一度救われたらずっと救われている? その2

ローマ 8:38「私はこう確信しています。死も、命も、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高い所にあるものも、深い所にあるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離す事はできません。」

この箇所を引用して、「永遠の保障」を主張する人もいるようです。しかし、その内容はむしろ「神の愛」です。神の愛を引き離すものは、何もないという事ですが、それを「永遠の保障」と解釈するのは、飛躍し過ぎでしょう。多くの人が気づいていないかもしれませんが、実は、人が自ら地獄の道を選んだとしても、その人に対する神の愛は変わらないのです。天国に辿り着いた者だけが神に愛されているわけではありません。私たちが常に注意を払いたい点は、神が人を天に導く事ができるかどうかではなく、それを選択する私たちの信仰があるかどうかなのです。

「永遠の保障」は「神側」からは確定しているという事ですが、この部分は正解です。しかし、恵みは「神側」なのですが、信仰は「私たち側」にある点を忘れてはいけません。新しい契約は、イエスの方では破る事はありえません。しかし、私たちが信仰を捨てて(イエスを捨てて)、別の道へ行くなら、私たちは自ら滅びの道を選ぶ事になります。神は、私たちの自由意思を尊重します。神は、人の意志を捻じ曲げて何かをする事はされません。私たちをロボットとして扱うのはアガペーではないからです。しかし、滅びの道を選んだ人さえも、主は愛しておられます。何故なら、アガペーは無条件で人を愛するからです。

「条件付きの保障は、救いの為に自分で何か貢献したと信じる人たちにだけ受け入れられる」などと、否定的に考える必要はありません。殆どの場合、アルメ二ウス主義が強調するのは、「自由意志による信仰」についてです。もちろん、極端なアルメ二ウス主義者は、クリスチャンが罪を犯したら再び罪人に戻り、救われる必要があるなどと言いますが、それは間違いであり、ここのテーマとは無関係です。

また、アルメ二ウス主義が、エペソ 2:8-9 に矛盾しているいう主張も、極端な考えでしょう。

エペソ 2:8-9「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。誰も誇る事のない為です。」

イエスを信じて救われたからといって、私たちは自分の信仰を誇る必要はありません。自由意志による信仰は、「人を高ぶらせる」とする考えは、論点がズレています。彼らのこうした極端な考えは、「信仰は神の賜物」と主張する点にも見られます。しかし、パウロがここで言っている「神の賜物とは、信仰の事ではなく、恵みです。この誤解があるのも、自由意志による信仰について、極端に否定的に考えるからでしょう。

「自由意志は人間を高ぶらせる」と懸念する人々は、その自由意志で「高慢を拒む」という「選択の意思」ができる事に気づいていません。それに、
信仰の主張が「高ぶりを引き起こす」という事については、パウロも次の箇所で既に忠告してあります。

ローマ 11:20「その通りです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がる事なく、むしろ恐れなさい。」

この聖句の通り、信者が思い上がる事のないようにすれば、救われていない人々に対して軽視する事はありません。信者は、自分がイエスを信じた事による救いについて、特に誰かに自慢する必要もありません。

信仰を主張し過ぎて、それが高ぶりに繋がる危険性を心配するよりも、信仰によって救われるという、そのシンプルな真理に目を向ける方がもっと重要です。実際、信仰の大切さを強調する事は何も悪くありません。それが「高ぶりになる」というのであれば、信仰について書いてある聖書自体も、「高ぶり」に引き寄せているという事になってしまいます。まさに、そのような否定的な思考が問題そのものなのです!もっと単純に考えましょう。信仰は神が喜ばれるものです。

ヘブル 11:6「信仰がなければ、神に喜ばれる事はできません。神に近づく者は、神がおられる事と、神がご自分を求める者には報いて下さる方である事を、信じなければならないのです。」

さて、信仰について強調する理由があるのは、このテーマに関連させて言うならば、実は、不信仰に陥らない為です。

へブル 3:12-14「兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、誰も罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。」

「兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」という忠告があるのは、信者が不信仰になり、神から離れるケースもあるからなのです。ここはかなりストレートに書かれているので、強引な解釈を持って来ない限り、別の意味として捉える事は難しいでしょう。

恵みから落ちる

「一度救われたらずっと救われている」事を示唆しているような箇所は、聖書にありますが、よく見ると、はっきりとは書かれてありません。一方、その反対の事を示唆しているような箇所は、先程の聖句のように、ストレートな表現が見られます。次の聖句も同様です。

ガラテヤ 5:4「律法によって義と認められようとしているなら、あなた方はキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」

ἐκπίπτω の動詞は ἐκ(前置詞 out of)πίπτω(落ちる)から成り立っています。ここから明らかなように、「一度救われたらずっと自動的に救われている」わけではなく、もし誰かが「律法によって義と認められようとしている」なら「恵みから落ちてしまう」のです。律法主義や宗教によって義と認められようとする行為は、恵みを拒否するからです。パウロは、ガラテヤの手紙の中で、彼が教えているものとは異なる福音を教えている人たちは、呪われるべきだと二回も言いました(ガラテヤ 1:8-9)。

パウロによれば、クリスチャンでもキリストから離れ、恵みから落ちる事が可能だというのです。もちろん、信者がキリストを信じ、その信仰の通りに歩むのなら、その人は救われているという状態を保つ事になります。そこには、当然神ご自身の関わりもありますし、その人の信仰もあります。そして、この二つを知る事がこの種のテーマに答えをもたらす鍵です。すなわち、神が私たちを守ってくださり、成長させて下さる一方、私たちもまた、神を信頼し、絶えず神の教えに沿って歩むという選択をしなくてはならないという事です。

一度救われたらずっと救われている? その1

「永遠の保障」、「聖徒の堅忍」、「聖徒の保護」などと言われているものは、カルヴァン主義に基づいている教えであり、「一度救われたらずっと救われている」などのような主張します。*国語辞典によれば、「保障」は保護の視点で、「保証」は責任の視点を持つようです。この記事では「永遠の保障」とします。

永遠の保障

永遠の保障の教理の議論はかなり昔からあるもので、プロテスタント教派の中で最も議論がなされたものでしょう。この神学論を真理だと考えている人たちは、「聖書でこう言っているから」という自身の聖書的な立場をあまり主張せず、「私たちがこれを信じるのはこの神学的解釈を信じているから」という事を主張します。従って、あるグループに特有な教理などを一旦置いて、聖書が何を言っているかをストレートに読まないと、真理は分からないままになります。さて、
一部のグループの人々が「一度救われたらずっと救われている」と主張するのは、多くの場合、彼らの神学がカルヴァン主義に影響されているからです。この神学論を土台に発展した教団は多く存在します

例えば、アメリカで有名な牧師、ジョン・マッカーサーもその影響を強く受けている一人です。「救いの保障」という彼の説教の冒頭で、彼は次のように書いています。

「救いが失われる事もあるとする教理は、救いを条件付きにしています。その教えは、神が私たちを救って下さったので、「神の基準」に合わせてその救いを維持しましょうと言います。しかし、私たちが失敗する時には、いつでも救いを失うと教えます。このような教えは、行いによる義の視点です。」

さて、この中に間違いがあるのが分かるでしょうか?

答えは、「救いは無条件」だと暗示する彼の主張です。彼は、恐らく、無条件である「神の愛(アガペー)」と混同したのではないでしょうか。この冒頭の後、彼は次の箇所を引用します。

エペソ 2:8「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。」

この箇所は、まさに「救いが条件付き」である事をそのまま示している聖句です。ただ恵みによってではなく、私たちがイエスを信じたので救われたのです。ジョンは、救いが「恵みだけ」によると勘違いしたのか、それとも、恵みばかりを強調し過ぎて「信仰」を忘れていたのか分かりませんが、救いは無条件でない事は確かです。

その後の彼の主張の内容は(冒頭の滑りとは裏腹に)信仰義認、神と人との和解、仲介者であるキリスト、神の恵みなど、いずれもオーソドックスな内容で説明しています。しかし、何故かローマの5章は永遠の保障を示していると説明もなしに主張しています。更に、次の箇所を引用して、私たちの「永遠の保障」が「神の御力によって守られている」と言います。

I ペテロ 1:5「あなた方は、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いを頂くのです。」

ペテロは、この聖句で「永遠の保障」について何か言っているのではありません。私たちが「神の御力によって守られている」のは「信仰により」とはっきりと書いてあるので、信仰がここでも鍵というのが明らかです。

ジョンの説明や弁証は、正しいものも多くありますが、説明不足なものや、強引に結論づけるような箇所も幾つかあります。だからといって、彼は偽教師ではありません。問題は、カルヴァン主義の教理であり、こうした真理ではない教えの修正が必要なだけです。

一度救われたらずっと救われている? その2に続きます。

「新しい」発見

「新しい」という意味のギリシャ語は二つあります。νέος(neos)と καινός(kainos)です。

neos

「時間的」に「新しい」という意味をもち、人に用いられるなら「若い」という意味にもなります。ぶどう酒に用いられれば「古いぶどう酒」です。通常、私たちがよく使う「古い」の反意語が、この neos です。

kainos

過去との比較して「新しい」というものではなく、前例のない、斬新な、前代未聞の「新しさ」です。

マタイ 9:17「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんな事をすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」

ここでは、neos の単語が使われています。時間的に「新しいぶどう酒」を意味します。ぶどう酒はじっくり発酵させて作るものですから、普通に考えれば、「新しいぶどう酒」というのは人が好むものではありません。ですから、一般的には、酒は「古いものが良い」となるわけです。イエスが言った通りです。

マタイ 26:29「私はあなた方に言います。今から後、私の父の御国であなた方と新しく飲むその日まで、私がぶどうの実からできた物を飲む事は決してありません。」

「新しく」は kainos なので、斬新なぶどう酒になります。興味深い事に、マタイは、同じぶどう酒に対して違う形容詞を使っているのです。

次に、「新しい人」のケースを見てみます。

コロサイ 3:10「新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方の形に従って新しくされ続け、真の知識に至ります。」

ここでは neos が使われているので、時間的に「新しい人」になります。

エペソ 2:15「様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、」

こちらでは kainos が出ています。ここでは、「斬新な人」の意味で使われています。

コロサイ人への手紙も、エペソ人への手紙もパウロが著者です。何故、パウロも二つの形容詞を使ったのでしょうか?

次は、「契約」という単語です。

へブル 12:24「更に、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりも優れた事を語る、注ぎかけられたイエスの血です。」

ここでは neos が出ているので、時間的に「新しい」契約になります。

へブル 9:15「キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約の時の違反から贖い出す為の死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐ為です。」

ここでは kainos で形容されています。「斬新な契約」の意味になります。両方ともへブル人への手紙の中にあるので、同じ著者による、同じ名詞に対する二つの形容詞が使われている事になります。

まとめ

こうして見ると、同じ著者が意図的に二つの形容詞を使っている事が分かると思います。使徒たちが御霊の霊感によって聖書を書いた事実からすると、これらの形容詞の使用は偶然だろうという「憶測」よりも、意図を持ってそう書いたという「憶測」とする方が無難でしょう。そうすると、これらの「新しいもの」(ぶどう酒、契約、人)は、「時間的に新しい」だけでなく、「斬新」でもあるのです。

イエスが最も嫌った事

福音書を読むと明らかなのですが、イエスが非難した人たちは決まってパリサイ人と律法学者でした。彼らは律法主義で、いつも宗教的な考えで神を見ていたのです。彼らは、実際には、モーセの律法よりも自分たちの伝統的な教えを重視していて、その規律を守る事ばかりを義の基準としていたました。それゆえ、律法を守る事による義の獲得が彼らにとっての神となり、それはもはや偶像礼拝であったわけです。モーセの律法は、何が悪い事かを示す為にあるもので、それ自体は悪くはないのですが、彼らはモーセの律法を通して義を獲得するという事に考えを向けてしまいました。

律法的な愛

こうした勘違いは、例えば、人を愛するという、本来はモーセの律法の本質をとらえた神の真の教えであるべきものが、人を愛目的が自分の義を求める為であるなら、愛の実践ですら律法主義になってしまうのです。愛の言動によって、神や人に自分の義を認めてもらうと考えるなら、それはもはやアガペーの愛ではありません。

或いは、愛が大事だと教えるのは良い事ですが、それを人に押し付けてしまうとそれはアガペーでなくなります。私たちが愛し合うのは、主がまず私たちを愛して下さったからです。神の義を得る為にそうするのではなく、既にキリストを通して神の義を得たクリスチャンは、神の愛によって、お互いを愛する事ができるのです。

律法主義の義

さて、こうした宗教的、律法主義の考えは神が最も憎むものです。何故なら、そのような考えはいつも自分を義とみなして、相手をさばいてしまうからです。そこには赦しや憐れみがありません。いつも自分を正当化し相手を見下します。パリサイ人と律法学者は常に自分たちの正しさを主張して、彼ら以外は全て罪人だと裁いていたのです。彼らが清い心で神の言葉に忠実で律法を全て守っていたならイエス様も納得していたでしょう。ところが、彼らの義は偽善でした。

イエスは彼らに対して、たとえ話を用いて彼らの嘘を指摘しました。多くのたとえ話の内容は、ユダヤ人が最初に救いに預かる民であったはずが、罪人や異邦人が先に神の国に入ってしまうというものでした。痛烈な皮肉よって、主は彼らの愚かさを暴露したのです。彼らは選ばれた民として、モーセの律法を通して、誰よりもキリストを知っているべきでした。律法はキリストに導くための養育係だったからです。

律法主義の考えに染まったパリサイ人や律法学者は、モーセの律法を行う事による義を求め続け、同時に、そうしない人は罪人だと裁いていたのです。しかし、モーセの律法を守る事ができた人は、誰もいませんでした。人は誰も律法を守る事ができないからであり、それゆえに、キリストによる救いの道を神は用意しておられたのです。

ローマ 9:31「しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。」

人類の歴史上律法を完全に守る事ができたのは、イエスしかいません。パリサイ人や律法学者は、自分たちが守れない戒めを人々に押し付け、いつも自分たちの有利になるようにモーセの律法を利用していた偽善者でした。彼らは貧しい人とやもめの家を食いつぶす為に、モーセの律法を乱用し、自分たちがそれの専門家である立場を乱用していたのに過ぎません。このような支配と束縛は、サタンからのものです。

律法と恵み

恵みに反する教えは全て宗教的なものです。ですから、律法主義の教えは神が最も嫌うものなのです。それは、イエスの恵みが私たちに届かないように邪魔をするものです。イエスの十字架を妨げるような忌まわしいものであり、信仰によって救いに至るという真理を台無しにする教えです。

マルコ 9:42「また、私を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまう方が良いのです。」

パリサイ人と律法学者は、イエスを信じようとする人々の邪魔をしました。あらゆる機会を捉え、イエスの福音の邪魔をしたのは彼らでした。

パウロもまた、彼がまだサウロであった時、大勢のクリスチャンを迫害していました。まさに、彼は神の働きを邪魔していたのです。彼にしてみれば、そうした愚かで恐ろしい事に携わっていたのにも関わらず、イエスが顧みて下さったのは、恵み以外の何ものでもなかったと思ったに違いありません。

I テモテ 1:15-16「キリスト・イエスは罪人を救う為に世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私は憐れみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠の命を得る事になる人々の先例にする為でした。」

純粋な恵み

今日、様々な教派の下で教えられている福音は宗教的な教えが混ざってしまっています。初代教会でも、そうした事は
起きていました。ガラテヤの教会に割礼を持ち込んだユダヤ人の信者は、異邦人を律法の下に閉じ込めようとしたのです。パウロは彼らをにせ兄弟と呼びました。

ガラテヤ 4:17「あの人たちはあなた方に対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなた方を私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。」

パウロが、「あなたがたに恵みがあるように」と彼の手紙の中でよく言ったのは、主に対する恵みの理解があったからでしょう。

ガラテヤ 2:21「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」

私たちは恵みで始まったのですから、一切の律法主義を捨て去り、恵みの中に歩み続ける事を心がけたいものです。

罪は赦されているから罪を犯しても良い?

恵みは罪を犯しても良いという許可を与えるものではありません。罪が赦されているという真理を軽んじ、罪から離れて、義の道へ進む事をしないクリスチャンが近年増えて来ています。このような教えはハイパー・グレイス(極度の恵み)と呼ばれていて、十字架の恵みを曲解しています。

罪と死の原理からの解放をきちんと理解すると、人は神の恵みを乱用しなくなります。何故なら、人の罪を赦した神の愛がその人の内に働くからです。

I ヨハネ 4:10「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

私たちの罪が赦されているのは神の愛ゆえです。この十字架の愛は人を罪から解放し、ついには罪を犯さないようになるまで、完全に成長させる力を持ちます。私たちがキリストの愛に目を向けて信仰によって進むなら、必ず完全に成長を成し遂げる事ができるのです。この愛は決して軽んじられるべきではありません。

ローマ 2:4「それとも、神の慈しみ深さがあなたを悔い改めに導く事も知らないで、その豊かな慈しみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」

神の愛とその恵みがきちんと教えられているのなら、人は「赦されているのだから罪を犯しても大丈夫」という考えには至りません。そう考えている人は、恵みについて聖書が何を教えているか分かっていません。ハイパー・グレイスの教えは、神の恵みを自分勝手に都合の良いように解釈してしていると言えますが、結局のところ、恵みを正しく理解していないだけなのです。

一方で、律法主義者にしてみれば、あらゆる細かい事にこだわり、上辺だけの行いばかりに意識を向けているので、恵みを知りません。こちらもイエスの恵みを理解していない人たちです。

I ペテロ 2:24「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義の為に生きる為。その打ち傷のゆえに、あなた方は癒された。」

私たちが罪を離れ、義の為に生きる為に、キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われたのです。私たちは罪から離れて、神の義の為に生きられるのです。しかし、それは自動的にそうなるのではなく、私たちの選択によるものです。自由になった私たちでも、また再び肉の思いによって、罪の奴隷のように歩む事もできます。しかし、イエスに与えられたその自由は義の為に生きる為なのです。

私たちの選択とは何でしょうか?それは成長するという選択です。成長なしにそのまま肉に属する者として歩む事も可能であり、そういうクリスチャンはコリントの教会にいたクリスチャンでした。

I コリント 3:1「兄弟たち。私はあなた方に、御霊に属する人に対するようには語る事ができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。」

パウロは「キリストにある幼子」という表現を使って、コリントのクリスチャンを幼子として扱いました。彼らは肉に属する人たちであり、様々な混乱や分裂を起こしていました。このように、クリスチャンは誰でも肉によって歩む事が可能です。しかし、成長を目指す考えを持つ事もできます。それこそが、勝利を得るクリスチャン生活に欠かせないものであり、それは御霊によって歩む事を意味します。

II ペテロ 3:18「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい...」

私たちが成長するのは、「イエス・キリストの恵みと知識において」です。注意しなければならないのは、イエスの恵みは私たちが永遠の命を得る為に必要だったものだけではありません。その恵みは、私たちを成長へと導きます。主の恵みを知れば知る程、私たちは罪を犯さないように、強くなる道を選びます。

「反省」という宗教的な悔い改めが私たちを成長させるのではありません。それはかえって、私たちのうちに罪意識を生じさせ、私たちを束縛してしまいます。しかし、十字架の恵みを見る時に、私たちはその恵みの力によって、罪から離れて行きます。どうしてそうなるのでしょう?それは、人が主の恵みを知った時に、主の愛に引き寄せられるからです。主の愛が分かったからこそ、私たちは悔い改める(考えを変える)のであり、悔い改める事によって罪を赦されようとする行為は、自分で義を獲得しようとする宗教のようなもので、やるべき順序が逆です。

エペソ 4:13「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」

II ペテロ 3:18 によれば、私たちが成長するのは、「イエス・キリストの恵みと知識において」です。何故なら、「神の御子に対する信仰と知識において一つ」になる時に、私たちはキリストの幼子から霊的大人になる事ができるからです。イエスに関する信仰と知識を増すにつれて、私たちは大人として歩める、義の道を歩めるようになります。

へブル 5:12-13「あなた方は、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げた言葉の初歩を、もう一度誰かに教えてもらう必要があります。あなた方は固い食物ではなく、乳が必要になっています。乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。」

幼子は乳しか飲みません。堅い食物は義の教えに通じている大人の食べ物です。ですから、イエスに関する知識が増えると、義の教えに通じる者として歩めるわけです。肉に属する思いを捨て、キリストについての恵みと知識に関する御言葉を昼も夜も口ずさみ、思考の一新によって、私たちは自分自身を変える事ができます(ローマ 12:1-2)。これが聖書の教えている成長の方法です。

古い物が良いという考え

ルカ 5:39「また誰も、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」

一般に、発酵の過程を経て月日がたったぶどう酒は、美味しい物として認識されています。それを飲んだ人は、新しいぶどう酒は美味しいわけがないと考える事でしょう。それは偏見ではなく、一般常識として知られています。しかし、ここでイエスが言われている新しい物とは、神の成された新しい事でした。人がぶどう酒で考えているようなものとは違い、神の成された新しい事は古い物よりも良かったのです。それは、古い契約が新しい契約に変わったという事です。

ですから、新しいぶどう酒が新しい契約であるなら、どうしてクリスチャンが古い物、古い契約を良いという事があるでしょうか?しかし、恵みをあまり体験していないと、イエスの教えよりもモーセの教えが良いとし、律法主義になる傾向があるかもしれません。しかし、聖書は新しい契約はより良いものだと示しています。実際、神の恵みを知った信者の中では、古い契約を良いと考える人はいないはずです。

古い契約は旧バージョンのソフトウェアのようです。アップデートされたソフトウェアを用いれば、その会社からサポートを受けられますし、新しい機能の恩恵も受けられます。モーセの律法を遵守する生き方で良いと考えるなら、その人はイエスの教えを最優先させないでしょう。その必要性を感じないからです。しかし、イエスは、「まことに、あなた方に言います。取税人たちや遊女たちが、あなた方より先に神の国に入ります」と律法学者やパリサイ人たちに言われ、彼らがモーセの律法を通して得ようとしていた義は不十分だと解き明かされました。<

考えてみて下さい。取税人たちや遊女たちはモーセの律法を守って歩もうとしていた人たちではありませんでした。律法学者やパリサイ人たちからすれば、彼らは軽蔑視されていた人たちです。皮肉にも、モーセの律法から遠くにいた人たちの方が、先に神の国に入るという事が起こったのです。何故なら、そうした人々がイエスの教えを受け入れ、モーセの律法に詳しい人たちがイエスの教えを拒み、モーセの教えに従う事を決めたからです。彼らは、古いもの、古い契約がが良い思っていました。

ルカ 5:37-38「また誰も、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんな事をすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。」

イエスが祭司や律法学者に会う時は、必ずといっていいほど何かの言い争いに巻き込まれました。彼らが主張するのは律法ですが、イエスは神の恵みとまことを実現する為に来られました。イエスの新しい戒めは古い皮袋に収まりません。新しい人を着ないと新しいぶどう酒は保たれません。 モーセの律法は人を義にする事ができない、不完全なものです。悪いものではないのですが、不完全なものです。キリストの十字架によって成就され、新しい戒めにバージョンアップされる必要があったのです。しかし、多くのユダヤ人はこの神のなさろうとしていた新しい事に興味がありませんでした。 慣れ親しんだ古いものは良いと考えていたのです。

もし、古い契約が新しい契約よりも良いバージョンであったなら、イエスの教えや、その十字架での御業、その死は全て無駄だったのです。キリストの十字架の贖いを軽んじている人たちは、様々な旧約時代の祭りや儀式にこだわり、それらをする事によって、何らかの恩恵が未だにあると信じています。しかし、古い契約によって生きる生き方は、もう過ぎ去ったものです。恵みから落ちて、モーセの律法に戻るのなら、イエスの十字架を軽んじる事になるのです。律法学者やパリサイ人のように、モーセにつくか、イエスにつくか、どちらかしかないのです。

現在、神はイスラエル人を始めとするイエスを知らない人々を裁きません。モーセの律法に従って、神は人を裁く事を終えられたからです。それは、モーセの律法に基づく裁きは、全てイエスが負われたからです。ですから、神を知らない人たちには、神を信じる機会がある限り、神の恵みによって救われるチャンスがあります。古い契約はモーセの律法に基づく裁きと刑罰を訴えますが、新しい契約は神の恵みと罪の赦しを訴えています。

例えば、アロンの息子たちが間違った捧げものをした時、天からの火によって彼らは死んでしまいました。それが起こったのは、イスラエル人にモーセの律法を守らせ、彼らが偶像に走らせない為、罪を犯させない為でした。神が恵みについて明らかにされていない時代には、その時代の人々はモーセの律法だけが頼りでした。しかし、こうした事は古い契約の下での出来事なのです。現在でも、モーセの律法を守って生きている人たちがいますが、彼らがモーセの律法を破ったからといって、その刑罰が彼らの上に臨む事はありません。モーセの律法による義(刑罰)ではなく、キリストの義(赦し)によってアップグレードされたので、全ての人々は赦されています。その赦しを信じて唯一の救い道を選ぶか、それを拒んでしまうかは私たち次第です。

マタイ 5:20「私はあなた方に言います。あなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の御国に入れません。」

「律法学者やパリサイ人の義にまさる」義とはキリストの義です。それは、イエスを信じて義と認められる時に与えられる義です。それはモーセの律法を守る事による、むなしい自己の義の獲得ではなく、栄光に満ちたキリストの義を身に着ける事です。

ローマ 10:4「律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者全てに与えられるのです。」

多くの人は恵みを理解していません。神は災いを与えて私たちを懲らしめているのではなく、全ての罪の赦しを宣言されたのです。神はイエスを通して人の罪を赦されました。イエスが代わりに、罪の刑罰をお受けになりました。この恵みによって生きる教えと、モーセの律法によって生きる教えは相反しています。

ですから、イエスを信じていながらも、まだモーセの律法にこだわっていたり、律法主義的な考えに傾倒している人は、考えを完全にアップグレードする事をお勧めします。そうでないと、あなたの律法的な考えは自らを律法という束縛の中に再び置いてしまうからです。

ガラテヤ 5:4「律法によって義と認められようとしているなら、あなた方はキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」

イエスにつく者は、古い契約ではなく、新しい契約の下にいます。新しく生まれ変わった私たちは、新しい歩み方になっているべきであり、その為に、新しい契約があるのです。クリスチャンの歩みが正しい方向に向かっていない理由の一つは、考えが古いままだからです。新しい契約の教えを知り、心の一新(思考の一新)によって私たち自身を変えなければいけません。

II コリント 3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」

体験主義の問題 その2

この近い将来において、癒しがもっと頻繁に起こる事になります。その時には、癒しを見て過剰に興奮してしまう幼い考えを持つ信者よりも、どうしたらイエスのように歩める事が出来るだろうかと、大人の考えを持つ人がより増えているでしょう。そのような人々は、しるしを求めているのではなく、御霊の実を求める事、霊的に成長する結果として、しるしが現されるようになる事を知っています。もはや、癒しが神の御心かどうかは既に問題ではありません。これと似たように、聖霊の声を聞くかどうかが問題ではなく、正確に聞いているかどうかが重要なのです。或いは、ただ奉仕をすれば良いのではなく、自己満足の奉仕から解放され、真に人を助ける事を優先させ、奉仕の働き自体が主との共同作業であると悟る事が重要なのです。

仮に、体験主義者の強みがあるとすれば、それは霊の世界に関して強い確信を持っている事くらいでしょう。理論ばかりで行動しない人は無難な道を通っているかもしれませんが、それは多くの場合、信仰によって歩んでいない事でもあるので、神はそのような人たちを通して御業を行なう事ができません。もちろん、そうした人々でも、「用いて下さい」とは口にします。しかし、信仰による一歩を踏まないなら、神は共に働く事ができないのです。

一方、体験主義者を神が用いるケースがあるのは、彼らは彼らなりの間違った考えがあるものの、とにかく行動に移すからでしょう。過去の歴史でも、行動力のある人は多くの奇跡も体験しました。もちろん、そのような人たちの中から、カルト的な方向に行ってしまったケースもあります。体験主義者の多くは、きちんとした聖書の理解に乏しい為に、霊的に不安定であり、癒しと悪霊追い出しの結果も不安定です。聖書の理解が中途半端なら信仰も不安定です。何故なら、御言葉は私たちの信仰の土台であり、そこがしっかりしていないと不安定になるからです。

神が御力を現しやすいのは、神の御心に完全に一致している人を通してです。しかし、完全に神の御心と一致していなくても、行動に移す人でも、神はある程度の御力を現して下さいます。理論ばかりにこだわってあまり動かない人は、神の力をあまり体験しない人でしょう。「多少の間違いは良い」としてはなりませんが、全てを完全に熟知してから行動に移すという考えも最適ではありません。理想は、正しい聖書の理解を持ちながら、行動に移す人である事です。

総合的に見るバランス

多くの教会は偏っています。霊的現象に振り回されている一部のカリスマ派の人々を見て、賜物よりも御霊の実だとして、御霊の賜物には一切かかわらない立場を取る人々がいます。しかし、その立場にいる人々も「中途半端」なのです。御霊の賜物も御霊の実も、神からの良いものであるという事に気づくべきです。多くの教会は、自分たちの教理や考えに合わない部分は避けたり、自分たちの強みだけを強調したりします。時には、非難する事によって、自分たちのグループの優位性を主張する事もあります。そうして、何かに偏った考えを堅く保持しているのです。

例えば、御霊の実を口酸っぱく言うグループは、神の愛を強調する一方で、同じ御霊の実である「自制」についてはあまり考えません。或いは、愛が信仰より優れたものだからといって、信仰をおろそかにして愛を求める事をしてみたりします。或いは、「吟味が大事」と言いつつも、預言の吟味を全く実践していないグループもあります。その他にも、異言は認めていても、その実践に関しては消極的であったり、宣教命令が全ての国の人々をキリストの弟子とする事にまで及ぶのにも関わらず、未信者を信者にするだけで満足していたり、リーダー的な役割が複数あるのにも関わらず、一人のリーダーが全てをこなしていたり、様々な問題があります。要するに、今日の教会で起きているありとあらゆる事は、全てが中途半端なのです。現存しているほぼ全ての現代の教会は、コリントの教会よりも幼いのにも関わらず、人々は聖霊から最新の啓示を与えられていると高慢になっているのです。

私たちがこのようにして、何かに偏ってしまい、バランスを保てないのは、その偏った状況が楽だからです。幼い考えを持つ私たちは、総合的に考え、深い洞察力を持っていません。考えについては大人でありなさいとパウロが言っているのは、総合的なバランスを保ち、優先順位を明確にしなさいという意味も含みます。この二つが明確になるには、全体が見えていないと不可能です。コリントのクリスチャンは肉に属していた霊的な幼子でしたが、彼らはいつもバランスに欠いて秩序を乱していました。彼らは何を優先するべきか、全く理解していなかったのです。彼らが唯一優先していた事といえば、他人よりも自分自身の事でした。

理論ばかりで実践がないならそれは霊的な歩みではありません。理論派は聖書に詳しく慎重な人たちかもしれませんが、概ね聖霊の導きに関する証しを持っていない人たちです。一方、体験主義の人たちは、聖書という究極の神のマニュアルをしっかり読まずに、個人的な霊的体験に傾倒し、個人的な解釈による教えをしてしまう傾向があります。両者に共通しているのは、どちらもバランスを欠いている所です。聖書を読んで、自分の体験とイエスの教えが一致するかどうかを確かめる事(善悪の判断)、これが大人の考えです。

ヘブル 5:14「固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。」

体験主義の問題 その1

全ての霊的体験は、必ずしも神からのものとは限りません。それを知らずに霊的体験ばかりに傾倒してしまうと、聖書の真理を軽んじてしまいます。ある人々は、自分の体験したものを重視してしまいがちで、聖書に書かれているかどうかよりも、自分の体験に基づいた考え方を優先します。霊的体験にこだわり過ぎると、それが全ての判断の基準になってしまい、聖書の解釈の基準にさえなってしまう事もあるでしょう。聖書を主観的に捉えるなら、そこから独自の見方や解釈が生まれて来てしまいます。

私たちの体験は、聖書の真理を証しするものであるべきです。私たちが真理をより理解する為に、様々な「良い体験」があるべきです。聖書で既に明らかになっている真理を、実践を通して私たちは体験的に学びます。全ての霊的体験が神からのものではないという事は、幾らかの霊的体験は、「悪いもの」という事になります。参考にすべきでない体験は、聖書の解釈に必要ありません。この事を理解していなければ、聖書の理解の仕方が、独断と主観の強いものになりがちです。カルト的な教えは全て、何らかの霊的体験に基づくものであり、聖書の真理に沿っていないものです。真理の言葉は私たちにとって最終的な神の権威であり、私たちの体験に基づいて真理が解釈されるべきではありません。むしろ、私たちの体験が御言葉によって吟味されるべきなのです。

バランス

聖書の御言葉は実践的であり、力のある生きた言葉なのですが、御言葉を実行しないなら単なる机上の理論にしかなりません。そうなれば、御言葉の力を体験する事がなく、聖書の理解もせいぜい半分くらいでしょう。だからといって、霊的体験ばかりを追い求めるような考えにも問題があります。霊的な体験を必要としながらも、それらを追い求めずにするには、どうしたら良いのでしょうか?

マルコ 16:17-18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒されます。」

イエスは、信じる人々にしるしが伴うと言われました。信者がしるしを追うのではなく、信者として歩むなら、しるしが伴うと教えられました。ですから、しるしを追い求める考えをやめ、真のキリストの信者として歩む事を心がければ良いのです。

しかし、体験主義者は霊的体験を聖書によって吟味する事を怠りがちで、やたらと「聖霊がこう示した」と言って、自分の考えなどを主張します。ヨハネは、「霊だからといって、みな信じてはいけません」と注意しました。従って、聖霊かどうかを試す事は吟味をする上で重要な事です。イエスの教えに反しているようなものは、必ず吟味した上で判断するべきでしょう。そうすれば、闇雲に霊的なものを全て聖霊からのものとせず、私たちの信仰を霊的体験ではなく、御言葉に置く事ができます。霊的体験に信仰を置くなら、それは結局、五感に頼るものであって、何かを感じた(見た・聞いた)事にとらわれているだけなのです。そうした体験を追い求めている人は、それらが過去の出来事になった時には、新たな霊的体験を追求しないと満足しなくなります。

聖書の理解と体験

体験主義者が勝手に聖書を偏って見て、そこから間違った教えをしてしまうと、厄介な事になります。周りの人にとっても大きなつまずきになります。例えば、「先祖・家系の呪い」は厄介な教えの一つです。それを悪霊追い出しのミニストリーに必須な知識だとしているなら、その方法論による成功の体験がつまずきになるでしょう。この教えをする人々でも何らかの成功を収める事はできます。しかし、彼らが成功するのは、彼らの信じている複雑な方法に従えばという事であって、実際には無駄なステップがあるだけで、決して効率の良いやり方ではありません。全ての呪いは既にイエス・キリストによって十字架で取り除かれたのですから、それを信じて悪霊に命じるだけで事は終わります。しかし、この単純な「信仰の法則」を知らずに他の「方法論」で問題を解決しようとするなら、時間が無意味に掛かるだけでなく、どこかで制限をかけてしまう考えがある為に、効果的に結果を出す事にはなりません。

「結果が出ればそれで良い」と考える人は、より聖書的な方法を取れば成功率が上がる事を知らないからです。五割くらいの聖書の理解で悪霊を追い出す事をするなら、半分しか成功しないと言っても過言ではありません。ある人は、「神がその独自の方法を示して下さった」と考えるかもしれません。しかし、この場合、私たちが頑なに自分たちのやり方にこだわるからであって、本当は神の完全な御心ではありません。神が私たちの考えた方法に譲歩するケースがあるのは、私たちに早く自由になってもらいたいからです。ですから、例え私たちが、聖書的ではないおかしな考えを多少持っていても、目標が人を解放する為である時には、そのこだわりの方法を通して、ご自身の力を現す事をお許しになります。

しかし、私たちが適当に聖書を理解しているという事を悪霊が見抜いてしまうと、その弱さにつけ込んで攻めて来ます。そうなると、独自の癒やし方や悪霊の追い出し方を強く信じている人たちは、悪霊の対抗に対してどうして良いか分からなくなります。実際に、独自の方法論にこだわったミニストリーは必ず限界に達します。

例えば、あなたが他の人を癒やす事と自分を癒やす事は全く別であって、それらはそれぞれ違う方法を用いなければならないと信じるのなら、あなたは独自の方法論によって癒やしを得ようとするでしょう。しかし、聖書の原則は、癒やしが神の約束である事を堅く信じ続け、悪魔に徹底的に対抗し続けるなら、癒しが起こるというものなのです。これに余計なものをくっつけて、独自の方法を作ってしまうなら、多くの場合、条件が複雑になりがちで、限定されたケースでしか癒やしが起こらないでしょう。何故なら、余計な要素を盛り込んだからです。

聖書的に正確無比ではない場合でも、時には「結果」が出ます。先に言ったように、神は私たちの「独自の信仰の法則」を特に喜ばれませんが、私たちの心の動機が純粋であり、神に頼り、真剣に奇跡を望んでいるなら、ご自身の栄光を見せて下さる時があります。その理由は、神が憐れみ深いお方であるからです。私たちが細かい事を知らない場合でも、神の御心は人々を救い、癒やし、解放される事だと
私たちが信じるだけでも、主の力が働く事があります。しかし、もう少し聖書的な理解を加えるなら、更に神のわざを見る事になるでしょう。信仰の法則については、以下の五つが原則となります。

  1. 神に対する信頼
  2. 御言葉に対する信頼
  3. イエスキリストの御名による権威
  4. 御霊の力
  5. 信者の立場と敵に対してやるべき事の理解

ほぼ全ての癒し・悪霊追い出しをする人たちは、最低でもキリストの名によって命じ、幾らかの御言葉を信じて実践している事でしょう。致命的な間違いがあまりない場合、結果は出る事もあります。しかし、それが意味するのは、幾らかの間違いが原因で、失敗例もあるという事です。私たちは五割くらいの結果が出れば満足するべきでしょうか?残りの五割を無視して、「こだわりの方法論」に固執しても良いのでしょうか?頑固に独自の方法にこだわる人たちは、自分たちの失敗例を見ても、自らの理解不足が原因である事実を棚に上げて、「神の御心ではなかった」と言い訳をするのです。 

この種のテーマになると、多くの人々は、癒しの結果よりも謙遜さを追い求めるべきだと言い始めます。この記事のテーマの通り、体験主義者は偏っており、癒しを追い求める事は正しくありません。しかし、癒しと御霊の実を比較して、どちらが良いかという議論を好む人々の多くは、御霊の実さえ追求していれば、癒しが起こらなくても良いという、こちらも極端な考えになっています。より正しい理解は、癒しなどのしるしは、私たちが御霊の実を追求するにつれて、より現れて来るという事なのです。ですから、御霊の実を真に追求していると主張する人々は、癒しも現しているべきなのです。イエスは、全てにおいてバランスを保っていました。