使徒と預言者に従う?

 Shepherding Movement 或いは Discipleship Movement(弟子訓練ムーブメント)とも呼ばれるカリスマ運動が70年代に広がりました。これは、使徒と預言者の権威が強調された教えです。人々は、使徒と預言者が教会の最高権力者のような立場だと勘違いし、カルト的な方向に流されてしまいました。実際、人生の重要な決定(結婚など)も、使徒や預言者が決めるものと教えていたのです。

 「五役者(五職)」の教えも、未だに誤解されていますが、特に、リーダーの権威が間違って強調されている点が問題です。これらの役割に従事するリーダーは、神に特別に選ばれた霊的エリートではなく、ただ教会をまとめる役割をするだけであり、彼らに他の信者を支配するような権威が与えられているのではないのです。教会のかしらはイエスであり、土台となっている使徒と預言者は、その他の人たちを支える為に一番下にいて、一番使えている人たちなのです。

 エペソ 2:20「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」

 「使徒たちや預言者たちという土台」とあるように、使徒や預言者は、教会の上の立場にいるのではありません。真の教会は、ローマ・カトリックのような、ピラミッドの形ではなく、むしろ逆ピラミッドです。現在でもこの種の考えが「五役者(五職)」の教えにあります。使徒と預言者の回復運動は、それ自体は悪くないのですが、彼らに対するリスペクトが必要以上になっている(肉的になっている)ところが難点です。リーダーに対する尊敬は重要ですが、彼らの権威は、信者に仕え、教える為のものであり、彼らをただ無意味に従わせる為のものではありません。

 1コリント 4:15-16「たとえあなた方にキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなた方を生んだのです。ですから、あなた方に勧めます。私に倣う者となって下さい。」

 パウロは最終的に、彼の愛する子供である、コリントのクリスチャンたちに、「あなた方に勧めます。私に倣う者となって下さい」と言っています。パウロは使徒の役割を担ったリーダーでしたが、神からの特別な権威が与えられたというだけで、ただ彼に従うようにと言っているのではありません。パウロは彼自身が人々の模範となった上で、彼に倣うようにと言ったのです。

 1コリント 4:9-13「私はこう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、最後の出場者として引き出されました。こうして私たちは、世界に対し、御使いたちにも人々にも見せ物になりました。私たちはキリストの為に愚かな者ですが、あなた方はキリストにあって賢い者です。私たちは弱いのですが、あなた方は強いのです。あなた方は尊ばれていますが、私たちは卑しめられています。今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、中傷されては、優しい言葉をかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。」

 私たちが使徒たちをリスペクトする必要があるのは、彼らがこうした苦労をしていて良い模範を示しているならばの話です。自らを使徒と名乗る人々が、使徒としての模範を示していないのなら、私たちは、彼らの発言を吟味する必要があるでしょう。今のところ、信頼できる使徒や預言者の働きをしているリーダーは、それほど多くはいません。その主な理由は、彼らがまだ模範を示せる事ができるほどに、成長していないからです。しかし、前の時代から続いている、間違った教えの修正を加え、これらのリーダーたちが立ち上がる時代は、もう来ています。

聖書的な教会 3

5.聖霊の導き

 クリスチャン生活の秘訣が、御霊によって歩むという真理にある事を知っている人は多いものです。しかし、御霊によって歩むという意味と、それがどのようにして可能になるかが鍵です。実は、聖霊のバプテスマはその第一歩となります。そこから、御霊と共に信仰の歩みを学ぶ必要があります。さて、聖霊の導きに関して言えば、それは私たちが聖書を読んで聖霊の導きを知る事が最も重要です。聖書にある真理をよく分からずに聖霊の導きを求めると、霊的体験主義になってしまい、聖書の解釈が個人の体験に偏ってしまいます。

 クリスチャンの霊的歩みの半分は、御言葉が鍵を握っていると言えます。私たちが気づかないだけで、聖霊は聖書を読むように指示しているのです。イエスの言った事を思い起こさせ、御言葉にある全ての真理に導く事が、御霊の第一の目的だからです。また、聖霊の導きを吟味するには、聖書の真理の理解が不可欠です。個人的体験から学ぶような、感覚的なものだけでは、聖霊の声を完全に吟味する事は不可能です。御霊の導きをよく理解する為には、まずイエスの教えと福音の奥義を理解し、その上で御霊の語りかけ、夢、幻、その他の御霊が導かれる方法を学ぶべきです。

5.賛美と礼拝

 私たちは、個人的な好みに偏りがちな選曲や、音楽のスタイルを超えた、霊的な事を知る必要があります。真の礼拝とは、霊とまことによる礼拝であり、集う信者が心を合わせてお互いの一致を保つ為に重要な役割があります。主に賛美と礼拝を通して、喜びにあふれる経験は、私たちを大いに励まします。賛美によって、皆が一致になると、神の働きがより大きなものとなるでしょう。

6.聖餐式、献金など

 聖餐式はオプションではありません。聖餐式を軽んじていたコリントのクリスチャンは、病人が大勢いました。十字架の恵みを体験するには聖餐式は欠かせません。同様に、献金もオプションではなく、皆が喜んで与えるべきです。しかし、何も理解しないで、これらの事を儀式として行うなら、その恩恵を無駄にする事になります。聖餐式によって健康を保つ事が出来たのに、それを単なる食事として済ませていたコリントの信者は、パウロから注意されました。献金に関しても、強いられたり、喜びと信仰を持って行わないなら、神からの祝福を体験できなくなります。


まとめ

 使徒たちがいなくなった後、初代教会がなくなり、ローマカトリックが代わって、クリスチャンを支配しました。当時のような、聖書的な教会は、少しずつ回復に向かっていると言えます。ペンテコステ運動からは大きな混乱もありますが、それはサタンも必死に、御霊の働きを止めようとしているからです。しかし、御霊とその力が回復される時、私たちは、かしらであるキリストに向かって成長する事になるでしょう。

聖書的な教会 2

2.全ての信者の奉仕

 ローマ 12:6-8「私たちは、与えられた恵みに従って、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。」

 客席から聖職者のパフォーマンスを見ているような、傍観者の立場としてただ参加しているだけの信者は、現在の教会でも多いようです。ローマカトリックの影響を引きずっているのが、その理由の一つです。しかし、パウロは、皆がそれぞれの役割を持っているとしています。プロテスタント運動によっていわゆる「万人祭司」が教理として、形だけは回復されたのですが、まだ実行されていない部分は多いでしょう。全員参加型の集会は、これからもっと見直さなければならない課題だと思います。コリントの教会のクリスチャンは肉に属するキリストにある幼子でしたが、それでも賜物に欠けてはいませんでした。今日、御霊の賜物が十分に活用されていて機能している教会は、世界でもまだないくらいです。キリストの体としての教会はそれ程、真理からかけ離れているのです。

3.信徒の成長と弟子訓練

 イエスの宣教命令の一つは弟子を作る事でした。未信者を信者するだけではなく、その後のフォローアップもあります。一部の献身した人や聖職者以外は観客席で見ているだけの「一般信徒」でも良いと考えている人が多いのは、しっかりした聖書の教えを受けていないからです。聖書の教えは信徒の成長の為であり、その成長は弟子訓練の為、そしてキリストに似た者となる為です。多くの教会ではこうした教えがない為に、クリスチャンはイエスの再臨を待つだけの受け身的な信仰しか持っていません。自ら伝道したり、他の人を積極的に助ける事は少なく、それどころか、自分の信仰を保つのに精一杯なのが現状の様です。

 キリストの弟子として訓練される人は、霊的に成長します。そして今度は彼らが福音を伝えていく番になります。信者が集まるのは、お互いの成長を促す為であり、こうして訓練された人たちが世界に出て行って、より多くの人に福音が伝わるようになるのです。使徒たちの手紙の内容の殆どは、信者の成長の為に書かれてあります。それは単に御言葉の乳だけではなく、成長した大人の為の堅い食物についても書かれています。救われているからそれで良いという消極的な態度では、クリスチャン生活が勝利に満ちたもので、全ての霊的祝福を与えられている約束を、現実化できないでしょう。

4.聖霊のバプテスマ

 多くのクリスチャンに力がないのは、聖霊のバプテスマをの体験がないからです。神の力は、私たちが神の子として歩む為、つまり、力による伝道をする為に必要です。イエスと使徒たちが行った伝道は、力による伝道でした。

 第一コリント 2:4-5「そして、私の言葉と私の宣教は、説得力のある知恵の言葉によるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなた方の信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなる為だったのです。」

 パウロの言葉と宣教は、説得力のある知恵の言葉によってではなく、聖霊の力と現れでした。彼の宣教の言葉を聞いた人の信仰が、神の力によって支えられる為だったとパウロは言っています。神の力とは、ただ御言葉を語るだけではなく、神の力を伴います。聖霊のバプテスマを体験しないでも良いと考えるなら、聖書の言葉をあまり体験しないまま、歩んでしまうでしょう。癒しやその他の奇跡は、単に福音書に書かれる為に起きた事実だけでなく、今でも体験できる普遍的な神の恵みなのです。

 正しい聖書主義とは、イエスが聖霊のバプテスマを授けになるお方だという事を信じ、その約束に忠実である事を意味します。御霊によって御言葉が生きたものとなる為にも、聖霊のバプテスマを受けて、御霊の力を受ける事が必要です。また、神の力を伴わない宣教なら、イエスがしたわざよりも大きなわざをする事ができません。

 ヨハネ 14:12「まことに、まことに、あなた方に言います。私を信じる者は、私が行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。私が父の元に行くからです。」

 イエスご自身も、ただ説教しただけでなく、癒し、悪霊追い出し、死人を蘇らす事や、その他の奇跡も起こしました。御国の福音を宣べ伝えていたパウロも御国の力をよく理解していたので、その御霊の力によって伝道していたのです。

 第一コリント 4:20「神の国は、言葉ではなく力にあるのです。」

 神の力が伴わない宣教でも、ある所までは、ミニストリーで成功を収める事ができます。未信者を救いに導くだけなら、多くの奇跡を必要としません。実際、キリストの権威に対する信仰を持ち、それを行使するだけでも、多くの事をこなす事が可能だからです。しかし、聖霊のバプテスマを通して神の力を発揮するなら、より多くの奇跡にあって歩む事が可能になります。御言葉と御霊の力両方によって歩むなら、私たちはより大きな結果と祝福を体験する事になるでしょう。

 使徒 8:14-16「エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らの所に遣わした。二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らの内の誰にも下っていなかったからであった。」

クリスチャンと聖霊のバプテスマ

 ペテロとヨハネは新しく加わった信者に対して、聖霊を受けるように促しました。パウロも同じような事をしています。

 使徒 19:2-6「彼らに「信じた時、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いた事もありません」と答えた。「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。」

聖書的な教会 3に続きます。

聖書的な教会 1

 教会「Ekklesia」という語は、「呼ばれた者」(クリスチャン一人一人を指す)ですが、集合体の「呼ばれた者」なら、パウロが言うように、「キリストのからだ」となります。キリストに「呼ばれた」人々が集まると、「キリストのからだ」として、キリストの体の器官の働きをします。この場合、集まる人たちが「キリストのからだ=教会」であって、集まって出来た組織そのものや、教団がキリストのからだとしての本来の機能を果たしていないのなら、教会ではないのです。

 クリスチャンがお互いを励ましたり、成長する為に共に集り、その為の活動をするのが、「キリストのからだ=教会」であって、単なる組織を持つ集団の場所に集うという考えではありません。組織や教団を発展させるのではなく、お互いを成長させる目的で集まります。組織は秩序の為に必要ですが、組織の為にクリスチャンが集まるのではなく、クリスチャンが正しい目的を持って集まると、キリストのからだとしての機能が始まるので、当然、そこには何らかの組織的なものがあります。

使徒たちの手紙と教会

 福音書には、キリストのからだ(教会)についての話は、殆ど触れていません。宣教命令などを除けば、福音書は全て十字架の完了とイエスの復活で終わっています。話の続きは使徒言行録から知る事ができますが、そこで私たちは、教会がどのようにして生まれたかを知る事ができます。信者の成長に焦点を当てた信者の集会(教会)が、本来どのようにして機能するべきかについて詳しく書いてあるのは、使徒たちによる手紙を見れば分かります。使徒たちの手紙は、各教会に書いたものであり、その内容や目的も、各教会にいるクリスチャンたちへのアドバイスです。そういうわけで、聖書的な教会を考える場合、私たちは使徒たちの手紙を中心に見なければいけないのです。

1.祈りと聖書の学び

 使徒 6:4「私たちは祈りと、御言葉の奉仕に専念します。」

 教会が始まったばかりの時には、信者が何を、どのようにするべきかといった具体的なアドバイスすらありませんでした。それでも使徒たちは、祈りと御言葉の奉仕の大切さだけは理解していたようです。聖書の学びと祈りが欠けている信者の集い(教会)は致命的ですが、それらがあったとしても、実際に信徒の成長が見られないなら、意味がありません。御言葉と祈りの重要な点は、私たちの信仰の成長にあるからです。

 聖書の学びと言っても、旧約時代のような律法主義の考えから、聖書を学ぶ事ではありません。新しい契約の下での聖書の学びは、イエスの教えに従うという事であり、御霊によって御言葉が生かされるものです。同様に、祈りも儀式として行うものではありません。聖霊が豊かに降り注がれた恵みの下では、大胆な祈りに変わっています。律法の下では出来なかった御霊による祈りが、今は可能になっているのです。

異邦人信者に対して

 最初の教会がスタートした時には、まだ異邦人のクリスチャンがいませんでした。しかし、すぐに救いの御言葉が異邦人たちへ伝えられるようになります。この時に、割礼の問題が起こりました。いわゆるエルサレム会議において、異邦人の教会では、以下の内容の事を最初のルールとしました。

 使徒 15:29「すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避ける事です。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」

 異邦人たちは、基本的に皆が偶像礼拝者でした。ですから、まず偶像礼拝に関わる事を止めさせる必要がありました。次に、不品行を止めさせる事を使徒たちは決めています。この二つが、当時の異邦人の特徴的な行動でした。注意したいのは、これらを禁じたのは、使徒たちが彼らにモーセの律法を守るようにする為ではありません。エルサレム会議は、異邦人にも割礼を受けるように教えるかどうかを議論する為に集まったものです。会議の結論は、異邦人にモーセの律法を守るように教える必要はないというものであり、信仰によって義と認められたという、キリストの福音によって生きる事を悟った使徒たちは、律法と恵みの違いを理解し始めていたのです。

 使徒 15:21「モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

 この箇所は、「異邦人が、昔からモーセの律法を聞いていたから、律法を守るべきだ」とヤコブは言っているのではありません。彼らが昔からモーセの律法について聞かされるという、圧力を受けていたので、もうこれ以上、律法によって彼らを苦しめる必要はないとヤコブは言っているのです。今やその異邦人たちは、福音を聞いて救われて義となり、恵みの下にいるのなら、モーセの律法(文脈から割礼)は必要ないという事です。

 使徒たちが早い段階から決めた事は、教会で異邦人に割礼を受けさせる事の禁止です。すなわち、それまでイスラエル人がモーセの律法を守り、それにより自己の義を得るという、自分たちにはできなかった律法主義を異邦人に強いる事を禁止にしたのです。イスラエル人が理解していたモーセの律法は、イエスを信じた者たちにとっては、廃棄になったのです。この場合、モーセの律法に問題があるという理由からの廃棄ではありません。モーセの律法はイエスによって成就され、それは神を愛する事と隣人を愛する事によって完成されたのです。

 ローマ 13:10「愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。」

聖書的な教会 2に続きます。

教会の指導者に従う? 2

 これまでの解説から、ヘブルの13章17節は「あなたがたの指導者たちにの言う事に説得されて(確信されて)、又、似るようにしなさい」という意味になります。

 ヘブルの13章7節では、御言葉を聞いた人たちが、それを話してくれた指導者たちの信仰に倣うようにと言っています。17節はその後に続いて、同じ内容の事を繰り返しているのが分かると思います。一貫して同じ事を言っているのです。

 結論として、へブル 13:7 は「教会の上に立つ人の権威に服従する」という事を言っているのではありません。「権威」という単語がそもそも出てこないですし、教会の指導者たちは教会という、キリストの体の上に立つ人たちでもありません。彼らはキリストの体の土台として、他の人々に仕える人たちであり、下から支えるリーダーであって、ピラミッドの頂点にいる存在ではありません。建物の土台は、上ではなく下に据えます。

リーダーの権威

 第二コリント 10:8「あなた方を倒す為にではなく、建てる為に主が私たちに与えて下さった権威について、私が多少誇り過ぎる事があっても、恥とはならないでしょう。」

 パウロは、「あなた方を倒す為にではなく、建てる為」に主が与えて下さった権威だと言っています。「建てる」と訳されている単語は οἰκοδομή(oikodomē)であり、これは預言や異言の祈りによって「築き上げる、成長させる」の意味で使われている語です。次の聖書の箇所でも「使徒の権威」と「築き上げる」事について書いてあります。

 第二コリント 13:10「そういうわけで、離れていてこれらの事を書いているのは、私が行った時に、主が私に授けて下さった権威を用いて、厳しい処置をとらなくてもすむようになる為です。この権威が私に与えられたのは、建てる為であって、倒す為ではありません。」

 ここでも、パウロが使徒として与えられた権威をは、他の人を「建てる為」だと書いています。

 第一テサロニケ 2:6「又、キリストの使徒たちとして権威を主張する事もできたのですが、私たちは、あなた方からも、他の人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。」

 パウロは、人々から名誉を受ける為に、使徒としての権威を主張しませんでした。

 使徒たちは、与えられた権威を用いて他の人の模範となって、導き、彼らに仕える働きがあります。「平信徒」が、問答無用に使徒たちに従い、彼らのビジョンを手伝って、何かを成し遂げようとするのではありません。教会は、集まったクリスチャンを指しているのであって、組織自体ではありません。集まる目的は、指導者が信者を教え、一人一人もまた、成長の為に助け合って、励まし合う為です。

何に従うのか?

 教会内では「従う」必要が全くないのかと心配する人もいるでしょう。

 第一ペテロ 2:13-14「人が立てた全ての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、或いは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめる為に、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。」

 「主のゆえに従いなさい」という事が鍵です。人によって設立された制度(ルール)でも、主のゆえに、つまり、主の教えに沿っている事を前提に従うべきです。あくまで人の制度やルールが「主の御心に沿う」なら問題はありません。ですから、真理の教えに反するルールである場合、「主のゆえに従う」事はできないのです。

模範

 リーダーの資格は仕事のスキルよりも、信仰や愛に基づく良い模範になっているかどうかが重要です。品格はスキルよりも大事です。御霊の実が大事だと言われる通りです。よく指導者が言う、「上の人に従いなさい」は、彼らにとって便利なフレーズとして、しばしば乱用されて来ましたが、その結果、本来の教会が形成されずに、人間的な組織が出来上がってしまいました。

 良い模範を示しているリーダーが、「従いなさい」と言って、個人的な何かを主張する目的で権威を利用する場合ですら、聖書的ではないのです。それならば、良い模範を示していない人が、その人の権威に従うようにと命じたのなら、どうなるでしょうか。誰も、「説得させられない」ばかりか、真理でもないので、違和感しか感じられないはずです。

教会の指導者に従う? 1

 へブル 13:17「あなた方の指導者たちの言う事を聞き、又、服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなた方の魂の為に見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでその事をし、嘆きながらする事にならないようにしなさい。そうでないと、あなた方の益にはならないからです。」

 この箇所は、教会の指導者たちが、「教会の上に立つ人の権威に服従しなさい」と言いたい時に、よく引用されます。しかし、ここには、「権威」という単語すらありません。

πείθω(peithō)

 まず、「言う事を聞き」の箇所は πειθεσθε(中態)であり、(πείθω=peithō)の変形で基本の意味は、「説得する、確信する」です。

 へブル 13:18「私たちの為に祈って下さい。私たちは正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動したいと思っているからです。」

 「確信しており」は(πείθω=peithō)です。17節では「言う事を聞く」の訳ですが、ここでは「説得する、確信する」という意味で用いられています。

 peithō が「言う事を聞く」の訳に発展する場合は、誰かに「説得させられる、確信させられる」時です。何故なら、人に何かを説得させられ、確信させられたのなら、その人に同意する、「言う事を聞く」事になるからです。それでは、peithō が「従う」と訳されている箇所が、「権威に服従する」という意味のものかを調べてみます。

 使徒 5:36「先ごろテウダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどになりました。しかし彼は殺され、従った者たちはみな散らされて、跡形もなくなりました。」

 「従った」は epeithonto であり、ここも受態になっています。ここの「従った者たち」は「説得させられた」ので、ついて行った人たちです。この場合の「従う」は権威に従うというものではなく、「同意する」意味の「従う」であり、その理由は epeithonto が「説得させられた(受け身)」からです。 

 ローマ 2:8「利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。」

 ここの「従う」という訳も peithomenois(中態)なので、「説得させられる」という意味から「同意して従う」となっています。ここでも権威に対して従うなどの「服従(submission)」を意味するものとは違います。真理に従わずとは、真理に同意せず、「説得させられず、確信させられず」です。

 ガラテヤ 5:7「あなた方はよく走っていたのに、誰があなた方の邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。」

 ここも peithesthai(受態)です。直訳は「誰があなた方を真理から妨げ(アオリスト)説得させられないようにしているのか」です。

 ヤコブ 3:3「馬を御する為には、その口にくつわをはめれば、馬の体全体を思い通りに動かす事ができます。」

 ここでは「馬を御する為」という訳になっていますが、直訳は「馬が私たちに説得させられる為」です。この箇所は「服従」という語にしても構わないのですが、従わせる対象が「馬」である点に注意です。

 以上、見てきたように、(πείθω=peithō)は説得させられるという意味で出現している事が多く、「従う」と訳されている箇所でも、それは「服従する」とは違う事が明らかです。

ὑπείκω(hypeikō)

 へブル 13:17「あなた方の指導者たちの言う事を聞き、又、服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなた方の魂の為に見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでその事をし、嘆きながらする事にならないようにしなさい。そうでないと、あなた方の益にはならないからです。」 

 今度は、「服従しなさい」の動詞を取り扱います。ὑπείκω(hypeikō)はへブル 13:17 にしか出てきません。他の聖書の箇所で参照する事ができないので、注意して調べてみる必要があります。まず、ὑπό (hypo)が「下に」という意味を持ちます。英語の前置詞の under と同じです。この語に eikō がくっつくようですが、ストロング・コンコーダンスの Strong's G1502 では、eikō は「屈する」ですが、Strong's G1503 だと「似る」という意味になっています。「屈する」の eikō は、新約聖書中、次の一か所しか出てきません。

 ガラテヤ 2:5「私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服したりする事はありませんでした。それは、福音の真理があなた方の元で保たれる為でした。」

 次に、「似る」の eikō を見ましょう。こちらも新約聖書中二回しか出てきません。

 ヤコブ 1:6「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」

「海の大波のようです」の部分は「似る」の eikō が使われています。つまり、「海の大波に似ている」とヤコブは言っているのです。

 ヤコブ 1:23「御言葉を聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。」

 ここでも「眺める人のようです」の箇所に、eikō(似る)が使われています。

 さて、へブル人への手紙 13:17 で訳されている「指導者たちに服従しなさい」はどちらなのでしょうか?(屈する)eikō か、それとも(似る)の eikō かです。この先は文脈から判断します。へブル人への手紙の13章の最初から読んで行き、7節に注目が行くなら、それが手がかりになるでしょう。

 へブル 13:7「神の言葉をあなた方に話した指導者たちの事を、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。」

 17節と同様、「指導者たち」について書いてありますので、それに気づくのは難しくはありません。ここでは、指導者達の信仰に倣いなさいと書かれています。「倣う」とは、μιμέομαι(mimeomai)のギリシャ語で、「真似る」という意味の動詞です。模範にする、見習うという訳にもなります。「似る」の eikō がこの節と関係している可能性は非常に高い事が分かると思います。この「指導者に倣う事」に関して、パウロも同様に教えています。

 第二テサロニケ 3:7「どのように私たちを見習うべきか、あなた方自身が知っているのです。あなた方の間で、私たちは怠惰に暮らす事はなく、」

 第二テサロニケ 3:9「私たちに権利がなかったからではなく、あなた方が私たちを見習うように、身をもって模範を示す為でした。」

 ピリピ 3:17「兄弟たち。私に倣う者となって下さい。又、あなた方と同じ様に私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めて下さい。」

 第一テサロニケ 1:6「あなた方も、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」

 第一コリント 4:16「ですから、あなた方に勧めます。私に倣う者となって下さい。」

 第一コリント 11:1「私がキリストに倣う者であるように、あなた方も私に倣う者でありなさい。」

ロゴスとレーマ 4

ロゴスの力

 マタイによる福音書 8:8「しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなたようを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば私のしもべは癒されます。」

 百人隊長が言った「お言葉」はロゴスです。それによって彼のしもべは癒されると彼は言ったのです。彼はイエスのロゴスにより、彼のしもべが癒されると信じていました。実際、ロゴスを信じると結果を伴う事になりました。ですから、ロゴスを信じるなら、レーマになるのです。イエスは「私はイスラエルの内の誰にも、これほどの信仰を見た事がありません。」と言って、百人隊長を誰よりも褒めました。下の聖書の箇所でもロゴスの力によってイエスが悪霊を追い出したと書いてあります。

 マタイによる福音書 8:16「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスは言葉をもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒された。」

 この箇所の「言葉」はロゴスです。従来の間違ったレーマの定義によると、聖霊が導いたので奇跡が起きたという理解なので、この個所の言葉はレーマだろうと考える人は多いでしょう。しかし、イエスは聖霊の導きという意味のレーマによって、悪霊を追い出したのではありません。既に解説したように、レーマの正しい定義は「結果を伴う語られた言葉」です。

 百人隊長がイエスのロゴスを信じて結果を出したケースも、イエスがロゴスによって悪霊を追い出したケースでも、共通している点は、ロゴスには力があるという事です。「書かれた言葉には力がない」というニュアンスを含む、従来のロゴスの定義とは違います。

 例えば、同様な考え方は、癒しの賜物によって癒しをする人々のケースでも見られます。こうした人々は基本的に、癒しは神の御心だと言いますが、究極的には「誰が癒されるかは聖霊が示さないと分からない」とします。つまり、彼らとしては、ロゴスは大まかなガイドラインにしか過ぎず、最終的には全て聖霊の導き次第とするのです。この聖霊の先導をレーマという定義だと勘違いしている為に、レーマがロゴスよりも重要だと結論づけたのです。

 奇跡が起こる理由は、全て聖霊の声(レーマ)次第だとしている為に、多くの人が聖霊の導きばかりを追い求め始めました。しかし、聖書ではロゴス(言葉、イエス)を信じるだけで、癒しが起こるという単純な真理を教えています。聖霊の先導そのものが、毎回奇跡を起こすのではなく、私たちがロゴスを信じて、一歩踏み出す時に、聖霊が私たちをサポートして下さるのが真実なのです。

 では、イエスもロゴスを信じて、その力を発揮させたかという点はどうでしょうか。信仰はギリシャ語の定義から「知る、理解する、悟る」という意味を持つので、イエスが自分の言った言葉の通りになると知っていたのは当然だと考えられます。イエスはご自身がロゴスであり、ご自分の言葉を信じて歩まれ、私たちもイエスの言葉を信頼して歩むように示されました。同じ例が、イエスが御言葉でサタンに対処された時にも見られます。その場でサタンを全能の力でねじ伏せずに、主が御言葉で対処されたのは、私たちに御言葉によって歩む事を示す為でした。

まとめ

 ロゴスもレーマも「語られた言葉」という意味を持ちます。ですから、書かれた言葉だけがロゴスではありません。それは聖書からも確認できます。そしてレーマは語られた言葉ではありますが、それを聖霊の声や導きにしてしまった所が間違いです。レーマは、より正確には、「語った言葉の結果」という意味になります。

 ですから、ロゴスを信じて、結果が出たら、それはレーマとなるのです。新約聖書の著者たちは、これらの言葉を使い分けて、結果を伴った場合は、レーマを使ったのです。読む側としては、どの言葉がレーマとなったかは、現場にいなかったので、分からないという事もあります。

 ローマ人 10:17「ですから、信仰は聞く事から始まります。聞く事は、キリストについての言葉を通して実現するのです。」

 ギリシャ語では「始まる」の動詞はありません。この箇所を直訳するなら、「信仰は聞く事から、キリストのレーマを聞く事から」という感じです。ここでは、結果や力を伴うイエスの語った言葉を聞いたら、私たちは信じる事ができるとパウロは言っているのです。パウロが言いたいのは、イエスの言葉は結果を伴うもの、つまり、何らかの神の力を伴うものであり、それを聞事から信仰が始まるのだとパウロは教えているのです。

 ロゴスにも力がありますが、それを私たちが信じて結果を出す必要があります。ちょうど、福音を聞いて、それを信じて、救われるという結果を出す必要があるのと同じです。福音を聞いて、本当に信じたのであれば、その人は新生を体験する事になります。
 
 結論として言えるのは、聖霊の声(レーマ)だからという事で、ロゴスよりもレーマが大事なのではありません。或いは、書かれている言葉(ロゴス)には力がないという定義でもありません。御霊は真理であるイエス(ロゴス)に導かれます。イエスの言葉、イエスの教えを信じるなら、その結果が現れる事になり、それがレーマになるという事なのです。

ロゴスとレーマ 3

 ヨハネによる福音書 16:13-14「 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導いて下さいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いた事を全て語り、これから起こる事をあなた方に伝えて下さいます。御霊は私の栄光を現されます。私のものを受けて、あなた方に伝えて下さるのです。」

 御霊は御言葉(ロゴス=イエス)を思い出させて下さり、真理に導く(イエスに導く)最も重要な働きを持っています。御霊は、私たちの助け主というサポートの立場を維持します。ですから、御霊の語る事(ロゴス)だけで事が成就するのではなく、それに従って私たちが行動する時、その御霊の導きや啓示が成就します。従って、聖霊の導きによる語りかけそのものはレーマではないという事です。私たちの信仰による行動が常に関わっているというのが重要なポイントです。もし、聖霊の語った言葉が直接レーマになっているのなら、聖霊が全ての事を成就させる事になります。それなら私たちとは無関係になり、私たちが世界宣教などしなくても良い事になります。

 私たちの何が関わっているかと言えば信仰です。そして信仰の結果である行動です。私たちがロゴスを信じてその通りに行動に移すと、そのロゴスが効果を伴う事になり、それがレーマとなるのです。既に説明したようにロゴスも「語られた言葉」という意味があります。聖霊が私たちに語られる指示や導きは基本的にレーマではなくロゴスです。聖霊が私たちの信仰を必要としない形で(レーマで)事を成し遂げるケースは、私たちが霊的に幼い時が主になります。成長して私たちが信仰によって歩むように導くのが聖霊の導きである為、御霊の声の多くはロゴスになっています。御霊が私たちに語るのは、私たちを通して働きをしたいと望んでいるからです。そこには当然、私たちの信仰が関わっています。それゆえ、レーマによって生きるとは、私たちがロゴスを信じて、それを実践する事によって生きるという意味です。

 聖霊が私たちの信仰なしに私たちを通して働く事があっても、それを毎回期待しなさいと神が言っているのではなく、御霊が私たちをサポートする存在であるという事を教えているのです。つまり、例え私たちが信仰によって歩んでいないケースでも、時にはバックアップして下さる恵みがあるという意味です。もちろん、そうだからといって信仰によって歩む必要はないと考えるのは間違いなのですが、多くのクリスチャンはそう考えているのです。

 本来の聖霊の働きは、私たちが信じて一歩を踏む出すタイミングで、私たちの信じた結果を出す部分にあります。ですから、「聖霊様、どうそ事を成し遂げて下さい」といった信仰のない希望の祈りは間違っているのです。神次第といよりも、むしろ私たちの信仰による行動と、神に対する私たちの献身的な歩み次第です。

 逆に言えば、私たちが忍耐を持って、長年何かを信じて行動に移していても、その結果が見られないのなら、正しく御言葉を理解していない事になります。何故なら、ロゴスを信じて実行するなら、それは確実にレーマになるからです。ロゴスがレーマになる為には、私たちがロゴスが言わんとする真理を信じる必要があります。聖書の教えている信仰とは真理に対して働くものであるので、御言葉を勘違いして信じているなら、それはレーマ、つまり、結果を伴う事にならないのです。

 ロゴスとレーマ 4に続きます。

ロゴスとレーマ 2

レーマ

 ῥῆμα(レーマ)を語源から見ると、 (Rheo + ma) から成り立っている事が分かります。Rheo は「言う、話す」という意味の動詞です。「μα」という語尾は注意が必要です。動詞等の後ろにつくと、「動作の結果や効果」という意味を含みます。この場合、Rheo の「言う」という動作の結果や効果を伴う事になります。

 マタイ 4:4「イエスは答えられた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

 ここの「言葉」はレーマになっています。レーマが「言う」という動詞の効果を伴うもの、つまり、話された言葉の効果が現れるという意味を含んでいます。神の発言された言葉には、その結果や効果が伴うという事で説明できます。イメージとしては、「光よ、あれ」と言って天地を創造した言葉の効果がそれです。その言葉は光を創造してしまう効果(力)を伴いました。

 ルカ 1:37「神にとって不可能な事は何もありません。」

 ここでも、「レーマ」が使われています。より直訳なら、「神にとって、不可能な言葉は一つもない」になります。ギリシャ語では「一つ一つ」(πᾶν)と「言葉」(ῥῆμα)という2語が使われています。これは、預言の成就を指したり、言葉の効果が現れて、奇跡が起こるなどのケースでも同じです。

 エペソ 6:17「救いの兜をかぶり、御霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」

 御霊の剣はレーマです。Vine's Expository Dictionary によれば「御霊の剣としての言葉は、聖書全体としてのロゴスではなく、御霊が私たちに思い起こさせる一つ一つの御言葉であり、それらは必要な時や状況に応じるもの」としています。そして、「そのようにして聖霊が私たちに思い起こさせる為には、私たち自身がまず御言葉(ロゴス)を蓄えておく必要がある」としています。これは、ロゴスだけでは剣としての役割を果たさない事を意味しています。

 ここにロゴスとレーマの違いのヒントが隠されていますが、ロゴスが生かされる為に必要なのは、信仰なのです。ロゴスよりもレーマが重要だという部分は、そこにあります。しかし、レーマが「聖霊が話された」という事、それがより重要だと教えられたのです。こうして一部のグループが、レーマを「聖霊の声」として御言葉よりも重要視した為に、様々な極端な考えが出てきました。しかし、レーマは誰が語ったかさえ限定しません。

 マタイによる福音書 12:36「私はあなた方に言います。人は、口にするあらゆる無益な言葉について、裁きの日に申し開きをしなければなりません。」

 「あらゆる無益な言葉」を話すのは人です。そして、ここではレーマが使われています。レーマを「聖霊の声」として定義していると、この箇所の聖書の解釈はどうなってしまうのでしょうか?

 ロゴスは、幅広い意味で「言葉」です。ロゴスはレーマと同様に「話された言葉」の意味も含みます。レーマは単に「話された言葉」ではなく、「結果を伴う話された言葉」がより正確な定義です。

ロゴスとレーマ 3に続きます。

ロゴスとレーマ 1

 一部のグループでは、λόγος(ロゴス)と ῥῆμα(レーマ)が大事だと主張されています。その主な理由は、レーマが聖霊の声だと、彼らの間で認識されているからです。これらの単語には相違点がありますが、共通点もあります。

 第一コリント 12:8「ある人には御霊を通して知恵の言葉が、ある人には同じ御霊によって知識の言葉が与えられています。」

 パウロによると、知恵の言葉であれ、知識の言葉であれ、同じ御霊によって与えられるという所がポイントです。さて、「霊的なもの」に傾倒しているクリスチャンなら、知恵の「言葉」と知識の「言葉」は「レーマ」だと思うかもしれません。しかし、両方ともロゴスとなっています。

 ヨハネ 12:48「私を拒み、私の言葉を受け入れない者には、その人を裁くものがあります。私が話した言葉、それが、終わりの日にその人を裁きます。」

 イエスの言われた、「私の言葉」はレーマですが、「私が話した言葉」はロゴスが使われています。ロゴスの意味を「書かれた言葉」として定義しているなら、それが間違いである事がここで分かると思います。

 マタイ 7:24-27「ですから、私のこれらの言葉を聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえる事ができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、私のこれらの言葉を聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえる事ができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」

 「私のこれらの言葉」はイエスが話された言葉なのですが、ロゴスの単語が使われています。イエスはここで、ロゴスを聞いて行わない人は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人だと言いました。

ロゴス

 ロゴスは「話された言葉」を含む「語り」「教え」「宣言」「預言」など「言葉」に関する、幅広い意味を持ちます。又、必ずしも聖書に関する言葉という意味だけに限定されません。ここれに対してレーマは「話された言葉」という限定された意味があります。注意したいのは、両方とも「話された言葉」の意味を持つという事で、一部の人々が誤解しているような、「ロゴス=書かれた言葉=聖書」ではないという事です。

 ロゴスとレーマ 2に続きます。

罪を赦された罪人?

 信仰義認という神学用語があります。これは、ルターがローマ書を基に「イエス・キリストを信じる事によって義と認められる」として、ローマ教会に抗議した事から始まりました。いわゆる宗教改革の三大原理の一つです。免罪符(贖宥状)にとても批判的な立場だったルターは、ローマ・カトリックに立ち向かった教会史の中でも最も重要な一人です。プロテスタント教派の起源はルターの大きな貢献、そして彼を通して働いた神の恵みによるものです。ルターの活躍により、信仰の真理は、より多くの人に正しく伝わるようになりました。

 キリストの十字架の御業を信じる事によって、神に義人として認められる事が信仰義認であり、そして、それが救いでもあります。しかし、皮肉にも「クリスチャンは赦された罪人」という表現も彼によるものでした。彼のこの発言は多くの人にとって、「クリスチャンは罪が赦されていても罪人と変わらない」と誤解されています。

 実際には、ルターは、義人となったクリスチャンでも罪を犯す事があるという事実を認めているだけであり、「義人ではなく罪人のままである」とまではしていません。彼は、クリスチャンでもまだ「罪の性質」が残っているとし、「将来的に義人」としての望みがあるだけで、現実には罪人だとしました。つまり、罪人の状態のままでいる事はなく、神がいつの日か罪を全く取り除いて、義として下さるという考えを持っていました。

 彼の説明は、彼自身、信仰義認を完全に理解していないという事が明らかです。「神から見ると義人」でも、「人の目から見ると罪人」だという視点がまず聖書的ではありません。もし、神がクリスチャンを義人と定義するなら、どうして人間的な見方をして、その逆の主張ができるでしょうか?できるとしても、それは神の言った事に対して反対する事になるのです。主が私たちを義とするなら、それに対して「アーメン」と主の御言葉を信じるのが謙遜な態度です。

 一見すると、自分の罪を認め、自分はまだ罪深いと言う人の方が謙遜のように思われるのですが、例え、自他共に認める罪があったとしても、信仰によって「私は罪赦された義人です」と宣言するのが正しい理解なのです。人が誰かの犯した罪を見れば、その人を罪人だとするでしょう。しかし、イエスの十字架の御業を見て、クリスチャンの罪を見るなら、その人は義人だと宣言できるのです。この理解はとても重要です。

 ルターの誤解は結局、義人になるには「聖化」というプロセスを経て完成されるという誤解が根底にあります。義としての立場が与えられつつも、それの完成は聖化という神の働きを経る必要があるとしています。彼のこうした聖化に対する誤解があった為に、ルターでさえ聖書的な義についての理解は十分ではありませんでした。これはつまり、私たちが義を正しく理解するのには、聖化もきちんと知る必要があるのです。これらをはっきり理解していないなら、救いの定義も揺らいでしまいます。

 ルターは以下の三つを理解していたのですが、その理解は少し浅かったようです。
  1. 信仰によって神によって義と認められる
  2. 義人であるクリスチャンでも罪を犯す事はある
  3. 聖化はプロセスである
上の三つの中で彼が間違っていた部分は以下です。
  1. 神の目から見たら義人でも、人から見れば罪人である
  2. クリスチャンは義人であり罪人でもある
  3. 聖化の完成は地上ではない
 1は既に少し解説したのですが、次の聖書の箇所を見るだけでも問題が解決されます。

 ローマ 8:33‐34「誰が、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めて下さるのです。誰が、私たちを罪ありとするのですか。死んで下さった方、いや、蘇られた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちの為に、とりなしていて下さるのです。」

 罪に定めようとするのは、まずサタンがいます。次に人です。人というのは他人もそうですし、自分自身も罪に定めようとします。しかし、神はそうしません。この理解はとても重要です。イエスの罪の赦しを軽く考えてしまうと、十字架の御業よりも自分勝手な判断に頼る事になり、その結果、罪の赦しの恵みを台無しにしてしまうでしょう。神が義と認めたのなら、それでもう終わりなのです。例え罪を犯しても、イエスが私たちの為に執り成して下さるのです。それでも「私は罪人だ」と言うなら、その発言が御言葉よりもその人の中で上位になっていて、その考えを神の言葉としているようなものなのです。御言葉に反するものを神とするなら、それはもはや偶像崇拝です。

 クリスチャンでも罪を犯すという現実はありますが、それだからといって、クリスチャンが神の子であるというアイデンティティーを失う事はありません。ですから、罪を犯したとしても私たちは義人なのです。これには違和感を感じる人もいるでしょう。しかし、これがまさに驚くばかりの恵みなのです。神の恵みゆえに、私たちはイエスを信じる事によって義人となったのです。もちろん、罪を犯したのなら、考えを変えて、歩むべき道を修正しなくてはいけません。

 クリスチャンの場合、たとえ罪を犯しても、罪人に逆戻りする事にはなりません。もし、クリスチャンが罪を犯すたびに、罪人に再び逆戻りするなら、イエスの血には力がないという事になります。それなら、動物のいけにえの血と同じであり、モーセの律法にあるように、毎年いけにえが必要になる事になります。恵みの真理がモーセの律法よりも勝っているのは、刑罰やいけにえよりも、主の憐みが永遠だからです。

 真理によれば、イエスの血には、全ての罪を取り除く力があります。過去の罪、現在も未来の罪も全てです。イエスの十字架の贖いは一度だけです。人の罪は、動物のいけにえの血によっては赦されませんでした。その儀式が人を義人にする事もできませんでした。イエスの十字架の御業のみが人を罪から解放したのです。しかし、罪が既に赦されているからと言って、罪を犯しても良いという考えではないとパウロも言っています。

 そこでカギとなるのが、聖化の理解です。私たちが罪を犯しても、私たちの新しいアイデンティティーは義人である為に、本来の聖書の通りの生き方をすれば、「既に聖化された」神の子の性質が外に現れてくるのです。一般に、聖化はクリスチャンになった時、ゼロからスタートすると考えられています。そして、ルター派などでは聖化の完成は生きている間はないと言います。そして、聖化されていない義人であるクリスチャンでも、死んだ場合なら、突然、聖化の完成に達して天国へ行くと教えています。それはそれで、多くの混乱を招くでしょう。 

 義化と聖化は別ですが、それらは、霊において同時に起こるのが聖書の真理です。「完成された聖化」が外に現れるには、成長というプロセスを経ます。新しく生まれ変わるという事が分かれば、この事がはっきり理解できるでしょう。すなわち、新しく生まれ変わったクリスチャンの霊は、アイデンティティーが罪人から義人になったという事であり、同時に聖くされた者(聖化)でもあるのです。生まれ変わったクリスチャンは神の子であり、神の子が聖化されていないというのはあり得ません。クリスチャンは、イエスを信じた瞬間に神の子となり、その霊において聖化されたのです。しかし、魂の変化は殆どなく、思考はあまり変わっていません。この部分の成長は必要です。ですから、魂における聖化は、過程を経ます。

 第一ヨハネ 3: 1-2「私たちが神の子供と呼ばれる為に、御父がどんなに素晴らしい愛を与えて下さったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子供です。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」

 クリスチャンの新しいアイデンティティーの形成は瞬間的です。何故なら、新しい霊によって生まれたのは瞬間的であり、それから魂が成長してそのアイデンティティーをより外に現して行く事も聖化です。この理解が鍵です。人の成長を例えにしましょう。人は赤ちゃんであっても、大人であっても、人というアイデンティティーは同じです。成長する過程を経て「より人間らしくなる」という事は言えるかもしれませんが、生まれた瞬間から人です。

 ところで、子供は食べる事によって成長します。もし子供が何も食べないなら成長しません。睡眠や運動などの条件も挙げるべきかもしれませんが、食べる事よりもそれらを優先に考える事はないでしょう。ある意味、普通に食べてさえいれば、子供は自然に成長します。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」という聖書の言葉からも、私たちが生きて行く上で大切なのが食べる事と関係しているのは明らかです。この場合、いわゆる霊の糧である御言葉(レーマ)が食物よりも重要であるのは明白です。 

 聖化と、御言葉を食べる事によって私たちの魂が成長する事には共通点があります。しかし、私たちのアイデンティティーは霊において確立されています。それだからこそ、罪の生活をやめて、神の子として、義の奴隷として歩むようにとパウロは勧めているのです。その歩みは、律法の行いによるものではなく、新しい人としての歩みです。私たちは罪から離れて聖い生活ができるのです。新しい人の奥義はそれほど偉大なのです。キリストの贖いによって、私たちはもう古い人のまま歩んで、罪を犯さなくても良いのです。キリストの心(思い)によって歩めるように生まれ変わりました。キリストと共に歩むという完璧な環境は整っています。ただし、そうした良い環境の中にいても、食べる事をしないなら成長はありません。御言葉を読まないのなら成長せず、既に霊において聖化されたアイデンティティーの実を結ぶ事はありません。つまり、イエスに繋がっていないなら実を結ぶ事もないのです。イエスに繋がるとは、イエスとイエスの教えに留まる事です(ヨハネ 15:7)。

召しについて 3

神からの依頼

 自分が御国の為に何をしたら良いか、よく分からないという人の多くは、「神に示されたら何かをやる」事に徹しているようです。この考え方はまだ主流かもしれませんが、次の世代のクリスチャンは違う考え方を持つようになります。もちろん、神は私たちにやるべき事を示して下さる事はあります。本来は私たちが成長し、大人として考え始め、その成長に応じた働きを自由に選ぶ事ができるのですが、この事を知らない場合でも、神は人々に役割を当てる事はあります。

 実際に、過去の偉大な人たちの多くは、神に何をすべきかを言われてから行動しました。しかし、これが神の召しに対する正しい行動ではありません。基本的に、もうしばらくの間は、「神のしもべ」の視点を持つ人が多い為に、神も彼らに何をすべきかを指示されるでしょう。神の子に目覚め、自主的に御国を前進させる為の働きに従事しようとする人々は、まだ少ないのです。本来は、私たち神の子が何をやるべきかを見極めるほどに成長して、自由に奉仕しても構わないのです。神は、むしろそれを望んでおられます。

 必死に祈らないと神は何をすべきかを教えてくれない、神から許可を得ずに行動を起こすと必ず失敗する、などの消極的な固定観念が根強いのは、多くの信者が旧約時代の「神に仕えるしもべ」の考えを持っているからです。逆に言えば、新しい契約の中にいる「神の子」という考えが弱いという事です。神の子は御父の御心を知っている存在として新しく生まれ変わっています。旧約時代の預言者たちは、神が御父である事、キリストによって彼らが神の子になれる事などを知らなかったので、様々な制限が彼らの人生にあり、その結果、消極的な考えを持っていました。しかし、現代の多くのクリスチャンは、まだ古い契約の下にいる者として自分を考え、御国を相続する神の子、地を治める為に贖われた者というアイデンティティーに目覚めてはいません。キリストにあって、圧倒的な勝利者であり、神の霊と共に歩む神の子は、自由に人々に奉仕し、積極的にやろうとします。この考えは、旧約時代の預言者の考えとは違います。

 例えば、リバイバルが起こるように「神にひたすら祈る」という考えは「神のしもべ」の考えですが、「行動してリバイバルを起こす」という考えは神の子が持つ考え方です。リバイバルの為に祈る事は必須ですが、祈った後は、やるべき事をするのです。自分の成長に見合う仕事が集会にあるか、何かのニーズがあるか、或いは、欠けた部分を探して、そこを補えるかという考えを持つのが大人です。しかし、消極的な考えは、御霊によって歩む事が分からない、神の御心が分からない考えから来ています。実は、そこの部分が原因なのです。

 「主の御心が分かれば動く」という束縛から出るには、神の御心を知る事で解決されます。そうするには、神の子として歩み、神と共に歩む中で、神の御心を知る事が必須となります。それは敬虔的な歩みとも言えます。しかし私たちの多くは、普段は御霊による歩みをせず、中途半端な人生を送りながら、神の御心を求めているのです。普段から神の御心から離れて歩んでいる為に、御心が分からないという現実を知らないのです。神の御心を知るには、イエスの教えを知り、思考を一新させ、神の子の意識を強く保ち、聖霊の中に浸かる歩みをする必要があります。御父は、神の子たちが、そうして自然と神の御心を知るようになり、自ら進んで様々な事にチャレンジして欲しいと願っておられるのです。

 神に召されないと、ミニストリーを始めてはいけないという考えにこだわるなら、ヨシュアを見習う方がまだ良いでしょう。モーセは神の召しを受けてから、行動しましたが、呼ばれた後でも一度は否定しました。何故なら、自ら進んでやろうとしなかったからです。ヨシュアの場合、モーセを通して働かれる神に注意して見る事によって、次のリーダーとして自分を整えていたのです。「言われたからやる」という、モーセの考えよりも、やらなければならない事を知り、自分を整えるという、ヨシュアの考えは優れています。しかし、私たちはイエスによって神の子とされたので、モーセやヨシュアを超えて、神の子として歩む中で、御心を知り、今自分が何をすべきかを知る事ができるのです。

召しについて 2

神のしもべと神の子

 五役者、正確には教師が羊飼いの役割をするので、四役者です。やるべき事は、五つあります。ここでの問題は、それらの役割やタイトルにこだわり、それらの奉仕の働きを「神からの召し」だと勘違いしている事です。その原因の一つには、人々が「神のしもべ」の意識を強く持っているからです。奉仕の働きは色々ありますが、信者のアイデンティティーは神の子だけです。私たちは、神の子としてそれらの働きをしますが、それらの働き自体が私たち自身ではありません。クリスチャンが自分のアイデンティティーをよく知らないのは、その教えがあまり浸透していないからでしょう。又、「神の召し」を「絶対的な任命」として教えられているのは、次の聖書の引用が原因になっている事もあります。

 ローマ 11:29「神の賜物と召命は、取り消される事がないからです。」

 この箇所はよく誤解されています。ローマ人への手紙 11章はイスラエルの救いについての内容が書かれており、29節の「神の賜物と召命」とは「選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者」、つまり、イスラエル人の救いに関する神の約束を指しています。ここで使われている「賜物=恵みの現れ」を「御霊の賜物」や五職として解釈してしまっているケースがしばしばあります。パウロはその前の節までイスラエルの救いについて書いているのに、この節で突然、御霊の賜物や五職について語る事ができるでしょうか?話の流れを無視して、それらをここで説明する(一般的にそう誤解されている)という事はあり得ません。又、「賜物」の直訳は「恵みの現れ」なので、文脈から判断すると、イスラエルの救いが神による恵みの現れだと分かります。

 更に、κλῆσις(召命)の単語は「招待」の意味を持ちます。新約聖書では「救いへの招待」という意味で主に用いられ、この箇所では神がイスラエル人の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブに約束された救いの招待について考えを変えない(ἀμεταμέλητος)という意味なのです。 新改訳では、「取り消されない」の訳になっていますが、使われているギリシャ語は、ἀμεταμέλητος であって、μεταμέλομαι(考えを変える)という動詞に否定の意味を持つ α が前についている形です。直訳は「考えを変えない」です。この語は、新約聖書で「悔い改め」と訳されていますが、μεταμέλομαι のより正確な訳は「考えを変える」です。

 従って、ローマ 11:29 をもとに、神から五職のうちのどれか、として召されたしてしまうと、その奉仕の働きが永遠に変わらないという誤解になります。実際には、その人の成長と共に神は仕事をお任せになるのです。五職の働きですら、同時に二つも三つもこなす人も実際にいますし、教会の外でなら、より多くの働きをする人々もいます。リーダーは複数の役割をこなすのが理想であり、パウロもそうしました。もし、リーダーが自分のポジションやタイトルを気にして、やるべき事ができないのなら、その人は旧約時代の神のしもべのように考えていて、自分が神の子である事を忘れているのです。

 とはいえ、現時点では複数の役割をこなすリーダーも多くはいません。それ相応の成長が必要だからです。各自がキリストの体の部分として、最低でも一つの役割を果たすべきですが、リーダーは成長しているという意味で、雑用を含めた、複数の仕事もこなさなければなりません。時には、五職の中の二つもやらなければならないようなニーズがあります。私たちのアイデンティティーは神の子であり、ミニストリーの模範はパウロであり、究極的にはイエスなので、何でもできるように成長し、実践して行かなければいけません。しかし、その成長に合わないのであれば、責任の重い仕事を引き受けるべきではありません。実際、リーダーとして仕事は責任の重さが他よりも大きいので、使徒が預言者としての役割もこなすという事は、多く見られないのです。
一般には、一つの働きに専念している事が多く、私たちは自分の出来る所から始めるのと良いでしょう。

 結論として言えるのは、いわゆる「御霊の賜物」による奉仕の働きや五職は、私たちのアイデンティティーではないという事です。誰か使徒の働きをしているから、或いは、癒しの賜物を持っているからといって、その人を何か特別扱いするような考えから卒業し、その奉仕者も同じ主にある者として見なければなりません。又、奉仕者は、自分の働きによって自分自身に注目を集める事をせず、イエスに導くように心がけなければいけません。それが大人の考えであり、神の子の考え方なのです。

召しについて 3に続きます。

召しについて 1

 聖書の言う「神の召し」とは、私たちが成長して、キリストのようになる事を指します。各信者が教会の体の一部として働く役割の事ではありません。神は特定の役割に従事するように指示する事はあります。しかし、それは「神の召し」ではなく、ただ神が特定の奉仕の働きをするように指示しただけです。それは、あなたの「宿命」ではありません。

成長に応じる役割

 全ての信者は教会において何かしらの役割を持つ事になります。その役割はあなた自身が知っていたり、周りから言われたり、集会のリーダーから任せられたり、或いは、神から直接、示される事もあるでしょう。あなたがするべき役割を実行するのはとても重要です。しかし神は、あなたがするべき事を一つの働きだけだに限定してはいません。あなたが成長してより責任の重い役割をこなす事ができるにつれ、神は様々な働きをお任せになります。

 しかし神は、率先して御心を実践する人も望んでおられます。つまり、神は私たちが自由に正しい選択をして、自ら責任を取って奉仕の働きをする事を望んでおられるのです。サタンは、私たちの自由を奪ってコントロールしようと試みますが、神は私たちを強いて動かそうとはしません。神は人がやりたくない事を強いてさせるお方ではありません。このように、役割は様々で、成長につれて変化しますが、神の召しは一つであり、それは私たちがキリストへと成長する事です。

 へブル 5:12「あなた方は、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げた言葉の初歩を、もう一度誰かに教えてもらう必要があります。あなた方は固い食物ではなく、乳が必要になっています。」

 教師は教えます。それはリーダー的な役割です。普通に成長しているクリスチャンなら、いずれ教える側に立つべきです。信者は全員が成長を目指して、主の為により多くの働きに務める意識を持つべきです。ただキリストの再臨を待つだけの「一般信徒」として安住してしまっているなら、その人は霊的成長の大切さを理解していません。クリスチャンの多くは、一部の人だけが献身するという誤解を持っています。皆が弟子としてイエスの後に従う事を知りません。皆が神の子として歩む事が神の御心であって、それは霊的成長の道を歩む事であり、キリストの満ち満ちた身たけに達する事です。この目標に到達するには、弟子訓練の道を通る事が必須になります。

 一方、成長しているクリスチャンは教会の徳を高める為に色々な手伝いに積極的になります。あなたの成長次第で役割が違ってきたり、より責任の重い事を任されたりします。つまり、誰でもリーダーとして責任を持ってできるなら、どの役割でもこなす事が可能なのです。これは全ての信者が成長の道を進む限り、誰もがリーダーになるという事を意味しています。なぜなら、神の子はイエスのように行動するからです。

 リーダーの役割をしている人たちは、神から特別に召された者、特別な霊的エリートなどではありません。もちろん、誰でもすぐにリーダーの役割をこなすわけではありません。御言葉による土台はもちろんの事、キリストに従う道に入った人でないとリーダーにはなれません。また、真のリーダーたちは、自分のタイトルや栄光を求めず、やるべき事が何であるかをしっかりと見つめ、「誰かがやらなければ何も始まらない」という積極的な態度を持って行動します。こうした考えは主からのものです。こうして責任を取って、やるべき事をやろうと積極的に考える人、すなわち、古い人に死んでいるクリスチャンは多くはありません。

アイデンティティー

 いつの時代でも、ヨシュアのように、主のなさる事に心を留めている人は多くありません。ダビデのように戦いの前線に向かう人もあまりいません。多くの人の選択は、リスクの少ない安易な生活ばかりです。意外かもしれませんが、過去において、リーダーになった人たちは、神から指示された役割(牧師、伝道者など)を拒んだ人が多くいます。彼らは長い間逃げ回って、ようやく神に応答して、リーダーとなりました。何故なら、自ら積極的に何か新しい事をやろうとする人たちは、過去をさかのぼる程、より少なかったからです。その理由は、私たちが神の子として、この地上を治めるという真理を彼らがまだ良く知らなかったからです。

 近年、クリスチャンとして、自分のアイデンティティーを理解している人が増えて来ました。御国の前進の為なら何でもやるという積極的な考えを持っている人が出始めているという事です。そういう人たちは、自分たちが神の子であるという認識をしっかりと持っているので、五職の中の役割にこだわらずに様々な事をします。それはちょうど、「御霊の賜物」にこだわらずに、何でもやろうとする考えと同じです。多くの人々は、全ての信者が成長すれば、イエスのように何でもできるという事を理解できていません。神が示さないと、どの役割をするべきかを知らないほど、幼いのです。この考えの背景には、神に示されるないと、神の御心を知る事ができない、という考えがあるからです。神の御心は、イエスの教えの原則に沿うものです。誰がどの役割を果たすかという、詳細が聖書に書かれてはいませんが、成長するにつれて、それを知る事ができるものなのです。

それぞれの働き

 さて、教会の中で果たすべき役割は、各自一つある事が基本であり、各自が違う働きをこなす事が必要なので、皆が一斉に使徒、預言者、教師などの働きをしてしまうと、バランスが悪くなります。そして、例えそれらのリーダー的な役割をする場合でも、神に何か特別なしるしを求める事は必須ではありません。多くの人は、しるしばかりを気にして、その責任負う事と、その仕事をこなせる能力があるかどうかに気を配りません。しかし同時に、責任を負う事の大切さを心がけている人、自己の肉において死んでいる人は、神から自然と何をどうすれば良いかを尋ねているのです。

召しについて 2に続きます。

狭き門について

狭き門という表現は聖書から来ています。これは大学などに「入る事が難しい」という意味として理解されて使われていますが、聖書でも同じ意味で使われているのでしょうか?

 ルカによる福音書 13:23-24「すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」イエスは人々に言われた。狭い門から入るように努めなさい。あなた方に言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなた方が外に立って戸をたたき始め、『ご主人様、開けて下さい』と言っても、主人は、『お前たちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。すると、あなた方はこう言い始めるでしょう。『私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教え下さいました。』しかし、主人はあなた方に言います。『お前たちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け。』あなた方は、アブラハムやイサクやヤコブ、また全ての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」

 「救われる人は少ないのですか」との質問にイエスが答えられたので、狭い門とは、真理に至る門、救いに至る門の事です。しかし、救われる事自体が難しいという意味で、「狭い門」という事ではありません。人が救われるのが難しいかどうかは、実は、その人の持つ視点によって変わります。もし律法によって救われようとするなら、それは難しいのです。つまり、「金持ちの青年」のように自分で救いを獲得しようとするならば難しい、というよりも不可能なのです。しかし、恵みゆえにそれを信じる事によって救われようとするなら、それは簡単な事です。何故なら、その方法は神の恵みと憐れみに頼るからです。主に助けて頂くのなら、救いそのものは非常に易しいのです。

 狭い門に入る人が少ないのは、信じる人よりも、信じない人々が多いからです。大学入試のように、競争相手が多い為に、入るのが難しいという事ではありません。ただ、神を信頼するという、単純な真理を見出す人々が少ないというだけです。これは特に、全てのユダヤ教徒と、モーセの律法に頼って生きて来た当時のユダヤ人にとってはそうです。彼らの数よりも、遥かに多くの異邦人の方が先に救い主を信じて救われていますし、今後もその比率は変わらないでしょう。多くのユダヤ人が救われるには、これまでのユダヤ人として誇りとして持っていたものを捨てて、信仰によって歩まなければなりません。パウロはそれの良い模範者でした。

 ヨハネの福音書 1:17「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 真理はイエスによって明らかにされました。つまり、救いの真理はイエス・キリストの教えにあり、その教えを信じる事によって救われるのであり、それは複雑でも、難しくもありません。それを複雑に考えるのは、人間的なものを加えるからです。実際に、救われるのは難しいという考えから、「では何をすれば良いか」と人間的に考えてしまうと律法主義に戻ってしまいます。救われるのが難しいのは、自分でそれを獲得しようとするから考えがあるからです。多くの人々は、神に頼るという謙遜の道を退け、自分の考えに頼るという道を選ぶのです。

 世のあらゆる宗教は自己の鍛錬に頼って何かを得ようとします。これは人間本来の弱さとも言える宗教的な考えであり、肉の思いです。自身の弱さを認める素直な気持ちが必要なのに、それを自分で克服しようと考え、自己の義で救いを得ようとしているのです。しかし人は、自分の義を獲得する事ができなません。中には、クリスチャンでさえも、既に狭い門であるイエスを通ったのに、モーセの律法を守る事によって、その救いを維持しようします。しかし、救いは神の恵みを信じる事によるのであり、その救いの維持も信じ続けるだけなのです。

 イエスだけが完全にモーセの律法を守ったお方でした。ユダヤ人の多くがイエスの福音を聞きました。しかし、その教えは長年にわたるモーセの律法の影響で、彼らにとってはとても信じ難いものでした。まるでモーセの律法を否定するような教え、それとは全く逆の教えに聞こえたはずです。 しかし、イエスはモーセの律法を悪いものと定義したのではなく、むしろ、それは不完全で人を救う事ができないという事を示されました。ユダヤ人に限らず、人々が理解に苦しむ部分は、神の恵みが救いの鍵だという単純な真理です。何故なら、その神の恵みは私たちの理解を超えているからです。

 人は、律法による裁きの正当性と義を良いものとし、それを追求してしまう傾向があります。先に言ったように、それは人間的な考え、肉の思い、人の弱さであり、悪魔が促すものです。しかし、人に対する神の義とは、ただ善悪という判断だけでなく、恵みと憐れみを与えるものです。人に対する神の義の裁きとは、無罪を宣言し、救いをもたらすものです。サタンや悪霊に対する神の律法の義は、火の池に投げ込むというものです。

 狭い門はイエスですが、その他の宗教、イエス以外のものは全て滅びに至る大きい門です。その救いを見出す者があまりいないのは、それを見つける事が難しいというよりも、多くの人が自分で難しく考え、自分の考えで歩もうとするので、結果的に、狭い門となっているのです。

 マルコによる福音書 10:26-27「弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、誰が救われる事ができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできない事です。しかし、神は違います。神にはどんな事でもできるのです。」

 「それは人にはできない」の「それ」とは、救いの事です。人は自分を救う事ができないのですが、神はできるのです。「神にはどんな事でもできるのです」このイエスの言葉は「誰が救われるか」の答えです。

癒しは子供たちのパン

 マルコ 7:27「するとイエスは言われた。「まず子供たちを満腹にさせなければなりません。子供たちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くない事です。」

 イエスに自分の娘を癒して下さるようにと頼んだカナン人は、ユダヤ人ではなかったので、癒しを受け取る権利はありませんでした。イエスはその事を彼女に言う為に、彼女を「子犬」扱いされました。彼女はそれでも諦めませんでした。自分が契約の下にいない者、選ばれた民ではない事を承知の上でイエスに頼み、子犬と呼ばれたのに対しても文句も言わず、子犬でも何かをもらえるはずだと主張しました。その粘り強い信仰の結果、彼女は彼女の娘を癒してもらったのです。

 「子供たちのパン」とは癒しを意味します。イエスご自身が天からのパンであり、それはみからだを象徴していて、自らの体に受けた傷によって、私たちの癒しが保証されている事を意味します。

 第一ペテロ  2:24「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義の為に生きる為。その打ち傷のゆえに、あなた方は癒された。」

 罪の赦しが完全に十字架によって贖われたように、全ての病気も贖われました。ペテロはイザヤ書の53章にある、罪の赦しと病の癒やしの両方をここで書いたのです。しかし、多くの人々は、神は全ての罪を赦しても、全ての病気を癒す事はないと考えています。多くの場合、信じるだけでは足りず、何かをして神を説得させたら、癒やされると考えているのです。

 悔い改めや熱心な祈りがなければ、神に癒してもらえないという考えは典型です。しかし、そうした事を純粋な心から行ったとしても、そうする事によって神を満足させ、神に癒してもらうという考えは必要ありません。何故なら、イエスが受けた打ち傷は、私たちの病、患い、痛みであって、既にそれらを代わりに背負って下さったからです。

 ある人は、第一ペテロの手紙 2:24 がイザヤ書の53章からの引用だという事で、その意味を病気からの癒しではなく「霊的な癒し」と間違って捉えてしまい、肉体的な癒しという解釈にはならないとしています。

 マタイ 8:16-17「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスは言葉をもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒された。これは、預言者イザヤを通して語られた事が成就する為であった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」

 マタイもペテロと同様に、同じイザヤ書の53章から引用して、病に対する癒しと解釈しています。ですから、肉体的な病に対する癒しが正しい解釈なのです。又、イエスが癒し主である事は明らかです。イエスは今日も、私たちの癒やし主であって、変わる事がありません。

 イエスを信じる事によって私たちは神の子供とされています。癒しというのは、神の子供たちのものなので、「子供たちのパン」という事ですが、パンは「日々食べる糧」ですから、ごく日常的なものです。つまり、神に特別扱いされて、癒されるという事ではなく、癒しという祝福は神の子供としてごく日常的なものなのです。

 私たちの熱心な祈りが直接癒しをもたらすのなら、それは報酬になってしまいます。イエスご自身が天からのパンであり、その体を私たちの為に捧げられたので、その御業を信じる事によって私たちは癒しの祝福を受け取る事ができます。イエスの受けたみからだの打ち傷は私たちの病の為で、全ての病を背負って下さったので、私たちはもはや病を患う必要はないのです。

 私たちの祈りや悔い改めに対して神が動いて、それから神の憐みによって癒しが起こる、という順序ではありません。神に「病気を治して下さい」と祈る以前に、癒しの祝福は私たちのものという約束になっています。何故なら、十字架の御業は既に完了したからです。私たちの罪が既に十字架の御業によって取り除かれているように、病もキリストの打ち傷によって取り除かれています。それ故、私たちには、癒されているという約束が保証されているのです。問題は、その恵みを信じるかどうかです。

 イエスの十字架の恵みは信者だけでなく未信者にも及びます。何故なら、イエスは十字架で全ての人の罪と病の為の代価を払って下さったからです。しかし、「子供たちのパン」は、まず私たち信者に対する特権です。クリスチャンは聖餐式であずかるパンを食べる事によって、癒しを体験できるという特権があり、この恩恵は未信者には当てはまりません。主の十字架を信じる者にとっての聖餐式だからです。

 サタンの敗北は御言葉によって確定しているのにも関わらず、この地上で悪を続けています。間接的なものを含めると、全ての病気はサタンが原因です。何故なら、神が天地を創造した時には、病の原因である菌やその他の悪影響を及ぼすものはなかったからです。それらは、地上を破壊して来たサタンによってもたらされたのです。

 ですから、私たちは病気を自然の一部などとして考える必要はありません。イエスの御名で、病気や悪霊に命じて追い出せば良いのです。私たちには、イエスの権威が与えられているので、あらゆる悪(病気も含む)に打ち勝つ事ができるのです。

 癒しに対して不信仰になりがちになるのは、私たちが癒しに関する御言葉をしっかりと握りきれていないからです。揺らぐ事なく、信じ続ける事が勝利の鍵です。私たちの内におられるイエスに目を向け、主を信頼するだけで良いのです。目に見える現実ではなく、御言葉の真理に目を向ける事が信仰です。

 薬は病気を癒すというよりも、症状を抑えたりするものです。薬を服用してもしなくても、十字架でイエスが打ち傷を受けた真理は揺るぎません。これを理解すれば、例え薬を飲んだからといっても、それが不信仰になっているとは限らないのです。ですから、賢く薬を用いて、症状を抑えたり、痛みを和らげて、それから信仰の祈りをすれば良いのです。

 私たちの目指す所は、薬に頼らずに神の癒やしをもっと体験して行く事です。その信仰の歩みの中で、時には薬を賢く使う事は悪くありません。しかし、クリスチャンの特権である「子供たちのパン」を食べて祝福されるチャンスを逃す事はありません。主も私たちが信仰を持って歩めるように望んでおられます。ですから、すぐに薬に頼るのではなく、まずは聖書の真理に目を向ける事が先です。病気に向かい、御言葉を用いて勝利の宣言をして、信仰がどのようにして働くかを学ぶ必要があります。クリスチャンは病気になって苦しむ必要はありません。これは神からの祝福であり、イエスが伝えた御国の福音なのです。

完全なもの

 第一コリント 13:10-11「完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であった時には、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になった時、幼子の事はやめました。」

 「完全なもの」の意味を「聖書(聖典とされている66巻)」だとする見方があります。確かに、聖書には私たちが知るべき全ての真理(信者が生きる為の原則)があり、真理は完全です。しかし、10節と11節を「字義通り」に読んでも、そのような意味は取れません。パウロはそのような解釈をするべきだとするヒントを与えているのでもありません。

 この教えを主張する人々は、いわゆる終焉説というものを主張しているのです。「聖書66巻=完全なもの」とする事によって、終焉説を確立させようとしているのです。一部の人々がこの解釈に至った理由は、いわゆる「御霊の賜物」は廃れたものと主張したいからであり、その発端はカリスマ・聖霊派のグループの行き過ぎた行動に対する批判も含まれます。

 カリスマ・聖霊派のグループによる過剰なものがなかったのなら、人々は必ずしも御霊の賜物に疑問を持つ事はなかったでしょう。つまり、単なる教義の違いの主張だけではなく、彼らの行動に対する批判が主な原因の一つでもあったのです。しかし皮肉にも、批判する側も、いつの間にか過剰になってしまい、終焉説を考えだした事によって、適切な批判や反論という一線を超えてしまいました。終焉説は、神の真理に対する批判となってしまい、自らが曲解したものを真理と訴える存在になったのです。

 第一コリント 13:8-9「愛は決して絶える事がありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」

 終焉説はこれらの聖句を土台に、御霊の賜物は今日では「廃れたもの」とみなします。それらが廃れるという事に関しては、パウロがそう言うように正しいのです。しかしその理由を、「聖典が完成されるから」という根拠はどこから来ているのでしょうか?もし、その根拠をパウロ以外の所から来ているとするなら、著者であるパウロの書いたものを、そのように自由に解釈して良いのかという事になります。しかし、パウロが意味している「完全なもの」は、文脈から明らかです。

 第一コリント 13:11-12「私は、幼子であった時には、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になった時、幼子の事はやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見る事になります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じ様に、私も完全に知る事になります。」

 人が幼子のうちは、幼子として思い、幼子として考えるしかありません。大人として理解できないからです。パウロはその事を「鏡にぼんやり映るものを見ている」と表現しました。鏡を見ると、自分自身が映るのですが、霊的に幼いうちは、自分の姿を「ぼんやり」と映るものを見ているとパウロは言いました。しかし、「その時には」、つまり、完全に成熟した時には「顔と顔を合わせて見る」事になります。何故なら、成熟して大人になる時には、幼子の事(ぼんやりと映るものを見る事)をやめるからです。

 第一コリント 13:13 「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。」

  「こういうわけで」とあるので、この節とそれ以前に書いた内容と関係している事が分かります。つまり、この節の前の内容と「愛」は深く関係しているという事です。前の内容と関連させて読むなら、パウロが言っている事が理解できるでしょう。つまり、パウロは愛によって考え、行動する事を「大人になる事」とし、そうでない間は、「幼子」としているのです。ですからパウロは、愛を知って、その愛によって歩むという成熟に至る時には、「私が完全に知られているのと同じ様に、私も完全に知る事になる」と言ったのです。

 「完全に知られている」とパウロが表現したのは、この手紙を書いた時のパウロは、キリストの満ち満ちた身丈にまで到達していませんでした。しかしパウロは、自分がいずれは大人になる事を、神に完全に知られていると知っていました。実際、神は未来を知っています。しかしパウロは、「私も完全に知る事になる」と言って、自分の成長を確信していました。

 第一コリント 13:10-11「完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。

 「完全なもの」は、teleion(欠けのない、成熟した)という意味のギリシャ語です。この語は、次の聖句にもあります。

 エペソ 4:13「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまでたちするのです。」

 この箇所以外でも、人に対して(欠けのない、成熟した)という意味で「teleios」が使われています。キリスト者(クリスチャン)の私たちが幼いうちは、鏡を見てもそれに映るのは、まだ幼いままの私たちであり、本来の成長した姿ではありません。しかし、私たちがキリストの満ち満ちた身丈にまでに達すると、成熟した者になります。成長すると、御霊の賜物を用いての奉仕の働きは必要なくなります。何故なら、御霊の賜物は肉に属する、キリストにある幼子のが用いるものだからです。そして、私たちの成熟した姿を鏡で見るなら「顔と顔」とを合わせて、イエスを見るようになります。何故なら、私たちの中におられるイエスが、私たちの成熟を通してご自身が私たちの人生を完全に歩む事になるからです。

安息の真理 2

 モーセの律法の中の「安息」は、イエスという実物の影であって、表面的なものであり、真理を示す為のもの、イエスに導く為のものでした。従って、モーセの書いた律法の書からは、安息の真の意味は分からないのです。何故なら、イエスこそが真理であって、その時代にはまだイエスが来られていなかった為に、真理が明らかにされていなかったからです。

 古い契約の時代、特に、旧約聖書が書かれた時代には、真理についてストレートに書いてある箇所は、詩篇やイザヤ書などを除くと、多くはありません。イエスご自身が真理であり、イエスが真理を明らかにする事になっていたからです。そしてその後、全ての真理に導く御霊が、福音の奥義をパウロを通して明らかにされました。

 マタイ 12:1-8「そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。『ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならない事をしています。』しかし、イエスは言われた。『ダビデと供の者たちが空腹になった時に、ダビデが何をしたか、どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだ事がないのですか。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、という事を律法で読んだ事がないのですか。あなた方に言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。「私が喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」とはどういう意味かを知っていたら、あなた方は、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。』」

 パリサイ人にしてみれば、弟子たちが安息日に穂を摘んで食べる事は罪だったのですが、イエスの解釈はそうではありません。イエスはダビデが神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたと言って、弟子たちもダビデと同じ事をしたのだと言いました。イエスは、ダビデのした事は罪とはならない理由も言いました。それは、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないという律法に基づいています。

 さて、ダビデはエポデを着て踊った事が書かれています(2サムエル 6:14)。彼は王として油注がれた者であったのに、祭司の格好をしていた事は、モーセの律法を破る行為です。しかし、新しい契約の教えの視点(真理の視点)で見れば、イエスを信じる人は全て祭司です。では、ダビデは古い契約の下にいながら、イエスを信じる者が祭司の役割を持つという真理を既に知っていたのでしょうか?その通りです。

 ダビデは多くの啓示を与えられていた数少ない信仰の人でした。彼は、祭司として神の家に入り供えのパンを食べたのです。彼はモーセの律法の下にいながら、それに縛られず、真理の教えを見つめていたのです。ダビデはモーセの律法を守る事による義による生き方ではなく、信仰による義をアブラハムと同様に知っていたのです。ダビデが信仰によって義と認められた根拠は、彼の名がへブル人への手紙11章で取り上げられている事からも明らかです。

 ダビデは、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」事を生き甲斐としていました。「モーセの律法」ではなく、「主の教え」を喜んだのです。ここの主の教えがモーセの律法でないのは、ダビデが「主が良くして下さった事」、すなわち、全ての咎を赦し、全ての病を癒やし事を何一つ忘れなかったと言っている事から明らかです。ダビデは古い契約の下にいましたが、イエスの十字架の贖い知っていたのです。

 詩篇 103:10「私たちの罪に従って私たちを扱う事をせず、私たちの咎に従って私たちに報いをされる事もない。」

 ダビデは律法の下にいながら、どうしてこのような事が言えたのでしょうか?モーセの律法によると、罪ゆえの報いは刑罰でした。しかし、それに従って神は報いをされる事もないと言うのです。ダビデは何故、キリストによって罪が赦される事を知ったのでしょう?それは、彼が神を慕って御心を求めたからに他なりません。

 ヨハネ  9:16「すると、パリサイ人の内のある者たちは、『その人は安息日を守らないのだから、神の元から来た者ではない』と言った。他の者たちは『人である者に、どうしてこのようなしるしを行う事ができるだろうか』と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。」

 パリサイ人の人々は、イエスを罪人だと考えていました。その理由が、イエスが安息日に癒したからです。実際イエスは、安息日を意図的に選んで癒しを行なっています。イエスは、本当の安息についてのヒントを彼らに与える目的で、そうされたのです。あえて、彼らの前で安息日に人を癒し、彼らの律法主義を混乱させたのです。この個所からも分かるように、同じパリサイ人の間でも分裂が起きました。

 モーセの律法の意味する、「安息日を守る」とは、「週一度の労働からの休み」や、「礼拝する日」という定義ではなく、イエスを信じるという事でした。イエスを信じる私たちにとっては、毎日をイエスを信じる日(安息日)とするべきです。そこには真の休息があり、自由があります。そして、自由に人を助ける事が出来る毎日があるのです。

安息の真理 1

 殆どのクリスチャンは、モーセの律法やローマ・カトリックの観点から「安息」を見ています。モーセの律法においては、週に一度、労働から休む為の日として安息日が設けられました。その後、ローマ・カトリックの影響による安息日の廃止によって、土曜日ではなく、日曜日に礼拝をする日と定められました。これが、「週に一度労働から休んで、教会に行く日」という「現代版安息日」の考えになったのです。しかし、ローマ・カトリックのそうした教えに異議を唱えた宗教改革者たちは、旧約聖書の安息日と日曜日は別である事を主張していました。

 実は、「安息日」の定義は、へブル人への手紙から読まないと、その真理を知る事にはなりません。そこに本当の意味が明かされているのです。

 へブル 3:9-12「あなた方の先祖はそこで私を試み、私を試し、四十年の間、私のわざを見た。だから、私はその世代に憤って言った。 『彼らは常に心が迷っている。彼らは私の道を知らない。』私は怒りをもって誓った。『彼らは決して、私の安息に入れない。』」兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」

 これは、荒野で主を試みたイスラエル人が、彼らの不信仰ゆえに、彼らが安息に入れなかった事について書かれてあります。

 へブル 3:18-19「又、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、誰に対してですか。他でもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰の為であった事が分かります。」

 この箇所で言っている「安息に入る」の意味は、「主を信じる」という事になります。つまり、「信仰によって入る安息」が真の意味であって、週に一度の「労働からの休み」というモーセの律法の定義ではないのです。パウロは、「安息に入れなかった」という表現を「約束の地に入れなかった」イスラエル人の歴史の話に基づいて使っています。

 へブル 4:3「信じた私たちは安息に入るのですが、「私は怒りをもって誓った。『彼らは決して、私の安息に入れない』」と神が言われた通りなのです。もっとも、世界の基が据えられた時から、御業は既に成し遂げられています。」

 クリスチャンは安息に入っています。何故なら、神を信じているからです。「神の御業が既に成し遂げられている」のは、神は世界の基が据えられる前から、神の計画した贖いの通りに、人が信仰によって安息に入る事を決められたからです(エペソ 1:4)。

 へブル 4:6-7「ですから、その安息に入る人々がまだ残っていて、又、以前に良い知らせを聞いた人々が不従順のゆえに入れなかったので、神は再び、ある日を「今日」と定め、長い年月の後、前に言われたのと同じように、ダビデを通して、「今日、もし御声を聞くなら、あなた方の心を頑なにしてはならない」と語られたのです。」

 この箇所から、もし人が福音を聞いて信じるならば、その人は「安息に入る」という事が分かるでしょうか?しかし、信じないのなら「安息に入れない」のです。神はこの事を、世界の基が据えられる前から決めておられました。労働から体を休める事(モーセの律法)は信じなくてもできますが、この聖句の「安息」は信仰によるものです。

 パウロは、不信仰で神に不平不満を言っていたイスラエル人は「安息に入れなかった」としています。これは彼らが荒野で神に対して不従順だったという、歴史上の事実に基づくものです。

 へブル 4:8「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。」

 ここでも、ヨシュアの導きでイスラエル人が「約束の地に入った」事が「安息に入る」事だとしています。しかし、それも究極の「安息」ではなかった事を示しています。実際に、神は「別の日」の安息があるという事を、ダビデを通して語られたました。しかし、真の安息は次のイエスの言葉が示すものです。

 マタイ 11:28「全て疲れた人、重荷を負っている人は私のもとに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。」

 一週間に一度は労働をしないという「安息」の定義は、モーセの律法においてです。初代教会の時代では、土曜日に教会に集っていた習慣が、ローマ・カトリックによって、日曜日にされてしまいました。現代のプロテスタント教会では、それを「安息日」と見なし、その定義を「週に一度教会」に行く日と考えています。しかし、新しい契約が始まってからは、ある特定の日が安息日ではない事をパウロは説明しているのです。

 パウロによれば、真の安息はイエスを信じ、その中に入るという事なのです。ですから、週に一度の休みという、漠然とした、狭い意味ではありません。主を信じて留まり、その中に「安息」を得るという事なので、それを実践する人にとっては、毎日が安息にもなれるのです。

 ルカ 6:5「そして彼らに言われた。『人の子は安息日の主です。』」

 イエスが「安息日の主」なので、「安息日」はイエスに従います。ですから、キリストによって安息日の定義が成される事になります。旧約聖書をどんなに調べてもこの真の安息を知る事はできません。何故なら、その時代にはまだ安息の真理が明らかにされていないからです。

わざを終える

 へブル 4:10-11「神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。ですから、誰も、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。」

 さて、この箇所には、私たちがどのようにして休むかについて、もう一つの事が書かれてあります。まず、「神がご自分のわざを休まれた」というのは、第七日目に「全ての創造のわざを休まれた」という事に基づいています。これが週に一度労働から休むという、モーセの律法になったのです。神がそれをモーセの律法の中に「安息日」として設けたのですが、その理由は、イエス・キリストの「影」とする為であり、真理についてのヒントをモーセの律法の中に置く為でした。モーセの律法の中の安息は、上辺の理解のものであり、儀式化されていたものでしたが、神は、その時はそれで良しとされたのです。しかし、イエスが表れた時には、真の安息として、神がご自分のわざを休まれたように、私たちは「自分のわざ」を終えて休む必要があります。

 「この安息」に入るように努めなさいとパウロは促しています(へブル 4:11)。「この安息」とは「信仰による安息」ですから、私たちが努める事とは、信じる事であって、モーセの律法を守る事とは違います。そして、「神の安息」に入った者は「自分のわざ」を終えて休むとあります。「わざ」というギリシャ語の単語は、ἔργον(ergon)で、「行い」と同じ意味です。

 同じへブル人への手紙で「死んだ行い」という表現が、その後に出てきます。

 へブル 6:1-2「ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、清めの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠の裁きなど、基礎的な事をもう一度やり直したりしないようにしましょう。」

 「死んだ行ないからの回心」はモーセの律法を守る事からの回心です。それは初歩の教えの一つです。パウロはモーセの律法に戻っていたへブル人クリスチャンたちにこの手紙を書きました。彼らが、モーセの律法を守るという死んだ行い(わざ)を終えて、休みに入る(信じる)なら安息を得られると説いたのです。私たちも、宗教的な行ない、肉による努力などを終えて、神のわざを信じないと休む事はできません。律法を守る事により、神の義を得ようとする事は、どんな人にとっても重荷です。しかし、その重荷を私たちの代わりに負って下さったのがキリストでした。私たち自身はもう重荷を負う必要がありません。しかし、私たちが重荷から解放されるには、自分でそれを背負うという自分のわざをやめて、イエスの十字架のわざを信じる必要があります。

 「安息日」を「週一度の礼拝の日」と定義している間は、イエスにあって安息があるという真理を掴む事はありません。正しい曜日に礼拝する事が、「安息日」でもありません。教会に来ないと「安息」が得られないというのも考えがズレています。教会という場所が「安息」を与えるのではなく、イエスに信頼を置く者が「安息」を得るのです。
自分のわざをやめ、イエスを信じ、イエスの教えを実践する事が安息に入る事なのです。

 本来は、クリスチャンは安息に入っていて、そこに留まっているべきなのです。一週間に一度だけ安息に入るような考えは古い契約の視点です。私たちは、あらゆる信仰の障害となるものを避けて、イエスを信じ、安息に入るよう努めなければなりません。そうでないと、古い考え方、モーセの律法、自分の勝手な行いに戻る事になるでしょう。それらは、宗教的な観点で安息を見ています。正しい理解を得れば、土曜日か日曜日かという無駄な議論もしなくなります。

励ましの言葉

 第一コリント 14: 1「 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言する事を熱心に求めなさい。」

 「愛を追い求める」事と「預言する事を熱心に求める」事が同等の関係性を持つ事を、パウロはここで示しています。第一コリント人への手紙の13章で、パウロは「預言ができても愛がないなら意味がない」と言っていますが、預言も異言も、その他の恵みの現れ(御霊の賜物)による奉仕も、愛がないのなら、虚しいものだとパウロは言いました。

 第一コリント人 14:3-4「しかし預言する人は、人を育てる言葉や勧めや慰めを、人に向かって話します。異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。」

 預言は相手を思う心から来るべきです。何故なら、人を育てる言葉、勧めや慰めを与える言葉は、愛に基づくべきであるからです。ですから、預言の賜物は特に愛に関係していて、他の人を成長させる事に焦点を当てます。預言の言葉は、それが純粋であるほど、それを受ける人に大きな力となります。そのような理由で、パウロは、預言の賜物を最も価値のある恵みの現れ(御霊の賜物)として見ていました。
 
 本来の預言は、「未来の事をそれとなく当てる」という種類のものではありません。それを受け取る人にとっては、非常に大きな助言や励ましになるものであって、聞いて理解できないような、ミステリアスなものではありません。残念ながら、多くの預言は、それを聞いた殆どの人が理解できず、特に大きな助けにはなっていません。その大きな原因の一つは、預言者の成長が幼すぎるからです。曖昧な預言は、その内容が漠然としたもので、どのように適応させれば良いか、言った本人も、受けた人も理解できないものです。しかし、本来の預言(本物の預言を含む)はそのような薄っぺらいものではありません。本来の預言は、愛に根ざし、愛に土台を置いたものなのであり、預言者は愛について良く理解しているべきであり、御言葉の真理を理解している者であるべきなのです。

 従って、預言に興味を持つ人は、人を愛する事に興味を持つべきです。しかし、相手を愛せるようになるには、まず神によって、そして誰かによって愛され、励まされる必要もあります。基本的に、一度も励まされた事のない人は、他人を励まそうという気持ちが起こりません。相手に良い事をしようという気持ちが起こる為には、まずあなた自身が誰かによってその模範を示される必要があるのです。その経験をすれば、今度はあなたが人を助けるチャンスがあった時に、相手を助ける事ができるのです。

 パウロによると、賜物としての預言は、信者であるなら誰でもできるとしています。これはお互いが励まし合う為です。いわゆる「個人的な預言」とは、人を育てる言葉、勧めや慰めの言葉を話します。相手の未来についての細かい啓示や召しに関わるもの、教会全体に対するものや、警告の預言などは、通常、「預言者」の役割をしている人にしかできません。

 励ましの言葉は、個人的預言として誰でもできます。そして、それは相手を愛するという動機から始まります。そのような態度を常に持っていれば、自然に預言の言葉が出てくるでしょう。これは個人的預言をする上で最も大切な部分です。興味本位だけで預言をしたいという動機で行うなら、肉の思いからの言葉ばかりになりがちです。そうしたものは表面的には良い言葉であっても、霊的な力がない為に、インパクトは弱いものです。預言の言葉が霊から語れる時、それは人を育てる言葉となり、相手にとって価値のある言葉となるでしょう。そのような預言はその人を変えるきっかけにもなります。

信仰と愛との関係

 第一コリント 13:13「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。」

 この聖句から、信仰よりも優れているのは愛という部分だけをみて、「信仰ではなく愛を求めるべきだ」と極端に捉えて、信仰を軽視している人々もいるものです。この誤解の原因の一つが、第一コリントの13章全体の文脈をよく捉えていない為です。パウロは、12章と関連させて13章を書いています。つまり、信者の集いにおいては、恵みの現れ(御霊の賜物)による働きがあるとしても、その役割自体が重要ではなく、「大人の考え」がある事を示す為に、13章を書いたのです。コリントの人々は教会で分裂を起こしていたほど、秩序がありませんでした。パウロは、彼らが霊的な事柄については、知識があったのにも関わらず、肉に属している人々だと言いました。(第一コリント人 3:1-3)

 パウロは、私たちの歩みが信仰によって始まり、最終的に神の愛に到達する事を説いたのです。信仰よりも愛が大事だといっても、信仰を無視して愛を求めるといった事を説いたのではありません。アガペーの愛に到達する為に信仰は必須であり、信仰なくして神を愛するという事もできません。希望から信仰が生まれ、信仰から愛へと進むのです。ですから、信仰なくして愛というゴールに到達する事はできません。

 ガラテヤ 5:6「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。」

 この聖句でも、パウロは信仰よりも愛が優れていると教えてはいません。「愛によって働く信仰」とあるように、愛に根付いた信仰がより優れていると言っているのです。「愛がないと信仰が働かない」と間違って教えている人もいますが、そうではありません。信仰は愛がなくても働くのですが、そのような信仰は何の価値もないとパウロは第一コリント人への手紙の13章で説いたのです。愛がないと信仰が働かないという事ではなく、愛のない信仰は価値がないという事です。

 正しい考え方は、成長して大人になるという事、すなわち、信仰だけで良いと子供のように考えるのではなく、愛を目指して、愛を土台にして信仰を働かせる事が重要なのです。

思考の一新 7

ステップ4

 御言葉を宣言する。肉の思考に対して戦うには、御言葉を武器として用いるのが最も効果的です。御霊の剣は要塞をも打ち破る事ができます。例えあなたが長年ずっと考えてきた悪習慣として確立した思考(要塞)でも、御言葉によって打ち破る事ができます。不安の考えによって悩まされているなら、平安の御言葉を宣言するのです。病に対しては健康や癒しの御言葉を用います。このステップは御言葉を知らないといけないので、普段から聖書を読んで御言葉を蓄えておく必要があります。

 ただ口で御言葉を宣言すれば、自然と思考が一新されるという事もあります。何故なら、御言葉に既に神の力があるからです。従って、信じてはいないけれども、とにかく御言葉を口ずさむ事をしていても効果は幾らかはあるでしょう。しかし、思考を一新させる事は魂の領域の働きなので、知性がうまく機能するには物事が理路整然としていないとなかなかスムーズに行きません。従って、「ただ口で御言葉を宣言する」という考えで行うよりも、御言葉が信じるに値し、最終的な権威を持っている事などをまず知るなら、私たちは御言葉に頼る事に納得するでしょう。その納得・理解の上で御言葉を宣言するのなら、あなたのその時の態度はもっと積極的になるので効果的になります。知性は、何故そうする事が必要か・どんな意味があるのかを知りたがります。それで、そのプロセスとかメカニズムが分かると納得します。納得した人は、それを信じて実践する傾向があります。

ステップ5

 宣言した御言葉通りに行動に移します。最初の一歩は小さくても良いのです。御言葉を宣言して信じるなら、その結果として何かの行動をするのが自然になるまで、御言葉によって思考を一新させます。肉の思考を口にするのではなく聖書の言葉を語り、それに伴う行動をします。不安であっても信仰によって喜び賛美し、苦しい時でも主の平安を宣言して思い煩いを止めます。ついつい肉のままに流されてしまうようでも、御言葉の真理に頼る事が鍵です。

 最後は、1から5のステップをしばらくやってみて、自分にどう変化があったか、そしてどこを修正すればより良い結果が望めるか、などといった評価をします。改善の為の調整は各個人の判断によって異なりますが、これらのステップを根気強くやらなければいけない点は共通しています。最低でも毎日30分、集中してやるなら、1週間くらいで何らかの良い変化が期待できます。2週間もすれば、新しい思考パターンがあなたの中で強くなっているのを実感するでしょう。一か月後には、その健康的な考えによるライフスタイルが確立され、早ければ90日を過ぎる頃には、前に考えていた古い肉の思考に悩まされる事がなくなっているはずです。そして、その新しい思考は御言葉によって支えられ、しっかりと根がついているでしょう。

まとめ

 多くのクリスチャンの持っている霊の戦いの認識は、問題が表面化しているのを見た後で「サタンに攻撃されている」と言う様なものです。事が大きくなってから、或いは、事が起こってからそれはサタンの仕業だという認識ではあまり意味がありません。ちょうどエバが罪を犯したのはサタンが誘惑したからだと言い訳したのと同じです。散々あれこれと罪に関与した挙句に、そうなってしまったのはサタンの攻撃があったからだとするのは、あまりにも気づくのに遅いのです。車がぶつかった後で事故が起きましたと言ってもしょうがありません。事故になる前にその前兆を認識して、ブレーキを早い段階で踏んで事故を未然に防ぐのと同様に、サタンの攻撃を認識してブレーキを踏む(攻撃を打ち破る)為には、サタンの攻撃とそのやり方を知る事がまず必要になります。

 サタンが戦いの場として選んだ所は彼の得意とする領域です。それは私たちの思考の中です。サタンは長い間人を見てきたので、私たちが肉の思考に弱い事をよく知っています。空中で天使と悪霊が戦っている様なものが霊の戦いの主な戦場ではありません。教会の歴史で同じ失敗が繰り返されてきた大きな理由の一つは、霊の戦いの戦場に気付いていないクリスチャンが多いからです。サタンは賢いので自身の存在を見せずに攻撃します。地域の縛っている霊をとりなしの祈りで追い出す事よりも、まず私たちの思考の中でサタンの攻撃を打ち砕く必要があります。

 思考の中でやられてばかりのクリスチャンの集いには、あまり力がありません。そうした人たちが集まって祈っても信仰による行動を起こさないので、その結果いつも神様に事をして下さいとお願いする祈りになっています。その集いの祈りはただひたすら、主の油注ぎ、聖霊の臨在、或いは不思議なしるしやリバイバルを祈って待っているだけの受け身の態度です。しかし、神様の子供であるというアイデンティティーの認識と、私たちのうちにおられるキリストが思考の一新によって主の祝福を現実化するなら、私たちは大胆に歩む事ができるのです。事実、神様が私たちの信仰による一歩を待っておられるのです。私たちの宗教的で熱心な希望の祈りが神様を動かすのではありません。そもそも祈り自体が神様を動かすのではなく、信仰による大胆な祈り(宣言・誓い・命令)が山を動かし、それによって既に私たちのうちにある祝福(霊的に既に存在している祝福)を現実化させるのです。

 思考を一新する(考えを変える)事によってのみ、私たちは肉の思考(サタンの攻撃)を排除できます。それは日々の霊の戦いであり、それはまた聖化という信仰の成長なのですが、私たちはそれをゼロからスタートするのではなく、既に聖なる者とされているという真理からスタートします。難行苦行を経て到達するという宗教的な努力ではありません。聖化とは既に与えられた恵みを思考の一新(考えを変える事)によって外に表していくというもので、御言葉を信じる事から始まります。今までの悪い習慣による肉の思考を排除するには時間が掛かるでしょう。これは信仰の戦いです。信仰が鍵です。敵の火矢を打ち消す信仰の大盾は、唯一私たちがサタンの攻撃を受けてもダメージを受けない防具です。

 思考の一新は根気強くやる事はもちろん、それ自体が成長のプロセスなので時には失敗もあるでしょう。しかし私たちクリスチャンにとって、各個人の霊の戦いは、キリストの十字架によって最初から勝てるという前提に立っています。思考という私たちの弱い領域を、サタンは主な霊的戦いの場として選んだのですが、私たちの自由意志はとても強いものです。特にクリスチャンの場合は、キリストの思考によって自由意志が良い方向へ働くように影響されているので、後は御言葉に沿って考えて変えるだけなので勝利の道を突き進む事ができるのです。パウロはそれを悟ったので目標に向かって走っていました。サタンや悪霊は私たちの無知ゆえに強いのであって、私たちが御言葉を心に刻んでいけば、敵は弱くなって行きます。クリスチャンの成長の全ては神次第ではなく、その半分は私たち次第なのです。これが、新約聖書でパウロが説き明かした偉大な奥義の一つです。

思考の一新 6

自分の中の考え

 多くのクリスチャンでも、自分の中にある全ての考え(良いのも悪いのも)は、自分自身で思いついていると思っています。しかし、先に書いたように、クリスチャンの根本的な思考は既にキリストの心(思考)であるので、自ら悪い事を生み出す事はありません。肉の思いは、サタンが私たちにその悪い思考パターンを思い出させているケースもあります。

 肉の思いとは、あなた自身が肉的に深く考えた結果ではあります。しかし、最初にその悪い考えや発想を入れたのは、サタンであるケースもあります。サタンが悪い考えを入れた事に気付かないなら、それを自分のものとして扱うでしょう。それは、サタンが入れた肉の考えに同意する事と同じです。あなたが同意した時点で、あなたは戦いに負けたのです。最初のうちは、肉的な考えがサタンから来たのかどうか、よく分からないかもしれません。しかし、肉的な考えは全て敵の攻撃と見なして排除しましょう。それが大事なポイントです。参考として、サタンがクリスチャンに対して肉の考えを入れるケースを紹介します。

ケース1

 一つ目は、肉の考えが突然頭の中に浮かんでくるようなケースです。急に悪い事を思いついたのなら(実際にはあなたが思いついたのではないのですが、そのような錯覚はあります)、それはその考えが外から入って来た証拠です。また、自分では考えたくない悪い考えに悩まされる場合もそうです。自分では考えたくないのに、何故かその事が頭に浮かんでくるようなものはサタンからの攻撃です。

ケース2

 私たちが他人の事について考える場合です。他人に対する見方は、偏見になりやすいです。偏見に妄想を加えて、さらに極端にしてしまうと、相手に対する憎しみなどが大きくなります。想像の中でその人と口論し始めるかもしれません。その口論がヒートアップするような展開が思考の中で起きているなら、その声はサタンからのものです。サタンは、その人に対する間違ったイメージをあなたの中に入れようとしているのです。

 敵が悪い考えを持ってくるケースもあるという事を覚えておいて、それを見抜けるようになれば、「自分で悪い事を思いついた」という勘違いからすぐに解放されます。私たちはそうした肉の考えに浸るのではなく、それを追い出します。最初は一日のうちに、何度もそれをしなければならないでしょう。長年パターン化された肉の考えは、あなたの一部となっているので、ついその考え方をしてしまうものです。しかし、それを徹底的に締め出す忍耐が必要です。誰でも意図をもって悪い事を考え、それを行動に移そうという自由意志はありますが、そのような事をするのは基本的に未信者だけです。

 第一ヨハネ  3:9「神から生まれた者は誰も、罪を犯しません。神の種がその人の内に留まっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯す事ができないのです。」

 新しくされた私たちの霊は、罪を犯す事はできません。クリスチャンが罪を犯すのは、魂と体においてなのです。未信者は新しい霊と、そのうちにあるキリストの思考を持っていない為に、罪を犯す方向に進む傾向が強いです。人が犯した罪は事実ですが、幸いな事に、全ての罪は既に赦されているという真理があります。そして、キリストの聖なる血を受けた私たちには、罪に打ち勝って生きていく道をも用意されているのです。パウロによって明かされたこの奥義はとても重要です。

 その勝利の生き方は、思考の一新を主とする、魂の成長という過程を経て現実化して行くものです。既に罪と死の原理から解放されたという、霊における真理を魂と体の領域においても現実化する事です。キリストにおいて、私たちは全ての霊的祝福を霊の内に頂いていますが、それを魂と体の領域に表すには、私たちが成長の道を進んで行かなければなりません。既に霊において癒されている真理に対して、信仰を働かす事によってその癒しを魂と体において現実化するのは、私たち次第とも言えるのです。

思考の一新 7に続きます。

思考の一新 5

ステップ1

 クリスチャンの場合、新しい霊によってキリストの心(思考)があるので、肉の思考で歩む必要がありません。ですから、まず私たちがする事は古い人は既に死んでいるという真理を信じる事です。古い人は罪の性質と肉の思考によって、そのアイデンティティーが確立されていたので、罪を犯してしまう奴隷として歩んでいました。その古い人はキリストと共に十字架につける必要があったのは、肉の思考も捨てる必要があるという事を示唆しています。そして、新しく生まれ変わったクリスチャンは御霊の思考を選択できる自由が与えられています。これらを知い、信じる事が最初のステップです。

 第一コリント 2:16「誰が主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。」

 新改訳聖書ではキリストの心という訳になっていますが、ギリシャ語では kardia ではなく nous になっています。ですから、より適切な訳は「キリストの思考」でしょう。

ステップ2

 普段から肉の考えで色々と考えずに、すぐに聖書の御言葉を思い出す習慣をつけるようにします。相手の欠点を見てそれを肉の思考であれこれ考えると、次第にエスカレートしてその人に対する間違ったイメージが作られてしまいます。サタンはこのように仕向けるのです。そのような否定的な思いが入ったらすぐに止める事です。日常でこうした注意を敏感に払っていれば、次第に何が肉の考えなのか特に聖書に詳しく書かれていなくても分かるようになります。

 肉の行ないは比較的明確なものです。パウロも次の箇所でそう言っています。

 ガラテヤ 5:19-21「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなた方に予め言っておきます。このような事をしている者たちは神の国を相続できません。」

 聖書から御霊の思考(霊的思考)を学ぶ事によって、何が逆に肉の思考かを知る事もできます。

 ガラテヤ 5:22「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」

ステップ3

 次に、自分の考え方をチェックして、その中で何が肉のものかを見極めます。基本的に良心が痛むようなものは肉の考えです。何らかの形である罪の行いを理論的に正当化できたとしても、良心が痛むような事をしたのなら、それは罪であって肉的考えである事が分かります。自分の思考を分析する方法の一つとして、自分の考えた事をノートなどに書いてみると良いかもしれません。思っている事を書き始めると、どういった思考の過程だったかまで思い出す事もあります。最初は面倒かもしれませんが、このステップはとても重要なので、日記を書くつもりで習慣づけると良いでしょう。多くの御言葉が分かって来ると、自分の考えをチェックする時に、毎回ノートに書いてみなくても、何が肉的な考えかすぐに分かるようになります。肉の考えかどうかをいかに素早く見極められるかが成長の鍵です。気づくのが遅い程、肉の考えを放置している時間が長くなり、ついには、肉の歩みになってしまうのです。

思考の一新 6に続きます。

思考の一新 4

肉の思いはどこから?

 未信者の霊は再創造されていないので、キリストの考え方を持っていません。彼らにとっては、肉の思考パターンしか形成されません。その思考パターンは生まれながらに持っているのではなく、世の影響を受けて学習するものです。御霊の考え方を知らないなら、感情や五感が訴えかけるものに思考が形成されてしまいます。肉の思いに基づく自らの言動は、その人自身に死をもたらしているのですが、未信者はそれに全く気付いていません。クリスチャンの場合は、キリストの考え方が霊のうちにあるので、それによって歩むなら、命と平安に至るという選択があります。その歩みは、別の言葉で言えば、御霊によって歩む事なのですが、それがクリスチャンの歩みの鍵だと知っている人は多くても、実践していない人が多いのが現状です。

 クリスチャンには、肉の思考パターンと御霊の思考パターンを選ぶ事ができます。クリスチャンの霊は常に神に従いたいと考えているので、クリスチャンが肉の考えで歩もうとするなら、葛藤を覚えます。肉の思考は、人がアダムの違反の影響を受けた証拠です。いわゆる罪の性質は、イエスの贖いによって取り除かれたものの、肉的思考という思考パターンを形成する人の弱さは取り除かれていません。肉の思考が罪の性質と同じ、死に導く働きをするのなら、私たちは思考を一新する事の必要性を知るでしょう。

 しかし、肉的思考が単なる思考パターンという存在でしかないと分かれば、あなたの自由意思によってそれをどうにかできる事に気づくようになります。これがパウロの明かした奥義です。つまり、あなたが考えを一新させる事であらゆる束縛から解放されて歩めるようになっている、そしてその大きな恵みが既に与えられているという事です。その一方で、人が肉の思考という自分の悪い考えに支配されてしまう弱さはリアルです。その原因一つには、周りの環境が大きく関わっています。もし人が良い環境で育つのなら、例えイエスを知らなくても要塞なしに歩む事ができるでしょう。逆に、クリスチャンであっても周りの環境が悪ければ、肉の思考によって歩んでしまい、要塞を持つ事もあります。それに加え、サタンからの直接的な攻撃もあります。サタン自身も、私たちが肉の欲を満たすように、悪い考えを私たちの思考の中に入れます。エバを誘惑したように、考えるべきでない事を考えさせるのです。

 私たちの多くはまだ幼く、しっかりと御霊によって歩む事すら分からない、或いは、その歩みを継続できないくらい、信仰の成長の初期にいます。御言葉の真理に思考を一新させて来なかった信者の場合、救われる前の肉の思考で歩んでおり、その歩みに慣れています。そうすると、サタンは時々彼らを誘惑するだけで、十分悪い影響を与える事ができます。成長の道を歩んで来たクリスチャンはそう簡単には騙されません。常に聖書の言葉によって歩んでいるからです。全ての判断を聖書の言葉によって見極めようとするからです。しかし、一体どうしたらそのような歩みができるのでしょうか?

思考の一新 5に続きます。

思考の一新 3

 ローマ 12:1‐2 がよく引用される事もあって、思考を一新するという教えは、多くの人が知っているかも知れません。私たちが大人に成長する為に思考を一新させなさいとパウロは言っていますが、実践しないでは成長はないのです。御言葉を聞くだけで実践しないとせっかくの恵みによる祝福を受け損ないます。これが理由で、クリスチャン生活が長く、ある程度の聖書の知識を持っていたとしても、信仰的にはとても弱い人たちが大勢いるのです。彼らは、多くの御言葉に対する信仰を持っていません。基本的に、永遠の命に対する信仰以外は、信仰が働いていないのが多くのクリスチャンに共通するものでしょう。

要塞の形成

 例えば、ある人が長い人生を掛けて短気の生活を送って来た場合、短気の思考パターンを一新するのには時間が掛かる可能性があります。何故なら、その生活を長く続けて来たからです。その人の中で強くなった思考パターンは、要塞となっている為に、簡単に落ちないのです。一方、どのような罪や悪習慣でも、短い期間の間だけであったのなら、比較的簡単に思考を変える事ができます。

 何度も同じ考え方で考えると、それは要塞となります。一度要塞になってしまうと、直ぐには思考が変わりません。この要塞は、聖書では悪い意味で使われていますが、イエスの教えに沿った考えを要塞にするなら、その人の信仰はとても強いものとなります。従って、要塞とは、同じ思考パターンを何回も繰り返し経験して築き上げたものであり、習慣化された考え方の事です。

 さて、誰でも悪習慣から解放される事はありますが、クリスチャンの場合は御言葉の力で要塞を砕く事ができる点で非常に有利な立場にいます。悪習慣が悪霊の力によって大きく影響されている場合だと、御言葉による力なしでは解決できないので、未信者の場合はクリスチャンの助けを借りないと悪霊からの解放は、基本的に望めません。

 固執した考えや強い信念などは何でもその人の中で要塞になってしまうので、聖書的なもの以外で何かに没頭するのは危険です。人が何かに集中したり意識を強く向けたりして深く考え、しかもそれを長く続けて行うなら、それは偶像礼拝になるからです。私たちが心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くす対象は主だけです。

戦いの場

 霊の戦いとその戦場は、空中で悪霊と天使が戦っているようなもので説明される事がありますが、そこが主な霊の戦いではありません。私たちの霊の戦いは思考の中にあります。サタンや悪霊が最も大きく人に影響を与える攻撃は一つしかありません。それは非聖書的な言葉でもってその人の思考をかき乱す事です。人は自らの欲(肉の思考)という弱さを持っている上に、サタンから誘惑を受けます。普段から肉の思考で物事を考えているのなら、その時にサタンが誘惑すれば簡単にサタンの言う事を聞いてしまうでしょう。肉の思考を捨て、御霊の思考で歩む時にしか、サタンに打ち勝つ事ができません。サタンのこの攻撃は昔から今も同じです。

 
創世記 3:1「さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、他のどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」

 アダムとエバは肉の思考で考えた事もありませんでした。サタンは「神は、本当に言われたのですか」とエバに言った事は、自分の神に対する立場を表しています。つまり、神に反逆する者だという事です。そう言われたエバは、初めて神の言った事に対して考えるようになったのです。そこから、疑いが生じました。

 
創世記 3:3「しかし、園の中央にある木の実については、『あなた方は、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなた方が死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」

 神はアダムに園の中央にある木の実について忠告したのですが、エバには言っていません。エバの創造の前にアダムがいて、その時に神はアダムに言ったのです。エバが神から直接聞いていないのは明らかです。何故なら、エバは「それに触れてもいけない。あなた方が死ぬといけないからだ」と言ったからです。「触れただけ」で死んでしまうような超危険な木の実ではありませんでした。彼らが間違えてそれに触ったら、死んでしまうようなものではありませんでした。そうではなく、意図的にその木の実を食べて神の言葉に逆らわないと死ぬ事にはならなかったのです。

 アダムは恐らくエバに園の中央の木の実について伝えていた事でしょう。ですからエバは、少なくとも神がその木の実を食べてはならないという事は知っていました。ところが、エバがはっきりと神様から直接聞いていなかったのを見抜いた蛇はそのチャンスを見逃さず、すかさずエバに言いました。

 
創世記 3:4-5「すると、蛇は女に言った。「あなた方は決して死にません。それを食べるその時、目が開かれて、あなた方が神のようになって善悪を知る者となる事を、神は知っているのです。」

 ここでサタンは、今度は大胆にエバに嘘を言いました。疑問を投げかけた時とは違い、完全に神に逆らうようにいいました。こう言われたエバは、その時初めて、肉の思考で考えるようになったのです。それまではその木の実を見てもなんとも思わなかったのですが、考えが変わってしまいました。

 
創世記 3:6「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、共にいた夫にも与えたので、夫も食べた。」

 エバが肉の考え方で木の実を見ると、それは目に慕わしく見えました。肉の欲がはらんだので彼女はその木の実を取って食べてしまいました。

 
ヤコブ 1:15「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」

 
ローマ 8:6-7「肉の思いは死ですが、御霊の思いは命と平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従う事ができないのです。」

 肉の思いが死なのは、その思考パターンが罪を犯させるものだからです。そして、罪が熟すれば人は死んでしまうのです。

思考の一新 4へ続きます。

思考の一新 2

 ローマ 12:2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにする事で、自分を変えて頂きなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

 この箇所の「心」はギリシャ語では νοῦς = nous という単語で、それは人の一般的な考え、思考、知性、理解、判断、意思などを表します。kardia というギリシャ語の方が「心 」として一般的に訳されています。心でも考える事が可能な為、似ている点もありますが、心は人の中心的な部分であり、信仰の領域です。その他、旧約聖書では心と霊が同じ意味として使われている箇所も幾らかあり、理解が難しい領域の一つです。

 kardia がその人の中心となる本質や性格にまで関わる思考であるのに対し、nous は漠然と一般的な思考を指しています。つまり、その人の本質や性格とは特に関わりのない、その人が通常に持っている考えが nous であり、これを一新させる事が自分自身を変える事になるとパウロは言っているのです。ギリシャ語からの直訳だと、「あなたの思考の一新によって変えられなさい」になります。

 新改訳2017では「自分を変えて頂きなさい」という訳になっていて、あたかも神によって変えて頂きなさいというニュアンスを残していますが、思考の一新をするのは私たちです。神が私たちを育てるのは、私たちが御言葉を読んで、思考を一新する時なのです。神は、私たちがやるべき事をやっている時に一緒に働かれます。私たちは救いの為に努力をする必要はありませんが、救われたからこそ、信仰の道を歩むように、自分自身を訓練する必要があります。思考の一新はその主な訓練です。 

 思考の一新には、時間が掛かるケースとそうでないケースがあります。ある考えが人の中で強くなると、それは要塞となります。要塞となった強い信念は、その人の思考の中で大きな影響力を持つ事となり、それを一新するには時間が掛かるのです。この場合の要塞とは、神の知識に逆らう考え方です。一方、そのような悪い考えを持っていない人の場合は、思考の一新のプロセスは短いものになります。同様に、幼子のように素直に信じられる人は、考えを一新するのに時間が掛かりません。

 思考を一新するプロセスこそが聖書的な聖化の事であり、私たちにとっての成長です。一般的な神学による聖化は、律法主義的に考える傾向があり、人の努力によって漠然と何かを達成しようと試みるものです。しかし、肉の思考パターンをイエスの教えに沿う思考パターンに変える事が、成長に繋がるものであり、それはもやは、単なる聖書の学びを超えたものであって、目に見えて私たちに変化をもたらすものです。

 私たち自身が本当に変わるのは、思考や魂が真理の言葉に一致して行く時です。この成長の過程を経て、私たちは霊的な大人になるのです。ただ行動を修正しようとしても、私たち自身の考えは殆ど変わる事はありません。心理学的なアプローチでは人は変わらないのです。人の努力(魂の努力)に基づいた聖化も同様に、大きな効果をもたらしません。私たちは自分の努力だけによって御霊の実を結ぶ事はできません。究極的に言えば、御霊の実を結ぶには、聖霊の助けが大いに必要になります。しかし御霊は、私たちが思考を御言葉で一新する時にも、助けて下さるのです。

思考の一新 3に続きます。

思考の一新 1

 私たちの信仰の戦いの殆どは、私たちの思考の中で起きています。それは自己との戦いですが、聖書的に言うならば、肉の思いとの戦いです。キリストと共に十字架につけられた古い人は死んだのですが、私たちの記憶の中には、まだ肉の思いは残っています。それを思い出し、その考えによって歩むのなら、再び古い人として歩む事も可能なのです。

 肉的な思考そのものは単なる考え方なので、新生したクリスチャンでも、それは思考の中に存在しています。実際、新しい霊として生まれた変わったクリスチャンでも、肉の思考パターンのまま、古い人として生きている人も多くいます。それは、ある種の矛盾した存在として生きているようなものです。

 新しい人でありながら、古い人としても歩めるとはいえ、これらの二つの矛盾するアイデンティティーが存在しているという事ではありません。クリスチャンが葛藤するのは、肉の思考と御霊の思考という、二つの違う考え方がぶつかり合っている為です。クリスチャンは新しいアイデンティティーとして生きて行く事ができます。しかし、私たちが御霊の思考で歩むという選択をし、肉の思考を一新させなければなりません。この二つの考え方がぶつかると葛藤が生じ、本来のクリスチャンとしては歩めなくなります。

 ローマ  8:5-7「肉に従う者は肉に属する事を考えますが、御霊に従う者は御霊に属する事を考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いは命と平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従う事ができないのです。」

 私たちがクリスチャンになる前は、肉の思いで歩んでいました。その考え方自体は、新生した後でも、記憶として私たちの中に存在しています。それを思い出して、その考えのまま歩むのなら、古い人として再び歩む事になります。しかし、新しくされた私たちは、新しい歩み方をしなければなりません。私たちの霊の中に、御霊の思い、キリストの考え方がありますが、体にある古い記憶はそれに反して考えようとします。ですから、古い考え方をやめ、新しい考え方に変える必要があるのです。これを思考の一新とパウロは呼びました。

思考の一新 2に続きます。

取るに足りないしもべ

 ルカ 17:5「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増し加えて下さい。』」

 信仰さえあれば何でもできると弟子たちは悟ったに違いありません。そこで彼らは、イエスに信仰を増し加えて下さいと求めました。イエスも、信仰が鍵である事を弟子たちに言われています。

 マルコ 9:23「イエスは言われた。『できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんな事でもできるのです。』」

 聖書に書かれている御言葉の約束を可能にするのは信仰です。ところが、信じる事が出来るように神に信仰を与えて下さるように求める事は的外れなのです。何故なら、信じる事は私たちがする事だからです。もう一度ルカの福音書17章に戻りましょう。

 ルカ 17:6-10「すると主は言われた。「もしあなた方に、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなた方に従います。あなた方の誰かの所に、畑を耕すか羊を飼うしもべがいて、そのしもべが野から帰って来たら、『さあ、こちらに来て、食事をしなさい』と言うでしょうか。むしろ、『私の夕食の用意をし、私が食べたり飲んだりする間、帯を締めて給仕しなさい。お前はその後で食べたり飲んだりしなさい』と言うのではないでしょうか。しもべが命じられた事をしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。同じ様にあなた方も、自分に命じられた事を全て行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべき事をしただけです』と言いなさい。」

 信仰を増し加えて下さいと頼んだ弟子たちに対して、イエスはこの「取るに足りないしもべ」のたとえ話によって説明しました。このたとえ話からは幾つかの事が学べますが、ここでは信仰に焦点を置きたいと思います。このたとえ話を理解するには、からし種を用いた他のたとえ話も知っておく必要があります。イエスが言われた通り、からし種ほどの小さいものであっても、それが育って成長すれば良いのです。信仰のサイズは問題ではありません。パウロも、常に信者の信仰が成長する事を考えていました。

 次に知るべき事は、人は御言葉の真理とは無関係に、自分の信仰を成長させる事はできないという事です。私たちの信仰の成長の鍵を握っているのが御言葉という種であり、それを聞いて信じるから信仰が強くなるのです。ある意味、御言葉を聞いているのに信じる事ができないという事はあり得ないのです。神自身が語る言葉は虚しく帰ってくる事は本来ありえません。

 ローマ 10:8「では、何と言っていますか。「御言葉は、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉の事です。」

 私たちに必要なのは神によって信仰を増して下さる事ではなく、御言葉を聞いて、私たちに与えられている自由意思によって、神の約束を信じる決断をする事が必要なのです。信仰を邪魔するものは確かにあります。肉の思いによる考えは大きな障害です。しかし、、古い人がキリストと共に十字架で死んだという真理に基づき、肉の思いも一新される必要があります。

 私たちが信じる事が難しいと感じるのは、私たちが疑いを持つからです。しかし、疑わずに心で信じるのなら、私たちは多くの祝福を体験できるでしょう。ポイントは、疑いがなくなるまで、御言葉に没頭し、肉の思いを取り除く事です。一度だけ御言葉を読んで信じる事ができる人はいません。又、頭での理解と心で信じる事は別です。ですから、理解したから信じているという事ではなく、種(御言葉)をきちんと心に植えるという作業が必要なのです。御言葉は理解を超えて、信仰と結び付けられる必要があります。

 信じるのは私たちです。神が私たちに信じる力を与えて、私たちが信じられるようになるのなら、私たちは信仰を与えて下さいと求めなければいけません。しかし、救いの信仰ですら、私たちの決断次第なのです。神は様々な方法で、私たちを信仰の道に導きますが、信仰そのものを与える事はしません。神は、ご自分の御子、イエス・キリストを世に送られました。イエスを通して、人々が神を信じるようになる為です。ただ信仰を与える事ができたのなら、最初からイエスを送る事はなかったでしょう。

 信仰に始まったクリスチャンは信仰から信仰へと成長して行くのが聖書の教えです。私たちが信仰によって歩み続けるのをやめるなら、次の成長のステップはありません。敬虔な生き方を訓練によって学ばずに、ただ信仰を増し加えて下さいというしもべは、イエスに言わせれば、「取るに足りない」のです。何故なら、自ら成長して、大人になって考える事をせず、ただ言われた事だけを行うしもべだからです。

 「信仰を増し加えて下さい」と願うのは、ある意味、ずる賢いのです。成長という過程を通らずに、すぐにキリストの満ち満ちた身丈に達する事ができるとしたら、どんなに楽であった事でしょう。しかし、神がそれをする事ができるのであれば、最初から全ての人類が信仰に入るようにすれば良かった事にもなります。人の自由意志に委ねずに、全てを御心のままにすれば良かったはずです。ところが、神は人の自由意志を尊重し、私たちが信仰を働かせる時に、喜ばれるのです。

 イエスが厳しく弟子たちを叱ったケースは、全て彼らの信仰に関わる事だったのを思い出して下さい。主は、信仰に関して妥協なさいません。信じるのは私たちがする事であって、神はそれを強く望んでおられるのです。神の御業によって誰かの信仰が増し加わるのなら、その人はもはやロボットです。信じるようにさせられている、自由意思を失ったロボットです。神が私たちの信仰を増し加えて下さるのではなく、私たちが成長という過程を通して、信じるようになり、信仰が強くなって行くのです。ですから、霊的幼子からすぐに大人にして下さるように、神に信仰を増す加えて下さるように願う事は、神の御心に反するのです。

 神が愛の方である以上、神は私たちをロボット扱いはしません。私たちに自由意志が与えられているのは神が私たちを愛しておられるからです。神は、私たちに与えられた自由意志を使って、御言葉を信じる事を望んでおられます。今日、私たちにとって大きな壁となって私たちの信仰の歩みを妨げるものがあります。それは様々な間違った教えがもたらす疑いです。私たちは多くの非聖書的な考えを一新する必要があります。何故なら、信仰はあらゆる解決の鍵となっているからです。

感情のコントロール

 聖書は、私たちの行動を左右するのは私たちの思考だと教えています。注目すべきは、肉の思い(思考)そのものが死であるという点です。私たちの思考が感情や五感によって大きな影響を受け続けると、その思考は肉の思いになります。

 ローマ 8:6「肉の思いは死ですが、御霊の思いは命と平安です。」

 聖書は、自分の古い人はキリストと共に十字架につけられたと教えており、新しい人として、キリストについて行く事を教えています。

 マルコ 8:34「それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。『誰でも私に従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。』」

 自分の古い人を捨てるとは、キリストと共に葬られた古い人に戻らないようにという事です。霊的に、私たちは新しい人となりましたが、古い考えをまだ持っているので、古い、肉の思いで歩む事は可能なのです。そうした肉の弱さを人間的な努力で、取り除こうとしても、それは長く続くものではありません。

 ガラテヤ 2:20「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私の為にご自分を与えて下さった、神の御子に対する信仰によるのです。」

 勝利あるクリスチャン生活の秘密は、自己啓発にあるのではなく、古い人(古いアイデンティティー)が死んで、新しい人になっている事を信じ、新しい人として歩み始める事にあります。生まれ変わったクリスチャンには、新しい人が創造されている為、新しい歩みができるのです。

 第2コリント 5:17「ですから、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」

 古い人はもう存在しませんが、古い考えが残っている為、古い人の生き方を思い出す事はできます。その肉の思いが、ある意味、古い人を蘇らせてしまうのです。私たちは、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着る必要があります。そうすれば、感情的に動かされてしまう事がなくなります。新しい人にあって歩む事が、感情をコントロールする秘訣です。キリストによって新しく生まれ変わった霊は、霊的な思考、キリストの考え方に基づいて行動するので、常に平安があります。

 人が感情的になる場合、それは肉の思いが原因です。御言葉に反する考えを捨てきれないのは、感情が絡まっているからです。その感情は、大抵の場合、恐れです。あなたが大きな不安を感じているなら、あなたは肉的になっています。

 第2テモテ 1:7「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えて下さいました。」 

 私たちは、神に不安を取り除くようにと頼む必要はありません。肉の思考を一新させ、御霊の思考で歩むだけで、感情のコントロールができるようになります。それが難しいようなケースがあるのは、つまらない考えにこだわるからです。ですから、そうした肉の思いを捨て、御霊の思いに切り替える必要があります。それは、聖書の御言葉によって私たちの考えを一新するという事です。

 ローマ 12:2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにする事で、自分を変えて頂きなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

 「心を新たにする」の部分をギリシャ語の聖書で見ると、「思考の一新」と書かれています。これは、肉的な思考から霊的な思考に変えるという事を意味しています。そうするには、私たちは御言葉の真理を蓄えておく必要があります。それが霊的な思考だからです。真理の言葉を蓄えて、全ての判断をそれに沿って行うなら、あらゆるネガティブな考えや感情に影響されずに済みます。又、これらが私たちの考えの中に入ってくる時に、御言葉を使って追い出す事もできます。このプロセスが思考の一新というもので、これが感情をコントロールする、究極の秘訣なのです。

聖霊についての誤解

 聖霊についての様々な誤解は、イエスの十字架の御業と深く関係しています。聖霊の働きと罪について間違って教えられているものを幾つかピックアップしました。

1: 聖霊は人の犯した罪をチェックしている

 多くのクリスチャンは、聖霊は罪を犯した人を捕まえる警察官のように考えています。しかし、イエスは聖霊を慰め主と呼んでいます。モーセの律法の古い契約の視点から考えるのではなく、新しい契約の真理から考える必要があります。新しい契約の下においては、罪についての取り扱い方は大きく変わりました。

 へブル 10:17「『私は、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない』と言われるからです。」

 罪がこの世に全く存在していない、或いは、全く存在していなかったという事ではありません。罪自体は昔から今でも存在しており、相変わらず悪であり、それは熟すると死になります。ただし、過去、現在、そして未来の全ての罪はイエスの十字架によって赦されたというのが真理です。厳密に言えば、イエスは十字架の御業を完成する前でも人々の罪を赦し、誰も罪に定めなかったのですが、それらの人々の罪の為にも、イエスが十字架上で代価を払う事になっていたからです。

 イエスが指摘しなかった罪を、聖霊が指摘する事はありません。イエスの十字架は、罪や病気を含む、あらゆる呪いからの解放の象徴なので、聖霊が誰かの罪を指摘するような事はありません。聖霊はむしろ、人の罪が赦されているという真理、神の恵みに導きます。聖霊が人を神の恵みに導かれると、人は自然に悔い改める(考えを変える)ようになります。

 コロサイ人 2:13-14「背きの内にあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなた方を、神はキリストと共に生かして下さいました。私たちの全ての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いて下さいました。 」

2: 聖霊はクリスチャンが犯した罪を認めさせる

 罪を赦す神が罪を指摘する事はありません。これも、律法と恵みの混同から来る考え方です。罪を指摘するのはモーセの律法ですが、聖霊は私たちに義を認めさせるのです。ですから、律法は私たちの罪を認めさせますが、聖霊は信者に対してキリストの義を思い出させるのです。

 ヨハネの福音書 16:8-10「その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいます。罪についてというのは、彼らが私を信じないからです。義についてとは、私が父の元に行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです。」

 真理によると人の罪は既に赦されているのです。だからと言って、罪を犯して良いという事ではありません。罪から解放されて義人となっているクリスチャンは、義人として歩む(御霊によって歩む)事ができるという真理に目を向けるべきなのです。そうすれば、最終的に罪を犯さなくなります。世に対しては(未信者に対しては)、聖霊はイエスを信じていないという罪(新約による唯一の罪)を認めさせますが、クリスチャンに対しては義を認めさせるのです。

 クリスチャンが罪を犯しているケースでは、聖霊は十字架の赦しに導きますが、クリスチャンが自分の罪を認めるのは、自身の清い良心によってです。信者が気づいていないケースでも、聖霊が直接私たちの罪を指摘し、罪を認めさせるというよりも、真理の御言葉によって何が正しい道かを私たちに理解させます。間接的に私たちが犯した罪に対してどうすれば良いかを教えて下さいます。

3: 聖霊は罪の告白に導く

 罪の告白という概念はローマ・カトリックによる宗教的な教えであって聖書的ではありません。聖霊は罪の告白に導くのではなく、キリストが主である事を告白させる為に導くのです。

 第一コリント 12:3「ですから、あなた方に次の事を教えておきます。神の御霊によって語る者は誰も『イエスは、呪われよ』と言う事はなく、また、聖霊によるのでなければ、誰も『イエスは主です』と言う事はできません。」

第一ヨハネの手紙 1:9 は、しばしば「罪の告白」の聖句として捉えられていますが、この箇所の動詞は「犯した罪を告白する」という意味ではありません。そもそも私たちは、既に赦されている罪に対して何かをするという事はありません。同じ罪を再び犯さないように、反省する事は悪いものではないのですが、罪の告白をすれば、その時に私たちの罪が赦されるのではなく、イエスの十字架の贖いの血は、既に私たちの罪を赦しを宣言しているのです。

 これは、過去に犯した罪だけが赦されているという限定されたものでもなく、現在の罪も未来の罪も、そして全ての罪も含まれます。告白すれば神との関係が正されるという考えも聖書には書いてありません。私たちはイエスを信じて、義と認められ、神の子になっています。例え罪を犯しても、主の十字架の赦しを信じる事によって神の御坐に大胆に進む事ができるのです。私たちのするべき告白は、イエスが罪を取り除いて下さったという十字架の力の宣言です。

 聖霊は私たちをイエスから目をそらさないように導きます。クリスチャンが罪を犯している場合でも、まず既に罪から赦されているという真理に導き、それによって悔い改める(考えを変える)ように促して下さるのです。既に罪が赦された事を知っているクリスチャンだからこそ、彼らが罪を犯しているのなら、罪から悔い改める(考えを変える)のが神の子として当然であるという悟りを、聖霊は与えてくれます。私たちは赦される為に悔い改めるのではなく、赦されたという恵みゆえに悔い改めるのです。

4: 聖霊は去っていく

 旧約時代の特定の人たちには、神の霊が臨み、去っていく事がありました。預言者、祭司、そして王には油が注がれて、聖霊がその人たちに臨みました。これらの人たちは一時的に聖霊を受けただけなので、罪を犯した時には、聖霊が去っていく事もありました。ところが、新しい契約の下では、全ての信者の上に聖霊が豊かに注がれましたす。しかも、聖霊は去っていく事はもうありません。ダビデさえも理解出来なかったこの素晴らしい約束はキリストの十字架の恵みなのです。

 詩篇 51:11「私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を 私から取り去らないで下さい。」

 ダビデ王は地上で最も偉大な人間の王でした。詩篇にあるキリストについての彼の預言的な歌は、多くの啓示を神から与えられたからでした。しかし、そのダビデでも、聖霊がキリストを信じる者全てに無限に降り注がれるような事が後に起こる事は知らなかったのです。

バランス

 神の恵みを正しく理解していれば、それが乱用される事はありません。どちらかと言えば、神の恵みは軽んじられる傾向が強いので、それを教える事を優先すべきでしょう。パウロも、神の慈愛は軽んじられるべきではないと言っています。

 ローマ 2:4「それとも、神の慈しみ深さがあなたを悔い改めに導く事も知らないで、その豊かな慈しみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」

 神の愛は、人を悔い改め(考えを変える事)に導く力があります。恵みの強調は良いのです。ただし、恵みを正しく捉えた教えであるべきです。ハイパー・グレイスなどのような教えは、恵みを極端に教えたものであり、実は真理ではありません。

完了から始める

 イエスは十字架で恵みを私たちに示しました。それは既に完了した事として、過去の事実なのです。この理解はとても重要です。福音の土台であるキリストの十字架の御業を知らないと、人は宗教に走ってしまうからです。キリストが完了された事を知れば、私たちはその事を信じる事ができます。これが、聖書の教える信仰です。

 キリストの十字架の御業で成し遂げられたにより、キリストを信じたクリスチャンは、
  • 古いアイデンティティーが死んだ
  • 神の子となった
  • 新しく生まれ変わった
  • 聖霊が与えられた
  • 義とされた
  • 聖なる者とされた
  • 永遠の命を与えられた
  イエスが十字架上でなされた事に対して、私たちがするべき事は、信じて受け取るだけです。例えば、赦される為に罪から悔い改めるのではなく、罪の赦しを信じて受けるのです。義とされる為に良い行いをするのではなく、信じて義と認めされたので、良い行いをするのです。私たちが何かをする事によって、神の恵みを得るのであれば、それはもはや恵みではありません。

 クリスチャンの歩みは、完了した所から始まります。それはイエスが十字架で完了した御業に基づきます。恵みをそのまま素直に受け取る事、これが私たちのするべき最も大切な事です。しかし、その豊かな恵みを拒む人は、イエスの十字架の御業を拒むがゆえに、あらゆる祝福を受け損なってしまいます。何故なら、全ての神の祝福はキリストの十字架が土台となっているからです。 

 考えてみて下さい。私たちにとって最も重要な祝福の一つである、永遠の命でさえも、私たちが信じなければ受け取る事ができません。その他の祝福を受けたい場合も、神の恵みを信じなければ受け取れないのです。イエスは「私の所に来なさい」と言って、信じるように招いています。私たちが信仰を持ってイエスの所へ行かないと何も始まりません。しかし、イエスの成された業を信じる事により、私たちは新しい人生を歩めるようになります。 

 実際、十字架の御業の完了は、私たちを新しい人に変え、私たちを新しい契約の中に導いてくれました。私たちはもはや、古い文字に仕えるのではなく、御霊に仕える者です。イエスを信じた私たちは、キリストにおいて、天にある全ての霊的祝福を受け取りました。永遠の命だけでなく、罪の赦し、病の癒しも、その中に含まれます。イザヤが預言したように、イエスが全ての罪と病いを負って下さったからです。

 私たちがそれらの祝福を獲得する為に、奮闘する必要はありません。自らの努力は、宗教的な行いであり、そこには魂の休息もありません。私たちのするべき事は、ただ福音を信じるだけです。そして、信じて恵みを受け取った結果、私たちは良い行いをする事になっています。何故なら、私たちは神の作品であって、良い行いをする為にキリスト・イエスにあって造られたからです(エペソ 2:10)。

宗教の視点

 恵みは良いものですが宗教はそうではありません。恵みは私たちが神を信頼するように促しますが、宗教は自分を頼るように教え、儀式を行うように教えます。恵みによって義を得るのが聖書の教えですが、宗教は律法や儀式を守る事で自分の義を得るように言います。恵みは、神が私たちを助けると教えますが、宗教は神は自分を助ける者を助けると教えます。

 ある人は、宗教は必ずしも悪いものではないと言うかもしれません。何かしら良いものを教えていると言います。宗教という名の下で良い事もなされたと主張するかもしれません。ヤコブもそのような事を言っていたとして、宗教の価値を認めようとする考えもあるようです。しかし、ヤコブは「宗教を良い」としていたわけではありません。

 宗教の定義が違うと論点がまとまりませんが、一般的な宗教に対する理解は、それをむしろ正確に捉えています。人々が殆ど一致して見えているのは束縛です。それが理由で、宗教に熱心な事に対して、多くの人は良い印象を持っていません。スポーツや勉強に没頭する事を好ましいと思う反面、宗教への没頭は危険と思われています。その背景には、カルトの問題があったからというのもあるでしょう。しかし、カルトとは縁のない宗教であったとしても、多くの人は好意的に捉えてはいません。何故なら、多くの人が見るのは、宗教がもたらす束縛であって、自由ではないからです。以下に、宗教の特徴を挙げてみました。


1.宗教は自己の義に基づいている

 宗教の根本的な信念は自分の努力などによる、自己の義を強調している所です。サタンは、善悪の知識の木から食べれば「神のようになる」とアダムとエバを誘惑し、彼らの意識が神から離れて自分を中心に物事を考えるように仕向けました。私たちはどうしてアダムとエバはそんなにも愚かだったかと思うのですが、私たちが自分自身に目を向けて、自ら平安と喜びを見いだそうとするなら、彼らと同じ過ちをするのです。宗教は自己を築き上げ、自己を神としてしまう嘘なのです。

2.宗教は神を歪める

 宗教は神に対して嘘を言うので、神の良いイメージを破壊します。
  • 神はあなたに対して怒っている
  • あなたのする事に点数を付けている
  • あなたを拒否するかもしれない
  宗教は私たちを恐れを入れ、強制的に何かをさせようとします。
  • 神の怒りを鎮める為に、あなたは A、B、C をしなければならない
  • あなたが忠実で良い行いをすれば、神はあなたを祝福する
 これらは、私たちの父なる神の無条件の愛と恵みを歪める嘘です。

3.宗教は恵みを退ける

 宗教は神への道を示しますが、その道は実は反対に向かっているのです。 自己の義を求める高ぶりの道は、決して恵みの王座に至る事はありません。自己の努力による義の獲得はいつも恵みを退ける行為なのです。

 ガラテヤ 5:4「律法によって義と認められようとしているなら、あなた方はキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」

4.宗教は偶像礼拝

 バアル、モレク、或いは、世的な偶像よりも、大きな偶像は自分自身です。この偶像は何度も主張します。宗教は自己中心的な思いで働き、サタンのような高ぶりを持っています。他の人を思わずに自分の事ばかりを気にかけています。

 救い、癒し、赦し、聖化、義化、などは全て神の恵みによって与えられるものですが、宗教は次のような嘘を言います。
  • 救い(救われるにふさわしい事を証明しなければならない)
  • 癒し(癒やされるのにふさわしく、神の御心に叶う場合のみ)
  • 赦し(罪の告白を続ける事が絶対条件)
  • 聖化(一生を掛けても得る事はないが求めなければならない)
  • 義化(律法を守る努力によって獲得できる)

5.宗教は聖書を曲解する

 宗教は偽善なので、その視点でもって教えられて来たものは全て修正する必要があります。特に悔い改め、信仰、教会、聖化、祈りの意味を見直す必要があります。イエスに従う事は重荷にならないのですが、宗教はそれを難し​​いものにします。福音は良い知らせですが、宗教はそれを悪い知らせにします。宗教の究極的な目的は、イエスの教えに逆らい、神の恵みや真理を無にして救いの道を絶ってしまう事なのです。

6.宗教は動機が不純

 動機が正しい場合、良い行いは本当に良い事なのです。例えば、ある人が、一日に3時間祈る事や聖書を読む事などを決め、それらを行う事によって神から何か頂こうと考えるなら、それは宗教になります。一方で、3時間の祈りや聖書の学びを、自分の成長の為に行うのなら、それは個人的な霊的成長に関する事で、悪い事ではありません。ただし、この個人的な事柄を人に押し付けるなら、それも宗教になります。何故なら、個人的な事柄に関しては、誰かが決める事はできないからです。各自が信仰に応じて心で決めるようにするのが新約聖書の教えだからです。

家系・世代の呪い 2

敵の攻撃

 ここで少しだけ霊の戦いについて触れます。まず、悪霊は何の理由もなしに攻撃してくるという事を最初に知るべきです。彼らは悪そのものであるゆえに、「正当な理由」などを必要としません。ヨブ記を間違って解釈して、サタンは神の許可を得て、人間を攻撃すると言う人もいますが、サタンは毎回律儀に、神から許可をもらってから人を攻撃しているのではないのです。神は全ての良い物を与える方であり、サタンは全て悪い事をする邪悪なものです。

 クリスチャンになるだけで、自動的に何でも神に守られる事になると考えている人もいます。しかし、私たちは悪魔に立ち向かう必要があり、神の全ての武具を身に着ける事が必須なのです。クリスチャンが新生した時から、既に神の武具を身についているのであったなら、パウロはあえてそのように言ったはずがありません。勝利は既にイエスによって宣言されているのですが私たち自身も戦うのです。

 「これはあなた方の戦いではなく、神の戦いである。」(第二歴代誌 20:15)を間違って引用して、私たちが戦わずに何もしないならサタンの思うつぼです。この個所を全ての霊の戦いに応用して、ただ祈るだけで受け身的に勝利を待つようにと勘違いしているなら、サタンは常に攻撃する側にいて、クリスチャンは常に守りになってしまいます。御霊の剣が使えないクリスチャンはそのうち、守るのに疲れ果ててしまい、遂には勝利を見逃してしまうのです。私たちの戦いは、既に勝利があるという約束に基づいて戦うのですから、新約聖書通りにすれば必ず勝てるのです。ただし、かぶと、胸当て、信仰の大盾等の防御用の武具ではサタンを倒す事はできません。

 旧約聖書の時代は十字架の勝利よりも遥か以前でしたので、誰もサタンに対して戦う事は不可能であり、「戦いは神だけの戦い」だったでしょう。しかし、聖霊の力を持つクリスチャンは御霊の剣でサタンを打ち負かすという重要な仕事が任されています。

敵は機会を狙う

 悪霊は様々な機会を捉えて攻撃を仕掛けて来ます。肉の思い(人の欲や否定的な考え)だけでなく、間違った教えから来るものも含みます。神は病気を与えて人に試練を与えると信じるなら、それに悪霊は便乗するのです。或いは、イエスの十字架を見ないで罪を取り除こうと、あらゆる人間的な努力をしていると、悪霊はその人を罪意識の中で苦しめます。罪からの解放を知らないがゆえに、悪霊に攻撃のチャンスを与えてしまっているからです。

 先祖の罪ゆえに呪いを受けてしまうと考えるなら、それが悪魔の攻撃してくる機会となってしまうのです。しかし、先祖の罪も十字架で処分された以上、それが原因で悪霊に呪われる事はありません。エレミヤ・エゼキエルの時代ではその呪いはなくなっています。悪霊は、家系の呪いとは関係なく勝手気ままに悪を行います。

世代の呪いの欠点

 呪いという概念は、旧約時代の初期にはあったとしても、それは律法が要求する刑罰の事であって、本来は悪霊とは無関係でした。新しい契約の下ではそれは通用しません。イエスもパウロもそのような事について触れていません。それなのに、それについての今日の霊の戦いのセミナーなどでは、先祖の呪いからの解放される為に、先祖に変わって、彼らの罪を悔い改めるように教えます。しかし、三代、四代前の
先祖の犯した罪の全てを知る事は不可能です。

 最初から先祖の全ての罪を知る事が不可能だと誰もが分かっているのに、そうする事を指示した後で「私たちの知らずに犯した罪もお赦し下さい」という、最終的に漠然とした祈りで締めくくってもOKだとするのです。最終的には原因を探らずにも解放できるという矛盾にたどり着きます。「大事なのは反省した謙虚な心だ」という類の言葉でもって、素早く丸く収めれば多くの人は気づかないものです。そして、とにかくそういったプロセスが、例え上辺の形だけでもやらないと、悪霊は出ていかないと教えます。

イエスの御名

 先祖からの呪いを解いた後で、悪霊を追い出す必要はありません。すぐに悪霊を追い出すだけで良いのです。勝利は既に私たちのものなのです。悪霊を追い出す前に必要な、呪いを解く儀式は存在しません。そうだとすると、イエスの御名だけでは不足だという事になるのです。イエスが私たちに与えた権威を知らないと、様々な非聖書的な方法に走ってしまいますが、聖書では私たちの足でサタンを踏み砕くと書いてあります。うちにおられるキリスト、新しいアイデンティティーを理解しているクリスチャンなら、家系・世代の呪いを気にしません。何故なら、彼らはそれが存在しないという事を知っているからです。

 マルコ 16:17「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、」

 先祖からの呪いを解くのが、悪霊からの解放の「必須プロセス」だと信じてしまっている場合、その信仰のゆえに、その方法が通用する事もあります。しかし、呪いを解く為の儀式を勝手に作って、そこに信仰を置く必要はありません。イエスの御名に信仰を置く方が、聖書的である上に、すぐに悪霊を追い出す事ができます。

家系・世代の呪い 1

 霊の戦いの分野において「家系、世代、先祖の呪い」という、間違った教えがあります。クリスチャンでも先祖の犯した罪ゆえに呪いがあって、それから解放されないと様々な被害を被ると言うのです。例えば、病気が癒されないのは先祖からの呪いがあるからだとか、各種の霊的束縛、その他の祝福を妨げる原因の一つだと言われています。

 これは、早くはデレック・プリンスが70年代から教えてきたものとされています。彼の霊からの解放に関するものは基本的には良いのですが、果たして「家系、世代、先祖の呪い」は聖書的なのでしょうか?間違った教理は、旧約聖書だけを引用して発展させたものが多く、恵みの下にいるクリスチャンには当てはまらないのが特徴です。この教えも同様です。

 出エジプト 20:3-6「あなたには、私以外に、他の神があってはならない。あなたは自分の為に偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主である私は、ねたみの神。私を憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、私を愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

 出エジプト 34:7「恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

 民数記 14:18「『主は怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰し、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。」

 申命記 5:7-10「あなたには、私以外に、他の神があってはならない。あなたは自分の為に偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主である私は、ねたみの神。私を憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、私を愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

 「父の咎を子に報いる」という事は、先祖の罪ゆえにその刑罰が三代、四代までにも及ぶという事なので、「家系、世代、先祖の呪い」と呼ばれるものは「先祖の罪」が原因となっているのが分かると思います。旧約時代では、先祖の咎が子孫に及んだのですが、それは正確には先祖の咎に対する律法の刑罰がその子孫に及んだという事です。ここまで見てきた聖書の箇所の中には「呪い」とは書いてありません。ただ、父の咎を子に報うと書いてあるだけです。

 申命記 28:15「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主の全ての命令と掟を守り行わないなら、次のすべての呪いがあなたに臨み、あなたをとらえる。」

 同じ申命記でも、この箇所では「呪い」という言葉があります。しかし、条件があります。主の全ての命令と掟を守り行わない場合に、呪いがあるという事ですので、やはり律法が要求する「罪に対しての刑罰」という事です。15節以降には、呪いの内容について書かれてあります。

 さて、ここまで見て来た聖書の個所を基に世代の呪いという教えが作られたのですが、もし、これらの聖書箇所だけを見るなら、この教えは正しいと見えても仕方ありません。

旧約時代に終わっていた世代の呪い

 エレミヤ書 31:29-30「その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。誰でも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。」

 「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」ということわざは、父親の過ちのせいで、子供がその咎の報いを受けるという意味です。

 エゼキエル 18:2-4「あなた方は、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』という、このことわざを繰り返し言っているが、一体どういうことか。私は生きている──神である主の言葉──。あなた方がイスラエルでこのことわざを用いる事は、もう決してない。見よ、全ての魂は、私のもの。父のた魂いも子のた魂いも、私のもの。罪を犯した魂が死ぬ。」

 「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」ということわざがここにも出ています。3節では「あなた方がイスラエルでこのことわざを用いる事は、もう決してない」と神は言い、4節では、「罪を犯した魂が死ぬ」と言っています。この後、17節から24節までを読むと、父の咎のゆえの刑罰はその子には及ばなくなった事が分かります。

 エレミヤとエゼキエルの時代に、神は家系・世代の呪いはもうないと宣言していました。従って、旧約の時代に終わっているものが新約の時代に復活したという事はあり得ません。今は、恵みの時代なので、更に良い環境になっているはずです。

 ガラテヤ 3:13「キリストは、ご自分が私たちの為に呪われた者となる事で、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。「木にかけられた者はみな、呪われている」と書いてあるからです。」

 私たちを「律法の呪いから贖い出した」のはイエスの十字架の御業ゆえです。イエスが十字架で全ての罪を赦し宣言しました。先祖が犯した罪だけは特別扱いして赦さなかったという事はありません。イエスは罪と罪から来る呪い全ても十字架で打ち壊したのです。

 呪いのように見える災いの背後には、悪霊が関わっている事があります。しかし、悪霊の攻撃は、呪いそのものではありません。人が罪を犯す時には肉の思いになっている為、それに便乗して悪魔は仕掛けてくるだけなのです。ですから、罪から離れ、悪霊を追い出せば良いのです。

 呪いのような影響が次の世代に起こっているように見える場合も、同じ先祖を攻撃した悪霊がその子孫を攻撃しているだけです。先祖の罪が間接的に影響している場合でも、悪霊はその罪とは無関係に攻撃をします。この場合、ただ同じ悪霊がそこにいて、次の世代に攻撃しているだけなのです。ですから、呪いと見なすのではなく、悪霊の攻撃と見なし、それを追い出すだけなのです。

 霊的な攻撃を受けているからと言って、それを先祖からの呪いだとして、細かくその対応策を考える必要はありません。単に悪霊を追い出すだけです。主からの権威と聖霊の力を持つクリスチャンは圧倒的な勝利者なのです。決して彼らを自分たちより強いと考える必要はありません。何故なら、サタンでさえ私たちの足で踏み砕く事ができるからです。

家系・世代の呪い 2に続きます。