恵みは罪を犯しても良いという許可を与えるものではありません。罪が赦されているという真理を軽んじ、罪から離れて、義の道へ進む事をしないクリスチャンが近年増えて来ています。このような教えはハイパー・グレイス(極度の恵み)と呼ばれていて、十字架の恵みを曲解しています。
罪と死の原理からの解放をきちんと理解すると、人は神の恵みを乱用しなくなります。何故なら、人の罪を赦した神の愛がその人の内に働くからです。
I ヨハネ 4:10「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
私たちの罪が赦されているのは神の愛ゆえです。この十字架の愛は人を罪から解放し、ついには罪を犯さないようになるまで、完全に成長させる力を持ちます。私たちがキリストの愛に目を向けて信仰によって進むなら、必ず完全に成長を成し遂げる事ができるのです。この愛は決して軽んじられるべきではありません。
ローマ 2:4「それとも、神の慈しみ深さがあなたを悔い改めに導く事も知らないで、その豊かな慈しみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」
神の愛とその恵みがきちんと教えられているのなら、人は「赦されているのだから罪を犯しても大丈夫」という考えには至りません。そう考えている人は、恵みについて聖書が何を教えているか分かっていません。ハイパー・グレイスの教えは、神の恵みを自分勝手に都合の良いように解釈してしていると言えますが、結局のところ、恵みを正しく理解していないだけなのです。
一方で、律法主義者にしてみれば、あらゆる細かい事にこだわり、上辺だけの行いばかりに意識を向けているので、恵みを知りません。こちらもイエスの恵みを理解していない人たちです。
I ペテロ 2:24「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義の為に生きる為。その打ち傷のゆえに、あなた方は癒された。」
私たちが罪を離れ、義の為に生きる為に、キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われたのです。私たちは罪から離れて、神の義の為に生きられるのです。しかし、それは自動的にそうなるのではなく、私たちの選択によるものです。自由になった私たちでも、また再び肉の思いによって、罪の奴隷のように歩む事もできます。しかし、イエスに与えられたその自由は義の為に生きる為なのです。
私たちの選択とは何でしょうか?それは成長するという選択です。成長なしにそのまま肉に属する者として歩む事も可能であり、そういうクリスチャンはコリントの教会にいたクリスチャンでした。
I コリント 3:1「兄弟たち。私はあなた方に、御霊に属する人に対するようには語る事ができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。」
パウロは「キリストにある幼子」という表現を使って、コリントのクリスチャンを幼子として扱いました。彼らは肉に属する人たちであり、様々な混乱や分裂を起こしていました。このように、クリスチャンは誰でも肉によって歩む事が可能です。しかし、成長を目指す考えを持つ事もできます。それこそが、勝利を得るクリスチャン生活に欠かせないものであり、それは御霊によって歩む事を意味します。
II ペテロ 3:18「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい...」
私たちが成長するのは、「イエス・キリストの恵みと知識において」です。注意しなければならないのは、イエスの恵みは私たちが永遠の命を得る為に必要だったものだけではありません。その恵みは、私たちを成長へと導きます。主の恵みを知れば知る程、私たちは罪を犯さないように、強くなる道を選びます。
「反省」という宗教的な悔い改めが私たちを成長させるのではありません。それはかえって、私たちのうちに罪意識を生じさせ、私たちを束縛してしまいます。しかし、十字架の恵みを見る時に、私たちはその恵みの力によって、罪から離れて行きます。どうしてそうなるのでしょう?それは、人が主の恵みを知った時に、主の愛に引き寄せられるからです。主の愛が分かったからこそ、私たちは悔い改める(考えを変える)のであり、悔い改める事によって罪を赦されようとする行為は、自分で義を獲得しようとする宗教のようなもので、やるべき順序が逆です。
エペソ 4:13「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」
II ペテロ 3:18 によれば、私たちが成長するのは、「イエス・キリストの恵みと知識において」です。何故なら、「神の御子に対する信仰と知識において一つ」になる時に、私たちはキリストの幼子から霊的大人になる事ができるからです。イエスに関する信仰と知識を増すにつれて、私たちは大人として歩める、義の道を歩めるようになります。
へブル 5:12-13「あなた方は、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げた言葉の初歩を、もう一度誰かに教えてもらう必要があります。あなた方は固い食物ではなく、乳が必要になっています。乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。」
幼子は乳しか飲みません。堅い食物は義の教えに通じている大人の食べ物です。ですから、イエスに関する知識が増えると、義の教えに通じる者として歩めるわけです。肉に属する思いを捨て、キリストについての恵みと知識に関する御言葉を昼も夜も口ずさみ、思考の一新によって、私たちは自分自身を変える事ができます(ローマ 12:1-2)。これが聖書の教えている成長の方法です。