キリストへと成長する
新しい人に目覚め、思考を一新していく歩み
古い物が良いという考え
一般に、発酵の過程を経て月日がたったぶどう酒は、美味しい物として認識されています。それを飲んだ人は、新しいぶどう酒は美味しいわけがないと考える事でしょう。それは偏見ではなく、一般常識として知られています。しかし、ここでイエスが言われている新しい物とは、神の成された新しい事でした。人がぶどう酒で考えているようなものとは違い、神の成された新しい事は古い物よりも良かったのです。それは、古い契約が新しい契約に変わったという事です。
ですから、新しいぶどう酒が新しい契約であるなら、どうしてクリスチャンが古い物、古い契約を良いという事があるでしょうか?しかし、恵みをあまり体験していないと、イエスの教えよりもモーセの教えが良いとし、律法主義になる傾向があるかもしれません。しかし、聖書は新しい契約はより良いものだと示しています。実際、神の恵みを知った信者の中では、古い契約を良いと考える人はいないはずです。
古い契約は旧バージョンのソフトウェアのようです。アップデートされたソフトウェアを用いれば、その会社からサポートを受けられますし、新しい機能の恩恵も受けられます。モーセの律法を遵守する生き方で良いと考えるなら、その人はイエスの教えを最優先させないでしょう。その必要性を感じないからです。しかし、イエスは、「まことに、あなた方に言います。取税人たちや遊女たちが、あなた方より先に神の国に入ります」と律法学者やパリサイ人たちに言われ、彼らがモーセの律法を通して得ようとしていた義は不十分だと解き明かされました。<
考えてみて下さい。取税人たちや遊女たちはモーセの律法を守って歩もうとしていた人たちではありませんでした。律法学者やパリサイ人たちからすれば、彼らは軽蔑視されていた人たちです。皮肉にも、モーセの律法から遠くにいた人たちの方が、先に神の国に入るという事が起こったのです。何故なら、そうした人々がイエスの教えを受け入れ、モーセの律法に詳しい人たちがイエスの教えを拒み、モーセの教えに従う事を決めたからです。彼らは、古いもの、古い契約がが良い思っていました。
ルカ 5:37-38「また誰も、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんな事をすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。」
イエスが祭司や律法学者に会う時は、必ずといっていいほど何かの言い争いに巻き込まれました。彼らが主張するのは律法ですが、イエスは神の恵みとまことを実現する為に来られました。イエスの新しい戒めは古い皮袋に収まりません。新しい人を着ないと新しいぶどう酒は保たれません。 モーセの律法は人を義にする事ができない、不完全なものです。悪いものではないのですが、不完全なものです。キリストの十字架によって成就され、新しい戒めにバージョンアップされる必要があったのです。しかし、多くのユダヤ人はこの神のなさろうとしていた新しい事に興味がありませんでした。 慣れ親しんだ古いものは良いと考えていたのです。
もし、古い契約が新しい契約よりも良いバージョンであったなら、イエスの教えや、その十字架での御業、その死は全て無駄だったのです。キリストの十字架の贖いを軽んじている人たちは、様々な旧約時代の祭りや儀式にこだわり、それらをする事によって、何らかの恩恵が未だにあると信じています。しかし、古い契約によって生きる生き方は、もう過ぎ去ったものです。恵みから落ちて、モーセの律法に戻るのなら、イエスの十字架を軽んじる事になるのです。律法学者やパリサイ人のように、モーセにつくか、イエスにつくか、どちらかしかないのです。
現在、神はイスラエル人を始めとするイエスを知らない人々を裁きません。モーセの律法に従って、神は人を裁く事を終えられたからです。それは、モーセの律法に基づく裁きは、全てイエスが負われたからです。ですから、神を知らない人たちには、神を信じる機会がある限り、神の恵みによって救われるチャンスがあります。古い契約はモーセの律法に基づく裁きと刑罰を訴えますが、新しい契約は神の恵みと罪の赦しを訴えています。
例えば、アロンの息子たちが間違った捧げものをした時、天からの火によって彼らは死んでしまいました。それが起こったのは、イスラエル人にモーセの律法を守らせ、彼らが偶像に走らせない為、罪を犯させない為でした。神が恵みについて明らかにされていない時代には、その時代の人々はモーセの律法だけが頼りでした。しかし、こうした事は古い契約の下での出来事なのです。現在でも、モーセの律法を守って生きている人たちがいますが、彼らがモーセの律法を破ったからといって、その刑罰が彼らの上に臨む事はありません。モーセの律法による義(刑罰)ではなく、キリストの義(赦し)によってアップグレードされたので、全ての人々は赦されています。その赦しを信じて唯一の救い道を選ぶか、それを拒んでしまうかは私たち次第です。
マタイ 5:20「私はあなた方に言います。あなた方の義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の御国に入れません。」
「律法学者やパリサイ人の義にまさる」義とはキリストの義です。それは、イエスを信じて義と認められる時に与えられる義です。それはモーセの律法を守る事による、むなしい自己の義の獲得ではなく、栄光に満ちたキリストの義を身に着ける事です。
ローマ 10:4「律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者全てに与えられるのです。」
多くの人は恵みを理解していません。神は災いを与えて私たちを懲らしめているのではなく、全ての罪の赦しを宣言されたのです。神はイエスを通して人の罪を赦されました。イエスが代わりに、罪の刑罰をお受けになりました。この恵みによって生きる教えと、モーセの律法によって生きる教えは相反しています。
ですから、イエスを信じていながらも、まだモーセの律法にこだわっていたり、律法主義的な考えに傾倒している人は、考えを完全にアップグレードする事をお勧めします。そうでないと、あなたの律法的な考えは自らを律法という束縛の中に再び置いてしまうからです。
ガラテヤ 5:4「律法によって義と認められようとしているなら、あなた方はキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」
イエスにつく者は、古い契約ではなく、新しい契約の下にいます。新しく生まれ変わった私たちは、新しい歩み方になっているべきであり、その為に、新しい契約があるのです。クリスチャンの歩みが正しい方向に向かっていない理由の一つは、考えが古いままだからです。新しい契約の教えを知り、心の一新(思考の一新)によって私たち自身を変えなければいけません。
II コリント 3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」
体験主義の問題 その2
仮に、体験主義者の唯一の強みがあるとすれば、それは霊的な世界があるという強い確信を持っている事くらいです。理論ばかりで行動しない人は無難な道を通っているかもしれませんが、信仰によって歩んでもいないので、神はそのような人たちを通して御業を行なう事ができません。もちろん、彼らは「用いて下さい」とは口にしますが、信仰による一歩を踏まないなら、神が共に働く事ができないのです。一方、体験主義者を神が用いるケースがあるのは、彼らは彼らなりの間違った考えがあるものの、とにかく行動に移すからです。過去の歴史でも、行動力のある人は多くの奇跡も体験しました。もちろん、そのような人たちの中から、カルト的な方向に行ってしまったケースもあります。体験主義者は概ねきちんとした聖書の理解に乏しい為に、霊的に不安定であり、癒しと悪霊追い出しの結果も不安定です。聖書の理解が中途半端なら信仰も不安定です。何故なら、御言葉は私たちの信仰の土台であり、そこがしっかりしていないと不安定になるからです。
神が御力を現すのは、神の御心に完全に一致している人を通してです。しかし、完全に神の御心と一致していなくても、行動に移す人でも、神はある程度の御力を現して下さいます。理論ばかりにこだわってあまり動かない人は、神の力をあまり体験しない人でしょう。「多少の間違いは良い」としてはなりません。しかし、全てを完全に熟知してから行動に移すという考えも、最適ではありません。理想としては、正しい聖書の理解を持ちながら、行動に移す人である事です。
バランス
多くの教会は偏っています。霊的現象に振り回されている一部のカリスマ派の人々を見て、やはり賜物よりも御霊の実だとして、御霊の賜物には一切かかわらない立場を取る人々がいます。しかし、その立場にいる人々も「中途半端」なのです。御霊の賜物も御霊の実も、神からの良いものであるという事に気づくべきです。多くの教会は、自分たちの教理や考えに合わない部分は避けたり、自分たちの強みだけを強調したりします。時には、非難する事によって、自分たちのグループの優位性を主張する事もあります。そうして、何かに偏った考えを持ってしまっているのです。
例えば、御霊の実を口酸っぱく言うグループは、神の愛を強調する一方で、同じ御霊の実である「自制」についてはあまり考えません。或いは、愛が信仰より優れたものだからといって、信仰をおろそかにして愛を求める事をしてみたりします。或いは、「吟味が大事」と言いつつも、預言の吟味を全く実践していないグループもあります。その他にも、異言は認めていても、その実践に関しては消極的であったり、宣教命令が全ての国の人々をキリストの弟子とする事にまで及ぶのにも関わらず、未信者を信者にするだけで満足していたり、リーダー的な役割が複数あるのにも関わらず、一人のリーダーが全てをこなしていたり、様々な問題があります。要するに、今日の教会で起きているありとあらゆる事は、全てが中途半端なのです。現存しているほぼ全ての現代の教会は、コリントの教会よりも幼いのにも関わらず、人々は聖霊から最新の啓示を与えられていると高慢になっているのです。
私たちがこのようにして、何かに偏ってしまい、バランスを保てないのは、その状況が楽だからです。幼い考えを持つ私たちは、総合的に考え、深い洞察力を持っていません。考えについては大人でありなさいとパウロが言っているのは、バランスを保ち、優先順位を明確にしなさいという意味も含みます。この二つが明確になるには、全体が見えていないと不可能です。コリントのクリスチャンは肉に属していた霊的な幼子でしたが、彼らはいつもバランスに欠いて秩序を乱していました。彼らは何を優先するべきか、全く理解していなかったのです。彼らが唯一優先していた事といえば、他人よりも自分自身の事でした。
理論ばかりで実践がないならそれは霊的な歩みではありません。理論派は聖書に詳しく慎重な人たちかもしれませんが、概ね聖霊の導きに関する証しを持っていない人たちです。一方、体験主義の人たちは、聖書という究極の神のマニュアルをしっかり読まずに、個人的な霊的体験に傾倒し、個人的な解釈による教えをしてしまう傾向があります。両者に共通しているのは、どちらもバランスを欠いている所です。聖書を読んで、自分の体験とイエスの教えが一致するかどうかを確かめる事(善悪の判断)、これが大人の考えです。
ヘブル 5:14「固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。」
体験主義の問題 その1
私たちの体験は、聖書の真理を証しするものであるべきです。私たちが真理をより理解する為に、様々な「良い体験」があるべきです。聖書で既に明らかになっている真理を、実践を通して私たちは体験的に学びます。全ての霊的体験が神からのものではないという事は、幾らかの霊的体験は、「悪いもの」という事になります。参考にすべきでない体験は、聖書の解釈に必要ありません。この事を理解していなければ、聖書の理解の仕方が、独断と主観の強いものになりがちです。カルト的な教えは全て、何らかの霊的体験に基づくものであり、聖書の真理に沿っていないものです。真理の言葉は私たちにとって最終的な神の権威であり、私たちの体験に基づいて真理が解釈されるべきではありません。むしろ、私たちの体験が御言葉によって吟味されるべきなのです。
バランス
聖書の御言葉は実践的であり、力のある生きた言葉なのですが、御言葉を実行しないなら単なる机上の理論にしかなりません。そうなれば、御言葉の力を体験する事がなく、聖書の理解もせいぜい半分くらいでしょう。だからといって、霊的体験ばかりを追い求めるような考えにも問題があります。霊的な体験を必要としながらも、それらを追い求めずにするには、どうしたら良いのでしょうか?
しかし、体験主義者は霊的体験を聖書によって吟味する事を怠りがちで、やたらと「聖霊がこう示した」と言って、自分の考えなどを主張します。ヨハネは、「霊だからといって、みな信じてはいけません」と注意しました。従って、聖霊かどうかを試す事は吟味をする上で重要な事です。イエスの教えに反しているようなものは、必ず吟味した上で判断するべきでしょう。そうすれば、闇雲に霊的なものを全て聖霊からのものとせず、私たちの信仰を霊的体験ではなく、御言葉に置く事ができます。霊的体験に信仰を置くなら、それは結局、五感に頼るものであって、何かを感じた(見た・聞いた)事にとらわれているだけなのです。そうした体験を追い求めている人は、それらが過去の出来事になった時には、新たな霊的体験を追求しないと満足しなくなります。
聖書の理解と体験
体験主義者が勝手に聖書を偏って見て、そこから間違った教えをしてしまうと、厄介な事になります。周りの人にとっても大きなつまずきになります。例えば、「先祖・家系の呪い」は厄介な教えの一つです。それを悪霊追い出しのミニストリーに必須な知識だとしているなら、その方法論による成功の体験がつまずきになるでしょう。この教えをする人々でも何らかの成功を収める事はできます。しかし、彼らが成功するのは、彼らの信じている複雑な方法に従えばという事であって、実際には無駄なステップがあるだけで、決して効率の良いやり方ではありません。全ての呪いは既にイエス・キリストによって十字架で取り除かれたのですから、それを信じて悪霊に命じるだけで事は終わります。しかし、この単純な「信仰の法則」を知らずに他の「方法論」で問題を解決しようとするなら、時間が無意味に掛かるだけでなく、どこかで制限をかけてしまう考えがある為に、効果的に結果を出す事にはなりません。
「結果が出ればそれで良い」と考える人は、より聖書的な方法を取れば成功率が上がる事を知らないからです。五割くらいの聖書の理解で悪霊を追い出す事をするなら、半分しか成功しないと言っても過言ではありません。ある人は、「神がその独自の方法を示して下さった」と考えるかもしれません。しかし、この場合、私たちが頑なに自分たちのやり方にこだわるからであって、本当は神の完全な御心ではありません。神が私たちの考えた方法に譲歩するケースがあるのは、私たちに早く自由になってもらいたいからです。ですから、例え私たちが、聖書的ではないおかしな考えを多少持っていても、目標が人を解放する為である時には、そのこだわりの方法を通して、ご自身の力を現す事をお許しになります。
例えば、あなたが他の人を癒やす事と自分を癒やす事は全く別であって、それらはそれぞれ違う方法を用いなければならないと信じるのなら、あなたは独自の方法論によって癒やしを得ようとするでしょう。しかし、聖書の原則は、癒やしが神の約束である事を堅く信じ続け、悪魔に徹底的に対抗し続けるなら、癒しが起こるというものなのです。これに余計なものをくっつけて、独自の方法を作ってしまうなら、多くの場合、条件が複雑になりがちで、限定されたケースでしか癒やしが起こらないでしょう。何故なら、余計な要素を盛り込んだからです。
聖書的に正確無比ではない場合でも、時には「結果」が出ます。先に言ったように、神は私たちの「独自の信仰の法則」を特に喜ばれませんが、私たちの心の動機が純粋であり、神に頼り、真剣に奇跡を望んでいるなら、ご自身の栄光を見せて下さる時があります。その理由は、神が憐れみ深いお方であるからです。私たちが細かい事を知らない場合でも、神の御心は人々を救い、癒やし、解放される事だと私たちが信じるだけでも、主の力が働く事があります。しかし、もう少し聖書的な理解を加えるなら、更に神のわざを見る事になるでしょう。信仰の法則については、以下の五つが原則となります。
- 神に対する信頼
- 御言葉に対する信頼
- イエスキリストの御名による権威
- 御霊の力
- 信者の立場と敵に対してやるべき事の理解
ほぼ全ての癒し・悪霊追い出しをする人たちは、最低でもキリストの名によって命じ、幾らかの御言葉を信じて実践している事でしょう。致命的な間違いがあまりない場合、結果は出る事もあります。しかし、それが意味するのは、幾らかの間違いが原因で、失敗例もあるという事です。私たちは五割くらいの結果が出れば満足するべきでしょうか?残りの五割を無視して、「こだわりの方法論」に固執しても良いのでしょうか?頑固に独自の方法にこだわる人たちは、自分たちの失敗例を見ても、自らの理解不足が原因である事実を棚に上げて、「神の御心ではなかった」と言い訳をするのです。
