安息の真理 2

 モーセの律法の中の「安息」は、イエスという実物の影であって、表面的なものであり、真理を示す為のもの、イエスに導く為のものでした。従って、モーセの書いた律法の書からは、安息の真の意味は分からないのです。何故なら、イエスこそが真理であって、その時代にはまだイエスが来られていなかった為に、真理が明らかにされていなかったからです。

 古い契約の時代、特に、旧約聖書が書かれた時代には、真理についてストレートに書いてある箇所は、詩篇やイザヤ書などを除くと、多くはありません。イエスご自身が真理であり、イエスが真理を明らかにする事になっていたからです。そしてその後、全ての真理に導く御霊が、福音の奥義をパウロを通して明らかにされました。

 マタイ 12:1-8「そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。『ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならない事をしています。』しかし、イエスは言われた。『ダビデと供の者たちが空腹になった時に、ダビデが何をしたか、どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだ事がないのですか。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、という事を律法で読んだ事がないのですか。あなた方に言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。「私が喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」とはどういう意味かを知っていたら、あなた方は、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。』」

 パリサイ人にしてみれば、弟子たちが安息日に穂を摘んで食べる事は罪だったのですが、イエスの解釈はそうではありません。イエスはダビデが神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたと言って、弟子たちもダビデと同じ事をしたのだと言いました。イエスは、ダビデのした事は罪とはならない理由も言いました。それは、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないという律法に基づいています。

 さて、ダビデはエポデを着て踊った事が書かれています(2サムエル 6:14)。彼は王として油注がれた者であったのに、祭司の格好をしていた事は、モーセの律法を破る行為です。しかし、新しい契約の教えの視点(真理の視点)で見れば、イエスを信じる人は全て祭司です。では、ダビデは古い契約の下にいながら、イエスを信じる者が祭司の役割を持つという真理を既に知っていたのでしょうか?その通りです。

 ダビデは多くの啓示を与えられていた数少ない信仰の人でした。彼は、祭司として神の家に入り供えのパンを食べたのです。彼はモーセの律法の下にいながら、それに縛られず、真理の教えを見つめていたのです。ダビデはモーセの律法を守る事による義による生き方ではなく、信仰による義をアブラハムと同様に知っていたのです。ダビデが信仰によって義と認められた根拠は、彼の名がへブル人への手紙11章で取り上げられている事からも明らかです。

 ダビデは、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」事を生き甲斐としていました。「モーセの律法」ではなく、「主の教え」を喜んだのです。ここの主の教えがモーセの律法でないのは、ダビデが「主が良くして下さった事」、すなわち、全ての咎を赦し、全ての病を癒やし事を何一つ忘れなかったと言っている事から明らかです。ダビデは古い契約の下にいましたが、イエスの十字架の贖い知っていたのです。

 詩篇 103:10「私たちの罪に従って私たちを扱う事をせず、私たちの咎に従って私たちに報いをされる事もない。」

 ダビデは律法の下にいながら、どうしてこのような事が言えたのでしょうか?モーセの律法によると、罪ゆえの報いは刑罰でした。しかし、それに従って神は報いをされる事もないと言うのです。ダビデは何故、キリストによって罪が赦される事を知ったのでしょう?それは、彼が神を慕って御心を求めたからに他なりません。

 ヨハネ  9:16「すると、パリサイ人の内のある者たちは、『その人は安息日を守らないのだから、神の元から来た者ではない』と言った。他の者たちは『人である者に、どうしてこのようなしるしを行う事ができるだろうか』と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。」

 パリサイ人の人々は、イエスを罪人だと考えていました。その理由が、イエスが安息日に癒したからです。実際イエスは、安息日を意図的に選んで癒しを行なっています。イエスは、本当の安息についてのヒントを彼らに与える目的で、そうされたのです。あえて、彼らの前で安息日に人を癒し、彼らの律法主義を混乱させたのです。この個所からも分かるように、同じパリサイ人の間でも分裂が起きました。

 モーセの律法の意味する、「安息日を守る」とは、「週一度の労働からの休み」や、「礼拝する日」という定義ではなく、イエスを信じるという事でした。イエスを信じる私たちにとっては、毎日をイエスを信じる日(安息日)とするべきです。そこには真の休息があり、自由があります。そして、自由に人を助ける事が出来る毎日があるのです。