按手について 2

 へブル 6:1-2「ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠の裁きなど、基礎的な事をもう一度やり直したりしないようにしましょう。」

 「手を置く儀式」とは、いわゆる「按手」の事ですが、これは「キリストについての初歩の教え」です。一般に、私たちは「按手の儀式」にこだわり過ぎています。私たちがどのようにバプテスマを授けるか、或いは、聖餐式の些細な事柄にこだわり、宗教的に熱心になると、神を愛し、隣人を愛する事を忘れてしまいがちになります。しかし、私たちはそうした上辺だけのものや初歩の教えを後にして、成熟を目指して進む必要があるのです。

認められる為の按手?

 人は誰でも誰かに認められたいと望んでいます。しかし、クリスチャンの場合は、自ら進んで人から何かを認められる事を望む必要はありません。他の人があなたを何らかの形で認めたり、評価したりするのなら、時にはどうする事もできませんが、あなた自身から人にりっぱだと認められようとする必要はないのです。

 ヨハネ 1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供となる特権をお与えになった。」

 イエスを信じた者は「神の子供となる特権」があります。新改訳聖書の「特権」はギリシャ語の exousiaであり、「権威」という意味です。御父ご自身が私たちを「神の子」としての権威を授けて下さったのです。そうであるなら、私たちは他の人に認めてもらう事を望む必要はもうありません。私たちの神が私たちを最高の形で認めて下さったからです。

 肉の思いで歩む人は誰かに認めてもらいたいという欲求を常に持っていて、未信者の場合なら、あらゆる面において、彼らのその欲求に対する執着心が表に出ます。しかし、クリスチャンである私たちは、そうした欲求(肉の思い)から解放されているのです。それにも関わらずあるクリスチャンたちがその束縛の中にいるのは、本来の自分自身を知らないからなのです。自分自身を知らなければ誰でも不安になるものです。そして、その不安を取り除く為に、誰かに認められようとします。しかし、誰でも自己承認を追求するなら、自己中心的になります。

按手と任命とアイデンティティー

 新しい契約の下でも、リーダーを任命する為に按手を行います。しかし、按手の儀式を必要以上に重んじてしまうなら、それが周りの人に認めてもらう為の儀式になりかねません。私たちが気づかなければならないのは、リーダーを任命する為の按手は、それを受ける人たちが、既にふさわしい働きや結果を出しているから行われるのです。例えば、バルナバはエルサレムの教会からアンテオケに既に派遣(送られる=使徒)されているリーダーでした。使徒としての働きが既にあり、それが周りにも認められている上で、聖霊は他の使徒たちに言われたのです。

 使徒 13:2「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、私の為にバルナバとサウロを聖別して、私が召した働きに就かせなさい」と言われた。」

 バルナバとサウロは既に使徒や預言者としての働きをしていました。按手が彼らを使徒にさせたのではありません。しかし、私たちは按手が鍵だと勘違いして来ました。このような誤解は、近年の使徒と預言者についての教えが影響しています。使徒や預言者を「霊的なエリートのタイトル」などと考えているのなら、それは間違いです。実際、五役者よりも優れたポジションは「神の子」です。五職にこだわる人は、その役職の範囲までしか成長しません。しかし、「神の子」として歩む人は、父なる神から全てを相続する者として、大胆に地上を治める事をします。私たちが持つべき正しい理解は、「神の子(アイデンティティー)」として「五職の役割を果たす」という事です。アイデンティティーは神の子ですが、五役者は御国の仕事であり、神と人に仕える事です。

按手の意義

 当然ですが、按手自体には力がありません。按手は単なる儀式です。ですから、大事なのは按手を受けたかどうかではなく、その按手にふさわしい歩みをして、結果を出すかどうかが重要なのです。按手を受けたからといっても、それ自体が神からの絶対的な保障とはならないのです。近年、多くの教会において、按手の儀式が絶対的な神の御業と勘違いされています。その結果、言動がおかしな使徒や預言者が世界中で増えています。

 第一テモテ 5:22「誰にも性急に按手をしてはいけません。又、他の人の罪に加担してはいけません。自分を清く保ちなさい。」

 パウロは、誰にでも軽々しく按手してリーダーとして認める事を避けなさいと言っているのです。按手によって誰かが五役者のタイトルを使えるようになるのではなく、既に働きの実を結んでいる人たちに対してリーダーや周りの人たちが祝福する目的で、按手が行われるのです。何の実を結んでいないのに、「性急に按手をしてはいけません」とパウロは言っているのです。もう一度言いますが、按手をすれば五職の役割を始める事ができるのではなく、ふさわしい人格であり、その行いにも、結果が伴っている時に、按手という祝福の為の儀式が行われるのです。従って、「あの人が神に用いられているのは、~先生による按手があったから」ではないのです。

 人に認められないと不安を覚える、或いは、認められたいという高慢の思いは私たちが古い考え方で歩んでいるからです。しかし、キリストが私たちの内におられる事が分かれば、私たちに何かが欠けているものは存在しません。もちろん、その真理を頭で理解しているだけで、実際にはその道を歩んでないのなら、その人はまだ古い人の歩みを続ける事になります。実際に新しい人として歩み始めていない間は、どこかで古い考え(肉の思い)がその人の中で強く働いているので、多くの場合、真理によって思考が一新されていないのです。

 私たちの神は私たちを「神の子」として神の国に受け入れて下さいました。五役者のタイトルにこだわるのなら、それは「神に仕える者」という古い契約の視点なのです。旧約時代の「神に仕える者」よりも新しい契約の下での「神の子」がより優れているのは明らかです。私たちが目指す最終目標は「神に仕える油注がれた者」ではなく、イエスが示された「神の子」としての歩みなのです。

 結論から言えば、私たちは人に認められる事を追い求める必要はありません。しかし、人に認められる事自体は悪い事でもありません。良い評判は良いのです。ただ、それを求めて得ようとするのではなく、結果としてついて来るようにするのが正しい捉え方です。結果ですから、それは他の人たちの評価であって、あなた自身とは関係ありません。彼らが間違って評価しているとしても、それは明らかになります。重要なポイントは、あなた自身の努力によって、他の人の判断をコントロールしようとしない事です。何故なら、あなたは神の子として歩める特権を与えられたので、恐れるものは何もないからです。

 按手の目的は、他の人の祝福が主なものなのですが、それに余計な権威を与えてしまうと、按手を授けた人や受けた人が特別扱いされてしまいます。按手は絶対的な儀式ではないのですから、あっても無くても構いません。按手を受ける事は、全てが上手く行く保証ではありません。たとえ、神があなたを使徒だと任命して、使徒としての按手を著名な人から受けたとしても、その後のあなた自身の歩み、キリストの愛に基づく歩みが必須になります。私たちは、按手を必要以上に評価して、初歩の教えに留まるのではなく、固い食物を目指すべきなのです。