イエスが最も嫌った事

福音書を読むと明らかなのですが、イエスが非難した人たちは決まってパリサイ人と律法学者でした。彼らは律法主義で、いつも宗教的な考えで神を見ていたのです。彼らは、実際には、モーセの律法よりも自分たちの伝統的な教えを重視していて、その規律を守る事ばかりを義の基準としていたました。それゆえ、律法を守る事による義の獲得が彼らにとっての神となり、それはもはや偶像礼拝であったわけです。モーセの律法は、何が悪い事かを示す為にあるもので、それ自体は悪くはないのですが、彼らはモーセの律法を通して義を獲得するという事に考えを向けてしまいました。

律法的な愛

こうした勘違いは、例えば、人を愛するという、本来はモーセの律法の本質をとらえた神の真の教えであるべきものが、人を愛目的が自分の義を求める為であるなら、愛の実践ですら律法主義になってしまうのです。愛の言動によって、神や人に自分の義を認めてもらうと考えるなら、それはもはやアガペーの愛ではありません。

或いは、愛が大事だと教えるのは良い事ですが、それを人に押し付けてしまうとそれはアガペーでなくなります。私たちが愛し合うのは、主がまず私たちを愛して下さったからです。神の義を得る為にそうするのではなく、既にキリストを通して神の義を得たクリスチャンは、神の愛によって、お互いを愛する事ができるのです。

律法主義の義

さて、こうした宗教的、律法主義の考えは神が最も憎むものです。何故なら、そのような考えはいつも自分を義とみなして、相手をさばいてしまうからです。そこには赦しや憐れみがありません。いつも自分を正当化し相手を見下します。パリサイ人と律法学者は常に自分たちの正しさを主張して、彼ら以外は全て罪人だと裁いていたのです。彼らが清い心で神の言葉に忠実で律法を全て守っていたならイエス様も納得していたでしょう。ところが、彼らの義は偽善でした。

イエスは彼らに対して、たとえ話を用いて彼らの嘘を指摘しました。多くのたとえ話の内容は、ユダヤ人が最初に救いに預かる民であったはずが、罪人や異邦人が先に神の国に入ってしまうというものでした。痛烈な皮肉よって、主は彼らの愚かさを暴露したのです。彼らは選ばれた民として、モーセの律法を通して、誰よりもキリストを知っているべきでした。律法はキリストに導くための養育係だったからです。

律法主義の考えに染まったパリサイ人や律法学者は、モーセの律法を行う事による義を求め続け、同時に、そうしない人は罪人だと裁いていたのです。しかし、モーセの律法を守る事ができた人は、誰もいませんでした。人は誰も律法を守る事ができないからであり、それゆえに、キリストによる救いの道を神は用意しておられたのです。

ローマ 9:31「しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。」

人類の歴史上律法を完全に守る事ができたのは、イエスしかいません。パリサイ人や律法学者は、自分たちが守れない戒めを人々に押し付け、いつも自分たちの有利になるようにモーセの律法を利用していた偽善者でした。彼らは貧しい人とやもめの家を食いつぶす為に、モーセの律法を乱用し、自分たちがそれの専門家である立場を乱用していたのに過ぎません。このような支配と束縛は、サタンからのものです。

律法と恵み

恵みに反する教えは全て宗教的なものです。ですから、律法主義の教えは神が最も嫌うものなのです。それは、イエスの恵みが私たちに届かないように邪魔をするものです。イエスの十字架を妨げるような忌まわしいものであり、信仰によって救いに至るという真理を台無しにする教えです。

マルコ 9:42「また、私を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまう方が良いのです。」

パリサイ人と律法学者は、イエスを信じようとする人々の邪魔をしました。あらゆる機会を捉え、イエスの福音の邪魔をしたのは彼らでした。

パウロもまた、彼がまだサウロであった時、大勢のクリスチャンを迫害していました。まさに、彼は神の働きを邪魔していたのです。彼にしてみれば、そうした愚かで恐ろしい事に携わっていたのにも関わらず、イエスが顧みて下さったのは、恵み以外の何ものでもなかったと思ったに違いありません。

I テモテ 1:15-16「キリスト・イエスは罪人を救う為に世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私は憐れみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠の命を得る事になる人々の先例にする為でした。」

純粋な恵み

今日、様々な教派の下で教えられている福音は宗教的な教えが混ざってしまっています。初代教会でも、そうした事は
起きていました。ガラテヤの教会に割礼を持ち込んだユダヤ人の信者は、異邦人を律法の下に閉じ込めようとしたのです。パウロは彼らをにせ兄弟と呼びました。

ガラテヤ 4:17「あの人たちはあなた方に対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなた方を私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。」

パウロが、「あなたがたに恵みがあるように」と彼の手紙の中でよく言ったのは、主に対する恵みの理解があったからでしょう。

ガラテヤ 2:21「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」

私たちは恵みで始まったのですから、一切の律法主義を捨て去り、恵みの中に歩み続ける事を心がけたいものです。