聖書的な教会 2

2.全ての信者の奉仕

 ローマ 12:6-8「私たちは、与えられた恵みに従って、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。」

 客席から聖職者のパフォーマンスを見ているような、傍観者の立場としてただ参加しているだけの信者は、現在の教会でも多いようです。ローマカトリックの影響を引きずっているのが、その理由の一つです。しかし、パウロは、皆がそれぞれの役割を持っているとしています。プロテスタント運動によっていわゆる「万人祭司」が教理として、形だけは回復されたのですが、まだ実行されていない部分は多いでしょう。全員参加型の集会は、これからもっと見直さなければならない課題だと思います。コリントの教会のクリスチャンは肉に属するキリストにある幼子でしたが、それでも賜物に欠けてはいませんでした。今日、御霊の賜物が十分に活用されていて機能している教会は、世界でもまだないくらいです。キリストの体としての教会はそれ程、真理からかけ離れているのです。

3.信徒の成長と弟子訓練

 イエスの宣教命令の一つは弟子を作る事でした。未信者を信者するだけではなく、その後のフォローアップもあります。一部の献身した人や聖職者以外は観客席で見ているだけの「一般信徒」でも良いと考えている人が多いのは、しっかりした聖書の教えを受けていないからです。聖書の教えは信徒の成長の為であり、その成長は弟子訓練の為、そしてキリストに似た者となる為です。多くの教会ではこうした教えがない為に、クリスチャンはイエスの再臨を待つだけの受け身的な信仰しか持っていません。自ら伝道したり、他の人を積極的に助ける事は少なく、それどころか、自分の信仰を保つのに精一杯なのが現状の様です。

 キリストの弟子として訓練される人は、霊的に成長します。そして今度は彼らが福音を伝えていく番になります。信者が集まるのは、お互いの成長を促す為であり、こうして訓練された人たちが世界に出て行って、より多くの人に福音が伝わるようになるのです。使徒たちの手紙の内容の殆どは、信者の成長の為に書かれてあります。それは単に御言葉の乳だけではなく、成長した大人の為の堅い食物についても書かれています。救われているからそれで良いという消極的な態度では、クリスチャン生活が勝利に満ちたもので、全ての霊的祝福を与えられている約束を、現実化できないでしょう。

4.聖霊のバプテスマ

 多くのクリスチャンに力がないのは、聖霊のバプテスマをの体験がないからです。神の力は、私たちが神の子として歩む為、つまり、力による伝道をする為に必要です。イエスと使徒たちが行った伝道は、力による伝道でした。

 第一コリント 2:4-5「そして、私の言葉と私の宣教は、説得力のある知恵の言葉によるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなた方の信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなる為だったのです。」

 パウロの言葉と宣教は、説得力のある知恵の言葉によってではなく、聖霊の力と現れでした。彼の宣教の言葉を聞いた人の信仰が、神の力によって支えられる為だったとパウロは言っています。神の力とは、ただ御言葉を語るだけではなく、神の力を伴います。聖霊のバプテスマを体験しないでも良いと考えるなら、聖書の言葉をあまり体験しないまま、歩んでしまうでしょう。癒しやその他の奇跡は、単に福音書に書かれる為に起きた事実だけでなく、今でも体験できる普遍的な神の恵みなのです。

 正しい聖書主義とは、イエスが聖霊のバプテスマを授けになるお方だという事を信じ、その約束に忠実である事を意味します。御霊によって御言葉が生きたものとなる為にも、聖霊のバプテスマを受けて、御霊の力を受ける事が必要です。また、神の力を伴わない宣教なら、イエスがしたわざよりも大きなわざをする事ができません。

 ヨハネ 14:12「まことに、まことに、あなた方に言います。私を信じる者は、私が行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。私が父の元に行くからです。」

 イエスご自身も、ただ説教しただけでなく、癒し、悪霊追い出し、死人を蘇らす事や、その他の奇跡も起こしました。御国の福音を宣べ伝えていたパウロも御国の力をよく理解していたので、その御霊の力によって伝道していたのです。

 第一コリント 4:20「神の国は、言葉ではなく力にあるのです。」

 神の力が伴わない宣教でも、ある所までは、ミニストリーで成功を収める事ができます。未信者を救いに導くだけなら、多くの奇跡を必要としません。実際、キリストの権威に対する信仰を持ち、それを行使するだけでも、多くの事をこなす事が可能だからです。しかし、聖霊のバプテスマを通して神の力を発揮するなら、より多くの奇跡にあって歩む事が可能になります。御言葉と御霊の力両方によって歩むなら、私たちはより大きな結果と祝福を体験する事になるでしょう。

 使徒 8:14-16「エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らの所に遣わした。二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らの内の誰にも下っていなかったからであった。」

クリスチャンと聖霊のバプテスマ

 ペテロとヨハネは新しく加わった信者に対して、聖霊を受けるように促しました。パウロも同じような事をしています。

 使徒 19:2-6「彼らに「信じた時、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いた事もありません」と答えた。「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。」

聖書的な教会 3に続きます。

聖書的な教会 1

 教会「Ekklesia」という語は、「呼ばれた者」(クリスチャン一人一人を指す)ですが、集合体の「呼ばれた者」なら、パウロが言うように、「キリストのからだ」となります。キリストに「呼ばれた」人々が集まると、「キリストのからだ」として、キリストの体の器官の働きをします。この場合、集まる人たちが「キリストのからだ=教会」であって、集まって出来た組織そのものや、教団がキリストのからだとしての本来の機能を果たしていないのなら、教会ではないのです。

 クリスチャンがお互いを励ましたり、成長する為に共に集り、その為の活動をするのが、「キリストのからだ=教会」であって、単なる組織を持つ集団の場所に集うという考えではありません。組織や教団を発展させるのではなく、お互いを成長させる目的で集まります。組織は秩序の為に必要ですが、組織の為にクリスチャンが集まるのではなく、クリスチャンが正しい目的を持って集まると、キリストのからだとしての機能が始まるので、当然、そこには何らかの組織的なものがあります。

使徒たちの手紙と教会

 福音書には、キリストのからだ(教会)についての話は、殆ど触れていません。宣教命令などを除けば、福音書は全て十字架の完了とイエスの復活で終わっています。話の続きは使徒言行録から知る事ができますが、そこで私たちは、教会がどのようにして生まれたかを知る事ができます。信者の成長に焦点を当てた信者の集会(教会)が、本来どのようにして機能するべきかについて詳しく書いてあるのは、使徒たちによる手紙を見れば分かります。使徒たちの手紙は、各教会に書いたものであり、その内容や目的も、各教会にいるクリスチャンたちへのアドバイスです。そういうわけで、聖書的な教会を考える場合、私たちは使徒たちの手紙を中心に見なければいけないのです。

1.祈りと聖書の学び

 使徒 6:4「私たちは祈りと、御言葉の奉仕に専念します。」

 教会が始まったばかりの時には、信者が何を、どのようにするべきかといった具体的なアドバイスすらありませんでした。それでも使徒たちは、祈りと御言葉の奉仕の大切さだけは理解していたようです。聖書の学びと祈りが欠けている信者の集い(教会)は致命的ですが、それらがあったとしても、実際に信徒の成長が見られないなら、意味がありません。御言葉と祈りの重要な点は、私たちの信仰の成長にあるからです。

 聖書の学びと言っても、旧約時代のような律法主義の考えから、聖書を学ぶ事ではありません。新しい契約の下での聖書の学びは、イエスの教えに従うという事であり、御霊によって御言葉が生かされるものです。同様に、祈りも儀式として行うものではありません。聖霊が豊かに降り注がれた恵みの下では、大胆な祈りに変わっています。律法の下では出来なかった御霊による祈りが、今は可能になっているのです。

異邦人信者に対して

 最初の教会がスタートした時には、まだ異邦人のクリスチャンがいませんでした。しかし、すぐに救いの御言葉が異邦人たちへ伝えられるようになります。この時に、割礼の問題が起こりました。いわゆるエルサレム会議において、異邦人の教会では、以下の内容の事を最初のルールとしました。

 使徒 15:29「すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避ける事です。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」

 異邦人たちは、基本的に皆が偶像礼拝者でした。ですから、まず偶像礼拝に関わる事を止めさせる必要がありました。次に、不品行を止めさせる事を使徒たちは決めています。この二つが、当時の異邦人の特徴的な行動でした。注意したいのは、これらを禁じたのは、使徒たちが彼らにモーセの律法を守るようにする為ではありません。エルサレム会議は、異邦人にも割礼を受けるように教えるかどうかを議論する為に集まったものです。会議の結論は、異邦人にモーセの律法を守るように教える必要はないというものであり、信仰によって義と認められたという、キリストの福音によって生きる事を悟った使徒たちは、律法と恵みの違いを理解し始めていたのです。

 使徒 15:21「モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

 この箇所は、「異邦人が、昔からモーセの律法を聞いていたから、律法を守るべきだ」とヤコブは言っているのではありません。彼らが昔からモーセの律法について聞かされるという、圧力を受けていたので、もうこれ以上、律法によって彼らを苦しめる必要はないとヤコブは言っているのです。今やその異邦人たちは、福音を聞いて救われて義となり、恵みの下にいるのなら、モーセの律法(文脈から割礼)は必要ないという事です。

 使徒たちが早い段階から決めた事は、教会で異邦人に割礼を受けさせる事の禁止です。すなわち、それまでイスラエル人がモーセの律法を守り、それにより自己の義を得るという、自分たちにはできなかった律法主義を異邦人に強いる事を禁止にしたのです。イスラエル人が理解していたモーセの律法は、イエスを信じた者たちにとっては、廃棄になったのです。この場合、モーセの律法に問題があるという理由からの廃棄ではありません。モーセの律法はイエスによって成就され、それは神を愛する事と隣人を愛する事によって完成されたのです。

 ローマ 13:10「愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。」

聖書的な教会 2に続きます。

教会の指導者に従う? 2

 これまでの解説から、ヘブルの13章17節は「あなたがたの指導者たちにの言う事に説得されて(確信されて)、又、似るようにしなさい」という意味になります。

 ヘブルの13章7節では、御言葉を聞いた人たちが、それを話してくれた指導者たちの信仰に倣うようにと言っています。17節はその後に続いて、同じ内容の事を繰り返しているのが分かると思います。一貫して同じ事を言っているのです。

 結論として、へブル 13:7 は「教会の上に立つ人の権威に服従する」という事を言っているのではありません。「権威」という単語がそもそも出てこないですし、教会の指導者たちは教会という、キリストの体の上に立つ人たちでもありません。彼らはキリストの体の土台として、他の人々に仕える人たちであり、下から支えるリーダーであって、ピラミッドの頂点にいる存在ではありません。建物の土台は、上ではなく下に据えます。

リーダーの権威

 第二コリント 10:8「あなた方を倒す為にではなく、建てる為に主が私たちに与えて下さった権威について、私が多少誇り過ぎる事があっても、恥とはならないでしょう。」

 パウロは、「あなた方を倒す為にではなく、建てる為」に主が与えて下さった権威だと言っています。「建てる」と訳されている単語は οἰκοδομή(oikodomē)であり、これは預言や異言の祈りによって「築き上げる、成長させる」の意味で使われている語です。次の聖書の箇所でも「使徒の権威」と「築き上げる」事について書いてあります。

 第二コリント 13:10「そういうわけで、離れていてこれらの事を書いているのは、私が行った時に、主が私に授けて下さった権威を用いて、厳しい処置をとらなくてもすむようになる為です。この権威が私に与えられたのは、建てる為であって、倒す為ではありません。」

 ここでも、パウロが使徒として与えられた権威をは、他の人を「建てる為」だと書いています。

 第一テサロニケ 2:6「又、キリストの使徒たちとして権威を主張する事もできたのですが、私たちは、あなた方からも、他の人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。」

 パウロは、人々から名誉を受ける為に、使徒としての権威を主張しませんでした。

 使徒たちは、与えられた権威を用いて他の人の模範となって、導き、彼らに仕える働きがあります。「平信徒」が、問答無用に使徒たちに従い、彼らのビジョンを手伝って、何かを成し遂げようとするのではありません。教会は、集まったクリスチャンを指しているのであって、組織自体ではありません。集まる目的は、指導者が信者を教え、一人一人もまた、成長の為に助け合って、励まし合う為です。

何に従うのか?

 教会内では「従う」必要が全くないのかと心配する人もいるでしょう。

 第一ペテロ 2:13-14「人が立てた全ての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、或いは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめる為に、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。」

 「主のゆえに従いなさい」という事が鍵です。人によって設立された制度(ルール)でも、主のゆえに、つまり、主の教えに沿っている事を前提に従うべきです。あくまで人の制度やルールが「主の御心に沿う」なら問題はありません。ですから、真理の教えに反するルールである場合、「主のゆえに従う」事はできないのです。

模範

 リーダーの資格は仕事のスキルよりも、信仰や愛に基づく良い模範になっているかどうかが重要です。品格はスキルよりも大事です。御霊の実が大事だと言われる通りです。よく指導者が言う、「上の人に従いなさい」は、彼らにとって便利なフレーズとして、しばしば乱用されて来ましたが、その結果、本来の教会が形成されずに、人間的な組織が出来上がってしまいました。

 良い模範を示しているリーダーが、「従いなさい」と言って、個人的な何かを主張する目的で権威を利用する場合ですら、聖書的ではないのです。それならば、良い模範を示していない人が、その人の権威に従うようにと命じたのなら、どうなるでしょうか。誰も、「説得させられない」ばかりか、真理でもないので、違和感しか感じられないはずです。