体験主義の問題 その2

この近い将来において、癒しがもっと頻繁に起こる事になります。その時には、癒しを見て過剰に興奮してしまう幼い考えを持つ信者よりも、どうしたらイエスのように歩める事が出来るだろうかと、大人の考えを持つ人がより増えているでしょう。そのような人々は、しるしを求めているのではなく、御霊の実を求め、霊的に成長する結果として、しるしが現されるようになる事を知っています。もはや、癒しが神の御心かどうかは既に問題ではありません。これと似たように、聖霊の声を聞くかどうかが問題ではなく、正確に聞いているかどうかが重要であり、ただ奉仕をするのではなく、いかに奉仕の働きが主との共同作業であるかが重要なのです。


仮に、体験主義者の唯一の強みがあるとすれば、それは霊的な世界があるという強い確信を持っている事くらいです。理論ばかりで行動しない人は無難な道を通っているかもしれませんが、信仰によって歩んでもいないので、神はそのような人たちを通して御業を行なう事ができません。もちろん、彼らは「用いて下さい」とは口にしますが、信仰による一歩を踏まないなら、神が共に働く事ができないのです。一方、体験主義者を神が用いるケースがあるのは、彼らは彼らなりの間違った考えがあるものの、とにかく行動に移すからです。過去の歴史でも、行動力のある人は多くの奇跡も体験しました。もちろん、そのような人たちの中から、カルト的な方向に行ってしまったケースもあります。体験主義者は概ねきちんとした聖書の理解に乏しい為に、霊的に不安定であり、癒しと悪霊追い出しの結果も不安定です。聖書の理解が中途半端なら信仰も不安定です。何故なら、御言葉は私たちの信仰の土台であり、そこがしっかりしていないと不安定になるからです。


神が御力を現すのは、神の御心に完全に一致している人を通してです。しかし、完全に神の御心と一致していなくても、行動に移す人でも、神はある程度の御力を現して下さいます。理論ばかりにこだわってあまり動かない人は、神の力をあまり体験しない人でしょう。「多少の間違いは良い」としてはなりません。しかし、全てを完全に熟知してから行動に移すという考えも、最適ではありません。理想としては、正しい聖書の理解を持ちながら、行動に移す人である事です。


バランス


多くの教会は偏っています。霊的現象に振り回されている一部のカリスマ派の人々を見て、やはり賜物よりも御霊の実だとして、御霊の賜物には一切かかわらない立場を取る人々がいます。しかし、その立場にいる人々も「中途半端」なのです。御霊の賜物も御霊の実も、神からの良いものであるという事に気づくべきです。多くの教会は、自分たちの教理や考えに合わない部分は避けたり、自分たちの強みだけを強調したりします。時には、非難する事によって、自分たちのグループの優位性を主張する事もあります。そうして、何かに偏った考えを持ってしまっているのです。


例えば、御霊の実を口酸っぱく言うグループは、神の愛を強調する一方で、同じ御霊の実である「自制」についてはあまり考えません。或いは、愛が信仰より優れたものだからといって、信仰をおろそかにして愛を求める事をしてみたりします。或いは、「吟味が大事」と言いつつも、預言の吟味を全く実践していないグループもあります。その他にも、異言は認めていても、その実践に関しては消極的であったり、宣教命令が全ての国の人々をキリストの弟子とする事にまで及ぶのにも関わらず、未信者を信者にするだけで満足していたり、リーダー的な役割が複数あるのにも関わらず、一人のリーダーが全てをこなしていたり、様々な問題があります。要するに、今日の教会で起きているありとあらゆる事は、全てが中途半端なのです。現存しているほぼ全ての現代の教会は、コリントの教会よりも幼いのにも関わらず、人々は聖霊から最新の啓示を与えられていると高慢になっているのです。


私たちがこのようにして、何かに偏ってしまい、バランスを保てないのは、その状況が楽だからです。幼い考えを持つ私たちは、総合的に考え、深い洞察力を持っていません。考えについては大人でありなさいとパウロが言っているのは、バランスを保ち、優先順位を明確にしなさいという意味も含みます。この二つが明確になるには、全体が見えていないと不可能です。コリントのクリスチャンは肉に属していた霊的な幼子でしたが、彼らはいつもバランスに欠いて秩序を乱していました。彼らは何を優先するべきか、全く理解していなかったのです。彼らが唯一優先していた事といえば、他人よりも自分自身の事でした。


理論ばかりで実践がないならそれは霊的な歩みではありません。理論派は聖書に詳しく慎重な人たちかもしれませんが、概ね聖霊の導きに関する証しを持っていない人たちです。一方、体験主義の人たちは、聖書という究極の神のマニュアルをしっかり読まずに、個人的な霊的体験に傾倒し、個人的な解釈による教えをしてしまう傾向があります。両者に共通しているのは、どちらもバランスを欠いている所です。聖書を読んで、自分の体験とイエスの教えが一致するかどうかを確かめる事(善悪の判断)、これが大人の考えです。


ヘブル 5:14「固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。」

体験主義の問題 その1

全ての霊的体験は、必ずしも神からのものとは限りません。それを知らずに霊的体験ばかりに傾倒してしまうと、聖書の真理を軽んじてしまいます。ある人々は、自分の体験したものを重視してしまいがちで、聖書に書かれているかどうかよりも、自分の体験に基づいた考え方を優先します。霊的体験にこだわり過ぎると、それが全ての判断の基準になってしまい、聖書の解釈の基準にさえなってしまう事もあるでしょう。聖書を主観的に捉えるなら、そこから独自の見方や解釈が生まれて来てしまいます。

私たちの体験は、聖書の真理を証しするものであるべきです。私たちが真理をより理解する為に、様々な「良い体験」があるべきです。聖書で既に明らかになっている真理を、実践を通して私たちは体験的に学びます。全ての霊的体験が神からのものではないという事は、幾らかの霊的体験は、「悪いもの」という事になります。参考にすべきでない体験は、聖書の解釈に必要ありません。この事を理解していなければ、聖書の理解の仕方が、独断と主観の強いものになりがちです。カルト的な教えは全て、何らかの霊的体験に基づくものであり、聖書の真理に沿っていないものです。真理の言葉は私たちにとって最終的な神の権威であり、私たちの体験に基づいて真理が解釈されるべきではありません。むしろ、私たちの体験が御言葉によって吟味されるべきなのです。

バランス

聖書の御言葉は実践的であり、力のある生きた言葉なのですが、御言葉を実行しないなら単なる机上の理論にしかなりません。そうなれば、御言葉の力を体験する事がなく、聖書の理解もせいぜい半分くらいでしょう。だからといって、霊的体験ばかりを追い求めるような考えにも問題があります。霊的な体験を必要としながらも、それらを追い求めずにするには、どうしたら良いのでしょうか?

マルコ 16:17-18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒されます。」

イエスは、信じる人々にしるしが伴うと言われました。信者がしるしを追うのではなく、信者として歩むなら、しるしが伴うと教えられました。ですから、しるしを追い求める考えをやめ、真のキリストの信者として歩む事を心がければ良いのです。

しかし、体験主義者は霊的体験を聖書によって吟味する事を怠りがちで、やたらと「聖霊がこう示した」と言って、自分の考えなどを主張します。ヨハネは、「霊だからといって、みな信じてはいけません」と注意しました。従って、聖霊かどうかを試す事は吟味をする上で重要な事です。イエスの教えに反しているようなものは、必ず吟味した上で判断するべきでしょう。そうすれば、闇雲に霊的なものを全て聖霊からのものとせず、私たちの信仰を霊的体験ではなく、御言葉に置く事ができます。霊的体験に信仰を置くなら、それは結局、五感に頼るものであって、何かを感じた(見た・聞いた)事にとらわれているだけなのです。そうした体験を追い求めている人は、それらが過去の出来事になった時には、新たな霊的体験を追求しないと満足しなくなります。

聖書の理解と体験

体験主義者が勝手に聖書を偏って見て、そこから間違った教えをしてしまうと、厄介な事になります。周りの人にとっても大きなつまずきになります。例えば、「先祖・家系の呪い」は厄介な教えの一つです。それを悪霊追い出しのミニストリーに必須な知識だとしているなら、その方法論による成功の体験がつまずきになるでしょう。この教えをする人々でも何らかの成功を収める事はできます。しかし、彼らが成功するのは、彼らの信じている複雑な方法に従えばという事であって、実際には無駄なステップがあるだけで、決して効率の良いやり方ではありません。全ての呪いは既にイエス・キリストによって十字架で取り除かれたのですから、それを信じて悪霊に命じるだけで事は終わります。しかし、この単純な「信仰の法則」を知らずに他の「方法論」で問題を解決しようとするなら、時間が無意味に掛かるだけでなく、どこかで制限をかけてしまう考えがある為に、効果的に結果を出す事にはなりません。

「結果が出ればそれで良い」と考える人は、より聖書的な方法を取れば成功率が上がる事を知らないからです。五割くらいの聖書の理解で悪霊を追い出す事をするなら、半分しか成功しないと言っても過言ではありません。ある人は、「神がその独自の方法を示して下さった」と考えるかもしれません。しかし、この場合、私たちが頑なに自分たちのやり方にこだわるからであって、本当は神の完全な御心ではありません。神が私たちの考えた方法に譲歩するケースがあるのは、私たちに早く自由になってもらいたいからです。ですから、例え私たちが、聖書的ではないおかしな考えを多少持っていても、目標が人を解放する為である時には、そのこだわりの方法を通して、ご自身の力を現す事をお許しになります。

しかし、私たちが適当に聖書を理解しているという事を悪霊が見抜いてしまうと、その弱さにつけ込んで攻めて来ます。そうなると、独自の癒やし方や悪霊の追い出し方を強く信じている人たちは、悪霊の対抗に対してどうして良いか分からなくなります。実際に、独自の方法論にこだわったミニストリーは必ず限界に達します。

例えば、あなたが他の人を癒やす事と自分を癒やす事は全く別であって、それらはそれぞれ違う方法を用いなければならないと信じるのなら、あなたは独自の方法論によって癒やしを得ようとするでしょう。しかし、聖書の原則は、癒やしが神の約束である事を堅く信じ続け、悪魔に徹底的に対抗し続けるなら、癒しが起こるというものなのです。これに余計なものをくっつけて、独自の方法を作ってしまうなら、多くの場合、条件が複雑になりがちで、限定されたケースでしか癒やしが起こらないでしょう。何故なら、余計な要素を盛り込んだからです。

聖書的に正確無比ではない場合でも、時には「結果」が出ます。先に言ったように、神は私たちの「独自の信仰の法則」を特に喜ばれませんが、私たちの心の動機が純粋であり、神に頼り、真剣に奇跡を望んでいるなら、ご自身の栄光を見せて下さる時があります。その理由は、神が憐れみ深いお方であるからです。私たちが細かい事を知らない場合でも、神の御心は人々を救い、癒やし、解放される事だと
私たちが信じるだけでも、主の力が働く事があります。しかし、もう少し聖書的な理解を加えるなら、更に神のわざを見る事になるでしょう。信仰の法則については、以下の五つが原則となります。

  1. 神に対する信頼
  2. 御言葉に対する信頼
  3. イエスキリストの御名による権威
  4. 御霊の力
  5. 信者の立場と敵に対してやるべき事の理解

ほぼ全ての癒し・悪霊追い出しをする人たちは、最低でもキリストの名によって命じ、幾らかの御言葉を信じて実践している事でしょう。致命的な間違いがあまりない場合、結果は出る事もあります。しかし、それが意味するのは、幾らかの間違いが原因で、失敗例もあるという事です。私たちは五割くらいの結果が出れば満足するべきでしょうか?残りの五割を無視して、「こだわりの方法論」に固執しても良いのでしょうか?頑固に独自の方法にこだわる人たちは、自分たちの失敗例を見ても、自らの理解不足が原因である事実を棚に上げて、「神の御心ではなかった」と言い訳をするのです。 

この種のテーマになると、多くの人々は、癒しの結果よりも謙遜さを追い求めるべきだと言い始めます。この記事のテーマの通り、体験主義者は偏っており、癒しを追い求める事は正しくありません。しかし、癒しと御霊の実を比較して、どちらが良いかという議論を好む人々の多くは、御霊の実さえ追求していれば、癒しが起こらなくても良いという、こちらも極端な考えになっています。より正しい理解は、癒しなどのしるしは、私たちが御霊の実を追求するにつれて、より現れて来るという事なのです。ですから、御霊の実を真に追求していると主張する人々は、癒しも現しているべきなのです。イエスは、全てにおいてバランスを保っていました。

按手について 2

 へブル 6:1-2「ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠の裁きなど、基礎的な事をもう一度やり直したりしないようにしましょう。」

 「手を置く儀式」とは、いわゆる「按手」の事ですが、これは「キリストについての初歩の教え」です。一般に、私たちは「按手の儀式」にこだわり過ぎています。私たちがどのようにバプテスマを授けるか、或いは、聖餐式の些細な事柄にこだわり、宗教的に熱心になると、神を愛し、隣人を愛する事を忘れてしまいがちになります。しかし、私たちはそうした上辺だけのものや初歩の教えを後にして、成熟を目指して進む必要があるのです。

認められる為の按手?

 人は誰でも誰かに認められたいと望んでいます。しかし、クリスチャンの場合は、自ら進んで人から何かを認められる事を望む必要はありません。他の人があなたを何らかの形で認めたり、評価したりするのなら、時にはどうする事もできませんが、あなた自身から人にりっぱだと認められようとする必要はないのです。

 ヨハネ 1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供となる特権をお与えになった。」

 イエスを信じた者は「神の子供となる特権」があります。新改訳聖書の「特権」はギリシャ語の exousiaであり、「権威」という意味です。御父ご自身が私たちを「神の子」としての権威を授けて下さったのです。そうであるなら、私たちは他の人に認めてもらう事を望む必要はもうありません。私たちの神が私たちを最高の形で認めて下さったからです。

 肉の思いで歩む人は誰かに認めてもらいたいという欲求を常に持っていて、未信者の場合なら、あらゆる面において、彼らのその欲求に対する執着心が表に出ます。しかし、クリスチャンである私たちは、そうした欲求(肉の思い)から解放されているのです。それにも関わらずあるクリスチャンたちがその束縛の中にいるのは、本来の自分自身を知らないからなのです。自分自身を知らなければ誰でも不安になるものです。そして、その不安を取り除く為に、誰かに認められようとします。しかし、誰でも自己承認を追求するなら、自己中心的になります。

按手と任命とアイデンティティー

 新しい契約の下でも、リーダーを任命する為に按手を行います。しかし、按手の儀式を必要以上に重んじてしまうなら、それが周りの人に認めてもらう為の儀式になりかねません。私たちが気づかなければならないのは、リーダーを任命する為の按手は、それを受ける人たちが、既にふさわしい働きや結果を出しているから行われるのです。例えば、バルナバはエルサレムの教会からアンテオケに既に派遣(送られる=使徒)されているリーダーでした。使徒としての働きが既にあり、それが周りにも認められている上で、聖霊は他の使徒たちに言われたのです。

 使徒 13:2「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、私の為にバルナバとサウロを聖別して、私が召した働きに就かせなさい」と言われた。」

 バルナバとサウロは既に使徒や預言者としての働きをしていました。按手が彼らを使徒にさせたのではありません。しかし、私たちは按手が鍵だと勘違いして来ました。このような誤解は、近年の使徒と預言者についての教えが影響しています。使徒や預言者を「霊的なエリートのタイトル」などと考えているのなら、それは間違いです。実際、五役者よりも優れたポジションは「神の子」です。五職にこだわる人は、その役職の範囲までしか成長しません。しかし、「神の子」として歩む人は、父なる神から全てを相続する者として、大胆に地上を治める事をします。私たちが持つべき正しい理解は、「神の子(アイデンティティー)」として「五職の役割を果たす」という事です。アイデンティティーは神の子ですが、五役者は御国の仕事であり、神と人に仕える事です。

按手の意義

 当然ですが、按手自体には力がありません。按手は単なる儀式です。ですから、大事なのは按手を受けたかどうかではなく、その按手にふさわしい歩みをして、結果を出すかどうかが重要なのです。按手を受けたからといっても、それ自体が神からの絶対的な保障とはならないのです。近年、多くの教会において、按手の儀式が絶対的な神の御業と勘違いされています。その結果、言動がおかしな使徒や預言者が世界中で増えています。

 第一テモテ 5:22「誰にも性急に按手をしてはいけません。又、他の人の罪に加担してはいけません。自分を清く保ちなさい。」

 パウロは、誰にでも軽々しく按手してリーダーとして認める事を避けなさいと言っているのです。按手によって誰かが五役者のタイトルを使えるようになるのではなく、既に働きの実を結んでいる人たちに対してリーダーや周りの人たちが祝福する目的で、按手が行われるのです。何の実を結んでいないのに、「性急に按手をしてはいけません」とパウロは言っているのです。もう一度言いますが、按手をすれば五職の役割を始める事ができるのではなく、ふさわしい人格であり、その行いにも、結果が伴っている時に、按手という祝福の為の儀式が行われるのです。従って、「あの人が神に用いられているのは、~先生による按手があったから」ではないのです。

 人に認められないと不安を覚える、或いは、認められたいという高慢の思いは私たちが古い考え方で歩んでいるからです。しかし、キリストが私たちの内におられる事が分かれば、私たちに何かが欠けているものは存在しません。もちろん、その真理を頭で理解しているだけで、実際にはその道を歩んでないのなら、その人はまだ古い人の歩みを続ける事になります。実際に新しい人として歩み始めていない間は、どこかで古い考え(肉の思い)がその人の中で強く働いているので、多くの場合、真理によって思考が一新されていないのです。

 私たちの神は私たちを「神の子」として神の国に受け入れて下さいました。五役者のタイトルにこだわるのなら、それは「神に仕える者」という古い契約の視点なのです。旧約時代の「神に仕える者」よりも新しい契約の下での「神の子」がより優れているのは明らかです。私たちが目指す最終目標は「神に仕える油注がれた者」ではなく、イエスが示された「神の子」としての歩みなのです。

 結論から言えば、私たちは人に認められる事を追い求める必要はありません。しかし、人に認められる事自体は悪い事でもありません。良い評判は良いのです。ただ、それを求めて得ようとするのではなく、結果としてついて来るようにするのが正しい捉え方です。結果ですから、それは他の人たちの評価であって、あなた自身とは関係ありません。彼らが間違って評価しているとしても、それは明らかになります。重要なポイントは、あなた自身の努力によって、他の人の判断をコントロールしようとしない事です。何故なら、あなたは神の子として歩める特権を与えられたので、恐れるものは何もないからです。

 按手の目的は、他の人の祝福が主なものなのですが、それに余計な権威を与えてしまうと、按手を授けた人や受けた人が特別扱いされてしまいます。按手は絶対的な儀式ではないのですから、あっても無くても構いません。按手を受ける事は、全てが上手く行く保証ではありません。たとえ、神があなたを使徒だと任命して、使徒としての按手を著名な人から受けたとしても、その後のあなた自身の歩み、キリストの愛に基づく歩みが必須になります。私たちは、按手を必要以上に評価して、初歩の教えに留まるのではなく、固い食物を目指すべきなのです。