一度救われたらずっと救われている? その2

ローマ 8:38「私はこう確信しています。死も、命も、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高い所にあるものも、深い所にあるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離す事はできません。」

この箇所を引用して、「永遠の保障」を主張する人もいるようです。しかし、その内容はむしろ「神の愛」です。神の愛を引き離すものは、何もないという事ですが、それを「永遠の保障」と解釈するのは、飛躍し過ぎでしょう。多くの人が気づいていないかもしれませんが、実は、人が自ら地獄の道を選んだとしても、その人に対する神の愛は変わらないのです。天国に辿り着いた者だけが神に愛されているわけではありません。私たちが常に注意を払いたい点は、神が人を天に導く事ができるかどうかではなく、それを選択する私たちの信仰があるかどうかなのです。

「永遠の保障」は「神側」からは確定しているという事ですが、この部分は正解です。しかし、恵みは「神側」なのですが、信仰は「私たち側」にある点を忘れてはいけません。新しい契約は、イエスの方では破る事はありえません。しかし、私たちが信仰を捨てて(イエスを捨てて)、別の道へ行くなら、私たちは自ら滅びの道を選ぶ事になります。神は、私たちの自由意思を尊重します。神は、人の意志を捻じ曲げて何かをする事はされません。私たちをロボットとして扱うのはアガペーではないからです。しかし、滅びの道を選んだ人さえも、主は愛しておられます。何故なら、アガペーは無条件で人を愛するからです。

「条件付きの保障は、救いの為に自分で何か貢献したと信じる人たちにだけ受け入れられる」などと、否定的に考える必要はありません。殆どの場合、アルメ二ウス主義が強調するのは、「自由意志による信仰」についてです。もちろん、極端なアルメ二ウス主義者は、クリスチャンが罪を犯したら再び罪人に戻り、救われる必要があるなどと言いますが、それは間違いであり、ここのテーマとは無関係です。

また、アルメ二ウス主義が、エペソ 2:8-9 に矛盾しているいう主張も、極端な考えでしょう。

エペソ 2:8-9「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。誰も誇る事のない為です。」

イエスを信じて救われたからといって、私たちは自分の信仰を誇る必要はありません。自由意志による信仰は、「人を高ぶらせる」とする考えは、論点がズレています。彼らのこうした極端な考えは、「信仰は神の賜物」と主張する点にも見られます。しかし、パウロがここで言っている「神の賜物とは、信仰の事ではなく、恵みです。この誤解があるのも、自由意志による信仰について、極端に否定的に考えるからでしょう。

「自由意志は人間を高ぶらせる」と懸念する人々は、その自由意志で「高慢を拒む」という「選択の意思」ができる事に気づいていません。それに、
信仰の主張が「高ぶりを引き起こす」という事については、パウロも次の箇所で既に忠告してあります。

ローマ 11:20「その通りです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がる事なく、むしろ恐れなさい。」

この聖句の通り、信者が思い上がる事のないようにすれば、救われていない人々に対して軽視する事はありません。信者は、自分がイエスを信じた事による救いについて、特に誰かに自慢する必要もありません。

信仰を主張し過ぎて、それが高ぶりに繋がる危険性を心配するよりも、信仰によって救われるという、そのシンプルな真理に目を向ける方がもっと重要です。実際、信仰の大切さを強調する事は何も悪くありません。それが「高ぶりになる」というのであれば、信仰について書いてある聖書自体も、「高ぶり」に引き寄せているという事になってしまいます。まさに、そのような否定的な思考が問題そのものなのです!もっと単純に考えましょう。信仰は神が喜ばれるものです。

ヘブル 11:6「信仰がなければ、神に喜ばれる事はできません。神に近づく者は、神がおられる事と、神がご自分を求める者には報いて下さる方である事を、信じなければならないのです。」

さて、信仰について強調する理由があるのは、このテーマに関連させて言うならば、実は、不信仰に陥らない為です。

へブル 3:12-14「兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、誰も罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。」

「兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」という忠告があるのは、信者が不信仰になり、神から離れるケースもあるからなのです。ここはかなりストレートに書かれているので、強引な解釈を持って来ない限り、別の意味として捉える事は難しいでしょう。

恵みから落ちる

「一度救われたらずっと救われている」事を示唆しているような箇所は、聖書にありますが、よく見ると、はっきりとは書かれてありません。一方、その反対の事を示唆しているような箇所は、先程の聖句のように、ストレートな表現が見られます。次の聖句も同様です。

ガラテヤ 5:4「律法によって義と認められようとしているなら、あなた方はキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」

ἐκπίπτω の動詞は ἐκ(前置詞 out of)πίπτω(落ちる)から成り立っています。ここから明らかなように、「一度救われたらずっと自動的に救われている」わけではなく、もし誰かが「律法によって義と認められようとしている」なら「恵みから落ちてしまう」のです。律法主義や宗教によって義と認められようとする行為は、恵みを拒否するからです。パウロは、ガラテヤの手紙の中で、彼が教えているものとは異なる福音を教えている人たちは、呪われるべきだと二回も言いました(ガラテヤ 1:8-9)。

パウロによれば、クリスチャンでもキリストから離れ、恵みから落ちる事が可能だというのです。もちろん、信者がキリストを信じ、その信仰の通りに歩むのなら、その人は救われているという状態を保つ事になります。そこには、当然神ご自身の関わりもありますし、その人の信仰もあります。そして、この二つを知る事がこの種のテーマに答えをもたらす鍵です。すなわち、神が私たちを守ってくださり、成長させて下さる一方、私たちもまた、神を信頼し、絶えず神の教えに沿って歩むという選択をしなくてはならないという事です。

一度救われたらずっと救われている? その1

「永遠の保障」、「聖徒の堅忍」、「聖徒の保護」などと言われているものは、カルヴァン主義に基づいている教えであり、「一度救われたらずっと救われている」などのような主張します。*国語辞典によれば、「保障」は保護の視点で、「保証」は責任の視点を持つようです。この記事では「永遠の保障」とします。

永遠の保障

永遠の保障の教理の議論はかなり昔からあるもので、プロテスタント教派の中で最も議論がなされたものでしょう。この神学論を真理だと考えている人たちは、「聖書でこう言っているから」という自身の聖書的な立場をあまり主張せず、「私たちがこれを信じるのはこの神学的解釈を信じているから」という事を主張します。従って、あるグループに特有な教理などを一旦置いて、聖書が何を言っているかをストレートに読まないと、真理は分からないままになります。さて、
一部のグループの人々が「一度救われたらずっと救われている」と主張するのは、多くの場合、彼らの神学がカルヴァン主義に影響されているからです。この神学論を土台に発展した教団は多く存在します

例えば、アメリカで有名な牧師、ジョン・マッカーサーもその影響を強く受けている一人です。「救いの保障」という彼の説教の冒頭で、彼は次のように書いています。

「救いが失われる事もあるとする教理は、救いを条件付きにしています。その教えは、神が私たちを救って下さったので、「神の基準」に合わせてその救いを維持しましょうと言います。しかし、私たちが失敗する時には、いつでも救いを失うと教えます。このような教えは、行いによる義の視点です。」

さて、この中に間違いがあるのが分かるでしょうか?

答えは、「救いは無条件」だと暗示する彼の主張です。彼は、恐らく、無条件である「神の愛(アガペー)」と混同したのではないでしょうか。この冒頭の後、彼は次の箇所を引用します。

エペソ 2:8「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。」

この箇所は、まさに「救いが条件付き」である事をそのまま示している聖句です。ただ恵みによってではなく、私たちがイエスを信じたので救われたのです。ジョンは、救いが「恵みだけ」によると勘違いしたのか、それとも、恵みばかりを強調し過ぎて「信仰」を忘れていたのか分かりませんが、救いは無条件でない事は確かです。

その後の彼の主張の内容は(冒頭の滑りとは裏腹に)信仰義認、神と人との和解、仲介者であるキリスト、神の恵みなど、いずれもオーソドックスな内容で説明しています。しかし、何故かローマの5章は永遠の保障を示していると説明もなしに主張しています。更に、次の箇所を引用して、私たちの「永遠の保障」が「神の御力によって守られている」と言います。

I ペテロ 1:5「あなた方は、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いを頂くのです。」

ペテロは、この聖句で「永遠の保障」について何か言っているのではありません。私たちが「神の御力によって守られている」のは「信仰により」とはっきりと書いてあるので、信仰がここでも鍵というのが明らかです。

ジョンの説明や弁証は、正しいものも多くありますが、説明不足なものや、強引に結論づけるような箇所も幾つかあります。だからといって、彼は偽教師ではありません。問題は、カルヴァン主義の教理であり、こうした真理ではない教えの修正が必要なだけです。

一度救われたらずっと救われている? その2に続きます。

「新しい」発見

「新しい」という意味のギリシャ語は二つあります。νέος(neos)と καινός(kainos)です。

neos

「時間的」に「新しい」という意味をもち、人に用いられるなら「若い」という意味にもなります。ぶどう酒に用いられれば「古いぶどう酒」です。通常、私たちがよく使う「古い」の反意語が、この neos です。

kainos

過去との比較して「新しい」というものではなく、前例のない、斬新な、前代未聞の「新しさ」です。

マタイ 9:17「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんな事をすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」

ここでは、neos の単語が使われています。時間的に「新しいぶどう酒」を意味します。ぶどう酒はじっくり発酵させて作るものですから、普通に考えれば、「新しいぶどう酒」というのは人が好むものではありません。ですから、一般的には、酒は「古いものが良い」となるわけです。イエスが言った通りです。

マタイ 26:29「私はあなた方に言います。今から後、私の父の御国であなた方と新しく飲むその日まで、私がぶどうの実からできた物を飲む事は決してありません。」

「新しく」は kainos なので、斬新なぶどう酒になります。興味深い事に、マタイは、同じぶどう酒に対して違う形容詞を使っているのです。

次に、「新しい人」のケースを見てみます。

コロサイ 3:10「新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方の形に従って新しくされ続け、真の知識に至ります。」

ここでは neos が使われているので、時間的に「新しい人」になります。

エペソ 2:15「様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、」

こちらでは kainos が出ています。ここでは、「斬新な人」の意味で使われています。

コロサイ人への手紙も、エペソ人への手紙もパウロが著者です。何故、パウロも二つの形容詞を使ったのでしょうか?

次は、「契約」という単語です。

へブル 12:24「更に、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりも優れた事を語る、注ぎかけられたイエスの血です。」

ここでは neos が出ているので、時間的に「新しい」契約になります。

へブル 9:15「キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約の時の違反から贖い出す為の死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐ為です。」

ここでは kainos で形容されています。「斬新な契約」の意味になります。両方ともへブル人への手紙の中にあるので、同じ著者による、同じ名詞に対する二つの形容詞が使われている事になります。

まとめ

こうして見ると、同じ著者が意図的に二つの形容詞を使っている事が分かると思います。使徒たちが御霊の霊感によって聖書を書いた事実からすると、これらの形容詞の使用は偶然だろうという「憶測」よりも、意図を持ってそう書いたという「憶測」とする方が無難でしょう。そうすると、これらの「新しいもの」(ぶどう酒、契約、人)は、「時間的に新しい」だけでなく、「斬新」でもあるのです。