ヤコブによる祝福の為の按手 (創世記 48:14)
贖罪の日に祭司がした務め (レビ記 16:21)
祭司の相続や任職の儀式 (民数記 8:10)
モーセがヨシュアに按手 (民数記 27:18-19、申命記 34:9)
レビ記 16:21 に書いてある祭司の務めは、贖罪の日にヤギに按手したもので、イスラエルの民の罪がヤギに移された事を象徴しています。新しい契約の下ではこの儀式はありません。
新約聖書での按手は以下の通りです。
癒しに関する按手 (ルカ 4:40、マルコ 16:18、使徒 28:8-9)
聖霊のバプテスマに関する按手 (使徒 8:17、使徒 19:6)
執事の任命に関する按手 (使徒 6:6)
バルナバとパウロに按手 (使徒 13:2〜3)
按手の忠告 (第一テモテ 5:22)
パウロのテモテへの按手 (第二テモテ 1:6)
リーダーを任命する為の按手は旧約時代と同じですが、新約聖書では、癒しの為の按手、聖霊のバプテスマの為の按手(第二テモテ 1:6)などです。この聖句は、パウロがテモテに一つの「御霊の賜物」を与える為の按手、分与の為だったと誤解されていますが、そうではありません。
按手と御霊の賜物
按手によって、奉仕の働きの為の御霊の賜物が人から別の人に与えられるという事は、実際にはありません。按手した人から何かの祝福や影響を受ける事はあっても、それが御霊の賜物を分与する必須条件ではありません。ギリシャ語の「賜物(カリスマ)」という単語の直訳は「恵みの現れ」であり、神から与えられた恵み(聖霊)という意味と、教会における奉仕の働きがあります。一般に、御霊の賜物を「神から与えられた霊的な力」として誤解されている為、それを持っている人が按手によって、その賜物を「分与」する事が可能だと勘違いされています。しかし、第二テモテ 1:6 の定冠詞の付いている単数の賜物(カリスマ)は、聖霊の事です。第一コリント12章でパウロが説明している「御霊の賜物(カリスマタ)複数」は、教会における様々な奉仕の仕事の事です。
按手のおかげで賜物による奉仕をする事になったというような証しは、「按手の効果」があるように見えるだけであって、実際には、それが単に「信仰が働くきっかけ」となっているだけです。信者の場合、信仰によって奉仕を始めるだけで、賜物による働きが可能です。ある意味、按手を受けたら「私は~ができる」と信じるならその通りになるのです。同様に、とにかく人を助ける事をしていれば、神が助けて下さると信じても、カリスマによる働きが可能になります。従って、按手を受けていなくても、例えば、癒しの働きができない訳ではありません。
新しい契約の下では、神の子として信仰によって歩めば、様々な形で神の栄光を現す事ができるのです。按手は霊的成長や奉仕の為の絶対的な儀式ではありません。ですから、按手にこだわる必要はないのです。その他、聖霊のバプテスマ、異言、その他の奉仕の働きとしての賜物(カリスマ)なども、按手が必須となっているわけではありません。誰かの按手に頼らずとも、自分で信仰の一歩を踏み出すなら、様々な事が起こって来ます。
リーダーの任命
ヨシュアはモーセを観察して、神と共に歩む事を学びました。その後、彼はモーセの後継者となりましたが、これは、新しい契約の下でも通用する考え方です。ヨシュアには、謙遜と情熱があったので、神はヨシュアを次のリーダーとして選んだのです。旧約聖書では神が選んだケースが殆どですが、神がリーダーを選ぶのは、「きまぐれな神の御心」という意味の「神の主権」ではありません。私たちは神の御心をそのように定義するのですが、神がなさる事は「きまぐれ」ではなく、ご自身の性質に基づいており、未来を見据えての判断であり、私たちの信仰と従順次第なのです。
次のリーダーにふさわしい人は、信仰と従順な心を持っています。リーダーにふさわしい人についての判断は、パウロがテモテに指示している通りです。その基準を元に、私たちは誰がリーダーとしてふさわしいかを判断します。ですから、使徒たちが教会をスタートさせた頃からは、教会に仕えるリーダーの任命は、使徒たちの按手を通してなされました。最終的には、人の判断だけでなく、主に聞いて判断するのがベストでしょう。
新しい契約の下でも、ヨシュアのように、信仰の模範者から学んでいる人が、次のリーダーになります。エリヤからエリシャもそうでした。テモテはパウロから学びました。しかし、弟子がイエスから学んだように、私たちの最高の信仰の模範者はイエスだけなのです。情熱と献身的な心と謙虚にイエスから学ぶ姿勢があれば、その人は神に導かれるでしょう。神はそのような人に多くの事を教えられます。このように考えると、按手によるリーダーの選定は、単に聖書学校を終えたからという事に基づくものではない事が分かります。
按手について 2に続きます。