古い物が良いという考え

ルカ 5:39「また誰も、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」

一般に、発酵の過程を経て月日がたったぶどう酒は、美味しい物として認識されています。それを飲んだ人は、新しいぶどう酒は美味しいわけがないと考える事でしょう。それは偏見ではなく、一般常識として知られています。しかし、ここでイエスが言われている新しい物とは、神の成された新しい事でした。人がぶどう酒で考えているようなものとは違い、神の成された新しい事は古い物よりも良かったのです。それは、古い契約が新しい契約に変わったという事です。

ですから、新しいぶどう酒が新しい契約であるなら、どうしてクリスチャンが古い物、古い契約を良いという事があるでしょうか?しかし、恵みをあまり体験していないと、イエスの教えよりもモーセの教えが良いとし、律法主義になる傾向があるかもしれません。しかし、聖書は新しい契約はより良いものだと示しています。実際、神の恵みを知った信者の中では、古い契約を良いと考える人はいないはずです。

古い契約は旧バージョンのソフトウェアのようです。アップデートされたソフトウェアを用いれば、その会社からサポートを受けられますし、新しい機能の恩恵も受けられます。モーセの律法を遵守する生き方で良いと考えるなら、その人はイエスの教えを最優先させないでしょう。その必要性を感じないからです。しかし、イエスは、「まことに、あなた方に言います。取税人たちや遊女たちが、あなた方より先に神の国に入ります」と律法学者やパリサイ人たちに言われ、彼らがモーセの律法を通して得ようとしていた義は不十分だと解き明かされました。<

考えてみて下さい。取税人たちや遊女たちはモーセの律法を守って歩もうとしていた人たちではありませんでした。律法学者やパリサイ人たちからすれば、彼らは軽蔑視されていた人たちです。皮肉にも、モーセの律法から遠くにいた人たちの方が、先に神の国に入るという事が起こったのです。何故なら、そうした人々がイエスの教えを受け入れ、モーセの律法に詳しい人たちがイエスの教えを拒み、モーセの教えに従う事を決めたからです。彼らは、古いもの、古い契約がが良い思っていました。

ルカ 5:37-38「また誰も、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんな事をすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。」

イエスが祭司や律法学者に会う時は、必ずといっていいほど何かの言い争いに巻き込まれました。彼らが主張するのは律法ですが、イエスは神の恵みとまことを実現する為に来られました。イエスの新しい戒めは古い皮袋に収まりません。新しい人を着ないと新しいぶどう酒は保たれません。 モーセの律法は人を義にする事ができない、不完全なものです。悪いものではないのですが、不完全なものです。キリストの十字架によって成就され、新しい戒めにバージョンアップされる必要があったのです。しかし、多くのユダヤ人はこの神のなさろうとしていた新しい事に興味がありませんでした。 慣れ親しんだ古いものは良いと考えていたのです。

もし、古い契約が新しい契約よりも良いバージョンであったなら、イエスの教えや、その十字架での御業、その死は全て無駄だったのです。キリストの十字架の贖いを軽んじている人たちは、様々な旧約時代の祭りや儀式にこだわり、それらをする事によって、何らかの恩恵が未だにあると信じています。しかし、古い契約によって生きる生き方は、もう過ぎ去ったものです。恵みから落ちて、モーセの律法に戻るのなら、イエスの十字架を軽んじる事になるのです。律法学者やパリサイ人のように、モーセにつくか、イエスにつくか、どちらかしかないのです。

現在、神はイスラエル人を始めとするイエスを知らない人々を裁きません。モーセの律法に従って、神は人を裁く事を終えられたからです。それは、モーセの律法に基づく裁きは、全てイエスが負われたからです。ですから、神を知らない人たちには、神を信じる機会がある限り、神の恵みによって救われるチャンスがあります。古い契約はモーセの律法に基づく裁きと刑罰を訴えますが、新しい契約は神の恵みと罪の赦しを訴えています。

例えば、アロンの息子たちが間違った捧げものをした時、天からの火によって彼らは死んでしまいました。それが起こったのは、イスラエル人にモーセの律法を守らせ、彼らが偶像に走らせない為、罪を犯させない為でした。神が恵みについて明らかにされていない時代には、その時代の人々はモーセの律法だけが頼りでした。しかし、こうした事は古い契約の下での出来事なのです。現在でも、モーセの律法を守って生きている人たちがいますが、彼らがモーセの律法を破ったからといって、その刑罰が彼らの上に臨む事はありません。モーセの律法による義(刑罰)ではなく、キリストの義(赦し)によってアップグレードされたので、全ての人々は赦されています。その赦しを信じて唯一の救い道を選ぶか、それを拒んでしまうかは私たち次第です。

マタイ 5:20「私はあなた方に言います。あなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の御国に入れません。」

「律法学者やパリサイ人の義にまさる」義とはキリストの義です。それは、イエスを信じて義と認められる時に与えられる義です。それはモーセの律法を守る事による、むなしい自己の義の獲得ではなく、栄光に満ちたキリストの義を身に着ける事です。

ローマ 10:4「律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者全てに与えられるのです。」

多くの人は恵みを理解していません。神は災いを与えて私たちを懲らしめているのではなく、全ての罪の赦しを宣言されたのです。神はイエスを通して人の罪を赦されました。イエスが代わりに、罪の刑罰をお受けになりました。この恵みによって生きる教えと、モーセの律法によって生きる教えは相反しています。

ですから、イエスを信じていながらも、まだモーセの律法にこだわっていたり、律法主義的な考えに傾倒している人は、考えを完全にアップグレードする事をお勧めします。そうでないと、あなたの律法的な考えは自らを律法という束縛の中に再び置いてしまうからです。

ガラテヤ 5:4「律法によって義と認められようとしているなら、あなた方はキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」

イエスにつく者は、古い契約ではなく、新しい契約の下にいます。新しく生まれ変わった私たちは、新しい歩み方になっているべきであり、その為に、新しい契約があるのです。クリスチャンの歩みが正しい方向に向かっていない理由の一つは、考えが古いままだからです。新しい契約の教えを知り、心の一新(思考の一新)によって私たち自身を変えなければいけません。

II コリント 3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」