが間違えてそれに触ったら、死んでしまうようなものではありませんでした。そうではなく、意図的にその木の実を食べて神の言葉に逆らわないと死ぬ事にはならなかったのです。

 アダムは恐らくエバに園の中央の木の実について伝えていた事でしょう。ですからエバは、少なくとも神がその木の実を食べてはならないという事は知っていました。ところが、エバがはっきりと神様から直接聞いていなかったのを見抜いた蛇はそのチャンスを見逃さず、すかさずエバに言いました。

 
創世記 3:4-5「すると、蛇は女に言った。「あなた方は決して死にません。それを食べるその時、目が開かれて、あなた方が神のようになって善悪を知る者となる事を、神は知っているのです。」

 ここでサタンは、今度は大胆にエバに嘘を言いました。疑問を投げかけた時とは違い、完全に神に逆らうようにいいました。こう言われたエバは、その時初めて、肉の思考で考えるようになったのです。それまではその木の実を見てもなんとも思わなかったのですが、考えが変わってしまいました。

 
創世記 3:6「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、共にいた夫にも与えたので、夫も食べた。」

 エバが肉の考え方で木の実を見ると、それは目に慕わしく見えました。肉の欲がはらんだので彼女はその木の実を取って食べてしまいました。

 
ヤコブ 1:15「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」

 
ローマ 8:6-7「肉の思いは死ですが、御霊の思いは命と平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従う事ができないのです。」

 肉の思いが死なのは、その思考パターンが罪を犯させるものだからです。そして、罪が熟すれば人は死んでしまうのです。

思考の一新 4へ続きます。

思考の一新 2

 ローマ 12:2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにする事で、自分を変えて頂きなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

 この箇所の「心」はギリシャ語では νοῦς = nous という単語で、それは人の一般的な考え、思考、知性、理解、判断、意思などを表します。kardia というギリシャ語の方が「心 」として一般的に訳されています。心でも考える事が可能な為、似ている点もありますが、心は人の中心的な部分であり、信仰の領域です。その他、旧約聖書では心と霊が同じ意味として使われている箇所も幾らかあり、理解が難しい領域の一つです。

 kardia がその人の中心となる本質や性格にまで関わる思考であるのに対し、nous は漠然と一般的な思考を指しています。つまり、その人の本質や性格とは特に関わりのない、その人が通常に持っている考えが nous であり、これを一新させる事が自分自身を変える事になるとパウロは言っているのです。ギリシャ語からの直訳だと、「あなたの思考の一新によって変えられなさい」になります。

 新改訳2017では「自分を変えて頂きなさい」という訳になっていて、あたかも神によって変えて頂きなさいというニュアンスを残していますが、思考の一新をするのは私たちです。神が私たちを育てるのは、私たちが御言葉を読んで、思考を一新する時なのです。神は、私たちがやるべき事をやっている時に一緒に働かれます。私たちは救いの為に努力をする必要はありませんが、救われたからこそ、信仰の道を歩むように、自分自身を訓練する必要があります。思考の一新はその主な訓練です。 

 思考の一新には、時間が掛かるケースとそうでないケースがあります。ある考えが人の中で強くなると、それは要塞となります。要塞となった強い信念は、その人の思考の中で大きな影響力を持つ事となり、それを一新するには時間が掛かるのです。この場合の要塞とは、神の知識に逆らう考え方です。一方、そのような悪い考えを持っていない人の場合は、思考の一新のプロセスは短いものになります。同様に、幼子のように素直に信じられる人は、考えを一新するのに時間が掛かりません。

 思考を一新するプロセスこそが聖書的な聖化の事であり、私たちにとっての成長です。一般的な神学による聖化は、律法主義的に考える傾向があり、人の努力によって漠然と何かを達成しようと試みるものです。しかし、肉の思考パターンをイエスの教えに沿う思考パターンに変える事が、成長に繋がるものであり、それはもやは、単なる聖書の学びを超えたものであって、目に見えて私たちに変化をもたらすものです。

 私たち自身が本当に変わるのは、思考や魂が真理の言葉に一致して行く時です。この成長の過程を経て、私たちは霊的な大人になるのです。ただ行動を修正しようとしても、私たち自身の考えは殆ど変わる事はありません。心理学的なアプローチでは人は変わらないのです。人の努力(魂の努力)に基づいた聖化も同様に、大きな効果をもたらしません。私たちは自分の努力だけによって御霊の実を結ぶ事はできません。究極的に言えば、御霊の実を結ぶには、聖霊の助けが大いに必要になります。しかし御霊は、私たちが思考を御言葉で一新する時にも、助けて下さるのです。

思考の一新 3に続きます。

思考の一新 1

 私たちの信仰の戦いの殆どは、私たちの思考の中で起きています。それは自己との戦いですが、聖書的に言うならば、肉の思いとの戦いです。キリストと共に十字架につけられた古い人は死んだのですが、私たちの記憶の中には、まだ肉の思いは残っています。それを思い出し、その考えによって歩むのなら、再び古い人として歩む事も可能なのです。

 肉的な思考そのものは単なる考え方なので、新生したクリスチャンでも、それは思考の中に存在しています。実際、新しい霊として生まれた変わったクリスチャンでも、肉の思考パターンのまま、古い人として生きている人も多くいます。それは、ある種の矛盾した存在として生きているようなものです。

 新しい人でありながら、古い人としても歩めるとはいえ、これらの二つの矛盾するアイデンティティーが存在しているという事ではありません。クリスチャンが葛藤するのは、肉の思考と御霊の思考という、二つの違う考え方がぶつかり合っている為です。クリスチャンは新しいアイデンティティーとして生きて行く事ができます。しかし、私たちが御霊の思考で歩むという選択をし、肉の思考を一新させなければなりません。この二つの考え方がぶつかると葛藤が生じ、本来のクリスチャンとしては歩めなくなります。

 ローマ  8:5-7「肉に従う者は肉に属する事を考えますが、御霊に従う者は御霊に属する事を考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いは命と平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従う事ができないのです。」

 私たちがクリスチャンになる前は、肉の思いで歩んでいました。その考え方自体は、新生した後でも、記憶として私たちの中に存在しています。それを思い出して、その考えのまま歩むのなら、古い人として再び歩む事になります。しかし、新しくされた私たちは、新しい歩み方をしなければなりません。私たちの霊の中に、御霊の思い、キリストの考え方がありますが、体にある古い記憶はそれに反して考えようとします。ですから、古い考え方をやめ、新しい考え方に変える必要があるのです。これを思考の一新とパウロは呼びました。

思考の一新 2に続きます。

取るに足りないしもべ

 ルカ 17:5「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増し加えて下さい。』」

 信仰さえあれば何でもできると弟子たちは悟ったに違いありません。そこで彼らは、イエスに信仰を増し加えて下さいと求めました。イエスも、信仰が鍵である事を弟子たちに言われています。

 マルコ 9:23「イエスは言われた。『できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんな事でもできるのです。』」

 聖書に書かれている御言葉の約束を可能にするのは信仰です。ところが、信じる事が出来るように神に信仰を与えて下さるように求める事は的外れなのです。何故なら、信じる事は私たちがする事だからです。もう一度ルカの福音書17章に戻りましょう。

 ルカ 17:6-10「すると主は言われた。「もしあなた方に、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなた方に従います。あなた方の誰かの所に、畑を耕すか羊を飼うしもべがいて、そのしもべが野から帰って来たら、『さあ、こちらに来て、食事をしなさい』と言うでしょうか。むしろ、『私の夕食の用意をし、私が食べたり飲んだりする間、帯を締めて給仕しなさい。お前はその後で食べたり飲んだりしなさい』と言うのではないでしょうか。しもべが命じられた事をしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。同じ様にあなた方も、自分に命じられた事を全て行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべき事をしただけです』と言いなさい。」

 信仰を増し加えて下さいと頼んだ弟子たちに対して、イエスはこの「取るに足りないしもべ」のたとえ話によって説明しました。このたとえ話からは幾つかの事が学べますが、ここでは信仰に焦点を置きたいと思います。このたとえ話を理解するには、からし種を用いた他のたとえ話も知っておく必要があります。イエスが言われた通り、からし種ほどの小さいものであっても、それが育って成長すれば良いのです。信仰のサイズは問題ではありません。パウロも、常に信者の信仰が成長する事を考えていました。

 次に知るべき事は、人は御言葉の真理とは無関係に、自分の信仰を成長させる事はできないという事です。私たちの信仰の成長の鍵を握っているのが御言葉という種であり、それを聞いて信じるから信仰が強くなるのです。ある意味、御言葉を聞いているのに信じる事ができないという事はあり得ないのです。神自身が語る言葉は虚しく帰ってくる事は本来ありえません。

 ローマ 10:8「では、何と言っていますか。「御言葉は、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉の事です。」

 私たちに必要なのは神によって信仰を増して下さる事ではなく、御言葉を聞いて、私たちに与えられている自由意思によって、神の約束を信じる決断をする事が必要なのです。信仰を邪魔するものは確かにあります。肉の思いによる考えは大きな障害です。しかし、、古い人がキリストと共に十字架で死んだという真理に基づき、肉の思いも一新される必要があります。

 私たちが信じる事が難しいと感じるのは、私たちが疑いを持つからです。しかし、疑わずに心で信じるのなら、私たちは多くの祝福を体験できるでしょう。ポイントは、疑いがなくなるまで、御言葉に没頭し、肉の思いを取り除く事です。一度だけ御言葉を読んで信じる事ができる人はいません。又、頭での理解と心で信じる事は別です。ですから、理解したから信じているという事ではなく、種(御言葉)をきちんと心に植えるという作業が必要なのです。御言葉は理解を超えて、信仰と結び付けられる必要があります。

 信じるのは私たちです。神が私たちに信じる力を与えて、私たちが信じられるようになるのなら、私たちは信仰を与えて下さいと求めなければいけません。しかし、救いの信仰ですら、私たちの決断次第なのです。神は様々な方法で、私たちを信仰の道に導きますが、信仰そのものを与える事はしません。神は、ご自分の御子、イエス・キリストを世に送られました。イエスを通して、人々が神を信じるようになる為です。ただ信仰を与える事ができたのなら、最初からイエスを送る事はなかったでしょう。

 信仰に始まったクリスチャンは信仰から信仰へと成長して行くのが聖書の教えです。私たちが信仰によって歩み続けるのをやめるなら、次の成長のステップはありません。敬虔な生き方を訓練によって学ばずに、ただ信仰を増し加えて下さいというしもべは、イエスに言わせれば、「取るに足りない」のです。何故なら、自ら成長して、大人になって考える事をせず、ただ言われた事だけを行うしもべだからです。

 「信仰を増し加えて下さい」と願うのは、ある意味、ずる賢いのです。成長という過程を通らずに、すぐにキリストの満ち満ちた身丈に達する事ができるとしたら、どんなに楽であった事でしょう。しかし、神がそれをする事ができるのであれば、最初から全ての人類が信仰に入るようにすれば良かった事にもなります。人の自由意志に委ねずに、全てを御心のままにすれば良かったはずです。ところが、神は人の自由意志を尊重し、私たちが信仰を働かせる時に、喜ばれるのです。

 イエスが厳しく弟子たちを叱ったケースは、全て彼らの信仰に関わる事だったのを思い出して下さい。主は、信仰に関して妥協なさいません。信じるのは私たちがする事であって、神はそれを強く望んでおられるのです。神の御業によって誰かの信仰が増し加わるのなら、その人はもはやロボットです。信じるようにさせられている、自由意思を失ったロボットです。神が私たちの信仰を増し加えて下さるのではなく、私たちが成長という過程を通して、信じるようになり、信仰が強くなって行くのです。ですから、霊的幼子からすぐに大人にして下さるように、神に信仰を増す加えて下さるように願う事は、神の御心に反するのです。

 神が愛の方である以上、神は私たちをロボット扱いはしません。私たちに自由意志が与えられているのは神が私たちを愛しておられるからです。神は、私たちに与えられた自由意志を使って、御言葉を信じる事を望んでおられます。今日、私たちにとって大きな壁となって私たちの信仰の歩みを妨げるものがあります。それは様々な間違った教えがもたらす疑いです。私たちは多くの非聖書的な考えを一新する必要があります。何故なら、信仰はあらゆる解決の鍵となっているからです。

感情のコントロール

 聖書は、私たちの行動を左右するのは私たちの思考だと教えています。注目すべきは、肉の思い(思考)そのものが死であるという点です。私たちの思考が感情や五感によって大きな影響を受け続けると、その思考は肉の思いになります。

 ローマ 8:6「肉の思いは死ですが、御霊の思いは命と平安です。」

 聖書は、自分の古い人はキリストと共に十字架につけられたと教えており、新しい人として、キリストについて行く事を教えています。

 マルコ 8:34「それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。『誰でも私に従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。』」

 自分の古い人を捨てるとは、キリストと共に葬られた古い人に戻らないようにという事です。霊的に、私たちは新しい人となりましたが、古い考えをまだ持っているので、古い、肉の思いで歩む事は可能なのです。そうした肉の弱さを人間的な努力で、取り除こうとしても、それは長く続くものではありません。

 ガラテヤ 2:20「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私の為にご自分を与えて下さった、神の御子に対する信仰によるのです。」

 勝利あるクリスチャン生活の秘密は、自己啓発にあるのではなく、古い人(古いアイデンティティー)が死んで、新しい人になっている事を信じ、新しい人として歩み始める事にあります。生まれ変わったクリスチャンには、新しい人が創造されている為、新しい歩みができるのです。

 第2コリント 5:17「ですから、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」

 古い人はもう存在しませんが、古い考えが残っている為、古い人の生き方を思い出す事はできます。その肉の思いが、ある意味、古い人を蘇らせてしまうのです。私たちは、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着る必要があります。そうすれば、感情的に動かされてしまう事がなくなります。新しい人にあって歩む事が、感情をコントロールする秘訣です。キリストによって新しく生まれ変わった霊は、霊的な思考、キリストの考え方に基づいて行動するので、常に平安があります。

 人が感情的になる場合、それは肉の思いが原因です。御言葉に反する考えを捨てきれないのは、感情が絡まっているからです。その感情は、大抵の場合、恐れです。あなたが大きな不安を感じているなら、あなたは肉的になっています。

 第2テモテ 1:7「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えて下さいました。」 

 私たちは、神に不安を取り除くようにと頼む必要はありません。肉の思考を一新させ、御霊の思考で歩むだけで、感情のコントロールができるようになります。それが難しいようなケースがあるのは、つまらない考えにこだわるからです。ですから、そうした肉の思いを捨て、御霊の思いに切り替える必要があります。それは、聖書の御言葉によって私たちの考えを一新するという事です。

 ローマ 12:2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにする事で、自分を変えて頂きなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

 「心を新たにする」の部分をギリシャ語の聖書で見ると、「思考の一新」と書かれています。これは、肉的な思考から霊的な思考に変えるという事を意味しています。そうするには、私たちは御言葉の真理を蓄えておく必要があります。それが霊的な思考だからです。真理の言葉を蓄えて、全ての判断をそれに沿って行うなら、あらゆるネガティブな考えや感情に影響されずに済みます。又、これらが私たちの考えの中に入ってくる時に、御言葉を使って追い出す事もできます。このプロセスが思考の一新というもので、これが感情をコントロールする、究極の秘訣なのです。

聖霊についての誤解

 聖霊についての様々な誤解は、イエスの十字架の御業と深く関係しています。聖霊の働きと罪について間違って教えられているものを幾つかピックアップしました。

1: 聖霊は人の犯した罪をチェックしている

 多くのクリスチャンは、聖霊は罪を犯した人を捕まえる警察官のように考えています。しかし、イエスは聖霊を慰め主と呼んでいます。モーセの律法の古い契約の視点から考えるのではなく、新しい契約の真理から考える必要があります。新しい契約の下においては、罪についての取り扱い方は大きく変わりました。

 へブル 10:17「『私は、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない』と言われるからです。」

 罪がこの世に全く存在していない、或いは、全く存在していなかったという事ではありません。罪自体は昔から今でも存在しており、相変わらず悪であり、それは熟すると死になります。ただし、過去、現在、そして未来の全ての罪はイエスの十字架によって赦されたというのが真理です。厳密に言えば、イエスは十字架の御業を完成する前でも人々の罪を赦し、誰も罪に定めなかったのですが、それらの人々の罪の為にも、イエスが十字架上で代価を払う事になっていたからです。

 イエスが指摘しなかった罪を、聖霊が指摘する事はありません。イエスの十字架は、罪や病気を含む、あらゆる呪いからの解放の象徴なので、聖霊が誰かの罪を指摘するような事はありません。聖霊はむしろ、人の罪が赦されているという真理、神の恵みに導きます。聖霊が人を神の恵みに導かれると、人は自然に悔い改める(考えを変える)ようになります。

 コロサイ人 2:13-14「背きの内にあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなた方を、神はキリストと共に生かして下さいました。私たちの全ての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いて下さいました。 」

2: 聖霊はクリスチャンが犯した罪を認めさせる

 罪を赦す神が罪を指摘する事はありません。これも、律法と恵みの混同から来る考え方です。罪を指摘するのはモーセの律法ですが、聖霊は私たちに義を認めさせるのです。ですから、律法は私たちの罪を認めさせますが、聖霊は信者に対してキリストの義を思い出させるのです。

 ヨハネの福音書 16:8-10「その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいます。罪についてというのは、彼らが私を信じないからです。義についてとは、私が父の元に行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです。」

 真理によると人の罪は既に赦されているのです。だからと言って、罪を犯して良いという事ではありません。罪から解放されて義人となっているクリスチャンは、義人として歩む(御霊によって歩む)事ができるという真理に目を向けるべきなのです。そうすれば、最終的に罪を犯さなくなります。世に対しては(未信者に対しては)、聖霊はイエスを信じていないという罪(新約による唯一の罪)を認めさせますが、クリスチャンに対しては義を認めさせるのです。

 クリスチャンが罪を犯しているケースでは、聖霊は十字架の赦しに導きますが、クリスチャンが自分の罪を認めるのは、自身の清い良心によってです。信者が気づいていないケースでも、聖霊が直接私たちの罪を指摘し、罪を認めさせるというよりも、真理の御言葉によって何が正しい道かを私たちに理解させます。間接的に私たちが犯した罪に対してどうすれば良いかを教えて下さいます。

3: 聖霊は罪の告白に導く

 罪の告白という概念はローマ・カトリックによる宗教的な教えであって聖書的ではありません。聖霊は罪の告白に導くのではなく、キリストが主である事を告白させる為に導くのです。

 第一コリント 12:3「ですから、あなた方に次の事を教えておきます。神の御霊によって語る者は誰も『イエスは、呪われよ』と言う事はなく、また、聖霊によるのでなければ、誰も『イエスは主です』と言う事はできません。」

第一ヨハネの手紙 1:9 は、しばしば「罪の告白」の聖句として捉えられていますが、この箇所の動詞は「犯した罪を告白する」という意味ではありません。そもそも私たちは、既に赦されている罪に対して何かをするという事はありません。同じ罪を再び犯さないように、反省する事は悪いものではないのですが、罪の告白をすれば、その時に私たちの罪が赦されるのではなく、イエスの十字架の贖いの血は、既に私たちの罪を赦しを宣言しているのです。

 これは、過去に犯した罪だけが赦されているという限定されたものでもなく、現在の罪も未来の罪も、そして全ての罪も含まれます。告白すれば神との関係が正されるという考えも聖書には書いてありません。私たちはイエスを信じて、義と認められ、神の子になっています。例え罪を犯しても、主の十字架の赦しを信じる事によって神の御坐に大胆に進む事ができるのです。私たちのするべき告白は、イエスが罪を取り除いて下さったという十字架の力の宣言です。

 聖霊は私たちをイエスから目をそらさないように導きます。クリスチャンが罪を犯している場合でも、まず既に罪から赦されているという真理に導き、それによって悔い改める(考えを変える)ように促して下さるのです。既に罪が赦された事を知っているクリスチャンだからこそ、彼らが罪を犯しているのなら、罪から悔い改める(考えを変える)のが神の子として当然であるという悟りを、聖霊は与えてくれます。私たちは赦される為に悔い改めるのではなく、赦されたという恵みゆえに悔い改めるのです。

4: 聖霊は去っていく

 旧約時代の特定の人たちには、神の霊が臨み、去っていく事がありました。預言者、祭司、そして王には油が注がれて、聖霊がその人たちに臨みました。これらの人たちは一時的に聖霊を受けただけなので、罪を犯した時には、聖霊が去っていく事もありました。ところが、新しい契約の下では、全ての信者の上に聖霊が豊かに注がれましたす。しかも、聖霊は去っていく事はもうありません。ダビデさえも理解出来なかったこの素晴らしい約束はキリストの十字架の恵みなのです。

 詩篇 51:11「私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を 私から取り去らないで下さい。」

 ダビデ王は地上で最も偉大な人間の王でした。詩篇にあるキリストについての彼の預言的な歌は、多くの啓示を神から与えられたからでした。しかし、そのダビデでも、聖霊がキリストを信じる者全てに無限に降り注がれるような事が後に起こる事は知らなかったのです。

バランス

 神の恵みを正しく理解していれば、それが乱用される事はありません。どちらかと言えば、神の恵みは軽んじられる傾向が強いので、それを教える事を優先すべきでしょう。パウロも、神の慈愛は軽んじられるべきではないと言っています。

 ローマ 2:4「それとも、神の慈しみ深さがあなたを悔い改めに導く事も知らないで、その豊かな慈しみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」

 神の愛は、人を悔い改め(考えを変える事)に導く力があります。恵みの強調は良いのです。ただし、恵みを正しく捉えた教えであるべきです。ハイパー・グレイスなどのような教えは、恵みを極端に教えたものであり、実は真理ではありません。

完了から始める

 イエスは十字架で恵みを私たちに示しました。それは既に完了した事として、過去の事実なのです。この理解はとても重要です。福音の土台であるキリストの十字架の御業を知らないと、人は宗教に走ってしまうからです。キリストが完了された事を知れば、私たちはその事を信じる事ができます。これが、聖書の教える信仰です。

 キリストの十字架の御業で成し遂げられたにより、キリストを信じたクリスチャンは、
  • 古いアイデンティティーが死んだ
  • 神の子となった
  • 新しく生まれ変わった
  • 聖霊が与えられた
  • 義とされた
  • 聖なる者とされた
  • 永遠の命を与えられた
  イエスが十字架上でなされた事に対して、私たちがするべき事は、信じて受け取るだけです。例えば、赦される為に罪から悔い改めるのではなく、罪の赦しを信じて受けるのです。義とされる為に良い行いをするのではなく、信じて義と認めされたので、良い行いをするのです。私たちが何かをする事によって、神の恵みを得るのであれば、それはもはや恵みではありません。

 クリスチャンの歩みは、完了した所から始まります。それはイエスが十字架で完了した御業に基づきます。恵みをそのまま素直に受け取る事、これが私たちのするべき最も大切な事です。しかし、その豊かな恵みを拒む人は、イエスの十字架の御業を拒むがゆえに、あらゆる祝福を受け損なってしまいます。何故なら、全ての神の祝福はキリストの十字架が土台となっているからです。 

 考えてみて下さい。私たちにとって最も重要な祝福の一つである、永遠の命でさえも、私たちが信じなければ受け取る事ができません。その他の祝福を受けたい場合も、神の恵みを信じなければ受け取れないのです。イエスは「私の所に来なさい」と言って、信じるように招いています。私たちが信仰を持ってイエスの所へ行かないと何も始まりません。しかし、イエスの成された業を信じる事により、私たちは新しい人生を歩めるようになります。 

 実際、十字架の御業の完了は、私たちを新しい人に変え、私たちを新しい契約の中に導いてくれました。私たちはもはや、古い文字に仕えるのではなく、御霊に仕える者です。イエスを信じた私たちは、キリストにおいて、天にある全ての霊的祝福を受け取りました。永遠の命だけでなく、罪の赦し、病の癒しも、その中に含まれます。イザヤが預言したように、イエスが全ての罪と病いを負って下さったからです。

 私たちがそれらの祝福を獲得する為に、奮闘する必要はありません。自らの努力は、宗教的な行いであり、そこには魂の休息もありません。私たちのするべき事は、ただ福音を信じるだけです。そして、信じて恵みを受け取った結果、私たちは良い行いをする事になっています。何故なら、私たちは神の作品であって、良い行いをする為にキリスト・イエスにあって造られたからです(エペソ 2:10)。

宗教の視点

 恵みは良いものですが宗教はそうではありません。恵みは私たちが神を信頼するように促しますが、宗教は自分を頼るように教え、儀式を行うように教えます。恵みによって義を得るのが聖書の教えですが、宗教は律法や儀式を守る事で自分の義を得るように言います。恵みは、神が私たちを助けると教えますが、宗教は神は自分を助ける者を助けると教えます。

 ある人は、宗教は必ずしも悪いものではないと言うかもしれません。何かしら良いものを教えていると言います。宗教という名の下で良い事もなされたと主張するかもしれません。ヤコブもそのような事を言っていたとして、宗教の価値を認めようとする考えもあるようです。しかし、ヤコブは「宗教を良い」としていたわけではありません。

 宗教の定義が違うと論点がまとまりませんが、一般的な宗教に対する理解は、それをむしろ正確に捉えています。人々が殆ど一致して見えているのは束縛です。それが理由で、宗教に熱心な事に対して、多くの人は良い印象を持っていません。スポーツや勉強に没頭する事を好ましいと思う反面、宗教への没頭は危険と思われています。その背景には、カルトの問題があったからというのもあるでしょう。しかし、カルトとは縁のない宗教であったとしても、多くの人は好意的に捉えてはいません。何故なら、多くの人が見るのは、宗教がもたらす束縛であって、自由ではないからです。以下に、宗教の特徴を挙げてみました。


1.宗教は自己の義に基づいている

 宗教の根本的な信念は自分の努力などによる、自己の義を強調している所です。サタンは、善悪の知識の木から食べれば「神のようになる」とアダムとエバを誘惑し、彼らの意識が神から離れて自分を中心に物事を考えるように仕向けました。私たちはどうしてアダムとエバはそんなにも愚かだったかと思うのですが、私たちが自分自身に目を向けて、自ら平安と喜びを見いだそうとするなら、彼らと同じ過ちをするのです。宗教は自己を築き上げ、自己を神としてしまう嘘なのです。

2.宗教は神を歪める

 宗教は神に対して嘘を言うので、神の良いイメージを破壊します。
  • 神はあなたに対して怒っている
  • あなたのする事に点数を付けている
  • あなたを拒否するかもしれない
  宗教は私たちを恐れを入れ、強制的に何かをさせようとします。
  • 神の怒りを鎮める為に、あなたは A、B、C をしなければならない
  • あなたが忠実で良い行いをすれば、神はあなたを祝福する
 これらは、私たちの父なる神の無条件の愛と恵みを歪める嘘です。

3.宗教は恵みを退ける

 宗教は神への道を示しますが、その道は実は反対に向かっているのです。 自己の義を求める高ぶりの道は、決して恵みの王座に至る事はありません。自己の努力による義の獲得はいつも恵みを退ける行為なのです。

 ガラテヤ 5:4「律法によって義と認められようとしているなら、あなた方はキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」

4.宗教は偶像礼拝

 バアル、モレク、或いは、世的な偶像よりも、大きな偶像は自分自身です。この偶像は何度も主張します。宗教は自己中心的な思いで働き、サタンのような高ぶりを持っています。他の人を思わずに自分の事ばかりを気にかけています。

 救い、癒し、赦し、聖化、義化、などは全て神の恵みによって与えられるものですが、宗教は次のような嘘を言います。
  • 救い(救われるにふさわしい事を証明しなければならない)
  • 癒し(癒やされるのにふさわしく、神の御心に叶う場合のみ)
  • 赦し(罪の告白を続ける事が絶対条件)
  • 聖化(一生を掛けても得る事はないが求めなければならない)
  • 義化(律法を守る努力によって獲得できる)

5.宗教は聖書を曲解する

 宗教は偽善なので、その視点でもって教えられて来たものは全て修正する必要があります。特に悔い改め、信仰、教会、聖化、祈りの意味を見直す必要があります。イエスに従う事は重荷にならないのですが、宗教はそれを難し​​いものにします。福音は良い知らせですが、宗教はそれを悪い知らせにします。宗教の究極的な目的は、イエスの教えに逆らい、神の恵みや真理を無にして救いの道を絶ってしまう事なのです。

6.宗教は動機が不純

 動機が正しい場合、良い行いは本当に良い事なのです。例えば、ある人が、一日に3時間祈る事や聖書を読む事などを決め、それらを行う事によって神から何か頂こうと考えるなら、それは宗教になります。一方で、3時間の祈りや聖書の学びを、自分の成長の為に行うのなら、それは個人的な霊的成長に関する事で、悪い事ではありません。ただし、この個人的な事柄を人に押し付けるなら、それも宗教になります。何故なら、個人的な事柄に関しては、誰かが決める事はできないからです。各自が信仰に応じて心で決めるようにするのが新約聖書の教えだからです。

家系・世代の呪い 2

敵の攻撃

 ここで少しだけ霊の戦いについて触れます。まず、悪霊は何の理由もなしに攻撃してくるという事を最初に知るべきです。彼らは悪そのものであるゆえに、「正当な理由」などを必要としません。ヨブ記を間違って解釈して、サタンは神の許可を得て、人間を攻撃すると言う人もいますが、サタンは毎回律儀に、神から許可をもらってから人を攻撃しているのではないのです。神は全ての良い物を与える方であり、サタンは全て悪い事をする邪悪なものです。

 クリスチャンになるだけで、自動的に何でも神に守られる事になると考えている人もいます。しかし、私たちは悪魔に立ち向かう必要があり、神の全ての武具を身に着ける事が必須なのです。クリスチャンが新生した時から、既に神の武具を身についているのであったなら、パウロはあえてそのように言ったはずがありません。勝利は既にイエスによって宣言されているのですが私たち自身も戦うのです。

 「これはあなた方の戦いではなく、神の戦いである。」(第二歴代誌 20:15)を間違って引用して、私たちが戦わずに何もしないならサタンの思うつぼです。この個所を全ての霊の戦いに応用して、ただ祈るだけで受け身的に勝利を待つようにと勘違いしているなら、サタンは常に攻撃する側にいて、クリスチャンは常に守りになってしまいます。御霊の剣が使えないクリスチャンはそのうち、守るのに疲れ果ててしまい、遂には勝利を見逃してしまうのです。私たちの戦いは、既に勝利があるという約束に基づいて戦うのですから、新約聖書通りにすれば必ず勝てるのです。ただし、かぶと、胸当て、信仰の大盾等の防御用の武具ではサタンを倒す事はできません。

 旧約聖書の時代は十字架の勝利よりも遥か以前でしたので、誰もサタンに対して戦う事は不可能であり、「戦いは神だけの戦い」だったでしょう。しかし、聖霊の力を持つクリスチャンは御霊の剣でサタンを打ち負かすという重要な仕事が任されています。

敵は機会を狙う

 悪霊は様々な機会を捉えて攻撃を仕掛けて来ます。肉の思い(人の欲や否定的な考え)だけでなく、間違った教えから来るものも含みます。神は病気を与えて人に試練を与えると信じるなら、それに悪霊は便乗するのです。或いは、イエスの十字架を見ないで罪を取り除こうと、あらゆる人間的な努力をしていると、悪霊はその人を罪意識の中で苦しめます。罪からの解放を知らないがゆえに、悪霊に攻撃のチャンスを与えてしまっているからです。

 先祖の罪ゆえに呪いを受けてしまうと考えるなら、それが悪魔の攻撃してくる機会となってしまうのです。しかし、先祖の罪も十字架で処分された以上、それが原因で悪霊に呪われる事はありません。エレミヤ・エゼキエルの時代ではその呪いはなくなっています。悪霊は、家系の呪いとは関係なく勝手気ままに悪を行います。

世代の呪いの欠点

 呪いという概念は、旧約時代の初期にはあったとしても、それは律法が要求する刑罰の事であって、本来は悪霊とは無関係でした。新しい契約の下ではそれは通用しません。イエスもパウロもそのような事について触れていません。それなのに、それについての今日の霊の戦いのセミナーなどでは、先祖の呪いからの解放される為に、先祖に変わって、彼らの罪を悔い改めるように教えます。しかし、三代、四代前の
先祖の犯した罪の全てを知る事は不可能です。

 最初から先祖の全ての罪を知る事が不可能だと誰もが分かっているのに、そうする事を指示した後で「私たちの知らずに犯した罪もお赦し下さい」という、最終的に漠然とした祈りで締めくくってもOKだとするのです。最終的には原因を探らずにも解放できるという矛盾にたどり着きます。「大事なのは反省した謙虚な心だ」という類の言葉でもって、素早く丸く収めれば多くの人は気づかないものです。そして、とにかくそういったプロセスが、例え上辺の形だけでもやらないと、悪霊は出ていかないと教えます。

イエスの御名

 先祖からの呪いを解いた後で、悪霊を追い出す必要はありません。すぐに悪霊を追い出すだけで良いのです。勝利は既に私たちのものなのです。悪霊を追い出す前に必要な、呪いを解く儀式は存在しません。そうだとすると、イエスの御名だけでは不足だという事になるのです。イエスが私たちに与えた権威を知らないと、様々な非聖書的な方法に走ってしまいますが、聖書では私たちの足でサタンを踏み砕くと書いてあります。うちにおられるキリスト、新しいアイデンティティーを理解しているクリスチャンなら、家系・世代の呪いを気にしません。何故なら、彼らはそれが存在しないという事を知っているからです。

 マルコ 16:17「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、」

 先祖からの呪いを解くのが、悪霊からの解放の「必須プロセス」だと信じてしまっている場合、その信仰のゆえに、その方法が通用する事もあります。しかし、呪いを解く為の儀式を勝手に作って、そこに信仰を置く必要はありません。イエスの御名に信仰を置く方が、聖書的である上に、すぐに悪霊を追い出す事ができます。

家系・世代の呪い 1

 霊の戦いの分野において「家系、世代、先祖の呪い」という、間違った教えがあります。クリスチャンでも先祖の犯した罪ゆえに呪いがあって、それから解放されないと様々な被害を被ると言うのです。例えば、病気が癒されないのは先祖からの呪いがあるからだとか、各種の霊的束縛、その他の祝福を妨げる原因の一つだと言われています。

 これは、早くはデレック・プリンスが70年代から教えてきたものとされています。彼の霊からの解放に関するものは基本的には良いのですが、果たして「家系、世代、先祖の呪い」は聖書的なのでしょうか?間違った教理は、旧約聖書だけを引用して発展させたものが多く、恵みの下にいるクリスチャンには当てはまらないのが特徴です。この教えも同様です。

 出エジプト 20:3-6「あなたには、私以外に、他の神があってはならない。あなたは自分の為に偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主である私は、ねたみの神。私を憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、私を愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

 出エジプト 34:7「恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

 民数記 14:18「『主は怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰し、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。」

 申命記 5:7-10「あなたには、私以外に、他の神があってはならない。あなたは自分の為に偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主である私は、ねたみの神。私を憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、私を愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

 「父の咎を子に報いる」という事は、先祖の罪ゆえにその刑罰が三代、四代までにも及ぶという事なので、「家系、世代、先祖の呪い」と呼ばれるものは「先祖の罪」が原因となっているのが分かると思います。旧約時代では、先祖の咎が子孫に及んだのですが、それは正確には先祖の咎に対する律法の刑罰がその子孫に及んだという事です。ここまで見てきた聖書の箇所の中には「呪い」とは書いてありません。ただ、父の咎を子に報うと書いてあるだけです。

 申命記 28:15「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主の全ての命令と掟を守り行わないなら、次のすべての呪いがあなたに臨み、あなたをとらえる。」

 同じ申命記でも、この箇所では「呪い」という言葉があります。しかし、条件があります。主の全ての命令と掟を守り行わない場合に、呪いがあるという事ですので、やはり律法が要求する「罪に対しての刑罰」という事です。15節以降には、呪いの内容について書かれてあります。

 さて、ここまで見て来た聖書の個所を基に世代の呪いという教えが作られたのですが、もし、これらの聖書箇所だけを見るなら、この教えは正しいと見えても仕方ありません。

旧約時代に終わっていた世代の呪い

 エレミヤ書 31:29-30「その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。誰でも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。」

 「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」ということわざは、父親の過ちのせいで、子供がその咎の報いを受けるという意味です。

 エゼキエル 18:2-4「あなた方は、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』という、このことわざを繰り返し言っているが、一体どういうことか。私は生きている──神である主の言葉──。あなた方がイスラエルでこのことわざを用いる事は、もう決してない。見よ、全ての魂は、私のもの。父のた魂いも子のた魂いも、私のもの。罪を犯した魂が死ぬ。」

 「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」ということわざがここにも出ています。3節では「あなた方がイスラエルでこのことわざを用いる事は、もう決してない」と神は言い、4節では、「罪を犯した魂が死ぬ」と言っています。この後、17節から24節までを読むと、父の咎のゆえの刑罰はその子には及ばなくなった事が分かります。

 エレミヤとエゼキエルの時代に、神は家系・世代の呪いはもうないと宣言していました。従って、旧約の時代に終わっているものが新約の時代に復活したという事はあり得ません。今は、恵みの時代なので、更に良い環境になっているはずです。

 ガラテヤ 3:13「キリストは、ご自分が私たちの為に呪われた者となる事で、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。「木にかけられた者はみな、呪われている」と書いてあるからです。」

 私たちを「律法の呪いから贖い出した」のはイエスの十字架の御業ゆえです。イエスが十字架で全ての罪を赦し宣言しました。先祖が犯した罪だけは特別扱いして赦さなかったという事はありません。イエスは罪と罪から来る呪い全ても十字架で打ち壊したのです。

 呪いのように見える災いの背後には、悪霊が関わっている事があります。しかし、悪霊の攻撃は、呪いそのものではありません。人が罪を犯す時には肉の思いになっている為、それに便乗して悪魔は仕掛けてくるだけなのです。ですから、罪から離れ、悪霊を追い出せば良いのです。

 呪いのような影響が次の世代に起こっているように見える場合も、同じ先祖を攻撃した悪霊がその子孫を攻撃しているだけです。先祖の罪が間接的に影響している場合でも、悪霊はその罪とは無関係に攻撃をします。この場合、ただ同じ悪霊がそこにいて、次の世代に攻撃しているだけなのです。ですから、呪いと見なすのではなく、悪霊の攻撃と見なし、それを追い出すだけなのです。

 霊的な攻撃を受けているからと言って、それを先祖からの呪いだとして、細かくその対応策を考える必要はありません。単に悪霊を追い出すだけです。主からの権威と聖霊の力を持つクリスチャンは圧倒的な勝利者なのです。決して彼らを自分たちより強いと考える必要はありません。何故なら、サタンでさえ私たちの足で踏み砕く事ができるからです。

家系・世代の呪い 2に続きます。