「悔い改め」の定義 1

 「悔い改める」という言葉を聞いた時に、ほぼ全てのクリスチャンは頭の中で「罪から悔い改める」という意味で理解しています。しかし、「悔い改め」という語は、必ず「罪」とは関わってはいません。一般的には、罪からの悔い改めを意識している為に、「悔い改め」という語が「罪を犯した事に対して深く反省する」、「罪を二度と犯さないように心を入れ替える」、「罪から180度背を向けて正しい方向へ向かう」、或いは、「罪を犯さないと誓う」、などといった表現で「悔い改める」を表そうとしますが、「悔い改め」と訳されているギリシャ語は、毎回、罪を取り扱っているわけでもないのです。

定義

 ギリシャ語による「悔い改め」の意味は「考えを変える」です。何について考えを変えるかは文脈上で判断します。罪から考えを変えるという事もできますし、その他のものから考えを変える事も可能です。「悔い改める」のギリシャ語は μετανοω(Metanoo)です。この動詞の語源は「Meta」と「Noeō」です。「Meta」(Strong's G3326)は前置詞で「移行の間に位置する」という意味があり、A地点からBへ移るという「変化・移行」を意味しています。「Noeō」(Strong's G3539)は動詞で、理解するという意味になっています。更にそれの語源は「Nous」(Strong's G3563)や「Noeō」の名詞形で、「考え・思考・理解」という意味があります。これらをまとめると、この動詞には「理解が移行の間に位置する」という意味があり、そこから理解を変える・考えを変えるという意味になります。*「Meta」がしばしば「~の後」と訳されるのは、移行する状態を見ているからです。つまり、ある地点から既に移り変わったので、「後になった」という事です。

 翻訳されたこの語は「悔い改める」となっていますが、一般的にはその定義が殆どの場合「罪から」の部分をくっつけて理解されています。この単語だけを見るなら、「考えを変える」というだけの事であり、「罪から」をくっつける必要がある時、つまり、文脈上でそれが明らかな時に「罪から考えを変える」となるのです。

 ギリシャ語による旧約聖書では、出エジプトの 32:14、ヨエル書 2:13、アモス書 7:3、ヨナ書 3:10には全て「Metanoeō」が使われています。これらの箇所では「悔い改める」の動詞の主語が神となっています。新改訳聖書では、これらの箇所の「Metanoeō」は、本来の「考えを変える」という意味で訳しています。もし、この単語を毎回「罪から悔い改める」という新約聖書で見られる定義にしてしまうなら、「神が罪から悔い改める」という事になってしまいます。

教会での「悔い改め」

 教会では「悔い改める」という語を宗教的なものにしてしまいました。ローマカトリックの影響は大きいでしょう。いわゆる「罪の告白」をしなければ救われないという教えです。実際に、「罪の告白」による悔い改めは「救いの必須条件」だと勘違いしているクリスチャンは大多数だと思います。しかし、ここで多くの人が定義している「罪の告白」は自分の罪を深く反省するという目的などでなされているのであって、それによって救われる事はありません。自己反省によって罪が赦されるという事ではないのですが、そのような考えに陥ったのは、自己反省を偶像の対象にしたからでしょう。しかし、自分で自分の罪を反省したら神がその人の罪を赦すという教えは、聖書のとこにも見当たりません。

 考えればすぐに分かります。まだ十字架にかかる前に、イエスは、「友よ、あなたの罪は赦されました」と言われました(ルカ 5:20)。中風の人の罪が赦されたのは、彼が自分の罪を反省したからでしょうか?この箇所を読んでみると、この中風の人が癒されたのは、彼を運んできた男たちの信仰をイエスが見たからでした。イエスが彼を癒したという事は、彼の罪が赦されたという意味でもあります。人が自分で自分の罪を反省し、罪を二度と犯さないと誓い、仮にその誓いを守ったとしても、それで自分の罪を処理できるのでしょうか?十字架の恵みとは無関係なのでしょうか?イエスの贖いの血は無駄だったのでしょうか?

 罪について反省するという意味で一般的に用いられている表現、「罪から悔い改める」という自己反省を意味するものは、クリスチャンの間で非常に宗教的なものになっています。あたかも謙遜な態度として理解されているのですが、実は全く逆です。それは、イエスの十字架の御業を無視して自分の反省によって罪を処理しようとする行為だからです。イエスの十字架の贖いよりも自己反省の目的の「悔い改め」を上にしているのは謙遜ではなく、究極的には人間のプライドなのです。「十字架の恵みはいりません、私は自分の罪を自分で反省する事によって(悔い改める事によって)処理できます」と言っているようなものです。

 注意したいのは、罪に対して反省する事自体が悪いのではなく、それを救いの必須条件にしてしまう教えや、主の恵みよりも大きなものにしてしまう宗教的な考えです。ギリシャ語の「悔い改める」という行為は「反省する」という意味ではありません。正しい訳は「考えを変える」です。自分の罪を反省しなさいという意味ではなく、イエスの十字架の血による赦しによって罪が既に赦されているので、その約束、或いは、真理に考えを変えなさいと教えているのです。

新約聖書での用例

 マタイの福音書 3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。」

 最初に「悔い改めなさい」と言ったのはバプテスマのヨハネでした。

 マタイの福音書 4:17「この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。」

 イエスはここで、「あなたの犯した罪について深く反省し、二度と罪をしないように誓いなさい」とは言いませんでした。ここも「考えを変えなさい」と単純に考えれば、全てが明確になります。イエスが地上にいた時の教えは主にユダヤ人に向けてなので、いままで聞いてきた「モーセの律法による考え方を変えなさい」とイエスは促しているのです。そうでなければ、恵みに基づく新しい契約を理解する事ができないからです。

 ヨハネの福音書 8:10-11「イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。誰もあなたに裁きを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。誰も。」イエスは言われた。「私もあなたに裁きを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」 

 この女は現行犯で捕まえられたのにも関わらず、イエスは彼女の罪について責める事はなさいませんでした。まずイエスは、女の罪を赦されました。その後に罪を犯さないようにと指示しました。これが恵みです。クリスチャンがしている「悔い改め=反省」は、単なる宗教的な行為であって、イエスの赦しを見る前に自分の犯した罪を反省し、それによって赦して頂こうとするものです。人が罪を犯してしまった時に必要なのは、イエスが私たちの罪を赦して下さったという神の恵みです。そして、その真理に私たちの考えを変える(悔い改める)必要があるのです。

イエスに目を向ける

 考えを変える事(聖書的な悔い改め)を実践しないで、罪について深く反省しようとするなら、再び同じ罪を犯してしまうかもしれません。何故なら、自己反省にはあなたを罪から解放する力がないからです。それでもその必要性に迫られるのは、私たちの良心がそれを示し、私たちの肉の思いが罪意識に向けようとするからです。良心は何が罪かを認識します。しかし、ここに私たちの肉の思いが働くと、私たちを罪意識に向けてしまいます。この時に、肉の思いに目を向けず、御言葉の真理に目を向け、御霊の思いで考える事ができれば、罪意識に留まる事はありません。人の良心は良し悪しを判断させる事もできるのですが、良心が働く時に肉の思い(サタンの誘惑)が介入すると、人は罪意識に悩まされる事になります。そこに長く留まると罪意識の束縛の中で苦しい思いをするでしょう。人を罪意識に追いやるのは、サタンの典型的な攻撃であり、私たちの肉の弱さが原因です。

 サタンはあなたの過去の失敗を責めるでしょう。周りの人もあなたの失敗を非難するでしょう。でもイエスの罪の赦しは完全です。何故なら、イエスの血は全ての罪を完全に取り除く事ができる聖なる血だからです。私たちはその真理に目を向けて考えを変えて、感謝するべきなのです。

 よく言われている「罪から180度背を向ける」という表現よりも、もっと具体的に「罪に対する従来の考えを変えて、イエスの赦しに目を向ける」とするべきでしょう。イエスに目を向けるなら、自然に罪から離れていきます。反省によって「罪に背を向ける」ようにしても、目をイエスに向けていないのなら、罪意識から解放される事にはならないですし、いずれまた罪を犯す事になるでしょう。

「悔い改め」の定義 2に続きます。