新しいアイデンティティー 3

 へブル 10:11「さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去る事ができませんが、」

 動物のいけにえは、罪を取り除く事ができなかったのですが、イエスの贖いは、罪を取り除く事ができました。アウグスティヌスが言う「原罪」はイエスの愛に対して限界を設定しています。十字架の恵みの御業を過少評価しているのです。彼はギリシャ語をあまり知らなかった事から、哲学に頼って聖書を解釈したのかもしれません。しかし、彼の原罪の教えは主の十字架の御業を無にしてしまう、人間的な解釈に過ぎず、真理ではないのです。少なくとも、キリストの御業を信じる私たちは、罪が除き去られたという真理が適応されます。何故なら、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者、新しく創造された者だからです。これが意味する事は、私たちの霊の中には罪がないという事です

 さて、別の角度から人のアイデンティティーについて聖書から見ます。

 箴言 23:6-7「物惜しみする人のパンを食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに「食え、飲め」と言っても、その心はあなたと共にない。」

 物惜しみする人が「食え、飲め」と言っても、彼の心は勘定ずくなので、その心はあなたと共にありません。何故なら、物惜しみする人は、気前よく「食え、飲め」とは言わないのです。つまり、人というのは結局のところ、その心の部分がその人の本質であるという事を言いたいのです。口先だけの言葉ではなく、その人のアイデンティティーはその人の心にあるという事です。箴言ではこの「心」という語をほぼ全ての章で見る事ができる大変ユニークな書物です。下の箇所もそうです。

  箴言 4:23「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。命の泉はこれから湧く。」

 似たような事をイエスも言われました。

 ルカによる福音書  6:45「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。」

 このたとえを用いて、イエスは人を見分ける秘訣を教えました。ここでも人の本質はその人の「心」にあるというのがポイントです。箴言で頻繁に出る「心」と訳されているギリシャ語(kardia)は「人の本質」「人間の中心的な部分」という意味を含みます。ヘブル語では「レーヴ」(לֵב)です。

  一般的に理解されている感情的なニュアンスを含みがちな「心」の表現(心温まるなどの表現)よりも、kardia は、むしろ頭で考える部分も含みます。つまり、人の本質(中心)に関わる部分がその人の思考にあるということです。ただしこれは、一般的な考えの意味の(nous)ではありません。その人自身(本質)、或いは、その人の中心的な思考、つまり、人の霊です。聖書で、心と霊が殆ど同じものとして扱われている箇所が幾つかあるように、これらは非常に近いです。何故なら、両方とも人の本質を表すからです。

 例えば、明るい人でも悲しいという感情や考えを持つ事はあります。ところが、明るい人の中心的な思考は、常にポジティブな考えばかりです。一つの考えがその人の本質を定義するのではなく、その人の中心的な思考がその人を定義します。つまり、アイデンティティーを形成している思考が「心」とも言え、パウロはそれを、思考の霊とも表現しました(エペソ 4:23)。

 そういうわけで、人のアイデンティティーはその人の中心的な考え(霊、心)に基づいています。罪の性質や原罪と呼ばれるもの、或いは、アダムの違反が人に入り込んだ時から、人は「古い人」として歩め事が可能になりました。しかし、だからといって、人のする事全てが悪になったわけではありません。悪魔の性質を持つ事になり、それゆえ、イエスの贖いによる救いが必要になったとはいえ、全ての人が常に悪い事ばかりをしてしまう事にはなりませんでした。

 罪の奴隷であるとパウロは言いましたが、奴隷はその身分を喜んではいません。自身が奴隷であるという束縛を認識しています。それから解放されたいと知っているのです。一般の人が自分自身の罪についてよく考えるなら、その悪を認め、束縛から解放されたいと望みます。罪の性質であれ、肉の思いであれ、人を悪い方向へ誘惑するものが私たちのうちにあったとしても、それゆえに、罪の奴隷になったとしても、どこかで、その悪を嫌い、それから解放されたいと望む、本来の人の霊や心の機能は存在しています。それを知るだけでも、私たちは創造主の存在を知る事になるのです。

 人が罪を犯す時、人の弱さにつけ込む者、誘惑する者がいます。それが悪魔です。しかし悪魔も、人の肉の弱さ、肉の思い、或いは、それを罪の性質や原罪と呼んだとしても、それらを利用し、人が悪をするように同意させなければなりません。つまり、悪魔でさえ、人を完全にコントロールできないのです。未信者も信者も、人には自由意志があり、それを働かせる事によって、罪を犯すのです。従って、人がどんなに罪を犯してしまうという弱さがあったとしても、それ自体が人間を操り人形のようにコントロールしているわけではないのです。カルヴァン主義でいう、「全的堕落」という考えは誤りで、人には自由意志があります。実際、どの時代でも、人は神と共に歩める事、信仰による義があった事が聖書から読み取れます。恵みの時代から、信仰を通して義と認められるようになったのではないのです。

 ある意味、人の自由意志が最も強いものと言えます。それによって、人は神さえも退ける事が可能だからです。しかし、イエスの愛に触れられるなら、人はそれを喜んで受け取るでしょう。福音の素晴らしさを知った時、人は自由にその愛を求めるようになるのです。何故なら、福音の真理の言葉には、私たちを自由にする力があるからです。そして幸いな事に、私たちクリスチャンは「古いもの全て」が過ぎ去っている状態に留まる事が可能になりました。それは、新しい人として歩む、御霊によって歩むという意味です。その歩みを始めたばかりの人は、油断して罪を犯してしまう事がよくありますが、そうだからといって、神の子としてのアイデンティティーは失いません。何故なら、御父は、イエスを通して私たちを見て下さるからです。イエスを信じ続ける者の罪は、イエスが代価を払ったものとしてみなされ、私たちはその罪の刑罰から免れています。もちろん、そうして自由になったがゆえに、私たちは義の道を歩まなければいけません。

 思考が、まだ完全に一新されていない私たちにとっては、義の為に生きる事が不可能のように見えるかもしれませんが、私たちは、そのようにして歩める事のできる新しい人となっているのです。実際、クリスチャンは自由になっています。ですから、イエスを模範として、神の子として歩み始めるか、それとも肉の思いに影響されて、再び古い人(罪の奴隷)として歩むかは、私たち次第なのです。

新しいアイデンティティー 2

 第二コリント 5:17「ですから、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」

 「古いもの」は archaia というギリシャ語が使われていますが、これは複数形で表わされています。「単一の古いもの」ではなく、「複数の古いもの」が正しい訳です。新しく造られた者は明らかに「人」を指しています。それと対になるのが「古いもの」であるのは文脈から明らかでしょう。ですから「古い人」が「複数の古いもの」に含まれているとするのが自然の運びではないでしょうか。ここでパウロが「新しい人」と言っている以上、その比較の対象である「古い人」を「複数の古いもの」の中に含むという読み方は無理のあるものではないはずです。

 更に、パウロは別の箇所で「古い人」と「新しい人」の二つの表現を用いて、両者が相反するものとしています。

 エペソ人  4:22-24「その教えとは、あなた方の以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなた方が脱ぎ捨てる事、又、あなた方が霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着る事でした。」

 さて、「複数の古いもの」ですから「古い人」以外に何か他に含まれているという事になります。単純に「古い人に関係するもの」として無難だと思います。仮に「古い人」とは全く関係のない何かが「複数の古いもの」に含まれる場合は、それを示す聖句がないといけませんが、そこの方面に憶測を置くのは解釈上のリスクが高くなります。従って、「古い人」を生み出した「アダムの違反」が最有力候補になるのは間違いありません。それが古い人に最も深く関わるものだからです。

 クリスチャンが新しいアイデンティティーとして生まれ変わったなのなら、もう古いもの(古い人、そしてその全て)はないのです。古いもの全てが過ぎ去っているという意味は、私たちが罪と死の法則から解放されているという事と関係しています。一人の「罪」=アダムの違反によって「死」が支配したのですが、それら二つから解放されているとパウロは言いました。それら二つが過ぎ去って、人は新しく生まれ変わったのです。罪も死も、イエスの贖いによって、もはや私たちを束縛する事はありません。

  第二コリント  5:21「神は、罪を知らない方を私たちの為に罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となる為です。」

 ここの箇所の「罪」も単数形です。「私たちの代わりに罪となった」イエスは、私たちの身代わりになったのです。子羊はいけにえの象徴であり、神の子羊は世の罪を取り除く為に来られました。イエスが私たちの罪の為に、その代価を払う為にこの世に来られたのです。しかし、私たちの代わりに罪(単数)となったのに、全ての罪(複数)を赦す事になったのはどういう意味があるのでしょう?ある人々は、「罪の代価となったイエスでも、原罪だけは取り除いてはいませんでした」などと言います。しかし、アダムの犯した違反を取り除いたからこそ、それから出てきた全ての罪(複数)をも取り除く事となったのではないでしょうか?

 私たちの罪が赦されているのは、イエスご自身が罪となられ、罪として死んで下さったからです。つまり、罪を取り除くという事を実践した事によって、罪の赦しがあるのです。同様に、死に勝利したのは、死から蘇る事によって死を克服したからです。

 ローマ 8:1-3「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められる事は決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、命の御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になった為、律法にはできなくなっている事を、神はして下さいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」

 「定められることは決してありません」の部分の動詞は κατάκριμα(katakrima)罪の宣告(罪に定める)という意味です。「解放した」の動詞は ἐλευθερόω で自由にするという意味です。「罪のために」と「肉において罪を」はそれぞれ単数形の「罪」です。「罪を処罰された」の動詞は先ほどの κατάκριμα(katakrima)罪の宣告(罪に定める)が使われています。父なる神がイエスを罪に定めたという事です。それは私たちの為であり、私たちが罪に定めらず、死ななくても良いのは、イエスが私たちの為に罪(単数形)となり、死んで下さったからです。

 それでは、イエスが背負った罪はどれでしょうか?どの一つの罪において、父なる神はイエスを罪に定めたのでしょうか?嘘でしょうか?盗みでしょうか?イエスご自身は一つも罪を犯しませんでした。完全に律法を守った唯一の人としてイエスは自ら罪となり、いけにえとなったのです。イエスが背負った罪は、罪の性質そのものであり、アダムの違反であり、それを取り除いて下さったのです。

 ある教義は、全ての罪からは解放されていても、罪の性質(原罪と呼ぶ人もいる)からは解放されていないと主張します。それが本当なら、主の十字架の御業は一体どういう意味があったのでしょう?私たちの主が一番重要な罪を逃す事があり得るのでしょうか?

新しいアイデンティティー 3に続きます。

新しいアイデンティティー 1

 私たちのアイデンティティーは、新しく創造された霊であり、それは、古い契約がなくなり、新しい契約にとって変えられた事に関係があります。その事をイエスは、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなさいというたとえで表現されました。

 第二コリント 5:17「ですから、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」

 「新しく造られた者」は次の2つの単語で成り立っています。

kaine 新しい
ktisis 創造されたもの

「新しく造られた者」があるのは、まず、古いものが過ぎ去ったからです。新しく造られた者にとって、古いものと共存する事は不可能です。つまり、新しいぶどう酒と古い皮袋の共存ができないという事です。或いは、古い契約が続行中なのに、どうして新しい契約を結ぶ事が可能でしょうか?

 ローマ 7:2 「結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。」

 パウロは「律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけ」だというのを説明する為に、夫婦の関係をたとえに用いました。夫が死んでしまったら、妻は再婚しても姦淫にはならないとパウロは言います。夫のいる妻は、再婚という選択肢を持つ事ができません。それが可能になるには、夫との死別が前提です。それを無視して新しい夫を迎える事はできません。或いは、それを姦淫とみなされてしまいます。

 キリストのうちにあるクリスチャンは全て「新しく造られた者」であり、それは何よりもまず、古いものが全て過ぎ去る(アオリスト形)からです。古いものの中には、古い人も含まれます。古い人は、キリストと共に葬られた人の事であり、罪の奴隷です。そして、罪ゆえに、律法による刑罰を受けるべき古い人は、死ななければなりません。私たちの古い人は、キリストと共に死んだとみなされています。そうする事で、新しい人として復活できるからです。

 ローマ 6:6-7「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる為です。死んだ者は、罪から解放されているのです。」

 6節には罪が二回、7節には一回出ています。これらは全て単数形で表されています。例えば、ガラテヤ5章を参考にして、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興などの罪のうち、どれか一つだけから解放されたという事をパウロは言ったのでしょうか?

 「単数の罪」がアダムの違反 Adam's transgression(これも単数)以外で用いられているケースは、基本的に文脈上で明らかに一人の人の特定の罪を指している時(その場合、文法的に単数とする必要がある時)です。「世の罪を取り除く神の子羊」とバプテスマのヨハネも単数形で「世の罪」と表現していますが、ここも誰かが犯した特定の罪とは考えにくいでしょう。ちなみに7節の「罪から解放された」は(δικαιόω)の動詞が使われているので、「罪から義となり解放された」がより正しい訳です。解放・自由という意味で訳されているのは新約聖書ではここだけなので、「義となった」を入れてより明確にした方が無難な訳になると思います。何故なら語源(dikaios)が「義」を意味するからです。

 「古い人がキリストと共に十字架につけられた」という真理はキリストの十字架によって表されています。それはイエスの復活を通して、私たちが新しく生まれ変わる為に必要な出来事でした。イエスが死ぬ必要があったのは私たちの古い人を葬り去る為です。その古い人は罪と共に死ぬという事になっているです。それは「私たちがもはや罪の奴隷でなくなる為」なのです。

 ところで、古い人は肉の思いによる古いアイデンティティー、或いは、アダムの罪ゆえのアイデンティティーです。

 第一コリント 15:21-22「死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあって全ての人が死んでいるように、キリストにあって全ての人が生かされるのです。」

「アダムにあって全ての人が死んでいる」のは死が「一人の人を通して来た」からです。同じ事をパウロはローマ書でも書きました。

 ローマ 5:17「もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらの事、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、命にあって支配するようになるのです。」

 「一人の違反により、一人によって死が支配するようになった」のはアダムの違反の事です。彼の罪によって死が全人類を支配するようになったのです。しかし今は、イエスによって、信者は命にあって支配するようになりました。新しいアイデンティティーとして生まれ変わった私たちにとって、古い人、罪、モーセの律法、古い契約、死、その他の古いものに属する全てのものとの共存はあり得ません。

 人はいわゆる Dual Nature (二つの性質)を持ってはいません。ある   人々は、罪の性質、原罪となどと呼んだりしますが、私たちは、そうしたものを持つ聖徒ではありません。クリスチャンは罪の性質を持ちながら、罪を犯すのではなく、肉の思いが働いて罪を犯したり、五感が訴えかけるものに対して肉の思いが同意して、罪を犯すのです。霊、魂、体のどこかに、罪の性質が未だに宿っているのではありません。それは取り除かれたのです。

 ヘブル 9:26「もし同じだとしたら、世界の基が据えられた時から、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除く為に現れて下さいました。」

新しいアイデンティティー 2に続きます。

祈りとは 5

 さて、主の祈りをもう一度ギリシャ語から見てみます。主の祈りで使われている以下の動詞が命令形であるというのが、主の祈りの理解の助けになります。日本語では、尊敬語が含まれている為に、以下の動詞が単なる「お願いの祈り」に見えてしまうのですが、これらは全て命令形になっています。

 「御名が聖なるものとされますように」「聖なるものとされる」の命令形
「御国が来ますように」「来る」の命令形
「御心が天で行われるように」「成る」の命令形
「私たちの日ごとの糧を、今日もお与え下さい」「与える」の命令形
「私たちの負い目をお赦し下さい」「赦す」の命令形
「悪からお救い下さい」「救う」の命令形

 英語で見ると命令形で訳されているのがより分かると思います。

 Hallowed be Your name「御名が聖なるものとされますように」
Your kingdom come「御国が来ますように」
Your will be done「御心が天で行われるように」
Give us this day our daily bread「私たちの日ごとの糧を、今日もお与え下さい」
Forgive us our debts「私たちの負いめをお赦し下さい」
But deliver us from the evil one「悪からお救い下さい」

 文法という壁が影響しているという事ですが、命令形という事から、これらの動詞が強く要求するものとして理解する必要があります。ですから、「強い要求、訴え」がより適切です。「私は~を願っています」というよりも、「~が絶対そうなるように」くらいの強い訴えや宣言です。「願ってもそれが叶うか分からない、それでも一応お願いする」という適当なものではないのです。「願った事は絶対そうなる」という「強い確信、信仰に基づく大胆な宣言」なのです。

 律法の下では、神に向かって大胆に訴えるような事はできなかったのですが、イエスはそのようにしなさいと「主の祈り」を通して教えていたのです。律法の下にいた彼らのよく知っている日常の必要を例に挙げ、それらに対する今までの「お願いの祈り」を、今度は命令形に変えて大胆に要求しなさいと教えていたのです。

 私たちの神は父なる神です。その子供たちを愛しておられるという事を知らないと、主の祈りの本質は分からないでしょう。どんな親であっても、子供が求めると与えるのが当然だとイエスは言われました。ですから、私たちは大胆に父なる神に向かって要求する事ができるのです。長い間律法の下にいたイスラエル人は神に対して恐れを持っていました。間違った神の認識を持って祈るなら、私たちは信仰を持てず、自分自身を無意味に卑下してしまい、しかもそれを「謙遜」という美徳だと考えて、ますます宗教的な上辺だけの行いをするようになります。

 本当の謙遜はイエスの教えを素直に信じる信仰に基づいています。神を信頼ぜず、自分勝手な解釈による聖書の理解や祈りこそ高ぶりであり、そのような偏見はパリサイや律法学者が持っていたものです。全てを知っている父のような神だからこそ、その方を信頼して大胆に要求するべきだとイエスは意図したのです。

 小さな子供が何か欲しい時に親に遠慮するでしょうか?親の機嫌を伺ったり、まずは親のご機嫌をとってから頼むでしょうか?残念ながら確かに人間の親子のケースでは実際にそうなっている事もありますが、一般的に言えば、健全な人間関係の下で育った子供は、親に欲しいものを率直に要求するものです。

 「どうか~して下さい」という「信仰のないお願い」は、今日の殆どのクリスチャンの祈りの定義になってしまいました。いかに「アバ、父よ」の意味を知らないかが露わになっています。もし、天の父なる神がどういうお方かを知っていたなら、そのような信仰のない祈りにならないはずです。神に求めたら、神は必ず与えて下さると分かっている、確信している前提で祈るのが本来の祈りです。

 第一ヨハネ 5:14-15「何事でも神の御心に従って願うなら、神は聞いて下さるという事、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願う事は何でも神が聞いて下さると分かるなら、私たちは、神に願い求めた事を既に手にしていると分かります。」

 神を父親のような身近で信頼できるお方と認識して、求めるものは全て与えられるという強い確信に基づくなら、あなたの祈りは自然に大胆になるでしょう。要は、信仰による祈りや信仰によって山を動かすというのが祈りなのです。イエスは、私たちがそのように祈る(要求する)事を願っているのです。

 もう一度言いますが、このような大胆な祈り(大胆な要求)は、イエスが祈りについて教え、それを聞いていた当時の弟子たちにはまだ理解できませんでした・・・聖霊を受けるまでは。 彼らがそれまでよく祈っていた祈りのリスト(日々の糧、罪について、悪からの救い)を大胆に要求する事はできなかったのです。大胆に神の御座に近づくには、イエスの十字架の恵みが必要だからです。

 視点を少し変えますが、次の聖書の個所からも祈りが大胆な要求である事が明らかです。

 マルコ 11:23-24「まことに、あなた方に言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる者には、その通りになります。ですから、あなた方に言います。あなた方が祈り求めるものは何でも、既に得たと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」

 この箇所からも、祈りが必ずしも神との会話や神に向かってお願いを聞いてもらう事ではないのが明らかです。神と会話する祈りもありますが、それは主に、異言による祈りです。又、神にリクエストを聞いてもらって、もし御心に叶うなら奇跡を起こしてもらうという「信仰のない祈り」ではなく、私たちが神に信頼する時に奇跡が起こるという信仰が鍵なのです。もはや「憐れんで下さい。どうかお願いを聞いて下さい」という古い契約の下で、人々が祈っていたような祈りではなく、神の子として大胆に要求し、不可能な事を可能にしてしまう(山を動かす)信仰に基づく祈りであるべきなのです。

 最後に、ルカによる福音書にある「主の祈り」の直後にイエスが語られた箇所を見ます。

 ルカ 11:5-10「また、イエスはこう言われた。『あなた方の内の誰かに友だちがいて、その人の所に真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私の所に来たのだが、出してやるものがないのだ。』すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないで欲しい。もう戸を閉めてしまったし、子供たちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげる事はできない。』あなた方に言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげる事はしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。ですから、あなた方に言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。誰でも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」

 ここでイエスは、熱心に求める事の重要性を説いておられます。しかし、「何を求めるか」という部分もきちんと言われています。引き続き引用します。

 ルカ 11:11-13「あなた方の中で、子供が魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良いものを与える事を知っています。それならなおの事、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えて下さいます。』」

 ルカ 11:9-10 はよく引用される箇所ですが、これらだけを引用してしまうと、あたかも漠然と「何でも求めればその願いが叶えられる」と誤解されがちです。実際に、この誤解が土台となって、「単に求める事」が祈りだと多くの人々が思っているのです。ところが、この箇所で「求めれば与えられる」のは聖霊です。

 イエスはルカによる福音書で、主の祈りの解説として聖霊を求めるという私たちのする事と、その願いを聞いて聖霊を与えて下さる天の父なる神について述べているのです。その理由は、聖霊なしには主の祈りの意味が理解できないからであり、信仰による祈りができないからです。私たちが神の子となって、初めて、信仰による祈りが可能になります。そうすれば、神の子たちである私たちは、大胆に父なる神に求める事ができます。そして、父なる神がその子供たちに最良のもの(聖霊)を与えたいという願いを持っておられる事、又、私たちが究極的に求める事とは、聖霊を求める事だと悟らせる為に、このたとえを語られたのです。

 マタイの福音書による「主の祈り」の解説部分では、その結論として、神の国と神の義を第一に求めるようにとイエスは教えられました。この事とルカによる福音書にある聖霊を求める事は関係しています。何故なら、私たちが聖霊を受ける前に、神の国と神の義を第一にして歩む事ができないからです。

 神が見ているのは私たちの心であり、それは信仰です。人は心で信じるのです。頭ではありません。神は上辺だけの形や行いに興味はありません。ですから、神に喜ばれるような祈りは、信仰による祈りだけなのです。信仰のない祈りは宗教的なものであり、真の祈りではありません。それを、イエスは主の祈りで示されたのです。

 人の立派な祈りを見て神が喜ぶ事はありません。それが神の為になる訳でもありません。祈りはむしろ、私たち自身の益となる為にあります。信仰の祈りを通して多くの祝福を実現化していくのは、他ならない私たちの為です。この事が理解できると、無意味に神に良い印象を与える事ばかりにこだわった祈りをしなくなります。そのように考えていたのは、パリサイ人であり律法学者だったのです。この事が分かると、宗教という型にはまった祈りから解放されるでしょう。そして、自由で素直な祈りに変わっていき、信仰による祈りに変わって行くでしょう。ヤベツの祈りを真似して唱えてみたり、その他の祈り方にこだわらなくなるでしょう。

 ここまできちんと理解できたなら、「主の祈りを唱えると何か不思議な恩恵がある」というような考えが間違いである事に気づき、それを闇雲にリピートする事をやめるでしょう。そして、イエスの十字架によって恵みが私たちに降り注がれている事を知れば、大胆に山に命令してそれを動かす事ができるようになります。そうなると、私たちの祈りは、「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように」の箇所が示すように、心から神を褒め称える事ができるようになります。また、恵みによってあらゆる祝福が既に私たちの内にある事が分かると、小さなものを願い求める事をやめ、「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」と言って、もっと核心的な事柄に対して、大胆に要求し、宣言するようになるでしょう。

 こうした祈りが出来るには、私たちが自分たちのアイデンティティー(神の子である事)を明確に知り、本来のやるべき事と人生の意義(地上を治め、神の国を前進する事)を悟っていなければなりません。真の祈りとは、新生した神の子だけが祈れるものであり、信仰に基づく大胆な宣言です。その祈りを、御霊の助けを得てやると、異言の祈りになります。

祈りとは 4

 マタイ 6:13「私たちを試みにあわせないで、悪からお救い下さい。」

 ギリシャ語の「試み」は「誘惑する」という単語と同じです。ここでは「誘惑に会わせないで」が適切でしょう。何故なら、神が人を誘惑して悪に導く事があると当時の人は考えていました。彼らは良いものも、悪いものも全て神から来ると考えていました。病気も、その人の罪ゆえの神からの刑罰だと考えていたのです。

 ヤコブ 1:13「誰でも誘惑されている時、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑される事のない方であり、ご自分で誰かを誘惑する事もありません。」

 「誰でも誘惑されている時、神に誘惑されていると言ってはいけません」とヤコブが注意した以上、ユダヤ人(イスラエル人)が、神は誘惑して悪に導いたり、災いをもたらされると考えていた事は明らかです。しかし、イエスによって明らかにされた真理によれば、私たちは既に罪からも病気からも、そしてあらゆる悪からも救われているのです。

 ローマ 16:20「平和の神は、速やかに、あなた方の足の下でサタンを踏み砕いて下さいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなた方と共にありますように。」

 サタンを踏み砕くのは誰の足でしょうか?私たちはサタンを怖がる必要はないのです。「悪からお救い下さい」という祈りは、十字架の後ではもう意味がないのです。何故なら、イエスが既に勝利を得たからです。

 さて、ここまでの解説によると、主の祈りの後半部分は、私たちにとって必要にない内容だという事ですが、実はそれに気づく事が重要です。その気づきと関連しているのがイエスの次の言葉です。

 マタイ 6:8「ですから、彼らと同じ様にしてはいけません。あなた方の父は、あなた方が求める前から、あなた方に必要なものを知っておられるのです。」

 この個所を読んで、では一体何の為に祈るのかという所から考えた事はあるでしょうか?イエスは異邦人のように祈るなと注意してから、「主の祈り」でどのように祈ったら良いのかのヒントを示したのです。そしてその中で、彼らの今までの祈りとは根本的に違う祈りについて示されたのです。もし、神が私たちの祈りの内容を既に知っているとしたら(事実その通りです)、私たちは何の為に祈るのでしょうか?まさにそれに気づかせる為にイエスは主の祈りを用いて、祈りの目的やその意味についても教えられたのです。何故なら、律法の下での祈りはその目的や意味が誤解されており、形だけの、宗教的な儀式となっていたからです。

 マタイ 6:31「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくて良いのです。」

 クリスチャンにとって、心配が祈りの原動力となっていると最初の記事で書きましたが、それはこの聖書の箇所からも明らかです。多くの人の祈りが主の祈りの後半部の項目(以下の三つ)を心配して祈っています。そしてそれらを願い求めるというのが、当時のユダヤ人の儀式化された祈りでした。

1.日ごとの糧
2.罪の赦し
3.悪からの救い

 上の三つを心配して祈る必要がないというのが、恵みによって明らかにされている真理ですが、それでは何故イエスはこれらの事を含めたのでしょうか?その理由は、祈り方を教わった弟子たちがまだ律法の下にいたからです。律法の考えを持っていた彼らユダヤ人は、律法の下での祈りしか分からなかったのです。イエスは彼らが理解できる範囲で、真理を解き明かそうとされました。

 ですから、主の祈りの後半部分は彼らが理解できる律法の下で彼らが祈りについて理解していたものが含まれているのです。しかし、だからと言ってイエスは律法を教えていたのではありません。むしろイエスは律法を成就し、恵みを実現される為に来られました(ヨハネ 1:17)。イエスがモーセの律法を引用し、その解説をなさる必要があったのは、モーセの律法の限界を彼らに悟らせる為だったのです。主の祈りでも、モーセの律法に基づく祈りの描写があるのは、それをするようにではなく、その事にはもはや力はなく、恵みがもたらす真理はそれらを超えている事を悟らせる為だったのです。もちろん、真理を知るには、御霊が必要なので、当時の彼らには、主の祈りはまだ理解できなかった内容だったのです。

 ここで鍵になっているのは、聖霊によって初めて私たちは主の祈りでイエスが言いたかった事を悟れるようになるという真理です。ですから、基本的に主の祈りは、恵みの下にある人たちがする祈りについてです。聖霊はイエスの言った事を思い起こさせ、私たちを全ての真理へと導きます。聖霊は聖書の全ての個所を理解する為の最大の鍵です。イエスの教えのたとえ話は、人間的な聖書の研究に頼りすぎず、聖霊に頼る必要があります。既に私たちのうちに留まっている注ぎの油が私たちに真理を教えるのです。

祈りとは 5に続きます。

祈りとは 3

 マタイ 6:9「ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ...」

 当時、神に対して「父」と呼ぶユダヤ人はいませんでした。彼らにとってはそのように考える事もできませんでした。何故なら、神を「父」として見ていなかったからです。律法の下にいる彼らにとって、神はいつも恐ろしい存在でした。ですから祈りは、祭司が代表として行った仕事であって、少しのミスも許されない完璧な儀式でもあったのです。そういうわけで、彼らにとって神を「父」とする表現は神に対する冒涜というくらい不適切な呼び方だったでしょう。

  言うまでもありませんが、誰でも口先だけなら「アバ、父よ」と発言する事はできます。イエスはここで口先だけでも良いからそのように言いなさいと教えていたわけでもありません。口先だけの偽善者の祈りであって良いはずがありません。真理によれば、聖霊無しには誰も「アバ、父よ」と呼ぶ事ができません。リップサービスではなく、本当に心から「アバ、父よ」と言いなさいと教えたのです(ローマ 8:15)。つまり、イエスは当時のユダヤ人にはできない祈りを教えていたのです。彼らにできもしない事を教えていたという事に気づけば、主の祈りでイエスが何を言おうとしたのか見えてきます。聖霊が与えられたのはイエスの十字架の後ですので、イエスが主の祈りをユダヤ人に教えていた時には、彼らにとって不可能な祈りだったのです。

 マタイ 6:10「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように。」

 神の国が来る事と神の御心が地上でもなるように求めなさいとイエスは教えています。「御国が来ますように」の部分もユダヤ人にとってまだ分かりませんでした。これは、単に世の終わりの日が早く来て「万々歳のハッピーエンド」になるようにという、浅はかな願いではありません。御国が来るという意味は、神の国が地上に実現化するようにという期待とその宣言の事です。この実現化は神の子供たちであるクリスチャンが成すべき事であり、これがクリスチャンの地上で生きる目的なのです。当時のユダヤ人は、世の終わりに神ご自身が地上を神の国になさると考えていました。ところが、この地上を治めるのは私たちなのです(詩篇115:16)。

 「御心が天で行われるように、地でも行われますように」の祈りも、当時のユダヤ人は理解できなかったはずです。彼らは全て地上で起こっている事は神がコントロールしていると考えていたからです。この部分は現在のクリスチャンでも同じように考えています。もし神の御心通りに事がなされているのなら、全ての人がイエスを信じて救われているはずです。

 マタイ 6:11「私たちの日ごとの糧を、今日もお与え下さい。」

 「日ごとの糧」は当時のユダヤ人だけでなく、誰でも理解できる箇所だと思います。何故なら、毎日の糧を求めるという肉の欲求は、誰でも知っているからです。「日ごとの糧」は私たちに必要なものなのですが、必要なものは求めなくても良いとイエスは言われます。ここをおろそかにすると主の祈りの本質を見逃してしまいます。

 マタイ 6:12「私たちの負い目をお赦し下さい。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」

 この部分もユダヤ人にとっては理解できた箇所です。彼らは律法主義でしたので、常に罪意識があったからです。しかし、神が私たちを赦されるのは、私たちが私たちに負いめのある人たちをまず赦すからなのでしょうか?それならばどこに恵みによる赦しがあるのでしょうか?この個所が「目には目を、歯には歯を」という律法と同じ視点である事に気づいて下さい。真理によれば、主が最初に私たちの罪を赦して下さったのです。私たちがある条件を満たすと罪が赦されるのではありません。無条件の愛によって、まず主が先に私たちを赦して下さいました。だからといって、他人を赦さないでも良いというわけでもありません。ポイントは人の罪はキリストの十字架によって赦されている(十字架がその象徴ゆえに)というのが真理であり、十字架以前にイエスが教えた主の祈りでは、この部分が律法の視点になっているという所です。

祈りとは 4に続きます。

祈りとは 2

 一部の例(下に解説)を除いて、旧約聖書から祈りを学ぶ必要はありません。恵みの下での祈りは全く新しいものになったので、律法の下での祈りは参考にならないからです。イエスが私たちを宗教的な祈りから解放して下さった事に気づいていますか?旧約の律法の視点からだと人間は取るに足らない存在です。律法の下では、人は汚れた罪人であり、聖なる神に近づく事はできない、価値のない存在という視点なのです。ですから、その視点から私たちが神に祈ろうとすると、どうしても大胆に神の御座に近づく事はできないのです。ちなみに、エリヤの祈りは旧約聖書の中でも例外な祈りの一つです。彼の大胆な祈りは、私たちが参考にすべき祈りです。

 へブル 4:16「ですから私たちは、憐れみを受け、又、恵みを頂いて、折にかなった助けを受ける為に、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 恵みが十字架によって人に完全に知られる前は、人間は誰も神の恵みの御座には近づけないのです。十字架の恵み以外の方法で私たちは神に近づく事は不可能です。

 へブル 10:19「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入る事ができます。」

 イエスキリストの聖なる血によって、つまり、イエスキリストの十字架による贖いによって初めて、私たちは初めて父なる神の聖所へと大胆に入ることが可能なのです。旧約聖書の時代では、祭司しか聖所に入る事ができなかったので、まさに選ばれた人のみが神に祈る事が許されていました。この幕屋の至聖所は地上で作られたものでしたが、祭司は命がけでその任務をこなす程でした。ですからユダヤ人にとって、祈りはミスを許されない聖なる行為であったのです。

 恵みの下では、どのようにして祈るべきでしょうか?ヒントは主の祈りの中にあります。ただし、主の祈りは正しく解釈される必要があります。イエスがどのような意味で主の祈りを用いて私たちに祈り教えていたかを理解しなければ、結局、主の祈りが「祈りの型」として宗教的なものとして誤解されてしまいます。さて、福音書の主の祈りは祈りについて知る事のできる重要な個所である事は間違いありません。そして主の祈りについて一般的な誤解を取り除く鍵となるのが三つあります。

  1. ギリシャ語の「祈り」の意味の理解
  2. イエスが教えていたユダヤ人はまだ律法の下にいたという事実
  3. 主の祈りでイエスが意図していた事
1は聖書全体に関わるのですが、2は福音書に関わるものです。3は2を理解した上で主の祈りを読むと理解できます。それではここからは主の祈りの解説を中心に書きたいと思います。

 マタイ 6:8「ですから、彼らと同じ様にしてはいけません。あなた方の父は、あなた方が求める前から、あなた方に必要なものを知っておられるのです。」

 まず主の祈りの前にイエスは偽善者の祈りについて注意を促しています。彼らの形式的な、宗教的な上辺だけの祈りを真似してはいけないとマタイの6章5節辺りから言っています。言葉をたた繰り返したり、言葉の数だけを増やせば良いという祈り(異邦人の祈り)ではだめなのです。イエスはここで、私たちの父なる神は私たちの必要なものを既に知っておられると言いました。次の聖書の箇所も同じ内容です。

 マタイ 6:31-33「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくて良いのです。これらのものは全て、異邦人が切に求めているものです。あなた方にこれらのもの全てが必要である事は、あなた方の天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられます。」

 イエスは必要なものについて心配して祈る事はないと言っています。神の国とその義をまず第一に求めているなら、それに加えて必要なものはすべて与えられると言っています。実は33節は主の祈りの結論に当たる部分です。主の祈りの中で一番肝心なのは神の国とその義とをまず第一に求める事なのです。主の祈りと神の国とその義を第一に求める事は別々の教えではありません。マタイ6章全体をゆっくり読めば分かります。イエスは主の祈りを通して祈りの模範を示した後、それの解説をしています。そして6章33節が結論なのです。イエスによる主の祈りの解説が理解できないと、主の祈りを単なる祈りの模範としてリピートするという上辺だけの祈りになってしまうのです。

祈りとは 3に続きます。

祈りとは 1

 今日、クリスチャンの祈りほど宗教的な行いとして扱われているものはないくらいです。その根本的な原因は、祈りの定義が聖書からかけ離れてしまったからです。殆どのクリスチャンの祈りは、信仰と関係なく神に何かをお願いするというものになっています。聖書の教えている祈りは、単なる希望に基づくものではありません。又、願っている内容によってはその祈りの意味がないものもあります。簡単な例を一つ挙げると、既に罪による神の怒りと刑罰から救われているクリスチャンが、救いの為に求めても意味がありません。たとえ本人が救いに確信がなかったとしても、イエスを信じている以上、神の怒りから救われているという真理は変わらないのです。

 さて、癒しも救いの一部として十字架の御業によるものです。イエスが鞭でご自分の体に傷を受けたのは私たちの病いが癒される為でした。私たちは主のうち傷によって癒されているのです。ですから、癒して下さるように神にお願いするように祈るのは意味がないのです。何故なら、神は私たちを既に癒されたからです。後はそれを信じて現実化させるだけなのです。そもそも、祈りの定義が「単なる願い」になってしまっているのが誤解いの元ですが、それに追い打ちをかけるものが二つあります。

何か問題があった時に祈る

 もし、あなたの祈りの多くが神に何かお願いしているようなら、それはバランスの崩れた祈りなのです。ギリシャ語によれば「祈り」は「強い懇願」の他にも「決断」や「誓い」という意味があります。問題がある時にだけ祈るのであれば、それはご利益主義です。

不安が祈りの動機になっている

 ペテロが水の上を幾らばかりか歩いて、イエスの所へ行こうとした時、彼は風をみて怖くなったと聖書は書いてあります。それまではイエスを見て歩いていたのに、風という問題を意識した為に不安になったのです。クリスチャンの一般的な祈りも、問題ばかりに意識を向けている為に心配や不安が先行しています。それが祈りの動機になってしまっているのは、聖書の教えと真逆です。聖書では信仰による祈りを強調しています。気づくべき点は、祈りそのものに力があるのではなく、「信仰による祈り」に力があるのです。ヤベツの祈りをすれば自分も祝福されるというのは大きな勘違いです。イエスご自身も、同じ言葉を繰り返すだけの祈りや、言葉数の多い祈りは異邦人がやるものだと言って、宗教的な祈りをしてはいけないと言われました。


定義

 ギリシャ語の「euche」というのが祈りの語源です。これは主に誓いや懇願、決断という意味があります。「pro-seuche」は祈りという名詞であり、「pro-seuchomai」は祈るという動詞で使われています。「pro」は主に方向を示す前置詞です。ですから、「願い・誓い・決断へ向う」というのがギリシャ語の意味する「祈り」です。一般的なクリスチャンの祈りは、神にリクエストするという単なる願いです。このギリシャ語は文脈から、「大胆に願う」という信仰に基づく願いを意味します。律法の下での祈りは大胆な祈り、つまり、信仰の祈りではありません。しかし、恵みの下では「信仰による祈りに力がある」という教えが基本です。

 ところで、語源から見れば分かるように、祈りの対象として通常考えられている「神」がありません。異言による祈りの場合にのみ、「神との会話」としているのは、より正しいのですが、基本的に、ギリシャ語の「祈り」は「神」や「話す」という単語に関連しているわけではないのです。つまり、聖書的な祈りは、必ずしも神に対してするものとは違うのです。そして、先ほども触れましたが、祈りとは単なる呪文や繰り返される一連の言葉などではありません。ですから、神に良い印象を与えるような儀式としてとして祈るのは、旧約聖書の律法の下ではそう考えられていても仕方のない事でしたが、恵みの下では不信仰と見なされるのです。

 マタイ 6:7-8「また、祈る時、異邦人のように、同じ言葉をただ繰り返してはいけません。彼らは、言葉数が多い事で聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じ様にしてはいけません。あなた方の父は、あなた方が求める前から、あなた方に必要なものを知っておられるのです。」

 イエスは、天の父なる神は私たちがお願いする先に、私たちの必要なものを既に知っておられると言いました。全知全能の神は私たちの心を見る事ができるので、私たちが何かを言う前に既に知っておられるのは当然でしょう。この事から言えるのは、祈りはそもそも「神に聞いてもらう為」ではないという事です。例え、あなたの立派な祈りが周りには謙遜に見え、いかにも聖書知識が豊富なような表現を使って流暢に祈る事ができても、それをもって神に良い印象を与える事はできません。祈りが必ずしも神に向かって話す事ではない理由がここにあります。

 「神との会話」を祈りの定義とするのは、先程も言ったように、御霊による祈りのケースです。御霊による祈りは、それまでユダヤ人が常識だと考えていたもの(儀式的・宗教的なもの)を完全に超越してしまったものです。しかし新約聖書が示している祈りは、従来の型にはまった宗教的な祈りではなく、信仰を前提としたものであり、儀式的な要素が全くないものなのです


祈りとは 
に続きます。

罪の性質 2

 第二コリント 5:17「ですから、誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」 

 新しい霊によって生まれ変わったクリスチャンは、義人であり、聖い者として認められています。それは、私たちから罪が取り除かれたからです。それならば、どうして私たちは罪の性質を持っていると考えるのでしょうか?むしろ、リストの御業の恵みによって、私たちは義人となったと信じるべきなのです。実際、ヨハネはキリストにあるクリスチャンは罪を犯す事がないと教えているです。もちろん、その条件として必要なのが、キリストの思考によって、キリストの義によって歩む事です。

 ローマ 6:14-18「罪があなた方を支配する事はないからです。あなた方は律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんな事はありません。あなた方は知らないのですか。あなた方が自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。神に感謝します。あなた方は、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。」

 殆どのクリスチャンはちょうど未信者と同じように生きていて、罪を犯す者として自身を見ています。それなら次の聖句はどのように捉えるべきでしょうか?

 ローマ 6:6-7「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる為です。死んだ者は、罪から解放されているのです。」 

 私たちの「古い人」はキリストと共に十字架でつけられ死んだ事になっているのです。これは、人の古いアイデンティティーを生み出していた罪が取り除かれた為に、古い人は死んでいる状態であるという真理を表しています。

 コロサイ 3:3「あなた方は既に死んでいて、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」

 クリスチャンは新しい霊として生まれ変わったので、古い人や肉のものに対して死んでいるのです。それゆえに、罪を犯さない状態にあるべきです。ただし、この聖句を信じないのなら、その歩みは未信者と同じになってしまいます。この御言葉を信じる事が、罪に関わる問題から抜け出す第一歩なのです。

 ローマ人 6:4「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中から蘇られたように、私たちも、新しい命に歩む為です。」

 新しい命に歩む事ができるようになったクリスチャンなのですが、それを知らないでいると、罪が取り除かれているにも関わらず、「古い人」のままで生活してしまうでしょう。知らないがゆえに、ある意味、死んでいるべき古い人を復活させてしまうのです。ただし、この真理を知っただけで直ぐに罪を犯さなくなるわけではありません。何故なら、私たちの思考はまだ一新されていない、肉の部分があるからです。ですから、その肉の思いを御言葉の真理に変える必要があります。この成長過程においては失敗する時も多々ありますが、次第に信仰の成長が加速していき、結果として、罪を犯す事もなくなって行きます。これは宗教的な努力によるものではなく、思考の一新によって信じた結果の実なのです。

 私たちの思考というのは経験や学習という過程を経て形成されていきます。一度ある種のパターン思考が確立すると、人はそのように考える傾向を持ちます。確立された考えのまま長い間生活していると、それとは真逆の考え方に切り替える事は難しいものです。いわゆる伝統的な教えなどは、人をある種の考えに強く縛ってしまいます。一度そうなると、人は伝統だからというだけの理由でよく理解しないまま、儀式を熱心に行ったりします。

 マルコ 7:6-8「イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなた方偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている。彼らが私を礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』あなた方は神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」

 一般的に広く教えられている教理や神学の多くは、人による伝統の教えになってしまっています。その全てが間違いではないのですが、その全てにおいて、どこか間違いがあります。それらは主に、古い契約の視点で見ている為に、真理が宗教的な行いと結び付けられて、モーセの律法の教えに戻ってしまっているのです。罪の性質についても同様です。罪を取り除く為にキリストが十字架に掛かって下さったのに、神学は信者でもまだ原罪を持っていると教えるのです。

 「クリスチャンでも原罪はまだある」のが正しい真理なのか、それとも世の罪を取り除いた神の子イエス・キリストの十字架の御業が真理なのか、そこに答えがあります。しかし答えは明白なはずです。イエスの流された血が、全ての罪を取り除く聖なる血である事が理解できれば易しい問題です。それでもまだよく分からないのなら、ローマ書7章の誤解が主な原因となっているからでしょう。ローマ書の7章と8章をしっかりと理解していれば、人は肉の思考だけではなく、霊的思考によっても歩む事が可能であると知る事ができます。そして、私たちは肉の思考によって歩む必要がないのです。

 クリスチャンでも肉的思考になる傾向があるのは、思考そのものは新生の後も変わっていない為です。「原罪」と呼ばれる罪の性質は、十字架の御業によってもう存在しないのですが、肉の思いはまだ知性の中に、そして古い考えはそのまま脳に記憶として残っています。ただし、それらに頼って生きなければならない訳ではありません。確かに、イエスは十字架で肉の思いや古い記憶を罪と一緒に取り除く事はしませんでした。何故なら、各自の肉の思いそのものは、魂の領域にある、思考や知性の問題だからです。神は私たちの霊は再創造されましたが、私たちの魂や知性はそのままにされたのです。何故なら、それらを再創造するという事は、私たちに与えた自由意志を取り去るような事だからです。実は、この自由意志こそが神からの素晴らしい賜物であるのです。

 主の十字架の御業によって、もう私たちは罪から解放されています。ですから、御霊の思考によって歩む事が可能なのです。ただし、御霊の思考になるように常に聖書の言葉を蓄えて信じ続ける必要があります。これは律法の行いとは違い、御言葉による信仰の歩みです。クリスチャンでも、肉の思考のまま長年人生を過ごしてきたなら、諸々の判断が未信者と同じになっていてもおかしくありません。そうではなく、全ての事をイエスの教えに沿って考えるのが御霊の思考による歩み方です。

 イエスと使徒たちによって明らかにされた真理を信じて、それを普段の生活で実践し、新しい人としての視点によって物事を判断していないのなら、あなたの考えは肉の思いなのです。それによって歩んでいるうちは、罪の奴隷に戻ってしまいます。そういう人が、とっさの判断が要求される場面では、つい感情的になって怒ってしまうでしょう。普段の肉の思いの影響による、悪い習慣が出て来るからです。そうではなく、真理の御言葉で全てを判断するようにします。そのような歩みは非常に難しいと思うかもしれませんが、それはイエスの教える新しい考え方に慣れていないからです。クリスチャン成功の秘訣は、考え方を変える(本当の意味での悔い改め)だけで良いのです。

  ローマ 12:2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにする事で、自分を変えて頂きなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

 心の一新する、つまり、思考を新たにするのは、主に私たちです。神が私たちの代わりにやって下さる事ではありません。パウロは思考の一新によって自分を変えなさいと促しています。「変えて頂きなさい」という訳は、神によってそうして頂きなさいのニュアンスがありますが、原文ではそのように書かれていません。思考の一新については、私たちが何かをアクションを起こさなければならないのです。何故なら、クリスチャンにはそれができるからです。罪を犯さずにはいられない未信者と何も変わっていないのなら、どうして私たちは罪と死の原理から解放されていると言えるのでしょうか?イエスを信じていると言っても、生活が何も変わっていないのなら、どこかがおかしいはずです。一般的なキリスト教から見れば、「それはあなたの努力が足りないから」となるかもしれません。しかし、宗教的な律法の行いと信仰の成長は無関係であり、信仰のない行ないによる義はイエスの教えではありません。

 多くのクリスチャンは、そもそも正しい成長の道も知りません。そこへ向かってもいないのです。「原罪」や「罪の性質」などを持っていると思いながら、信仰の成長を考えている時点でアウトです。そうではなく、罪に対して、既にキリストと共に死んでいるという所からクリスチャンの歩みはスタートするのです。

 成長の為にあらゆる慈善を試みるという視点がアウトです。正しい成長とは、御言葉の実践を通して、自然とそのようになるというプロセスであり、御言葉を信じ続けた結果なのです。思考が変わるので、その変化が外に出てくるようになるべきものが私たちの成長なのです。私たちは、外側の言動など目に見える物ばかりに意識を向けていますが、思考が変わらないのなら、その人自身は何も変わっていきません。一時的な慈善パフォーマンスをしても、それは神に栄光を帰すものではなく、はかない人の努力にしか過ぎないのです。

罪の性質 1

 「赦された罪人」 という表現を聞いた事がある人はいると思います。通常この言葉が意味するのは、「クリスチャンは未信者と同じように罪人だけれども、キリストを受け入れているので罪が赦されている」というものです。クリスチャンでも罪を犯してしまう為に、このような表現を言ったのがマルチン・ルターでした。

 私たちは、イエスの十字架の恵みによって、全ての人の罪が赦されている事を知らなければなりません。つまり、この地上で、神によって罪が赦されていない人はいないのです。十字架の御業によって赦された罪は信者の罪だけでなく、未信者を含む全世界の人の罪でした。それともクリスチャンの罪だけが赦されているのでしょうか?もしそうだとすれば、クリスチャンがまだ未信者であった時には赦されていなくて、信じた時に赦されたのでしょうか?実は、人が神を信じた時に、人の罪が赦されたのではありません。

 ローマ 5:8「しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死なれた事によって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

 罪の赦しとは、アダムの違反が赦されているという事です。それは十字架の御業によって取り除かれているのです。自分たちが罪に対して何かをしたからといって赦されるものではありません。罪の告白をしたからとか、罪の悔い改め(考えを変える事)をしたから赦されたのではありません。恵みによって赦されているのです。「罪を悔い改めた場合にのみ、神は赦して下さる」という条件付きの恵みなら、それはもはや恵みではありません。十字架は既に完了した神の御業であり、人の全ての罪は赦されたという宣言が成された事を意味しています。

 さて、イエスを信じた人は義人とされています。信仰によって人は義人となるのですから、主にある私たちはもはや罪人ではないのです。しかし、殆どのクリスチャンは自分を義人だと考えていません。何故なら、自分の犯してしまう罪に目を向けてばかりいるからです。確かに罪を犯す事は決して義ではありません。しかし、未信者とは違ってクリスチャンが罪を犯しても義人と認められるのは、イエスの十字架の御業を信じているからです。それから、同じ罪を犯してしまうケースでもクリスチャンと未信者とでは大きな違いがあります。

 罪が取り除かれたという事で、人は罪と死の原理から解放されています。律法はそれらを解放できす、むしろ人を罪に定め、死をもたらしました。ここで知っておくべき重要な事は罪の影響以外に、あるものが原因となっていてクリスチャンは罪を犯しているという事実です。それは罪の影響と同じ働きを持っている「肉の思考」です。肉の思考とは、五感による物事の認識に基づいて傾倒してしまう考え方です。パウロは肉の思考についてローマ書の7章と8章で詳しく説明しています。

 未信者は、この肉の思考によって物事を判断する事しかできません。信者の場合は選択肢がもう一つあります。キリストの思考、或いは、御霊の思考によって聖書的な考え方で歩める特権を持っています。ただし、この特権を知らない間は未信者と変わらないような生活をするでしょう。クリスチャンが、救われた後でも罪の性質はまだ残っていると間違って教えられている原因は、肉の思考が罪そのものだと混同した為です。罪はイエスの贖いによってのみ取り除かれるので、私たちができる事ではありません。しかし、肉の思いは私たちが捨て去る事ができます。私たちは、神の助けを借りて、自分で思考を一新させる事ができるのです。

 まだ歩みが幼いクリスチャンは、肉の思考によって歩んでいる為に、罪を犯してしまう事も頻繁にあるでしょう。しかし、信仰の成長と共にそれが変わっていきます。パウロでさえ、その成長の過程を通りました。彼は、若い時には完全となる為に走り続けていましたが、晩年の頃(第2テモテを書いた頃)には走り終えたと言っています。

 私たちが正しい成長の道を歩んでいれば、時々失敗する事はあっても、罪の常習犯とはなりません。罪を犯したとしても、「クリスチャン失格」というレッテルを貼られる事はありません。世の人たちはクリスチャンの小さなミスも非難するかもしれません。サタンも責めます。私たちもまた、肉の弱さのゆえに、自分を責めてしまうでしょう。しかし、私たちの神は憐み深く恵み豊かなお方なのです。

罪の性質 2 へ続く

私たちの中におられるキリスト

  コロサイ 1:27「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みの事です。」

 パウロが命をかけて宣べ伝えたかったのは、キリストについての奥義についてでした。それは、キリストが私たちの中におられるという事です。この事をただ知識として漠然と理解するのではなく、キリストが私たちの内におられるからこそ、私たちが圧倒的な勝利者として歩める事を体験する必要があります。この奥義を理解すると、次のような恩恵が期待できます。
  • 平安を保てる
  • 御言葉を信じる事ができる
  • 癒しや奇跡を体験できる
  • 不思議なしるしや霊的体験に振り回されなくなる
  • 御霊の導きが明らかになる
 平安がないのは不安になっているからです。しかし、あなたの中にキリストがおられるという事を本当に理解できるなら、どんな状況でも平安でいられる事が可能です。

 御言葉を信じる事ができるようになるのも、内におられるキリストを知る事によって大胆になれるからです。例え周りの状況は困難であったとしても、イエス様と共にいるという真理によって自分を励ますなら、御言葉の約束を固く信じる事ができるようになります。

 あなたの中におられるキリストを知れば、癒しを始めとするその他の奇跡や祝福が副産物として体験出来ます。これらは追いかけるのではなく、神の子供としての恩恵として私たちに与えられる祝福なのです。ですから、イエスがいつも一緒にいれば、諸々の霊的現象や霊的体験を追いかける必要がないと気づきます。むしろそれらは、イエスから目を離さなければ自然と体験できるものなのです。

 内におられるキリストをもっと知るようになれば、御霊の導きがよりはっきりと分かってきます。例えば、他の人に対してどのようにして助けたらよいか御霊が示して下さったり、聖書の真理についての理解を深める為に、色々な方法で教えて下さったり、時には何が起こるかを前もって示して下さる事もあります。

 私たちは私たちのうちにおられるキリストの重要さに気づいていません。多くのクリスチャンは、そこに意識を向けずに小さな霊的現象ばかりを追いかけています。キリストと共に歩むなら、様々な霊的な事柄(pneumatikOn)を体験する事になります。それらはイエスを証しする為のしるしとして、信者に伴うものなのです。

 さて、キリストが私たちの中におられるというこの奥義をよく理解する為に、とても重要な聖書の箇所があります。

  コロサイ 3:3「あなた方は既に死んでいて、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」

 以前のあなた、イエスを信じる前のあなたは既に死んでいるのです。これを理解できれば、もはや古いあなたは存在せず、キリストがあなたの内に生きる事によって、新しいあなたが共に生きる事ができる、という事が分かってきます。これが新生であり、御霊によって歩むという意味なのです。古い人が生きていた時には肉にしか従う事ができませんでした。クリスチャンでも、自由意志がある為に、肉に従って歩む事は可能です。しかし、そうしてしまうと同じ罪を繰り返す事になり、クリスチャンとしての本来の勝利の生活を体験できなくなります。しかし、私たちクリスチャンには、御霊によって歩むという選択もあるのです。

 イエスの十字架の御業によって人間の罪は処理されました。イエスの十字架を信じる事によって、私たちは新しい霊として生まれ変わり、それゆえに、御霊の思いで歩む事が可能になっているのです。ただし、そうするには、心の一新によって私たちの考え方を変える必要があります。肉的な考え方からキリストの思考に変えるのです。

 肉の思考を変えるには御言葉が必要になります。何故なら、真理の言葉は私たちを肉の思いから自由にする力があるからです。もしあなたが、日常の細部に至る全てにおいて、御霊の思いによって考えて判断するように務めるなら、その習慣が身に付くにつれ、自然と御霊の思いによって歩めるようになるでしょう。最初の頃は、それを訓練として取り組み、習慣化していく必要があります。肉の思考で長く生活して来た人は、御言葉によって全てを判断する生活に対して、多くの葛藤を覚えるかもしれません。根気強く聖書の御言葉に従って歩む事が鍵です。

 詩篇 1:1-3「幸いな事よ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし、昼も夜も、その教えを口ずさむ人。その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなす事は全て栄える。」

献金について 2

 モーセの律法に基づく献金が必要のない理由をもう少し説明したいと思います。古い契約においては、神に対する贈り物は「初穂」であるべきだと定められています。次の箇所は律法の下での教えですが、私たちは更に優れている契約の下にいるので、本当ならば「初物」以上のものであるべきなのです。ここではまず、その理解から入りましょう。

 箴言 3:9「あなたの財産で主をあがめよ。あなたの全ての収穫の初物で。」 

 モーセの律法の下では、主に「初物」を与え、その後に自分たちの生活の必要を考えます。この事からも、元々献げ物をするという行為は信仰を要するものであったのが明白です。当時のイスラエル人は、その信仰の部分が理解できずに、「献げ物をしないと呪われる」という恐れから、儀式だけをするというものとして考えていました。確かに律法の下では、律法によって裁かれる呪い、つまり律法を犯した結果の刑罰がありました。しかし、今は律法による刑罰は全てなくなっています。イエスが十字架に掛かったので、私たちに対する律法が要求する刑罰はないのです。

 新しい契約の下での献金は、各自の信仰基づいて自由に行う事ができ、誰からも咎められるべきではありません。モーセの律法でも、「信仰による献金」として実際には意図されていたのです。ましてや、信仰によって歩む私たちにとっては、それを決して宗教的な死んだ行いに戻すべきではありません。

 さて、教会での献金の状況を考えてみましょう。特別な献金額を掲げて、信徒に献金するように促しているケースをしばしば見かける事があります。極端なケースでは、その目標額に達するまで、必ず皆が献金するようにと促したりします。こうなっては、喜んで与えるという気持ちがなくなり、形だけの、その場を逃げる為に誰かが献金するかもしれません。金銭的援助が必要であるという報告は構いませんが、そこを強調しすぎてしまうと献金が強制的になってしまいます。

 指導者は、信徒が献金を自由に自ら進んで、信仰によってできるように促すべきです。肉の思いで築こうとしている教会は、献金が強制的になっています。例え、教会の発展の目的で献金が集められても、そのお金の管理が各信者の為でないと本末転倒ですし、献金から生じる様々な問題は、大きなつまずきとなります。サタンが頻繁に攻めてくる領域は、教会の金銭の分野です。

 献金は、喜んで与えるべきであるというのがパウロの教えですから、教会の指導者から強制されて献金するのは間違いです。だからといって、常日頃から肉の思いで歩んでいるクリスチャンが、「喜んで与える」という意味を曲解して、喜ぶ気持ちがある時に献金すると言い訳をして、実際には全く献金しないというのも正しくありません。そもそも、献金を単に「やるべきかどうか」という論点で見るべきでもありません。

 恵みの下では、献金をしないでも律法による罰則(古い契約では呪いと呼ばれていた)はありませんが、信仰に基づいて金銭的な援助を教会にしないなら、神からの経済的祝福もありません。

 
第一コリント 9:11「私たちがあなた方に御霊のものを蒔いたのなら、あなた方から物質的なものを刈り取る事は、行き過ぎでしょうか。」 

 教会では、御言葉が霊の糧として私たちに与えられています。ある集会で誰かがメッセージを聞いて、それがその人の霊的成長に役に立ったなら、そのメッセージをした人は報酬を受けるべきです。パウロは、教会自体に捧げる献金という事ではなく、指導者としてそこで奉仕している人たちと、教会に集まる人々の為に捧げるべきものがあると教えたのです。

 注意したいのは、自分が通っている教会がホームチャーチだという事だけで、自動的にそこが献金する場所とは限らない事です。学んでいる人が教えている人から学び、それによって成長しているかどうかが鍵です。頻繁に集っている教会が、あなたの行くべき教会とは限りません。そこでの交わりを通して、あなた自身が成長するかどうかです。それを知らずに献金しようという判断は間違いなのです。お情けで献金するというのも同様に間違いです。それらの行いは宗教的であり、信仰に基づいて喜んで与えるものとは違います。義理の献金は非聖書的です。

 
第一コリント 9:13-14「あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の捧げ物にあずかる事を知らないのですか。同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。」

 
ガラテヤ 6:6「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と、全ての良いものを分かち合いなさい。」

 
第一テモテ 5:17-18「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。御言葉と教えの為に労苦している長老は特にそうです。聖書に「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と言われているからです。」

 御言葉を聞いて、あなたが成長しているかがポイントです。誰でも食事をしたレストランから離れて、別のレストランで勘定を払うような事はしません。食べた所でお金を払います。
しかし多くのクリスチャンは、こうした単純な事に気づいてさえいません。献金が長い間、宗教的な行為として教えられて来たからです。人の伝統の教えは、真理を無にしてしまいます。

 御言葉をきちんと教えていない集会や教会をサポートするのは、意味のない団体を無意味に存続させるようなものです。厳しいかもしれませんが、そもそも聖書的な教会の機能がゼロな所は、教会とは言えないのです。そこに集う事の違和感を我慢しつつ通い続け、短期間は何となく宗教的達成感を果たせたように感じたとしても、結局本人が飢え乾くだけなのです。

 そうした「虚しい教会生活」を続けるのなら、次第に信仰によって歩めなくなるのはむしろ当然でしょう。完全な教会を探すようにと言っている訳ではありません。今はまだ、完全に成長した信徒の集会が存在しないのも事実です。しかし少なくとも、自分のうちに違和感を感じている教会に通い続け、献金をしてしまう事は問題でしょう。

 
第一コリント 9: 7「はたして、自分の費用で兵役に服す人がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない人がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない人がいるでしょうか。」

 パウロはコリントの信者たちに負担をかけたくないと思って、彼らから受け取るはず「福音の働きから生活の支え」をあえて受け取りませんでした。彼ら
(コリントの人)が肉に属する人たちで、幼かったからです。彼らに「献金の負担」をかけなかった事をパウロは彼の「不正」だったとして後で皮肉を言っています。(第二コリント 12:13)

 キリストの体として、私たちはお金が必要な兄弟姉妹を支える目的で、献金をします。そして、御言葉を教えているリーダーのサポートも含まれます。従って、間違った教えをしている牧師や教師がいる教会に献金捧げるべきではありません。信徒を御言葉で育てるという役目は彼らの奉仕であり、それが教会で集まる第一の目的です。正しく教えている教会に移らずに、そこに留まっている事は、神の御心ではありません。そこで間違った献金をする事も、あなたの金銭管理に関わる大きな問題となります。

献金について 1

 金銭的なトラブルは、教会に大きなダメージを与え、未信者にも誤解を与えますので、私たちはしっかり聖書が何を言っているか理解する必要があります。新しい契約の下では、什一献金は決して強制されません。又、様々な名目の献金なども、必要ないのです。お金を中心にして、教会活動をするなら、集まる信者の成長に目を向けられないでしょう。信者の献金に依存し過ぎている場合、あらゆる教会の活動の動機が献金に基づくようになりがちです。

 ルカ 16:9-11「私はあなた方に言います。不正の富で、自分の為に友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなった時、彼らがあなた方を永遠の住まいに迎えてくれます。最も小さな事に忠実な人は、大きな事にも忠実であり、最も小さな事に不忠実な人は、大きな事にも不忠実です。ですから、あなた方が不正の富に忠実でなければ、誰があなた方に、まことの富を任せるでしょうか。」 イエスによれば、最も小さな事に不忠実な人は、大きな事にも不忠実だというのです。お金の管理は、最も小さな事だとし、当然それを管理しているべきだと神は要求しておられるのです。そうでないならば、霊的な、より責任重大なものは任せられないと教えているのです。この箇所から、お金を管理する事は、神が私たちクリスチャンに望んでいる事である事が分かります。地上を治める神の子であるならば、世を代表する富を上手に管理する必要があるのです。

 いわゆる「献金」もクリスチャンが行う、金銭的管理の一つですが、私たちが理解しなければいけない所は、新しい契約の下での献金が何かというものです。恵みの下にいる事を忘れて、モーセの律法に基づく献金にこだわる必要はありません。献金をすれば祝福される、という事ではないのです。献金と癒しを結びつけてしまったメッセージや、献金を強制させる事もできません。

 新しい契約の下での経済的な祝福は、信仰に基づいて喜んで与える者が受け取る事になっています。そして、癒しなど十字架での御業で既に完了している祝福に関しては、献金との関係が一切ありません。私たちが信仰によって献金をしても、肉体の癒しとは関係ありません。癒しが約束されているのは、キリストの打ち傷という贖いのわざによってなのです。献金する事で癒やされるなら、イエスの体に受けた傷は何の意味があるのでしょう。献金によって神から祝福を受ける事があるとすれば、それは経済的祝福なのです。

 ルカ 6:38「与えなさい。そうすれば、あなた方も与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなた方が量るその秤で、あなた方も量り返してもらえるからです。」

 什一献金についての教えで、よく引用されるマラキ書の3章は、モーセの律法に基づくものなのであって、新しい契約の中に入った私たちに対しては、何の効力のないものになっています。モーセの律法がイエスによって成就された今、再びモーセの律法に基づく献金のやり方に戻る必要はありません。古い契約は、新しい人を着た私たちにとっては、古く廃れたものなのです。従って、マラキ書3章の聖句を土台にして献金をするなら、私たちは古い契約に戻っているのです。

 第二コリント 9:5-7「そこで私は、兄弟たちに頼んで先にそちらに行ってもらい、あなたがたが以前に約束していた祝福の贈り物を、あらかじめ用意しておいてもらう事が必要だと思いました。惜しみながらするのではなく、祝福の贈り物として用意してもらう為です。私が伝えたい事は、こうです。僅かだけ蒔く者は僅かだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい。神は、喜んで与える人を愛して下さるのです。」

 パウロが言う献金は、信仰に基づいた行いを強調しています。「強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい」と言っています。私たちも強いられてではなく、喜んで与える者となるべきです。何故なら、神は「私が好むのは、憐れみであって、いけにえではない」と書いてあるように、私たちの行う儀式を見るのではなく、私たちの心を見るからです。ですから献金をするという行為そのものに力があるのではなく、私たちの信仰による行いを神は喜び、それを見て私たちを祝福されるのです。逆に言えば、信仰のない献金は意味がありません。例え、周りの人には良いように見えても、信仰が伴っていなければ、その人間的な献金は死んだ行いなのです。

 信仰を知らなかった旧約時代の人たちは、儀式的に献金をしていたに過ぎません。律法の本質をよく理解していなかった為に、全ての良い行いが上辺だけの宗教になってしまったのです。イエスはその束縛から人間を解放して下さり、自由に喜んで与える者になるようにして下さいました。イエスの教える律法は完全で自由な律法です。それは愛に基づく教えであり、献金も愛に基づくのです。

  献金が人を愛するという動機で行われない場合、それは利己的なものになります。確かに、信仰によって献金を捧げる人は、神からの経済的祝福が得られます。しかし、お金で富を買うという目的で献金をしようと考えるなら、献金をする真の目的を見失い、貪欲な動機に基づくものになってしまいます。ですから私たしは、動機を愛に置きましょう。私たちが経済的に豊かになるのは、私たち自身が贅沢に暮らす為ではありません。肉の思いで判断すると世の富を追う事になってしまいます。しかし、御霊の思いによって歩むべき私たちは、自分たちが経済的に祝福された事を通して、他の人を助ける事を考えましょう。ですから、献金により経済的に豊かになる必要があるとすれば、それはお金を必要な人に分け与える為なのです。これが大人の考え方であり、受けるよりも与える方が偉大であるという意味なのです。

献金について 2に続きます。

霊的成長とは

 霊的成長とは、私たちの霊が成長する事ではありません。何故なら、クリスチャンの生まれ変わった霊は、既に新しく創造されていて完全だからです。「霊的成長」とは、私たちが肉的ではなく、より霊的になって歩む事を指します。

 クリスチャンの成長に欠かせないのが御言葉です。

マルコ 4:26-29「またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしている内に種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。実が熟すと、直ぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」

 イエスは、「御言葉の種をまく」という表現を使って、それが私たちの心に植えられる事が神の国のようだと教えています。ちょうど、蒔かれた種がその実を直ぐに出す事がないように、御国の表れや御言葉の真理は、聞いた人が直ぐに理解して信じる事ができるわけではありません。

 真理の御言葉を聞いたり、読んだりするのが最初のステップです。しかし、その時はまだ私たちの頭の中にあり、それが心の中に植えつけられるまでには時間が掛かります。聞いた御言葉を何度も口ずさんで、思考の一新によって自分自身を変える必要があります。そして、この思考の一新はプロセスなので、時間が掛かり、忍耐を必要とします。何も変わっていないからと不安になるのではなく、御言葉の種が成長していると信じなければなりません。目に見える環境と現実に圧倒されて、聖書の御言葉を打ち消してしまうような、否定的な言葉を口に出してしまうと、その御言葉の種の成長が遅くなってしまいます。

 多くのクリスチャンは、人間的な努力によって自分の霊的成長に励んでいます。しかし、霊的成長に必要なのは神の言葉です。御言葉に力がある事を信じ、それを種として私たちの心に植える事が、霊的成長の秘訣なのです。

詩篇 1:2-3「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなす事は全て栄える。」

 常に御言葉を口ずさむ人は、流れのほとりに植えられた木と同じで、成長に欠かせない水をいつでも補給しています。もし、あなたが毎日御言葉を口ずさむなら、水を供給して下さる聖霊はあなたの成長を助けて下さいます。クリスチャンの成長に欠かせないのは、御言葉、成長を助けて下さる聖霊、良い地になっている私たちの心です。この神の法則に沿ってでなければ誰も成長する事はありません。

 私たちの唯一の努力は、心に中に植えた種を保ち続ける事です。そうすれば、必ず実を結ぶ時期が来ます。自然の作物は、そうやって種から始まり、それが成長し、そして実を結びます。霊的な成長も同じです。

 へブル 11:6「信仰がなければ、神に喜ばれる事はできません。神に近づく者は、神がおられる事と、神がご自分を求める者には報いて下さる方である事を、信じなければならないのです。」

 種を蒔いたからといって、それが成長するまでの時間を無視して、すぐに収穫を期待する人はいません。ところが、クリスチャンは祈っても聞かれないと、簡単に諦めてしまいます。御言葉を思い巡らしたり、口ずさんだりして、心の中に植えられた御言葉の種をしっかりと守る必要があります。これは思考の一新の事であり、これが霊的な成長に必要な事なのです。

全てはあなたの内にある

 どんな祝福であっても、あなたは神に祝福して下さいと乞う必要はありません。これは真理です。何故なら、神はキリストにあって、天上にある全ての霊的祝福をもって私たちを祝福して下さったからです。

 こう聞いて、それはあり得ないと思う人もいるでしょう。ある人は医者の診断結果から何かの病気を持っていると言われていて、癒しが必要な人もいるかもしれません。しかし、目に見えている現状が何であっても、神は既に、私たちに必要なものを与えておられるのです。

 第二ペテロ 1:3「私たちをご自身の栄光と栄誉によって召して下さった神を、私たちが知った事により、主イエスの、神としての御力は、命と敬虔をもたらす全てのものを、私たちに与えました。」

 私たちに欠けているものがあるとすれば、それは正しい聖書の理解に基づく、思考の一新です。究極的に言えば、全ての霊的知識も私たちの中にあります。しかし、私たちの思考がそれに気づいていない事が問題です。その理由は、私たちの知性は新生の後も、殆ど変わっていないからです。

 さて、殆どのクリスチャンは、神には何でもできる力があると信じています。ところが多くの人は、神が既に私たちを祝福した事に気づいていません。私たちは、必死に神にお願いしてリバイバルが起こるように、癒しが起こるように祈ったり、或いは、経済的な祝福を与えて下さるように祈ります。聖会という名の集会を片っ端から参加し、どうにかして神から祝福を受けようとしています。

 
エペソ 1:3「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にある全ての霊的祝福をもって私たちを祝福して下さいました。」

 私たちは、既に霊的祝福を受けています。これは、霊的な現実においては、全ての霊的祝福を受けているという事です。従って、私たちのすべき事は、それらが目に見える現実においても、現れるようにする事です。御心なら癒して下さいという「希望の祈り」ではなく、「キリストのうち傷によって癒されている」と信仰を持って宣言し、大胆に求めるべきなのです。今から勝利を得ようとするのではなく、既に勝利を得ているという立場から宣言する事が、本来のクリスチャンの祈りなのです。

 癒される為に祈るという視点と、既に癒されているという視点で告白する事には大きな違いがあります。イエスが癒して下さったという視点から祈っている人は、
イエスに信頼を置き、癒されたという聖書の約束に信頼を置いているので、その約束を現実化させようと、諦めずに信じ続ける事ができます。運が良ければ神に癒してもらおうとするのではなく、既に癒されたという約束を宣言し、現実化させる為の信仰が鍵なのです。その他の神からの約束も同様です。経済的な祝福でも、平安や喜びなども既に与えられています。それが分かるなら、周りの環境や他の人の言葉などに影響されることなく、常に平安を保てるでしょう。

 イエスは、「神の国は、あなた方のただ中にあるのです」と言われた事を思い出して下さい。神の国とは、神の御心が完全に動いており、神の力によって統治されています。そこでは悪の働きがなく、病気もありません。神の国が私たちの内にあるなら、そこには、神の御心も御力もあるのです。

 
第一コリント 4:20「神の国は、言葉ではなく力にあるのです。」

 御国の王であるイエスは、神の右の座に着座されているのと同時に、聖霊を通して私たちの内におられます。イエスが私たちの内におられるなら、全ての権威も私たちの内にあるのです。聖霊も私たちの内におられるので、御霊の実も私たちの内にあります。実を結ぶようにせっせと宗教的に頑張る必要はありません。枝は木につながっているだけで、実を自然に結ぶようになるのと同じように、私たちもイエスとイエスの言葉に留まる、
イエスの教えに従うだけで良いのです。

 全ての霊的祝福、御霊の実、恵みの現れ(御霊の賜物)、神の力、神の国も既に私たちの内にあります。何故なら、イエスご自身が私たちの内におられるからです。しかし、私たちが神に信頼しないのであれば、それらを内に持っているだけで、その恩恵を体験できないのです。多くの人は、自分で信じる事をせずに、ただ神が手を伸ばしてくれるのを期待しているのですが、そのようなケースは稀です。しかし神は、私たちの信仰によって祝福を現実化させる法則を定められたのです。この信仰の法則によって私たちが歩む事は、神の御心なのです。

御霊の実について

 御霊の実(愛、喜び、平安、寛容(忍耐)、親切、善意、誠実、柔和、自制)とは、神の性質そのものであり、神のアイデンティティーを示しています。ですから、必ずしも良い行いが御霊の実とはなりません。何故なら、良い行いとアイデンティティーは必ずしも一致しない事もあるからです。御霊の実の中でも、愛は最も重要で、その他の実の土台になっています。何故なら、愛から喜び、平安、寛容(忍耐)、親切、善意、誠実、柔和、自制が出てくるからです。

 愛によって働く信仰だけが大事(力あるもの)であるとパウロは言いました。つまり、信仰による行いは、愛という御霊の実が動機になっている事が大事だと言ったのです。動機が不純な行いは、その行いが良いものであっても、愛ではありません。多くのクリスチャンが御霊の実を結ぶ為の努力をしていますが、その殆どは律法主義から考えています。御霊の実を結ぶために慈善を行うのではなく、御霊の実があるからこそ、自然とそれが行いに出るのが本当の実なのです。或いは、信仰によって働く行いならば、その行いは神のアイデンティティーが自然と外に現れるもので、肉の努力による行いとは違います。御霊の実は神の性質であるので、私たちの新しい性質の事でもあり、それに基づいた良い行いによって現されるものなのです。ですから、一般には、キリストにあって自分が何者であるかを理解していない人は、正しく御霊の実を現す事ができないか、もしくは、ひたすら困っている人を助ける事ばかりを考えて、無心で行動している人だけが、御霊の実を現す事が可能なのです。これら以外の良い行いは、不純な動機によるもので、そこには御霊の実がありません。

 
マタイによる福音書 7:16「あなた方は彼らを実によって見分ける事になります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。」

 御霊の実はその人のアイデンティティーそのものです。ですから、ぶどうの実がぶどうの木のアイデンティティーのように、実を見ればその人がどういう人かすぐ分かるのです。人の内側にあるものがその人の実として外に現れるのですから、実はその人がどういう人かを示すのです。一時的に、その人の本心とは異なる行いを現す事は可能ですが、人は自分自身をその言動によって現してしまうものなのです。ですから、人のアイデンティティーを現す実を見れば、その人が良いか悪いか判断できるとイエスは教えられたのです。

 私たちのアイデンティティーは内に住まわれるイエスがその要の石です。ですから、人が純粋な動機に基づく私たちの信仰に基づく行いを見た時には、私たちの立派な行いや宗教心などに目を留める事はなく、むしろイエス・キリストが私たちと共におられるという事を見るでしょう。もちろん、この目標に向かって私たちが成長していなければ、この聖書の約束は単なる理想でしかありません。イエスご自身を外に現す事が私たちのするべき事なのです。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師などのタイトルにふさわしい歩みを人々にアピールするのではありません。イエスが共におられる事を私たちは現すのであって、それが世の光としての私たちの役割なのです。

 ポイントは、私たち自身のアイデンティティーを意識した歩みの中から、御霊の実を結ぼうとする事です。それが自然と外に現れるような歩みが大切なのです。木の実は枝からなりますが、枝自体は自分で努力して実を結ぶ事はしません。枝は単にその木に繋がっているだけです。私たちはイエスというぶどうの木に、その枝としてしっかりと繋がっていれば良いのです。その意味は、イエスとイエスの言葉に繋がっているという事であり、イエスの教えに従って歩むという事です。それを知らずに、御霊の実を結ぼうと努力するなら、あなた自身の肉が次第に出てしまうでしょう。

自由意志と信仰

 ある人々は言います。「人の信仰ではなく、神の信仰によって奇跡は起こるのだ。」これは、人間の信仰と神の信仰を比較させているもので、何となく正しいように聞こえますが、この種の考えは「神の信仰を得る」事が焦点になりがちです。そこから、誤解を招くものがありますが、その一つが、「自分に信仰がないのは、神の信仰を持ってないからだ」という考えであり、そこから、「自分に信仰がないのは、神が私に神の信仰を与えていないからだ」となるものです。

 神から神の信仰をもらえれば、それによって信じる事ができるという考えは聖書的でしょうか?もしそうだとすると、自分は神の信仰を持っていないと考える人たちは、自然とその為に祈り求めるようになるでしょう。同時に、何故自分には神の信仰を与えられていないのかという疑問も生じてきます。与えられていないのは、必死に求めていないからだと思い、ますます神の信仰を求めて祈る人もいるでしょう。

 「神から信仰を与えられたので、自分は信じる事ができる。私が信じる事ができるのは、神が私に信じる力を与えて下さった」などの説教を聞くと、多くの人は同意するかもしれません。しかし、この表現にはある誤解がされがちなものが含まれています。何故なら、神が私たちに信仰を促す事はあっても、最終的に信じるのは私たちの決意にかかっているからです。もし、神が私たちに「神の信仰」という信じる力を与えて下さり、それだけで、私たちが神を信じる事になったのなら、私たちは信じるようにさせられたという事になってしまいます。つまり、私たちの意思に関わりなく、信じる事のできる力が与えられるという見方です。

 少し言い方を変えましょう。仮に、「信じさせて下さい!」という私たちの祈りに神が答えて下さるとすると、それが信仰を得る秘訣になります。そうすると、信仰を獲得する前に、信仰を求める祈りが先に来る事になります。しかしそうなると、その祈りなしでは何も信じる事はできないという事になるのでしょうか?

 未信者のケースでこれを考えてみましょう。彼らはそもそも神に祈り求める事をしません。それなのに、未信者が神を信じる事ができないのは、神から信仰を与えられていないからだとしまうとややこしくなります。未信者に神の信仰が与えられるのは、彼らが信じる前に彼らが信仰を祈り求めたからなのか、という事になります。私たちは、その疑問の迷宮に入らないようにしたいものです。

 私たちはどのようにしてイエス・キリストを信じるようになったのか思い出してみて下さい。信仰は非常に単純な事です。神から信仰を与えられたから信じる事ができるようになったというよりも、私たちが私たちに与えられている自由意志によって最終的に決断した(信じた)というのが大部分なのです。神が私たちの自由意志に反して、何かをなさる事はありません。ただし神は、私たちが信じる事ができるように、様々な方法で助けて下さいます。その第一の方法が、御言葉です。

 エペソ 2:8「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。」

この聖句中の「それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です」という文の主語である代名詞、「それは」が「信仰」を指していると勘違いしてしまうと、救われる際にイエスを信じる事ができたのは、神がその信仰を与えて下さったからという解釈になりかねません。正しくは、恵みが神からの賜物なのです。

 信仰という語が掴みどころのない概念として捉えられている為に、このような解釈が生じてしまうのですが、まず私たちが知っておかなければいけないのは、信じるのは他でもない私たちであるという事です。「誰が何を信じるか」をよく理解していないと、「信じる事のできる能力が神から与えられるなければならない」などの教えを聞いた時に、そういった可能性もあるのではないかと考えてしまうでしょう。そうなれば、信仰についての真理が分からなくなってしまいます。主を信じるというのは、神の恵みに対する私たちの正しい応答です。主が私たちに期待しているのは私たちが自由に主を信じ、主の御言葉を信じるという事なのです。信仰がなくては神に喜ばれませんとパウロは言っています。もし、神が私たちを信じるように操作しておられるのなら、それを神が喜ぶでしょうか?信仰というのは、私たちの自由意思で選択する行為なのです。ですから、神様が私たちに信じる事ができる力を与えて下さるという考えは的外れなのです。

 私たちに与えられているのはむしろ自由意志です。それがあるからこそ、人は御言葉を聞いて信じたり、或いは、御言葉を聞いても疑ったり、拒んだりしたりするのです。神の力が私たちに信じさせているのではないのです。信じるとは、神によって信じるように促され、私たちが与えられている自由意思によって決断する事なのです。ローマ 12:3 では、恵みの現れ(御霊の賜物)を通して各自がキリストの体として、信仰に応じてその役割を果たすという事が書かれていますが、この場合でも、信仰を働かすのは自由意志を持つ私たちなのです。神が与えるのは、そうした恵みの現れ(御霊の賜物)に対する信仰でありますが、それでも、私たちが拒否する事も可能なのです。

 主との交わりが愛に基づいているのは、自由意志によって私たちが主を信じるからなのです。私たちがロボットのように扱われているのなら、どうしてそのような関係が愛と言えるのでしょう。親と子の関係を見ればすぐに理解できるはずです。親は子を自由にしてやりたいと望み、子が自由に生きて行くのを喜ぶのです。どの親でも、ただ言う事を言われて従うだけの子供ではなく、自ら判断して良い行いをするのを見る時に、その子供を誇らしく思う事でしょう。父なる神もそのように私たちを見ておられるのです。

「悔い改め」の定義 2

罪の告白と救い

 ある人々は「神様、ごめんなさい。私の罪を赦して下さい」という罪の告白が救いの必須条件だと考えています。しかし、人は「救われる為に」自分の犯した罪を反省しなければいけないという事ではありません。反省は良い事であって、誰もが反省するのですが、反省に罪を取り除く力があるのではなく、イエスの贖いによる罪の赦しに力があります。もう一度言いますが、私たちが反省した後で神が私たちを赦すのではなく、まだ私たちが罪人であった時にイエスは死んで下さったのです。私たちのするべき事は、神の赦しを信じて受け取る事です。

 第一ヨハネ 4:9「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私達に命を得させて下さいました。それによって神の愛が私達に示されたのです。」

 人の罪が既に十字架によって赦されているという真理は変わりません。そのイエスの恵みを信じるだけで救われるのです。ですから未信者の罪を指摘して、犯した罪を深く反省するように強いるべきではありません。通常の人は良心が正しく機能しているので、自然と反省する気持ちを持っています。罪を指摘するのはモーセの律法の役目です。イエスはいつも「私はあなたを罪に定めない」と言われ、まず愛を示し、その愛によって彼らが考えを変える事(悔い改める事)を期待しました。ですから、大事なのは未信者に恵みの福音を最初に伝える事であり、神の恵みを信じるように促す事です。十字架の恵みを受け取らないような人には、キリストを拒む事がその人の罪となって、それに対する裁きがある事を教えたら良いのです。

 従って、未信者の場合は、イエスの十字架の業を受け入れるように考えを変える事を促し、その後で罪を犯さないように考えを変える方法(思考の一新)を教えるのが良いでしょう。もう一度言いますが、反省自体は悪くありません。彼らも、自分たちの犯した罪が赦されているという真理を聞けば、自分たちのした悪さに気づくので、自然と反省する気持ちも出てきます。確かなのは、「反省しないと神はあなたの罪を赦しませんよ」という教えは間違っているという事です。イエスの所へ行く前に、人はどうして罪から離れるようになるのでしょう?自分で反省して罪から離れるようになるのなら、イエスによる救いはもう必要ない事になります。しかし、聖書ではイエスが罪を負われたので私たちが罪から離れる事ができると教えています。

 第一ペテロ 2:24「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義の為に生きる為。その打ち傷のゆえに、あなた方は癒やされた。」

未信者に対して

 私たちは、未信者に対して、彼らの罪についてその時点でとやかく言うべきではありません。それはサタンがする事なのです。しかし、イエスは罪人を招いて「罪について彼らの考えを変えさせる」為に来られたのです。未信者に罪を意識させて反省させる為ではなく、全ての罪が赦されたという恵みを教えて救いに至らせ、神の恵みの素晴らしさを教える為にイエスは福音を伝えたのです。もちろん、救われた人たちは、その恵みの故に、今までの間違った人生の歩み方を反省するでしょう。神の恵みを知った結果として反省するのであって、罪を指摘されて反省する事ではありません。その意味を込めてイエスは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われたのです。「罪深い人たち。犯した罪について深く反省しなさい」と言うのなら、それは「御国が近づいた」ではなく「モーセの律法が近づいた」になってしまいます。

 もし、御国の福音が「あなたの犯した罪について反省しなさい」という教えであったなら、それはモーセの律法の教えと同じになります。モーセの律法はいかに人が罪だらけなのかを指摘します。しかしイエスは、人の罪を指摘する為に来たのではなく、罪人を招く為に来られました。

反省の悪循環

 クリスチャンは良心が清められているので、善悪の判断が未信者よりも敏感です。それに加えて、「悔い改める=反省する」という定義の誤解から、「常に反省しましょう(悔い改めましょう)」という宗教的な文化が教会の中に長くあったので、多くのクリスチャンは必要以上に反省ばかりしています。しかし、こうした律法的な反省によって私たちが罪から離れる事はありません。反省しても、また同じ罪を犯してしまい、さらに深い罪意識の中に入って行きます。そして、その罪意識から逃れる為に、さらに「反省の悔い改め」をするのですが、また失敗してしまいます。こうして罪悪感の中に深く入ると、より強い束縛の中に入ります。罪意識は私たちと神の距離を広げてしまい、神と顔を合わせられないと思うようになります。しかしイエスは、その悪循環を十字架で断ち切ったのです。

 優先すべきものは常にイエスの十字架の真理です。真の反省はその後になります。神の恵みに触れる前に罪を反省しようとするなら、自分で自分の罪を処理してしまう考えに捕らわれてしまいます。私たちはアダムが隠れたように、自分の罪を意識して神の前に行く事をためらう必要はありません。そのようなためらいは、御言葉を読む事や祈りを止めさせたり、兄弟姉妹と集う事に対しても足を遠ざけてしまいます。他のクリスチャンから励ましを受けないで一人で閉じこもっていると、また罪を犯すという悪循環に入るでしょう。しかし、私たちは罪を犯してしまった時にこそ、大胆に神の御前に出て罪の赦しを宣言するのです。神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私たちを清めて下さいます。これは新約聖書で明らかにされた重要な奥義の一つです。

反省のタイミング

 自分の犯した罪を反省するのは、むしろ、イエスの恵みや愛を知った後や、救われた後の方がよりスムーズに出来るでしょう。アガペーの愛の促しは人を自然と悔い改め(思考の一新)に導く事ができます。イエスが既に罪を赦して下さったという真理にあなたの考えを変え、「主が私を愛して赦して下さったのだから、このままではいけないな。よし、頑張ろう!」と言って反省をするなら、それにはとても力があります。しかし、キリストの十字架を意識せず、罪意識から反省するなら、それは自分で自分の負いきれない重荷を処分するようなもの(宗教)です。しかし、イエスが私たちの重荷を負ってくれたのです。

 ローマ 5:8「しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死なれた事によって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

 あなたが反省したので神があなたの罪を赦して下さったのではなく、あなたがまだ罪人であった時に、あなたの罪を赦す為にイエスが死んで下さったのです。これが神の愛です。

「悔い改め」の定義 1

 「悔い改める」という言葉を聞いた時に、ほぼ全てのクリスチャンは頭の中で「罪から悔い改める」という意味で理解しています。しかし、「悔い改め」という語は、必ず「罪」とは関わってはいません。一般的には、罪からの悔い改めを意識している為に、「悔い改め」という語が「罪を犯した事に対して深く反省する」、「罪を二度と犯さないように心を入れ替える」、「罪から180度背を向けて正しい方向へ向かう」、或いは、「罪を犯さないと誓う」、などといった表現で「悔い改める」を表そうとしますが、「悔い改め」と訳されているギリシャ語は、毎回、罪を取り扱っているわけでもないのです。

定義

 ギリシャ語による「悔い改め」の意味は「考えを変える」です。何について考えを変えるかは文脈上で判断します。罪から考えを変えるという事もできますし、その他のものから考えを変える事も可能です。「悔い改める」のギリシャ語は μετανοω(Metanoo)です。この動詞の語源は「Meta」と「Noeō」です。「Meta」(Strong's G3326)は前置詞で「移行の間に位置する」という意味があり、A地点からBへ移るという「変化・移行」を意味しています。「Noeō」(Strong's G3539)は動詞で、理解するという意味になっています。更にそれの語源は「Nous」(Strong's G3563)や「Noeō」の名詞形で、「考え・思考・理解」という意味があります。これらをまとめると、この動詞には「理解が移行の間に位置する」という意味があり、そこから理解を変える・考えを変えるという意味になります。*「Meta」がしばしば「~の後」と訳されるのは、移行する状態を見ているからです。つまり、ある地点から既に移り変わったので、「後になった」という事です。

 翻訳されたこの語は「悔い改める」となっていますが、一般的にはその定義が殆どの場合「罪から」の部分をくっつけて理解されています。この単語だけを見るなら、「考えを変える」というだけの事であり、「罪から」をくっつける必要がある時、つまり、文脈上でそれが明らかな時に「罪から考えを変える」となるのです。

 ギリシャ語による旧約聖書では、出エジプトの 32:14、ヨエル書 2:13、アモス書 7:3、ヨナ書 3:10には全て「Metanoeō」が使われています。これらの箇所では「悔い改める」の動詞の主語が神となっています。新改訳聖書では、これらの箇所の「Metanoeō」は、本来の「考えを変える」という意味で訳しています。もし、この単語を毎回「罪から悔い改める」という新約聖書で見られる定義にしてしまうなら、「神が罪から悔い改める」という事になってしまいます。

教会での「悔い改め」

 教会では「悔い改める」という語を宗教的なものにしてしまいました。ローマカトリックの影響は大きいでしょう。いわゆる「罪の告白」をしなければ救われないという教えです。実際に、「罪の告白」による悔い改めは「救いの必須条件」だと勘違いしているクリスチャンは大多数だと思います。しかし、ここで多くの人が定義している「罪の告白」は自分の罪を深く反省するという目的などでなされているのであって、それによって救われる事はありません。自己反省によって罪が赦されるという事ではないのですが、そのような考えに陥ったのは、自己反省を偶像の対象にしたからでしょう。しかし、自分で自分の罪を反省したら神がその人の罪を赦すという教えは、聖書のとこにも見当たりません。

 考えればすぐに分かります。まだ十字架にかかる前に、イエスは、「友よ、あなたの罪は赦されました」と言われました(ルカ 5:20)。中風の人の罪が赦されたのは、彼が自分の罪を反省したからでしょうか?この箇所を読んでみると、この中風の人が癒されたのは、彼を運んできた男たちの信仰をイエスが見たからでした。イエスが彼を癒したという事は、彼の罪が赦されたという意味でもあります。人が自分で自分の罪を反省し、罪を二度と犯さないと誓い、仮にその誓いを守ったとしても、それで自分の罪を処理できるのでしょうか?十字架の恵みとは無関係なのでしょうか?イエスの贖いの血は無駄だったのでしょうか?

 罪について反省するという意味で一般的に用いられている表現、「罪から悔い改める」という自己反省を意味するものは、クリスチャンの間で非常に宗教的なものになっています。あたかも謙遜な態度として理解されているのですが、実は全く逆です。それは、イエスの十字架の御業を無視して自分の反省によって罪を処理しようとする行為だからです。イエスの十字架の贖いよりも自己反省の目的の「悔い改め」を上にしているのは謙遜ではなく、究極的には人間のプライドなのです。「十字架の恵みはいりません、私は自分の罪を自分で反省する事によって(悔い改める事によって)処理できます」と言っているようなものです。

 注意したいのは、罪に対して反省する事自体が悪いのではなく、それを救いの必須条件にしてしまう教えや、主の恵みよりも大きなものにしてしまう宗教的な考えです。ギリシャ語の「悔い改める」という行為は「反省する」という意味ではありません。正しい訳は「考えを変える」です。自分の罪を反省しなさいという意味ではなく、イエスの十字架の血による赦しによって罪が既に赦されているので、その約束、或いは、真理に考えを変えなさいと教えているのです。

新約聖書での用例

 マタイの福音書 3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。」

 最初に「悔い改めなさい」と言ったのはバプテスマのヨハネでした。

 マタイの福音書 4:17「この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。」

 イエスはここで、「あなたの犯した罪について深く反省し、二度と罪をしないように誓いなさい」とは言いませんでした。ここも「考えを変えなさい」と単純に考えれば、全てが明確になります。イエスが地上にいた時の教えは主にユダヤ人に向けてなので、いままで聞いてきた「モーセの律法による考え方を変えなさい」とイエスは促しているのです。そうでなければ、恵みに基づく新しい契約を理解する事ができないからです。

 ヨハネの福音書 8:10-11「イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。誰もあなたに裁きを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。誰も。」イエスは言われた。「私もあなたに裁きを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」 

 この女は現行犯で捕まえられたのにも関わらず、イエスは彼女の罪について責める事はなさいませんでした。まずイエスは、女の罪を赦されました。その後に罪を犯さないようにと指示しました。これが恵みです。クリスチャンがしている「悔い改め=反省」は、単なる宗教的な行為であって、イエスの赦しを見る前に自分の犯した罪を反省し、それによって赦して頂こうとするものです。人が罪を犯してしまった時に必要なのは、イエスが私たちの罪を赦して下さったという神の恵みです。そして、その真理に私たちの考えを変える(悔い改める)必要があるのです。

イエスに目を向ける

 考えを変える事(聖書的な悔い改め)を実践しないで、罪について深く反省しようとするなら、再び同じ罪を犯してしまうかもしれません。何故なら、自己反省にはあなたを罪から解放する力がないからです。それでもその必要性に迫られるのは、私たちの良心がそれを示し、私たちの肉の思いが罪意識に向けようとするからです。良心は何が罪かを認識します。しかし、ここに私たちの肉の思いが働くと、私たちを罪意識に向けてしまいます。この時に、肉の思いに目を向けず、御言葉の真理に目を向け、御霊の思いで考える事ができれば、罪意識に留まる事はありません。人の良心は良し悪しを判断させる事もできるのですが、良心が働く時に肉の思い(サタンの誘惑)が介入すると、人は罪意識に悩まされる事になります。そこに長く留まると罪意識の束縛の中で苦しい思いをするでしょう。人を罪意識に追いやるのは、サタンの典型的な攻撃であり、私たちの肉の弱さが原因です。

 サタンはあなたの過去の失敗を責めるでしょう。周りの人もあなたの失敗を非難するでしょう。でもイエスの罪の赦しは完全です。何故なら、イエスの血は全ての罪を完全に取り除く事ができる聖なる血だからです。私たちはその真理に目を向けて考えを変えて、感謝するべきなのです。

 よく言われている「罪から180度背を向ける」という表現よりも、もっと具体的に「罪に対する従来の考えを変えて、イエスの赦しに目を向ける」とするべきでしょう。イエスに目を向けるなら、自然に罪から離れていきます。反省によって「罪に背を向ける」ようにしても、目をイエスに向けていないのなら、罪意識から解放される事にはならないですし、いずれまた罪を犯す事になるでしょう。

「悔い改め」の定義 2に続きます。

疑いを克服する力

 誰でも疑いを持つ事はあります。聖書の中の信仰の人たちでさえ疑う事はありました。信仰の父と呼ばれたアブラハムでさえそうでした。疑いは信仰の逆で、不信仰の事です。ギリシャ語で「疑い」の言葉の意味を知ると分かりやすいでしょう。

 マタイ 11:11「まことに、あなた方に言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」

 どういう理由で、バプテスマのヨハネが天の御国で一番小さい者でも彼より偉大なのでしょう。それは恐らく、バプテスマのヨハネが「母の胎内にある時から聖霊に満たされ」ていた事と、「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、整えられた民を主の為に用意する」という、彼の歩むべき道を知らされていた事に関係すると思います。実際に、彼の存在はとてもユニークで、イエスがどなたであるかを最初に知った人でした。

 ヨハネの福音書 1:33-34「私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上に留まるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」

 バプテスマのヨハネは、イエスについて証しする旧約時代の最後の預言者として、生まれながらに自分のやるべき事を知っていた為に、他の人とは違った形でキリストを信じる事ができたと思います。イエスが神の子であるという啓示を与えられ、しかも預言者の中で、唯一救い主を直接見る事ができたという点で、彼は女から生まれた者の中で優れた人でした。

 天の御国においては、一般の信者の方よりも、バプテスマのヨハネの方が一番小さい者となっているのは、彼が特別な啓示を受けた為に、最初から信仰の道を歩むように整えられていたからです。私たちの場合は、目に見えないものを信仰によって受け取らなければなりません。しかしその信仰の歩みは、成長して 30倍、60倍、100倍と豊かな実を結ぶ事になるからです。

 いずれにしても、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」とイエスが言った以上、これは真理である事には間違いありません。ところが、そのバプテスマのヨハネでも疑いを持ってしまいました。彼はヘロデに捕らえられて牢に入れられたのですが、その時、彼は自分の弟子たちをイエスの所に遣わしました。

 マタイ 11:2-3「さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じてイエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」

 主の道を備える為に生まれながらにして自分のするべき事を知っていたヨハネでも、捕まってしまった時には疑いを持ったのです。彼にしてみれば、救い主が来られたのにも関わらず、彼の人生の全てが順調に行ってはいなかったのです。獄中にいて自分の身が危険にさらされている立場からすれば、何かがおかしいと感じたのも無理はありません。ついにはイエスが本当に救い主かどうかさえ疑ってしまいました。ヨハネは、自分で「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と大胆に宣言したのにも関わらずです。この事はある重要な意味を持っています。

 つまり、神に特別な召しを受けていても、その人の信仰次第によって、その人生に何か大きな影響を与える事ができるという事です。ある人が「特別な選びの者」であるとしても、失敗するか成功するかは、その人の信仰次第なのです。神が選んだからといって、全てがそのまま自動的に何もかも上手く行くとは限らず、あくまでもその人の信仰が鍵であり、ある意味全ては神次第ではなく、自分たちの信仰次第でもあるのです。

 マタイ 11:4-6「イエスは彼らに答えられた。「あなた方は行って、自分たちが見たり聞いたりしている事をヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちが清められ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。誰でも、私につまずかない者は幸いです。」

 これがイエスのバプテスマのヨハネに対する答えでした。疑いを持ってしまったバプテスマのヨハネに対して、「安心しなさい。私が神の子です」などと言って、ご自分がキリストであると言い、彼を安心させるような言葉は言いませんでした。イエスはバプテスマのヨハネの弟子が立ち去った後に、群衆に対してご自分について次のように話されました。

 マタイ 11:7-9「この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなた方は何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。私はあなた方に言います。預言者よりも優れた者を見に行ったのです。」

 預言者よりも優れている者とは、イエスご自身の事です。では何故、このようにバプテスマのヨハネの弟子に、ヨハネにそう伝えるように言わなかったのでしょう?

 イザヤ 35:5-6「その時、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。その時、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。」

この個所はイエスがバプテスマのヨハネの弟子に言った内容(マタイの福音書11:4-6)と同じです。イエスはイザヤ書 35:5-6 を完全に引用したのではなく、その聖句の内容を語られたと見るのがより正確でしょう。この2つの節は「その時」と始まりますが、これはその前の4節を見ればわかります。

 イザヤ 35:4「心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなた方の神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなた方を救われる。」

「その時」とは、「神は来て、あなたがたを救われる」時に他なりません。つまり、イエスが救い主として来る時です。当然ながら、イザヤ書のこれらの節はイエスについての預言です。そして、イエスはこの個所をヨハネに伝えるようにとバプテスマのヨハネの弟子たちに言ったのです。ここから一つ分かる事があります。それは、イエスがバプテスマのヨハネの疑いに対して、イザヤ書から御言葉を使ったという事です。

 イエスは、しるしと不思議な業でもってバプテスマのヨハネを説得する事もできたのですが、あえて御言葉を信じるようにと彼の弟子たちに言ったのです。これは悪魔がイエスを誘惑した時と同じです。サタンも「あなたが神の子なら・・・」と言って誘惑しました。サタンに会う直前にイエスは聖霊を受けました。そして、聖霊が鳩のように下りた時に父なる神から「これは私の愛する子」と宣言されていました。その霊的体験をサタンに言い聞かせる事も可能でした。或いは、偉大な力でその場でサタンをねじ伏せて、ご自分が神の子であると証明できたでしょう。でも主は、あえて書かれた御言葉を使って対処されたのです。

 人間的には、より大きなしるしを見れば、より信じられると考えてしまいがちです。その傾向は確かにあるでしょう。しかし、どんなしるしを体験しても信じない人は信じないのです。パロが心をかたくなにしたように、人は神の御業を見ても「信じない」と自由意思で決断できるのです。何故なら、不思議な業やしるしは人を信じるように促す事は可能ですが、それらは人に信じる力を与える事はできないからです。

 信仰に対するこうした人間的な解釈や考え方は、イエスの弟子たちでも同じでした。「信仰を増してください」と弟子たちが願ったように、多くの人も信じる事ができるように願っているのです。ところが、人が神を信じる事ができる最も効果的な方法は、大きなしるしや不思議な業ではありません。人がイエスを最も効果的に信じる事ができるのは御言葉です。

 ローマ 10:17「ですから、信仰は聞く事から始まります。聞く事は、キリストについての言葉を通して実現するのです。」

 疑いからの解放も真理を知る事によって体験できます。イエスも、バプテスマのヨハネに対して、救い主について預言されているイザヤ書の御言葉を疑う事なく信じなさいと教えられたのです。その聖句はバプテスマのヨハネも知っていたはずです。彼が来たるべき救い主の預言者として使わされていたのですから、その御言葉によって彼は勇気づけられたに違いありません。ペテロも信仰について同じように正しく理解していました。

 第二ペテロ 1:17-19「この方が父なる神から誉れと栄光を受けられた時、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。『これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。』私たちは聖なる山で主と共にいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。また私たちは、さらに確かな預言の御言葉を持っています。夜が明けて、明けの明星があなた方の心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めていると良いのです。」

 「私たちは聖なる山で主イエスと共にいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです」と書いてある通り、ペテロは素晴らしい霊的体験をしました。直接父なる神の声を聞いたのです。ところがペテロは、「また私たちは、さらに確かな預言の御言葉を持っています」と言っています。神の声を直接耳にしたという霊的体験よりも優れているのが「預言の御言葉」であると彼は言うのです。つまり、彼にしてみれば、そのような体験よりも御言葉は更に重要だと言うのです。一般のクリスチャンは大きなしるし、神の超自然的な業を求めがちですが、ペテロのように御言葉の真理を理解する事がより重要だとは思わないでしょう。

 霊的体験が悪いと言っているのではありません。しかし、御言葉の真理はそれよりも優れているのです。体験を重視して聖書を解釈してしまうと、本当に聖書が意味している真理とは違った理解になってしまいます。主観的に御言葉を見てしまうと良くありません。ですから、個人的な体験を御言葉の解釈に利用する時には細心の注意が必要です。個人的体験に価値があるケースは、神がその体験を通して聖書の真理を教えている時です。何か特別な霊的体験をしたからといって、それを基にして聖書を解釈してしまうと、曲解してしまうでしょう。そうではなく、それらの経験から主がどの御言葉の真理を教えているかを知る必要があるのです。

 霊的体験はあくまでも、私たちが真理をよく分かるように主が用いる一つの手段とも言えます。イエスも「たとえ私が信じられなくても、私のわざを信じなさい」と言いました。御言葉の真理をすぐに受け入れる事ができないのなら、不思議なわざやしるしを見て信じるように教えています。不思議な業やしるしは人を信じるように促す事が可能だからです。そうした手段はうまく利用すれば役に立つでしょう。ただし、見ないで信じる者は幸いであり、より多くの祝福を受けるのです。

 疑いを克服する究極的な方法は、御言葉の力に頼るという事です。五感による捉え方でもなく、個人の霊的体験を重視する事でもありません。私たちは、御言葉が他の何よりにも勝って神について教える事ができると悟る必要があります。百人隊長がイエスに言った言葉を思い出して下さい。
 マタイ 8:8-10「しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば私のしもべは癒されます。と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなた方に言います。私はイスラエルの内の誰にも、これほどの信仰を見た事がありません。」
 イエスはこの百人隊長の信仰を見て驚かれ、そして公然とお褒めになりました。彼が、「ただ、お言葉を下さい」と言ったからです。通常だったら「祈って下さい」、「手を置いて癒して下さい」、或いは、マルタのように、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言うでしょう。ところが、百人隊長はイエスの言葉だけで十分だと考えました。実際に、神の言葉には力があります。その言葉によって全てが造られたのです。

 一方で、イエスの弟子の一人であったトマスは、信仰の模範としては失格者でした。彼はイエスが蘇った時でも自分の目で見てイエスの体に触れるまでは信じないと頑固な態度を取っていました。イエスは「見ずに信じる者は幸いです」と言いました。私たちも不思議なしるしや大きな業を見なくても信じるなら、より大きな祝福を受けるのです。つまり、信仰によって歩む度合によって祝福されるのです。神の超自然的な力を否定するわけではありません。ただ、それらを追っかけて各種のセミナーや集会に集うのは、間違った動機によるものです。むしろ、信じる者にしるしが伴うように信仰によって歩むべきなのです。業の結果を見てから信じるよりも、御言葉によって信じる方が遥かに優れているのです。

 イエスがバプテスマのヨハネに慰めの言葉をかけなかったのは、彼を気遣わなかったわけではありませんでした。むしろ、彼にとって最も良い方法で彼が信仰を持てるように励まされたのです。もしかすると、あなたは今信仰を求めて祈っているかもしれません。神に求めれば信仰が増すと考えているかもしれません。主の御業を見てから信じるのも一つの方法です。しかし、信仰を促す力と疑いを克服できる力は御言葉にあるのです。

疑うとは

 「疑い」という意味のギリシャ語が、新約聖書中に3つあります。「Di-stasis」、「Mete-orizo」、そして「Dia-krino」です。「Di-stasis」は「2つのポジションをとる」 というのが直訳です。

 マタイ 14:31「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」 

 「なぜ疑ったのか」の「疑う」の語は、「Di-stasis」です。「2つのポジションをとる」という意味です。ヤコブは二心のある人の事について、次のように言っています。

 ヤコブ 1:6-8「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かを頂けると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道全てにおいて心が定まっていないからです。」

 「Mete-orizo」は新約聖書では一度しか出ていません。「移り変わり、変化」の意味があります。

 ルカ 12:29「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。」 

 私たちは何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、などといった事の判断を色々と考える(気をもむ)べきではない、とイエス様は教えています。ただ主を信じて歩めば、逆に私たちの必要を満たすのです。

 「Dia-krino」は判断するという意味があり、これは「良い意味での疑い」とも言えます。つまり、そのまま鵜呑みにするのではなく、良いものを見極めて判断するという事です。

 第一コリント 11:29「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対する裁きを食べ、また飲む事になるのです。」 

 「わきまえないで」が「Dia-krino」です。ここでは、よく考えずに行動するのではなく、吟味したり、良い判断を下さなければならないという意味が含まれています。

 第一コリント 14:29「預言する者たちも、二人か三人が語り、他の者たちはそれを吟味しなさい。」

 「吟味しなさい」という語は「Dia-krino」であり、ここでも良い意味での「疑い」が使われています。


 ところで、真理に対して「吟味する」というのは悪い意味になります。一度真理が分かった後で疑い、それが本当かどうかを分析して確かめるというのなら、その場合の「Dia-krino」は否定的な吟味になります。物事の真理を確認する為に吟味する事は正しいのですが、真理を知った後に、それを分析する(吟味する)のなら、それはもう「疑い」になるのです。

 信仰とは、何も迷う事もなく、その他の選択肢を考慮しない、はっきりとした決断であるというのが聖書の教えです。この判断には、肉の思いからの情報を参考にするべきではありません。聖書の真理に基づく判断(真理に基づく霊的判断)であるべきです。真理に対しては吟味や分析をしたりして疑わず、ただ素直に信じるだけで良いのです。

キリストへと成長する教え

 エペソ 2:10「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをする為にキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いを予め備えて下さいました。」

 この聖句が私たちクリスチャンにとって、現実的にならない間は、私たちの信仰は机上の空論に過ぎず、伝道も単なる宗教への勧誘にしか見なされないでしょう。私たちが救われて、キリストにあって良い行いをする為に、神の作品として造られたという事が現実にならないのなら、周りの人々は、何故キリストを信じなくてはいけないのか、と思うに違いありません。

 幸いな事に、例え私たちが、今は良い行いに歩めていなくても、そのような備えは私たちの霊のうちにあるのです。しかし、私たちがクリスチャンとして歩むのであれば、その歩の中のどこかで、キリストのように歩み始めなければならない時が来ます。いつまでも、名ばかりのクリスチャンであってはなりません。

 救われても、キリストのように歩めていない、矛盾した私たちがいるのは、私たちがキリストへ向かって成長して行く道を歩んでいないからです。では何故、その成長の道を歩んでいないという事があるのでしょうか?それは、この事に関して、私たちがまだ真剣に考えた事がないからです。私たちの考えの大部分はまだ肉の思いのままであり、それゆえに、肉に属する者、霊的な幼子のままなのです。これが理由で、私たちは予め備えられている良い行いができないのです。

 肉的な考えを捨て、御霊によって歩まなければ、私たちは成長しません。そして、御霊によって歩む事の中心的なものは、思考の一新であり、クリスチャンの成長にとって中心的なものです。思考の一新は真理の言葉によってなされますが、漠然と聖書の学びをしているだけでは、成長しません。私たちが知らなければいけない事は、成長に欠かせない、土台となる教えが聖書にあるという事、そして、その教えに沿った御言葉を心に刻んで、実際に思考を一新させなければ、成長がないという事です。

 例えば、終末論を完全に学んだとしても、キリストの身丈に成長するという事には殆ど繋がりません。その他の神学でも同じです。私たちは、もっと直接成長に関する学びについて知る必要があり、尚且つ、思考を一新させる事が必要なのです。これを知らずにいるなら、この先、私たちは同じ問題の中で歩み続け、知識を幾らか増す事はできても、決してイエスのように歩む事はできないでしょう。

 私たちの目標とするところは、イエスのように歩むという事です。それは、人から認められようとする為の「立派なクリスチャン」をアピールする事ではなく、正しい動機でキリストのわざを現し、世の光として、神の子として地上を治める歩みです。その為には、私たちが成長していかなければなりません。この成長は、漠然と立派なクリスチャンになる事ではなく、イエス・キリストというゴールに向かうものです。

ヨブの忍耐 2

ヨブの忍耐

 それでは何故、ヤコブは「ヨブの忍耐」について言ったのでしょうか?実は、ヤコブはヨブを「忍耐の人」とは言っていません。私たちがそう勘違いしただけです。ヤコブによれば忍耐の模範とすべき人たちは、主の御名によって語った預言者です。ヨブの忍耐は預言者の忍耐とは全く別です。ヤコブは「ヨブの忍耐」という表現を使って皮肉を言っているのです。要するに、「ヨブの忍耐」に対してさえ「主は慈愛に富み、憐われみに満ちておられる方」だと示しているのです。もう一度引用してみます。

 ヤコブ  5:10-11「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐の事を聞いています。また、主が彼になさった事の結末を見たのです。主は慈愛に富み、憐れみに満ちておられる方だという事です。」

「耐え忍んだ人たちは幸いである」のであって、10節によるとそれは過去の預言者たちでした。9節も見てみます。

 ヤコブ 5:9「兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。裁かれない為です。見なさい。裁きの主が、戸口の所に立っておられます。」

 文脈上、ここの「つぶやく」は不信仰から来るものです。そしてヨブも3章から自身に起きた災いについてつぶやき始めました。ところが、そのような「ヨブの忍耐」にも関わらず、私たちの神は愛に満ちておられるのです(10節)。ヤコブは、「神は愛のお方だから忍耐する必要はない」と促してはいません。例え私たちが忍耐を失っても神は変わる事がない、だからこそ逆に「すぐギブアップする必要はない」とヤコブは言いたいのです。考えてみて下さい。主は「ヨブの忍耐」を見てそれを評価したのでしょうか?主はそれを喜んで、ヨブを祝福して全てを
元に戻したのでしょうか?ヨブが祝福されたのは彼の間違いを悔い改めたからです。

 耐え忍んだ人たちは「幸い」なのですが、忍耐を失ったとしても主は憐み深いのです。主の憐みは変わる事がありません。主の恵みはクリスチャン、ノンクリスチャン、信仰がある人も、不信仰な人の上にも豊かなのです。しかし、そうだからと言って、信仰がなくても良いと考えるべきではないでしょう。「ヨブの忍耐」は子供の忍耐(つまり忍耐がない)と同じです。ヨブのように、散々神に文句を言ったとしても、神は愛の方なのです。そして、私たちの子供のような態度も既に赦しておられます。

 しかし、主に信頼せずに祝福を得ようとする、キリストにある幼子は必ずしも「幸い」ではありません。私たちは信仰に歩まずわがままな考えで生活し、その上祝福を受けたいと考えます。そんな中でも神が祝福するとしても、常にそうなるわけではないという事も知るべきです。主は私たちの成長を強く望んでおられ、私たちが信仰によって歩む事を期待しています。私たちは自分たちの生活のスケジュールの枠に神を入れる傾向がありますが、むしろ、私たちの生活を主の計画の中にゆだねるべきなのです。主の計画のうちに歩む人は、多くの悪から自然と守られ勝利の生活を送れます。信仰によって歩んでいないなら、私たちは肉に従って歩む事になり、そこに隙がある為にサタンから攻撃されるでしょう。そうすると、それに耐えきれず、多くの祝福を盗まれてしまいます。

 へブル 10:36「あなた方が神の御心を行なって、約束のものを手に入れる為に必要なのは忍耐です。」

 私たちは、時には、祈りの結果をすぐに見る事ができない事もあります。「約束のものを手に入れる為に必要なのは忍耐」だとある以上、私たちは信仰を持たつ必要があります。ここで注意したいのは、ただ我慢すれば良いという事ではありません。私たちの我慢に対する褒美として、神が祝福されるという事ではありません。聖書の言う忍耐とは、信仰を貫いて待ち望む事によって、神の約束を手に入れる事です。これが聖書的な忍耐の定義です。

 ヨブの忍耐が皮肉の意味で使われている事を証明する為に、ヨブについてもう少し見ていきましょう。

 ヨブ記 1:22「ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」

 ヨブ記 2:10「... ヨブはこのようになっても、罪を犯すような事を口にしなかった。」

 上の二つの箇所を比較すると、単に「罪を犯さなかった」という表現が、罪を犯すような事を「口にしなかった」というものに変わっています。ヨブは心の中で罪を犯していた可能性を示唆しているのです。そしてついに、ヨブは愚痴をこぼしてしまいました。彼の内側で起きていた事が外に表れました。「罪を犯さなかった」から「罪を犯すようなことを口にしなかった」への変化が彼のうちにあったに違いありません。その変化とは彼の忍耐の事です。

 一見すると、最初の頃の彼の忍耐は私たちも見習うべきだと考えてしまいがちですが、その忍耐も短かったという事実から見れば、所詮それは忍耐とは呼べないものなのです。

 ここで重要な部分は、ヨブは忍耐を持っていなかったという事実よりも、神に対する信仰がなかったというところです。最初はヨブも愚痴はこぼさなかったものの、彼の神に対する信仰がなかったがゆえに、サタンの攻撃が来た時には、忍耐を働かせる事ができなかったのです。つまり、彼の忍耐は単なる肉による我慢だったわけです。ヤコブも自分が書いた手紙の中で、忍耐そのものについて教えているのではなく、信仰について教えています。

 ヨブがもし主に対する信仰があったなら、災いが神から来るという事を言わなかったはずです。アブラハムの場合を考えてみて下さい。アブラハムは、主が正しい五十~十人の為にソドムとゴモラの町を滅ぼす事はないと知っていました。いかなる災いも主から来ないという事を信じていたのです。これに対して主を信頼していなかったヨブは、自分が正しい事さえすれば、とりあえず祝福されると思っていたに過ぎません。しかし、信仰に基づかない忍耐は肉の努力なのです。ヨブは、自分の我慢の限界が来た時に、全て自分に焦点を当てて、自分の義を主張してしまいました。その間、ヨブは神について一言も言いませんでした。彼は律法の下にはいませんでしたが、彼の考えは律法主義だったのです。律法的な考えで良い行いをして自分の義を見せておけば、祝福されるだろうという考えです。

 主の前に正しい人は確かに祝福を受けるでしょう。でもそれは人の義が主に認められるからではありません。私たちが目を向けるべきものは、自分たちの義や努力ではなくキリストの義であり主の愛です。そして主の愛を知るからこそ、結果として良い行いをすべきであり、それは主に対する信仰に基づく良い行いであり、それをヤコブは教えています。

 私たちの信仰がサタンや人々から試される時、ヨブの忍耐ではなく、アブラハムの忍耐を見るべきでしょう。アブラハムは現状を見ず、信仰をもって約束を待ち望んだのです。サタンの攻撃(病気や災難など)に気付かずに、それを我慢していても意味がありません。忍耐とは、主の約束を信じ、その信仰を保ち続けるという事です。主の約束を信じていない事に対する忍耐の事ではないのです。

 ヤコブ 1:4「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」

ヨブの忍耐 1

 ヤコブの手紙 1: 3-4「信仰が試されると忍耐が生じるという事を、あなた方は知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなた方は、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 ヤコブの手紙には、信仰についての教えが書かれています。使徒たちの手紙の中で、信仰についての教えが書かれているのは、ガラテヤ、ローマ書とへブル書です。パウロもヤコブも、モーセの律法の観点がいかに欠点があるかを指摘しつつ、信仰を教えています。そして最初の教会の長老であるヤコブは、その信仰が試されると忍耐を必要とすると言っています。信仰と忍耐は深く関係します。

 逆に言えば、信仰とは関係のない忍耐についてヤコブは何かを言っているのではないのです。この理解はとても重要です。何故なら、信仰の伴わない忍耐は聖書的ではないからです。聖書の教える忍耐は単に我慢する事ではありません。クリスチャンは信仰に基づく歩みをするのであって、信仰なしに忍耐すれば何か祝福を受ける事ができるわけではありません。信仰のない忍耐を通して何かを得るという律法主義はパリサイ人の考えです。むしろ、祝福は私たちの信仰次第なのです。これがキリストによって示された真理です。

 ヤコブの手紙 5:7-11「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなた方も耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。裁かれない為です。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなた方は、ヨブの忍耐の事を聞いています。また、主が彼になさった事の結末を見たのです。主は慈愛に富み、憐れみに満ちておられる方だという事です。」

 ヤコブは最後の章でも忍耐について書いてあります。主が来られるのを忍耐を持って待ち望むようにと言い、それはちょうど農夫が雨を待ち望むようだと言っています。そして、預言者たちの忍耐を模範にしなさいとヤコブは書いています。そうして耐え忍んだ人たちは幸いだと言うのです。そして11節で、ヨブの忍耐についてヤコブは言いました。

 一般的にヨブは忍耐の人と考えられていますが、本当に聖書はそのような者として描いているのでしょうか? ヨブ記の一般的な解釈では、ヨブを忍耐の人としていますが、その理由は恐らく次の二つの聖書の箇所からです。

 ヨブ記 1:21「そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

 ヨブ記 2:10「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」

 神に対して不平を言わなかったヨブは忍耐しているように見えます。 ところが、彼の忍耐は2章までです。

 ヨブ記 3: 1「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。」

 3章以降では、ヨブは色んな不平を言い始めました。災いを受けるべきと言っておきながら、苦難から逃れることを切実に求めたヨブは、本当に忍耐の人と呼べるでしょうか?ヨブは、苦難は神からのものだと結論付けます。そして彼は自分の義を信頼し、神を非難しました。

 ヨブ記 6: 4「全能者の矢が私に刺さり、私のたましいがその毒を飲み、神の脅かしが私に備えられている。」

 皮肉にも、彼の真の苦難は神が彼を痛めつけているという勘違いなのです。その誤解の中では解決が見つからないし混乱するのは当然です。神を悪役と考えているなら、当然神に対する信仰は働きません。つまり、ヨブは信仰の人ではないのです。実際にへブル人への手紙の11章にもヨブは出てきません。彼が信仰の人であるなら、信仰のヒーローとして数えられていたはずです。

 彼の信仰に基づくものではなかった為に、やがて限界に達しました。そして、彼は自分の義を神よりも上にしてしまいました。彼が忍耐できなかった最大の理由は、彼が信仰の人ではなかったからです。神を信じていたなら、彼は恐れる事はなかったでしょう。何故なら、聖書の定義する忍耐は神を信じ続けるという事だからです。

ヨブの忍耐 2に続きます。

神はサタンに許可を与える? 2

ヨブ記の理解

 それでは、ヨブ記をどう理解するかについて解説します。まず、仮にサタンが勝つようなパターンを考えてみましょう。「神の許可によってサタンに苦しめられたヨブはとうとう神を呪った」というシナリオです。つまり、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者」であっても「神の許可」次第で悪魔から苦難を受け、その結果、神を呪う事もあるという内容です。ヨブ記のストーリーがもしそうであったなら、それを読む人は誰も神を信頼する事はしないでしょう。もう一点考える所は、ヨブ記が旧約時代の書物であったとしても、聖書はどの書物も必ず「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」になる為に存在しているという事です。「神の人が、すべての良い働きの為にふさわしい十分に整えられた者となる」為に聖書は書かれているはずです。ですから、「教えと戒めと矯正と義の訓練との為に有益」にならないような聖書の解釈は間違っているのが明らかです。

 「神でも時には悪魔に許可を与え、病気という試練を私たちに与える」という愚かな読み方は、私たちにとって有益ではありません。何故なら、そのような事を信じている人は、信仰に立って病気と戦う事をしないからです。彼らは癒す神を信じているよりも、病気という試練を与える神をもっと強く信じているのです。しかし私たちが、悪魔がこの世の支配者として好き勝手にしているという事実を知らず、神が悪魔に許可を与えるとし、神が試練として私たちに問題をもたらすなどと考えているなら、私たちはまだ霊的に幼いのです。善悪を判断できないからです。

古い契約の視点 vs. 新しい契約の視点

 古い契約の視点でヨブ記を読むと、神がサタンに悪事をしてもよいという許可を与えた、と見えてしまいます。何故なら、悪も神がもたらすと当時の人々は考えていたからです。しかし、新しい契約の下にある、新しく生まれ変わったクリスチャンなら、そうではない事を知っているべきです。何故なら、私たちは神を「アバ、父」と呼べる程の信頼関係の中にあり、神の御心を知っているべきだからです。私たちは、神にパンを下さいと言えば、それを与えて下さるという父親のような良いお方だという事を知っています。それならば、神は常に良いお方だという定義を崩さずにヨブ記を読む必要があります。

 次に、何がどうなるか全ての結末を知りつつ「彼をおまえの手に任せる(実際には許可を与えてはいない。直訳では手の内にある)」と神が言っている事を私たちはしっかりと理解するべきです。神の視点でヨブ記を読む必要があるという事です。サタンの手に任せると神が言っても(厳密には翻訳された聖書がそう言っても)、サタンの思い通りにはならない事を神は既に知っていたのですから、それは「許可」にはならないのです。あなたが未来の結果を知りつつ誰かに「あなたの思う通りにしなさい」というなら、それを知らない人にとっては「許可」に見えますが、あなたにとっては「許可」を与えている事にはならないのが分かるでしょうか?このような見方は古い契約の視点で考えている人にはありません。

神を良いお方だと知らない理由

 神はいかなる人に対してもサタンに「許可」を与えて苦しめる事(病気という試練を与える事)をしません。ヨブが潔白で正しい人だからだという理由で神は何か祝福をしたのとも違います。「正しい人が祝福を受けるにふさわしい」という考えも古い契約に基づく見方です。新約聖書をよく読んでイエス・キリストについての御言葉をたくさん蓄えている人は、神が人を祝福する唯一の理由を知っています。それは、神が恵みに満ち溢れているお方だからです。

 ヨハネ 1:17「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 イエス・キリストの十字架を見るまでは、人は完全に神の恵みを理解する事は不可能です。従って、ヨブやその他の多くの旧約時代の人たちには、神の恵みに対する理解が限られていました。神は何故恵みを与えるお方なのでしょうか?それは、恵みと神の性質に関するものです。究極的に言えば、恵みはもはや神ご自身であって単なる漠然とした概念ですらありません。もっとストレートに言いましょう。恵みとはイエス・キリストに他なりません。すなわち、父なる神が私たちに与えた恵みは、私たちの人間的な考えによって定義されるような見える形の祝福だけではなく、イエス・キリストというご自分の御子であり、私たちにとっての主なのです。

 恵み(イエス・キリスト)をよく知らないでいると、ヨブのように「命を与える神は命を取る」という不信仰の考えになります。しかし、イエスは一匹の羊の命を救う為にもご自分の命を捨てるお方なのです。

悪いものを良いものに変える

 ヨブ記 2: 6「主はサタンに言われた。「では、彼をお前の手に任せる。ただ、彼の命には触れるな。」

 神はあえてサタンの思うようにさせているのが分かりますか?逆に、そうとも知らないサタンは、神から「許可」をもらえたと考え、自分が有利な立場に立ったと思ったのです。ところが、それは有利にはなりませんでした。

 サタンは彼の自由意志によってヨブを殺す事もできました。しかし、神はサタンがヨブを殺す事はしないという事も既に知っていました。

 次の二か所からもヒントがあります。

 ヨブ記 1:11「しかし、手を伸ばして、彼の全ての財産を打ってみて下さい。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」


 
ヨブ記 2: 5「しかし、手を伸ばして、彼の骨と肉を打ってみて下さい。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」

 サタンは二度もヨブが神を呪う事を願いました。これが彼の悪意です。ヨブの持ち物を全部滅ぼしても、サタンにとっては何の得にもなりません。地上の全ては既に彼の支配の下にあったからです。ヨブの命さえもサタンにとってはどうでもよい事だったのです。ヨブが死んだからといって特にサタンが何かの益になるわけではありませんでした。サタンがこだわったのは、ヨブが神を呪う事、つまり、ヨブの自由意志を悪い方へ向ける事でした。神は、サタンがヨブの命を狙ってはいない事を最初から知っていたのです。

 元々サタンは彼の自由意志によって勝手に何でもできました。ヨブを殺す事もです。しかし、ヨブの自由意志を誘導したかったサタンは、ヨブを殺す事を目的とはしていませんでした。その思惑を既に知っていた神は、あえてサタンに「許可」を与えたように「彼をおまえの手に任せる(直訳では手の内にある)」と言ったのですが、神が知っていたのはサタンの悪意だけでなく、ヨブが神を呪う事をはしない事、つまり、サタンの作戦が失敗に終わる事も全て知っていました。

 神はサタンに悪事をしてよいという「許可」を与えたというよりも、むしろ本来は自由に何でも出来たサタンから「許可」を取ったのは神なのです。サタンから「許可」をもらった神が逆に彼に「制限」を与えたのです。サタンは自分の作戦が、ヨブを殺す事が出来ないという「制限」付きになるとは知らなかったのです。元々そうする気はなかったサタンは、そのように神に命令されてもすぐに同意できました。

 
ヨブ記 1:12「主はサタンに言われた。「では、彼の財産を全てお前の手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。」

 神は最初のサタンの挑戦の結果を知りつつ、「彼の身に手を伸ばしてはならない」と言いました。サタンは律義にもその命令を守ります。

 
ヨブ記 2: 6「主はサタンに言われた。「では、彼をお前の手に任せる。ただ、彼の命には触れるな。」

 神は2回目のサタンの挑戦の結果も知りつつ、「ただ彼のいのちには触れるな」と命令しました。サタンは行儀よくその命令に従います。

 ヨブが一度も神を呪ってない事実はサタンの敗北を示します。確かにヨブは自分の生まれた日を呪いました。また、ヨブは自分の義を主張してそれが彼の罪となったのですが、「命を取る神」だと考えたヨブも神を呪う事はしなかったのです。

まとめ

 神はサタンに悪事ができる許可を与えたという見方は間違いで、神は被造物に自由意志を与えているという見方が正しい見方です。サタンは既にアダムから権威を奪っていたので、彼は何でも悪い事をしていました。ですから、許可なしに悪い事をずっとしていたのです。神は自由意志をコントロールしません。それをコントロールすると、それはもはや「自由」ではないからです。しかし、被造物が自由意志で悪い事を企んでいる時に、神はそれを修正して良いものに変えようとしたり、何らかの解決の方法を備えて下います。そのような神の良い計画があったという記録がヨブ記です。

 「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者なら全ては万々歳でうまくいく」と考えるべきではなく、サタンの攻撃をしっかりと認識して「悪魔に立ち向かって足で踏みつける」のです。*ちなみに、「キリストの血潮の宣言」ばかりが霊の戦いでもありません。その宣言に力が解決をもたらすとは弟子たちも記していないです。

 ヨブは信仰がなかった為に、サタンにその弱点を突かれました。アブラハムのように「神はいつも正しい」としていないかったので、ヨブの場合は彼の無知が試練をもたらしたようなものです。ですから、「病気という試練を受けた義人ヨブ」ではなく、「自らの不信仰でサタンに機会を与えてしまったヨブの試練」が教訓の部分です。

 神はサタンや人の自由意志によるその悪事をそのままにしておく事はありません。悪いものを良いものに変えるのが神の御心です。もちろん、神の御心や計画が全てうまくいっているわけではありません。サタンの誘惑が成功したケースもありますが、ヨブ記では失敗に終わったという記録です。サタンが大成功したケースは、多くのイスラエル人をつまずかせた事でしょう。しかし究極的に言えば、サタンの計画 vs. 神の計画は常に人間の自由意志が決定的です。

 そういうわけで、ヨブ記に基づいて誰かが「時には神は私たちに病いという試練を与える」という趣旨のメッセージをしているのなら、その教えは間違いです。その解釈は「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」になりません。その教えは、単に「神の御心は全く分からない」とするだけです。むしろ、病気を感謝するというおかしな信仰を植え付けてしまうほど悪質なものです。

 「病気はサタンから来るけれどそれを許可しているのは神」とした場合、それを信じている人は悪魔に立ち向かう事をしません。しかし、神の武具を身に着けて御霊の剣を使って戦う事をよく理解している新しい契約にいる信者は、癒しは霊の戦いという事を知っています。

 恵みが十字架によって明らかに示された後では、クリスチャンはサタンの悪事をストップさせ、地上を神の国に変えていく仕事をします。それは信仰のなかったヨブにはできなかった事ですが、神の子供として大胆に歩む者たちにできる事なのです。

神はサタンに許可を与える? 1

 ヨブ記 1:12「主はサタンに言われた。「では、彼の財産を全てお前の手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。」

 この節だけを読めば、神がサタンに許可を与えてヨブを苦しめたという解釈も可能だと言えます。では、神はその時サタンに許可を与えて、その許可を得てサタンは悪事を行なったのでしょうか?

全体の内容

 一つの節だけで何かの結論を出すのではなく、もう少しこのストーリーの内容を把握してみましょう。

 ヨブ記 1: 8「主はサタンに言われた。「お前は、私のしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」

 まず、神は「サタンがヨブに心を留めた」事を知っていました。つまり、サタンの悪だくみを知っていたのです。ここに重要な真理があります。神は全知全能であってヨブの心もサタンの考えも知っているという事です。神だけが人の心などを見る事が出来ますが、被造物にはできません。しかも、神は未来の事も全て知っています。

 ヨブ記 1: 9-10「サタンは主に答えた。「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか。あなたが、彼の周り、彼の家の周り、そして全ての財産の周りに、垣を巡らされたのではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっているのです。」

 サタンの典型的な攻撃パターンです。疑問を投げかける事によって誘惑するやり方の事です。ここではまだ彼の悪意は見られません。ヨブが神を恐れるのは神がヨブを祝福したからだとサタンは言いました。深く考えずにいると彼の意見も一理ある感じですが、実はそうではありません。「祝福がなければヨブは神を恐れる事はしない」というのを単に「AがなければBがない」として見ると納得するかもしれませんが、そもそもそのにして見る事が間違いなのです。

 神の祝福とは神の恵み、すなわち神の好意ですから、それを受けるヨブが神を恐れるのは当然だからです。何故なら、まず、「恵みを与えるお方」は神以外存在しません。従って、「神が祝福しなければ」という時点で既に神を神ではないとしているのです。人が神を恐れる理由が神の恵みに基づく事はむしろ自然です。逆に、神の好意を退けるのはとても愚かな事です。

 ヨブ記 1:11「しかし、手を伸ばして、彼の全ての財産を打ってみて下さい。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」

 サタンは、神が「手を伸ばして」ヨブの全ての財産を打ってみて下さいと大胆に神を誘惑しました。サタンがエバにした事と同じです。

 創世記 3: 4-5「すると、蛇は女に言った。「あなた方は決して死にません。それを食べるその時、目が開かれて、あなた方が神のようになって善悪を知る者となる事を、神は知っているのです。」

 さて、ヨブ記1章12節が問題の箇所です。

 ヨブ記 1:12「主はサタンに言われた。「では、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。」

 ここを読んで「サタンは神の許可を得て悪事をする」、或いは、「神はサタンが悪い事をする為に許可を与える事もある」と考えているクリスチャンは、神の性質とサタンの性質、被造物の自由意志について知らない事になります。それらは新約聖書ではっきりと示されていますが、当時のヨブにはサタンの存在すら、知らないのでした。

 サタンの性質を踏まえて、この聖句からよく解釈される「神からの許可を得る」事について考えてみましょう。私たちが思い出すべき事実は、そもそもサタンはアダムとエバをだまして以来、あらゆる悪事をしてきているという事です。ヨブの時代になって急に神からの許可が必要だとサタンが思いついたわけではありません。地上の全てはもう既にサタンの手の中にあったのです。アダムとエバを騙したサタンは、彼らを肉によって生きる者としました。五感に従って歩むようになった人間は、ある意味、「地上を治める権威」を放棄してしまったかのようなのです。その結果、サタンはやりたい放題の悪を地上で始めました。権威とは誰からの「許可なし」に何かをする事を意味します


サタンの支配

 サタンがこの世を支配する事になったのは以下の箇所から分かります。

 使徒の働き 26:18「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうして私を信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々と共に相続にあずかる為である。』」

 第一ヨハネ 5:19「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にある事を、私たちは知っています。」

 第二コリント 4: 4「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」

 これらの事を記したキリストの弟子たち(ここではルカ、ヨハネ、パウロ)はサタンの支配を認識しています。しかし、サタンの支配は神がサタンに許可を与えたからという事ではなく、アダムの違反が主な原因です。

 また、サタン自身も彼の地上での支配を認識しています。

 マタイ 4: 8-9「悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世の全ての王国とその栄華を見せて、こう言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全てあなたにあげよう。』」

 サタンはこの世の全てを彼のものとしたのです。どのようにしてサタンはこの世を支配したのでしょうか?死という武器を持ってです。

 ローマ 5:14「けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。」

 死があるのは罪が原因です。従って、アダムに罪を犯させる事を通してサタンは全ての人を罪の奴隷にして滅ぼしたのです。何故滅ぶのでしょうか?それは、罪の奴隷は報酬として死を与えられるからです。もちろん、そのサタンの計画も失敗に終わっています。十字架の御業によってサタンの計画は破壊されました。しかも、贖いの計画は地の基が定まる前に存在しているのです。つまり、究極的には神の良い計画にまさるものは存在しないのです。

 ヨブ記はしばしば、「神は時にはサタンに悪事をしてよいという許可を与える」という趣旨のメッセージの土台になっていますが、この見方は目で見て判断する人間による、狭い視野からのものです。しかし、神の良い計画は人の思いよりも優れています。

ヨブ記2章は?

 今度はヨブ記2章からです。1章と同じ事をまた解説します。

 ヨブ記 2:3-6「主はサタンに言われた。「お前は私のしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。彼はなお、自分の誠実さを堅く保っている。お前は、私をそそのかして彼に敵対させ、理由もなく彼を吞み尽くそうとしたが。」サタンは主に答えた。「皮の代わりは、皮をもってします。自分の命の代わりには、人は財産全てを与えるものです。しかし、手を伸ばして、彼の骨と肉を打ってみて下さい。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」主はサタンに言われた。「では、彼をお前の手に任せる。ただ、彼の命には触れるな。」

 神はここでもサタンの思惑を知っていました。「ヨブに心を留めた」サタンが「何の理由もないのにヨブを滅ぼそうとした」と神は言っています。神の視点によると、ヨブを滅ぼそうとしたサタンはその理由を持っていない、という事です。何故、神はそのような事を知っていたのでしょうか?それは、神が唯一の全知全能のお方だからです。

 サタンはヨブの所有物を破壊したのですが、最初の彼の作戦(ヨブ記1章)は失敗しました。ヨブは神を呪うどころか文句一つ言わなかったからです。そこでサタンはヨブに直接攻撃する事を考え、「彼の骨と肉とを打って下さい」と再び神がヨブを打つようにと言いました。もちろん、神がそんな事をするはずはありません。そこで神は「彼をお前の手に任せる(直訳は手の内にある)」と再び言ったのですが、ここも1章同様、神の意図が隠れています。このストーリーの中心人物であるヨブにもそれが見えませんでした。神の意図とは、自由意志を悪事に利用したサタンを逆手に取って良いものに変えるという事です。

 ヨブ記の1章で、サタンの計画が失敗に終わるという結果を神は既に知っていました。この理解は重要です。という事は、サタンに対して「彼をおまえの手に任せる」と言った神は、「許可」を与えているかのようにサタンの前で振る舞っただけなのです。結果を既に知っている神は、サタンの挑戦に対してあたかも彼に幾らかでもチャンスがあるかのようにしているのです。そうとは知らず、サタンはヨブを直接攻撃するならヨブはきっと神を呪うだろうと考えていました。サタンは自分の思惑通りになると思って再びヨブを襲います。

 ここで少し考えてみて下さい。人間の視点からではなく、神からの視点からです。つまり、結果を既に知っている神の視点です。それならば、サタンは失敗に終わる計画を企んでいたという事になります。無駄な事をサタンはこれからやろうとするのを神は見ていたのです。神がサタンをコントロールして結果を出したのではなく、単にサタンの自由意志がそのように働く事を知っていたのと、ヨブの自由意志が悪に向かう事はないと知っていただけです。ある人は言うかもしれません。何故、神はサタンに未来の結果を言わなかったのか?何故なら、言ってもサタンは信じないからです。その時のサタンは勝算があると思っていて、神に話しています。まだキリストの復活の力を知らずにいたサタンは、全てをコントロールできると考えていました。

 第一コリント 2: 8「この知恵を、この世の支配者たちは、誰一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」

 キリストを十字架につけようとサタンはイスカリオテのユダを筆頭に、多くのユダヤ人の背後で働きました。しかし、それは彼自身が墓穴を掘る事になったのです。

 少しまとめます。ヨブ記を理解する上で必要な基本的知識は、神が全知全能である事、被造物は自由意志を持っていてそれに基づいて行動している事、神の御心(すなわち、神は全ての事を良い方向に持って行こうと計画されている事)です。

神はサタンに許可を与える? 2に続きます。

信仰とは

 へブル 11:1「さて、信仰は、望んでいる事を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

 ギリシャ語から読むと、

estin(である is)de(接続詞)pistis(信仰)elpizomenon(期待する・望む・信頼する)hupostasis(理解・自信)pragmaton(事柄)elegchos(確信)ou(~ない否定) blepomenon(見る)

 直訳すれば、「信仰(pistis)とは、自信のある事・理解している事(hupostasis)を(今現在)期待・切望・信頼している事 (elpizomenon)であり、見えていないけれども確信している事」となります。

*hupostasis が理解という意味を含むのは、hypo(~の下)の前置詞があり、histēmi が「立つ・確立させる」という動詞から出来ているからです。直訳なら「下に立つ、~の下に確立させる」ですが、これは英語の Under-Stand(動詞)と同じように、物事を理解するという意味に発展しています。「Under-Stand 下に立つ」が「理解」になるのは、下にあって立つ=土台に関するもの=安定を与えるもの、となり、私たちは、安定しているものについて理解するからです。

 さて、何かをよく知っているなら、或いは、「絶対こうなる」と自信があるものに対しては、もはや望みを置く事はありません。むしろ、現実的な事柄(当たり前に起こる事)として、自信を持って期待します。「こうなるのは当たり前だ」と強い期待を持っている状態というのは、そうなるのを知っているという事です。

 明らかに結果が分かるものに対して、私たちはそうなって欲しいと願う事はありません。もはや希望を置かなくても、当然そうなると理解していますし、その結果を見ずともそうなるんだという確信をもっています。これが信仰の定義です。まだ目に見えていないものでも、見えていると同然に見なせる事が信仰なのです。

 見えないものを信じるというのは、難しいようですが、私たちの周りにたくさん存在してます。例えば、電波は肉眼では見えませんが、その存在は確かなものです。電波が存在している証拠に、電話やラジオといった機械が機能する事によってそれを確認できます。テレビの電波でも同じです。テレビの映像が映らないからといって、やはり電波は存在していないだろう、などと考える人はいないはずです。その場合、「やはり電波の存在などないのだ」と言って、電波の存在を疑ったりせずに、テレビの故障などをまず考えるのが普通ではないでしょうか?つまり、電波は目には見えないのですが、私たちはそれが存在するという強い信仰は持っているのです。

 これと同様に、神は肉眼では見えませんが、現実に存在しておられます。第2列王記の6章に、アラムの王がイスラエルと戦っている時に、彼らの戦略をエリシャが全て知っていたという箇所があります。アラムの王は自分たちの中にスパイがいると考えました。しかし、彼らの戦略が見破られていたのは、エリシャが原因だと知って、エリシャの居場所を突き止めて捕らえようとしました。15節には次のように書いてあります。

第二列王記 6:15「神の人の召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若者がエリシャに、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言った。」

 エリシャに仕えていたこの人は、パニック状態になっていたかもしれません。馬と戦車の軍隊がその町を包囲していたのですから、大きな軍隊だったはずです。しかし、16節のエリシャの言葉に注目して下さい。

 第二列王記 6:16「すると彼は、「恐れるな。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者よりも多いのだから」と言った。」

 エリシャは、天の軍勢はアラム王の軍隊よりも、遥かに多い事を知っていました。一般の人は、目で見えないものは信じないという傾向があります。五感によって確かめられないものは、信じません。もし、クリスチャンもそのように考えるなら、エリシャのこの言葉も信じられないでしょう。ところが、エリシャは真実を語っていました。

 目に見える世界(五感に基づく現実)だけでなく、見えない世界(霊的領域)が存在しているという事を、クリスチャンである私たちは知るべきです。エリシャは霊の領域を知っていました。17節を見てみましょう。

 第二列王記 6:17「そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにして下さい。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」

 アラム王の率いる軍隊は、神の軍隊が山を取り囲んでいた時にもまだいました。目に見える世界が消えたわけではありません。しかし、霊の領域は現実よりも偉大なのです。しかし、信仰は現実から逃避するような事を意味しているのではありません。むしろ、信仰は、一時的な現実が霊の領域によって支配されるという部分を見ます。つまり、目に見える現実だけが全てではなく、霊の領域を含んで見る事が信仰なのです。

 信仰とは、霊的な領域にある真理を現実化させる聖書的な手段です。最初から存在しないものに対して宣言して、それを現実化させるというものではありません。霊の領域に存在しているものを引き出すのが信仰です。別の言い方をすれば、信仰とは霊の法則上で働くものです。御言葉に沿って働く信仰の法則・原理とも言えます。

 霊の領域を信じていたエリシャは、アラム王の軍隊を目くらにして、イスラエルの王の所に連れて行く事ができました。この時、エリシャは、彼の願いが叶うようにと希望を持っていたのではなく、信仰を持って大胆に宣言したのです。神の軍隊についても、彼の弟子の為に目を開かせたのであって、彼自身は見る必要はありませんでした。信仰によって歩んでいる人は、ただ肉眼で物事を見て判断せず、霊的な領域も見ています。しかしそれは、極端な「霊的主義」による霊の目というものではなく、新約聖書の教えに基づくものです。

 私たちが神の子として歩み、思考を一新させ、純粋にイエスの教えに基づいて色々と考えるのなら、私たちの想像は良い方向に働き、様々な良い行い事を可能にします。イエスは、からし種ほどの信仰でも山を動かす事ができると言いました。神の子として歩む人の信仰は、大きな可能性を秘めているのです。神に不可能なものは一つもないのですが、信じる私たちにもそれが適応されるのです。

 マルコ 9:23「イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんな事でもできるのです。」

 ローマ 10:17「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞く事は、キリストについての言葉を通して実現するのです。」

 信仰とは御言葉と共に働くので、肉の思いによる願いを叶えたいと思ってもそれは不可能です。*この箇所の「言葉」はレーマですが、それは話された神の言葉を聞くので、信仰が生まれるという事だからです。レーマは常に信仰が伴います。「啓示された特別な言葉」という意味ではありません。

 私たちは、「御言葉を通して霊の領域で存在するもの」に対して、信仰を持つのです。ですから、御言葉を知らずには、私たちの信仰は働きません。聖書を曲解したようなケースでも信仰は働きません。何故なら、霊の法則、すなわち信仰の法則によってしか、信仰は働かないからです。ですから、私たちは、最初に御言葉を理解し、真理を悟る必要があります。その上で、信仰を持って御言葉を宣言するなら、私たちはあらゆる霊的祝福を体験する事ができます。信仰によって歩むとは、イエスの教えの通りに歩むという事であり、それは目に見えるものに頼らず、主の教えを信頼して歩むという事です。

 第二コリント 5:7「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。」

恵みと信仰 その2

 神に対する間違った見方を持っていると、恵みを体験できません。悪い事も全て神から来ているとする考えは多くの人々の希望を破壊し、全ての事において消極的にさせてしまいます。そのようなものを神からの試練だと考えるクリスチャンは、サタンを喜ばせているのに気付いていません。それは、サタンに栄光を帰しているのです。私たちの主は、癒しや解放によって栄光を受けるのであり、人間が病気などで苦しむ事によって栄光を受けるのではありません。病気や苦しみは、サタンの栄光なのです。

 ヨハネ 9:2-3「弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れる為です。」

 「神のわざが現れる」という意味は、盲人が盲目である事ではなく、神の癒しが現れるという事です。実際、この盲人は目が見えるようになり、その癒しは明らかに、神のわざです。

 サタンの悪事の裏に、神の許可があるという考えも間違いです。それならば、結局、サタンではなく神から悪が出ている事になります。この間違った考え方で見落としている点は、サタンも自由意志を持つという事、サタンは神の許可を得て動いていないという事実です。サタンは、いちいち神の許可を得て行動しているわけではありません。

 イザヤ 5:20「わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。」

 人が病気になったり経済的に困ったりするのは、神からの試練であり、それを経験している人を教えたり、謙遜にさせているという考えは聖書的ではありません。これはまさに悪を善と言っているのです。

 ヤコブ 4:7「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。」

 私たちは神に従うべきであり、悪魔に対抗するべきです。病気に対して戦うべきです。また、サタンに対して「どうか私たちを苦しめないで下さい」というような発言は、サタンに対抗する姿勢ではありません。サタンに対して聖なる怒りを燃やし、徹底的に戦う事が必要です。悪は神から来ていると信じてしまうなら、誰もサタンと戦いません。それはまさに、サタンの思うつぼです。

 神の御心の通りに、全て完全に行われているのは、天においてのみです。そして、私たちは御国が地上にも来るように宣言し、この地上を治める神の子になりました。神は私たちに祝福を与えておられますが、それらは、全て自動的に私たちの生活で現されているわけではありません。私たちは主からの祝福を、信仰によって現実化させる必要があります。

 使徒の働き 10:38「それは、ナザレのイエスの事です。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスと共におられたからです。」

 神の御心とは、全ての人が癒される事です。イエスは良いわざをなして、全ての者を癒されたのです。私たちの神は、そのようなお方なのです。しかし神は、クリスチャンの信仰を通して力を現したいと望んでおられます。

 全ての良いものは私たちのものです。それを信仰によってどんどん実現化させて、この地上を天の御国に変えて行きましょう。恵みの福音とはこれほどまでに良い知らせなのです。ですから、良いものと悪いものを混ぜてしまうような考えは禁物です。私たちは、神の恵みを素直に感謝し、信じて受け取るべきです。

 こういった正しい見方をしていれば、私たちの祈りが現実化していきます。しかし、神に対する間違った見方そのものが、信仰の働きを妨げているのです。「神の主権」や「神の性質」に関してしっかり理解して大胆に信仰を持つならば、勝利のクリスチャン生活を経験できます。

 最後に、恵みと信仰にはバランスがあります。恵みばかりを強調しすぎて、全ては神がやって下さると考え、何もやらないでよいという教え(ハイパー・グレイス)もあります。神のして下さった事と、私たちのすべき事をしっかりと認識しましょう。恵みは神からのものであり、それに対する正しい応答が私たちの信仰です。そして、恵みと信仰が合わさる時に私たちは神の御業を現す事ができるのです。

 ヨハネ 6:29「イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなた方が信じる事、それが神のわざです。」

 神は、時には私たちの信仰なしに御業を現す事もあります。しかし、私たちの信仰を通して、大いなるわざを成したいと望んでおられます。もし、神の全ての御業の現れが私たちの信仰と関係がないとするなら、私たちは一切宣教の働きをする必要がありません。もし、私たちの信仰を通して神の御業を見るというのが稀な方法だとしたら、どうして聖書では信仰を持つように教えるのでしょう。しかし主は、私たちが主に信頼する事を期待しておられるのです。

恵みと信仰 その1

 比較的熱心なクリスチャンなら、毎週の主日礼拝、日々のデボーションも欠かさないはずです。毎日やるべき事をやっていれば、きっと祈りは聞かれると考える人は多くいます。ところが、このような考えは神の恵みをよく理解していないものである場合が多く、信仰を土台に置かない、上辺の行いにこだわった、律法主義なものになっている事があります。

 祈りは、私たちの肉の努力によって聞かれるというわけではありません。しかし、正しい考えと動機に基づいた、正しい努力というものはあります。その努力とは、私たちが神と神の言葉を信じる事です。信仰によって立ち、信仰によって歩む事は私たちの責任であり、私たちのするべきもの、私たちの努力とも言えるのです。クリスチャンとしてやる事は多くありますが、それらは全て、信仰によって行うかどうかが鍵です。とは言え、恵みという神からの好意をまず第一に考えないと、何をどこまでやるのか、何が宗教的な行いなのか、それとも信仰なのか分からなくなる事もあるでしょう。

 エペソ 2:8「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。」

 まず、神が恵みを示して下さいました。その恵みは、旧約時代には多くの人には明らかにされていなかったのですが、約二千年前のイエスの十字架の御業において、今は私たちにはっきりと示されています。イエスの十字架の御業に、神の恵みが示されているゆえに、それを信じる事によって私たちは永遠の命を得る事ができるのです。しかし、この贖いに対する信仰は、永遠の命についてだけに適応されるのではなく、私たちが神の子供としてやる事、全てに関わります。

 例えば、私たちが信じて義と認められる事は、それそのものが恵みです。ですから、私たちの努力次第で祈りが聞かれるわけではありません。私たちが義と認められたのは、熱心な祈りによってではないからです。鍵となるのは、恵みと信仰が常にセットになっているという事です。つまり、神のする事と、人のする事があるのです。神は恵みを与え、人はその恵みを信じるという事です。

 神の恵みは既に完全に現れています。ですから、全ての人が主を信じるだけで救われるのです。そして、信じるという事が私たちの唯一のすべき「努力」なのです。ただし、信仰にも行いが伴います。信仰による行いは、単なる行いだけのもの、宗教的な形だけの行いや、間違った動機に基づくものとは違います。信じているがゆえに、それが行いとして自然と外に表れるという事です。

 神の恵みに対する正しい応答とは、信仰によってその恵みを受け取るという事に他なりません。信じる事は私たちのする事であり、信じた時に救われたり、癒しが起きたり、その他の祝福を見る事ができるのです。また、御言葉の約束を信じるという事が信仰でもあります。神の存在や、神の力の存在を信じるだけでなく、御言葉を理解してその真理や原則を信じるという事が信仰です。

 私たちの良い行いに応じて、神から祝福を得るという考えなら、それは宗教になってしまいます。そこには信仰がないからです。罪の赦しでさえ、私たちの悔い改めに応じて神が赦して下さるという事ではないのです。私たちの罪は、私たちが生まれる前にイエスが十字架によって取り除いてくれました。私たちが悔い改めた後に、神が私たちの罪を赦して下さったのではありません。肉の弱さによって、人が犯してしまう一般の罪は、十字架の恵みのゆえに既に赦されています。悔い改めの行為は、罪を赦していただく為の必須条件ではないのです。悔い改めは、既に赦された私たちの歩みが、神の子として歩むようになる為の最初の方向転換(考えを変える事)なのです。

 恵みをよく理解していないクリスチャンは、気づかない所で宗教的な行いをしてしまっています。祈りが足りないから祝福をもらえないと考えています。或いは、聖書をよく読んでいないからとか、その他の理由を幾つも並べて、全てをこなそうとします。それらは重要なものですが、それらをする事によって、神を動かして祝福を得ようとする考えは間違っているのです。恵みゆえに神からの祝福は、既に私たちクリスチャンに与えられており、後は祝福を現実にするだけで良いのです。ただし、祝福を現実化する唯一の方法は、信仰によると聖書は教えています。

 例えば、罪を赦して頂く為に私たちは神に何かをするべきでしょうか。聖書では、私たちがまだ罪人であった時から、私たちの罪は赦されているという視点から教えています。

 ローマ 5:8「しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死なれた事によって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

 キリストは、私たちが悔い改めた後で、十字架に掛かったのではありません。私たちが生まれる前には、既に十字架による恵みが示されています。私たちが恵みを手にするには、それを信じる必要があります。祈りも聖書の通読も、献金や教会に熱心に通う事などは、全て恵みを受け取る条件ではないのです。

 神の恵みによって、私たちは様々な祝福を得る事ができます。その祝福は、私たちが永遠の命を受けるだけではありません。癒しや解放、経済的祝福なども、神の恵みによって約束されています。さて、神にの恵みが先に示されたのは、神が私たちの必要を既に知っていたからでした。ですから、私たちが病気になる前に、既に癒しを用意しておられたのです。経済的な祝福も、その必要性が起こる前に、あらかじめ恵みによって用意しておられたのです。

 現在、救い、癒し・解放があるのは、既に示された十字架の恵みによって私たちがそれを信じて行動する時に、見られます。これが御言葉の原則です。約二千年前に、癒しの恵みが十字架の御業を通して明確に現れたのですから、私たちの宗教的な努力によって奇跡が起こる事はありません。今日、救いや癒しの恵みが私たちの間で起こるのは、私たちの宗教的な行いではなく、信仰によって祝福を現実化したからです。注意したいのは、信仰自体も「神を動かす」為の力ではありません。何故なら、神は既に動いたからです。神の側では癒しの業は完了したのです。十字架の恵みは、完全に現わされました。後は私たちが信仰によってその恵みを現実にするだけなのです。

 多くのクリスチャンは神は、その御心によって何でもしてしまうと考えています。ある教えは、神は、この世のもの全てを完全にコントロールしていると言います。それは神の御心によらず事が起こる事はないという憶測からの誤解です。そのような教えは、神が人の自由意志さえコントロールしているという矛盾も主張してしまいます。神は自由を与えているのですから、私たちの意志はまさしく「自由」なのです。全ては神の御心次第であり、私たちはそれに対して何もする事ができないという考えは間違いなのです。

 人が不幸な事に遭遇するのも全て神からのものだとすれば、神の定義そのものが危ういという事に気づいて下さい。悪をもたらすのは神なのでしょうか。この質問に自信を持って答える事が出来ないクリスチャンは、神の愛と恵みを全く知らないと言うしかありません。人間の親でも、自分の子が「魚を下さい」と言えば、その通りにするとイエスは言いました。神が災害などをもたらすなら、天の父なる神は人の親よりも悪い事をしているという事になります。しかし、全て悪いものはサタンから来るのです。

 ヨハネの福音書 10:10「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする為に他なりません。私が来たのは、羊たちが命を得る為、それも豊かに得る為です。」

 イエスは私たちの身代わりになったほどに、私たちを愛しておられます。イエスは、十字架の御業を通して私たちに永遠の命を得させる為に来られました。そうであれば、病気やその他の不幸を「試練」という嘘でごまかす事があるでしょうか。嘘が見抜けなくなったクリスチャンにも問題はあります。神による訓練は確かにありますが、それは人の死や病気という形で来るものではありません。

 人の親でもその子供に何かを教えるといって、命に関わるような事をしてそれを「教育」と言うでしょうか。間違った考えを持つ人の親ならそうする事もあるでしょう。しかし、私たちの神は完全なる方であり愛の神です。それとも、クリスチャンは神の愛が分からないのでしょうか。

恵みと信仰 その2に続きます。

神の主権について

 今日、多くのクリスチャンの間において、「神の主権」が誤解されています。神の御心が、地上で起きている全ての事柄に及ぶという考えは信仰を破壊します。神が御心のままに全てをコントロールしている、サタンさえも操っているという教えは聖書的ではありません。もし、そうであれば、私たちの決断や行動は全て意味のないものになってしまいます。人の自由意志を否定し、神の主権だけが行われているという考えは、大きな混乱を招きます。

 良い事も、悪い事も、全て神が操作しているという教えを聞く人は、希望を失うでしょう。私たちの意思や信仰とは無関係に、神の御心の通りに全ての事が起こるとすれば、神を信じる為に人ができる事はないという事になります。信じる事が私たちの自由意志によるのでないなら、神は人間をコントロールして信者を作り出している事にもなります。それなら、宣教の意味もありませんし、イエスの十字架の意味もありません。結局、神がコントロールしているというのが真理であるなら、全て私たちとは関係のない事になります。結論から言うと、「神は全知全能であり、神の御心だけがこの地上で起きている」という考えは正しくありません。神は全知全能のお方ですが、神の御心に背いた人は大勢います。

 第二ペテロ 3:9「主は、ある人達が遅れていると思っているように、約束した事を遅らせているのではなく、あなた方に対して忍耐しておられるのです。誰も滅びる事がなく、全ての人が悔い改めに進む事を望んでおられるのです。」

 主は、誰一人として滅びるのを望んではいません。ところが、人がキリストを信じて救われるという神の計画は、それが神の御心であっても必ずしもその通りになっているわけではありません。明らかに、主の御心だけではなく、人間の自由意志によって救いが決定される部分があるのです。実際に、私たちのする事の殆どは、自らの意思によって決定され、その通りにの結果が出ているのです。

 熱心な祈りなどによって、時々、主の介入があるくらいで、私たちがやっている事の多くは、私たち自身がそれを決定して行っています。主がどんなに人を救いたいと望んでも、人間の自由意志はその御心をも退ける事ができるのです。ある意味、人の自由意志は神の力よりも強いのです。その自由意志は、神によってコントロールされてはいません。神が私たちに正しい道を選ぶように、私たちに選ぶようにされたのは、私たちの自由意志を尊重しているからです。神が私たちに自由意志を与えておいて、実は裏でコントロールしているなどという考えは、人間の勝手な憶測であり、神の御心を知らずに語る、高ぶりなのです。

 イエスの十字架を通しての贖いは神の恵みですが、一人一人が信仰によって救われるのです。十字架によって恵みが現わされたのですが、それだけで全ての人が自動的に人救われるのではなく、神の恵みと人の信仰が一緒になる時、救いがもたらされるのです。

 へブル 4:2「というのも、私達にも良い知らせが伝えられていて、あの人達と同じなのです。けれども彼らには、聞いた御言葉が益となりませんでした。御言葉が、聞いた人達に信仰によって結びつけられなかったからです。」

エペソ 2:8「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。」

 恵みは神からのものです。信仰は、私たちの神の恵みに対する正しい応答です。それの間違った応答は、神の恵みを軽視する事です。

 神の主権についての誤りで見逃せない部分は、全ての禍や災難、病気や死も神がコントロールしているという、ヨブ記の曲解から来ている点でしょう。ある人々は、神はサタンに悪い事をするのを許可しているという考えを持っています。悪事を許す神は本当の神とはなりません。聖書の神は愛の神です。悪い事と愛が両方とも神からのものだとしたら、神の性質そのものが矛盾しているという事になります。

 エレミヤ書 10:23「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩む事も、その歩みを確かにする事も、人によるのではない事を。」

 人は自分の命に対して、それをどうするか自由意志を与えられているのですが、主の導きの中においてのみ成功を収めます。神は私たちを創造しましたが、それは人が神と共に歩んで、交わりの中で生きていく為でもあります。私たちの周りにある問題は、私たちが神との交わりから離れてしまったので、起こっているのです。私たちの直面する問題の全てが神から来ているのなら、私が神に信仰を置く事はできなくなってしまいます。

 ヤコブ 4:7「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。」

 この個所から明らかなように、神と悪魔は対立しています。全ての事は神から来るものではなく、悪魔の仕業もある事を私たちは知らなければいけません。神からのものに対して私たちは従い、悪魔からのものは立ち向かって抵抗する必要があるのです。従って、神は全てをコントロールしていません。

 もし、神が病気を通して人に何かを教えているとすれば、その人は病院に行って、その病気を取り除くような事はしない方が正しいという事になります。何故なら、それは神の計画に反抗しているからです。神の主権についてよく分からない人は、病気でさえも神からのものであるとし、それを通して彼らは何かを学ばされていると主張します。その一方で、必死にその病気からの回復を願ってもいるのです。彼らは、この矛盾に気付いていません。

 病気が神から来ているという考えがあるのは、神の愛と恵みについてよく理解していないからでしょう。神が病気をもたらしているのなら、何故イエスは癒し主として言われているのでしょう。福音書に記されている多くの癒しの御業を成し遂げたお方が、病気によって罰を与えるでしょうか。モーセの律法の下では、人が律法を破る事に対しての刑罰は、呪いという言葉で表現されていました。病気は、その呪いの一つでしたが、今は恵みの時です。

 あらゆる病気の根本的な原因は、サタンです。あらゆる呪いの始まりが、サタンから始まったからです。悪いものが神から来たと考えるのは、正しくはありません。確かに律法の時代においては、神は律法に従って、人々を裁いていました。そこには常に刑罰がありました。しかし、その中でも、恵みと憐れみはあったのです。古い契約の時代においては、キリストがまだ神の恵みを具体的に現していない為に、ほぼ全ての人が神の恵みを悟る事ができず、モーセの律法を通して宗教的な概念で神を理解していました。ですから彼らは、全てが神からの来ると考えていたのです。しかし、様々な災いは、彼らが神に聞き従わなかったからであり、それはむしろ、律法が要求する罰だったのです。

 イエスの十字架の御業は、神と人間の和解の為であり、恵みの福音にあずかる私たちにとっては、罪を犯したとしても、律法が要求する刑罰を受ける事はなくなりました。癒しも罪の赦しも、全ての呪い(律法が要求する刑罰)がキリストの十字架によって解決されたのです。この十字架による恵みの現れが、神の御心であって、旧約時代のモーセの律法による生き方は神の御心ではありません。申命記28章4節によれば、病気は呪いとして扱われています。その呪いは神からのものではなく、人間が罪を犯した事が原因となっていました。

 病気や死は、人に何も教える事はできません。それらは単なるきっかけに過ぎないのです。私たちが何か良い事を学ぶ唯一の機会は、聖書の御言葉を聞いた時なのです。ですから、困難な経験をしなくても私たちは常に聖書から何かを学べます。人が困難を通るのは、サタンの攻撃にあっている事もありますし、自分で蒔いた種を刈り取っているケースもあります。又、油断して主との交わりの外に出てしまうと、困難に会ってしまうのです。この世は、悪霊どもが様々な方法で、この地上を混乱させているからです。

 一方、父なる神は人間に対して悪いものを与える事はありません。サタンについてよく知らずにいると、このような間違いにも気付きにくくなります。多くのクリスチャンは、何事も我慢するのが美徳だと勘違いしています。まさにこれは、サタンの思うつぼなのです。サタンは自分のした悪事を、神のせいにしているのです。

 こうしてクリスチャンが、神に対して不信仰を持つようになり、病気の癒しに対して消極的になっているのです。多くのクリスチャンは、天国に行くたどり着く事だけが、唯一の希望となってしまって、そこだけにしか、クリスチャン人生の意味を見出そうとしません。

 ヨハネ 10:10「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする為に他なりません。私が来たのは、羊たちが命を得る為、それも豊かに得る為です。」

 サタンは盗人であり、盗んだり、殺したり、滅ぼすだけの存在なのです。そして、イエスは、私たちに永遠の命を与え、それをさらに豊かにする為に十字架にかかったのです。クリスチャンがこの世に生きている間は、永遠の命を持ちながら、更に豊かに生きれるという神の恵みがあります。神は全てをコントロールする事をあえてせず、サタンにも人間にも自由意志を与えました。ですから、神の恵みは受け取る人間の意志が必要なのです。十字架の恵みだけで、全ての人を自動的に救う事はできません。そして、それを邪魔するサタンを忘れてはいけません。私たちは、敵を知らずにいると負けてしまいます。敵の存在を知って戦う必要があるのです。全ての良いものは天から来るのです。良いものと悪いものを見極めるのは難しい事ではありません。ただし、その判断には聖書の知識が必要です。

 神の主権があるとすれば、聖書の法則を定めた時に、ご自身の主権を行使したのです。それは、人に自由意志を与えて、神の恵みを受け取る人には祝福を与えるという信仰の法則です。信じれば救われ、癒やされ、解放されるという法則です。しかし、主からの恵みを現実化する為には、主との交わりから離れていた事を悔い改め(考えを変える)、信仰に立ってサタンに立ち向かって、邪魔者を追い払う事が必要なのです。

神を制限する考え

 私たち人間には色々なものが制限されていますが、神には制限がありません。しかし一部のクリスチャンは、神の無限の力を過小評価しています。 それは、彼らの考えが肉的であるからです。

 私たちの考える事が、常に肉の思いであるなら、霊的な考えが一切なく、御言葉の真理に基づいていない事になります。そうすると、私たちは目に見える現実だけを見てしまい、人間的な解決方法ばかりに頼ってしまいます。真理はその一時的な現実を変える力があるのに、私たちが自分の力で解決しようとするのは、私たちの弱さなのです。未信者がそのような解決方法を選ぶ事は、仕方のない事かもしれません。しかし、クリスチャンであれば、主に頼る事は基本的な歩みとなっているべきなのです。

 詩編 37: 4「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえて下さる。」

 主を私たちの喜びとして、人生の一番上に置く時、つまり、神の御国と神の義を第一に求める時に、私たちは御霊の思いによって明確に物事を考える事ができます。御霊の思いによって普段から考えていると、聖書的に正しい願いや夢を描くようになります。そうした思いは、肉の思いではなく、御霊の思いであり、神から来ています。そこには、利己的な動機がないので、純粋に主の計画を知る事もできるのです。究極的に私たちが知るべきものは、主にあって神の子となった私たちが、どのようにして御国の為に、ユニークな働きをしていくかという事でしょう。これこそが、この世で生きる希望であり、力なのです。


 人間的な考えによって、神の無限の力を制限するのは愚かな事です。それよりも、内にいるキリストを知って、聖霊の無限の力が私たちに宿っている事を知り「私を強くして下さる方によって、私はどんな事でもできる」と宣言しましょう。夢の到達には時間が掛かりますが、一歩ずつ踏み出していけば、必ずたどり着きます。