仮に、体験主義者の唯一の強みがあるとすれば、それは霊的な世界があるという強い確信を持っている事くらいです。理論ばかりで行動しない人は無難な道を通っているかもしれませんが、信仰によって歩んでもいないので、神はそのような人たちを通して御業を行なう事ができません。もちろん、彼らは「用いて下さい」とは口にしますが、信仰による一歩を踏まないなら、神が共に働く事ができないのです。一方、体験主義者を神が用いるケースがあるのは、彼らは彼らなりの間違った考えがあるものの、とにかく行動に移すからです。過去の歴史でも、行動力のある人は多くの奇跡も体験しました。もちろん、そのような人たちの中から、カルト的な方向に行ってしまったケースもあります。体験主義者は概ねきちんとした聖書の理解に乏しい為に、霊的に不安定であり、癒しと悪霊追い出しの結果も不安定です。聖書の理解が中途半端なら信仰も不安定です。何故なら、御言葉は私たちの信仰の土台であり、そこがしっかりしていないと不安定になるからです。
神が御力を現すのは、神の御心に完全に一致している人を通してです。しかし、完全に神の御心と一致していなくても、行動に移す人でも、神はある程度の御力を現して下さいます。理論ばかりにこだわってあまり動かない人は、神の力をあまり体験しない人でしょう。「多少の間違いは良い」としてはなりません。しかし、全てを完全に熟知してから行動に移すという考えも、最適ではありません。理想としては、正しい聖書の理解を持ちながら、行動に移す人である事です。
バランス
多くの教会は偏っています。霊的現象に振り回されている一部のカリスマ派の人々を見て、やはり賜物よりも御霊の実だとして、御霊の賜物には一切かかわらない立場を取る人々がいます。しかし、その立場にいる人々も「中途半端」なのです。御霊の賜物も御霊の実も、神からの良いものであるという事に気づくべきです。多くの教会は、自分たちの教理や考えに合わない部分は避けたり、自分たちの強みだけを強調したりします。時には、非難する事によって、自分たちのグループの優位性を主張する事もあります。そうして、何かに偏った考えを持ってしまっているのです。
例えば、御霊の実を口酸っぱく言うグループは、神の愛を強調する一方で、同じ御霊の実である「自制」についてはあまり考えません。或いは、愛が信仰より優れたものだからといって、信仰をおろそかにして愛を求める事をしてみたりします。或いは、「吟味が大事」と言いつつも、預言の吟味を全く実践していないグループもあります。その他にも、異言は認めていても、その実践に関しては消極的であったり、宣教命令が全ての国の人々をキリストの弟子とする事にまで及ぶのにも関わらず、未信者を信者にするだけで満足していたり、リーダー的な役割が複数あるのにも関わらず、一人のリーダーが全てをこなしていたり、様々な問題があります。要するに、今日の教会で起きているありとあらゆる事は、全てが中途半端なのです。現存しているほぼ全ての現代の教会は、コリントの教会よりも幼いのにも関わらず、人々は聖霊から最新の啓示を与えられていると高慢になっているのです。
私たちがこのようにして、何かに偏ってしまい、バランスを保てないのは、その状況が楽だからです。幼い考えを持つ私たちは、総合的に考え、深い洞察力を持っていません。考えについては大人でありなさいとパウロが言っているのは、バランスを保ち、優先順位を明確にしなさいという意味も含みます。この二つが明確になるには、全体が見えていないと不可能です。コリントのクリスチャンは肉に属していた霊的な幼子でしたが、彼らはいつもバランスに欠いて秩序を乱していました。彼らは何を優先するべきか、全く理解していなかったのです。彼らが唯一優先していた事といえば、他人よりも自分自身の事でした。
理論ばかりで実践がないならそれは霊的な歩みではありません。理論派は聖書に詳しく慎重な人たちかもしれませんが、概ね聖霊の導きに関する証しを持っていない人たちです。一方、体験主義の人たちは、聖書という究極の神のマニュアルをしっかり読まずに、個人的な霊的体験に傾倒し、個人的な解釈による教えをしてしまう傾向があります。両者に共通しているのは、どちらもバランスを欠いている所です。聖書を読んで、自分の体験とイエスの教えが一致するかどうかを確かめる事(善悪の判断)、これが大人の考えです。
ヘブル 5:14「固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。」