第一コリント 12:7「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」
賜物は特別ではない
教会がもっと成長して、一人一人がやるべき事に従事するなら、私たちはもっと御霊の働きを見る事になるでしょう。古い契約に基づく考えのままなら、神の為に働く人が特別に見えてしまい、「油注がれた者」としてしまいます。しかし、こうした誤解を全て解き明かすには、全ての信者に聖霊がギフトとして、神から与えられているという真理を知る事です。父なる神からの約束である聖霊こそ神からの唯一のギフトであり、神の子供であるなら、皆が持っている(聖霊が内住している)のです。そして、charisma は「恵みの現れ」という訳が最適であり、全ての信者が「恵みの現れ」という聖霊の働きと聖霊の助けを通して、教会の奉仕に携わる事ができるのです。特別に選ばれた人に与えられる何か特別なものではありません。これを知ると、使徒や預言者が「誰よりも大きな権威を持っている」という事も誤解だと分かります。彼らは、その役割が教会の土台に関するという事で、責任が重いというだけです。これらの役割に携わっているからという理由だけで、他の信者よりも優れているとは限らないのです。
第一コリント 1:28-29「有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。」
旧約聖書の視点は、十字架で人に明らかになった恵みを知らないものです。その時はまだ聖霊が豊かに降り注いでおらず、人々はモーセの律法を守る事で神の義を得る事ができると考えていました。イエスの十字架の御業が完成されていなかったので、キリストの義がモーセの律法の義よりも優れている事を知らなかったのです。その時代の「油注がれた人たち」は、多くいませんでした。しかし、今では全ての信者に聖霊が内住しておられ、また、全ての信者の中にキリストがおられるのです。神ご自身を持つ信者は、何かが欠けているという事がありません。私たちのうちには、神の力だけでなく、神ご自身が住んでおられるのです。
エペソ 1:3「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」
「賜物」や「油注ぎ」に欠けていると考えている人は、この御言葉を深く瞑想する事が必要でしょう。この聖句を悟る時、全ての必要は私たちの中にあると分かります。
「賜物」と訳されている教会における役割は、別の言葉で言うなら、「聖霊の助け」でしょう。それをもっと見たいのなら、御霊と共に歩み、教会での奉仕に励んで下さい。そうせずに、ただどうしたら霊的な力が与えられる事ばかりを考えている人は、霊的現象を追いかけるようになります。そうすると、悪霊による惑わしを見抜けなくなり、聖霊の声と悪霊の声の聞き分けもできなくなってしまい、最初は聖霊の働きで始まったのが、いつの間にか極端な教えに走って、肉による働きとなってしまいます。
このようなものは、パウロに言わせれば、幼子の考え方なのです。恵みの現れという聖霊の助けを毎回借りて教会で奉仕するというものは一時的なものであり、一部分であり、その様なものは幼子が考えるものだとパウロは言っているのです。究極的には、御霊の助けに依存せず、信仰によって歩んでいても、愛が欠けていたら価値はありません。ですから、第一コリントの13章の理解が重要なのは言うまでもありません。結局、愛という動機で行う奉仕が価値のあるものだからです。
コリントのクリスチャンのように、自分の利益を目的としたような下心のある奉仕の働きは、アガペーに基づくものではありません。こうした考えがあるのは、恵みの現れをただの神の力として見ているからです。そうではなく、神の恵みは、相手の必要に応じて現わされるという、相手を優先する事に基づいています。つまり、相手を助けるという愛の行動です。パウロはそれを教えているのです。
第一コリント 13:8-11「愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。」
恵みの現れという聖霊の働きも廃れます。それは、それ自体が虚しいものだからではなく、幼子が必要とする一時的なものだからです。聖霊が幼い信者を助けて、様々な教会の役割が機能するという、この種の聖霊の働きは、「廃れるべき理由」があります。それは、私たちが大人になる必要があるからです。パウロは、恵みの現れについて、「大人になった時、幼子の事をやめた」と言って、取るに足らないものと結論付けています。実際、霊的に成長してしまえば、その信仰が成長し、幼子が頼るような聖霊の働きは、もはや必要としなくなるからです。霊的な大人は、信仰も成長しており、助けるべき人を優先して愛の動機で彼らを助けます。パウロはこうした考え方を持っていた為、時間をかけて一つ一つの役割がどういうものか、詳しく解説しなかったのです。パウロはむしろ、愛によって行動して人を助けるように、大人の考え方を持つように促したのです。
パウロが詳しく説明したのは、預言や異言に関しての賜物だけであって、その他が重要ではありませんでした。それは、それらの賜物だけが預言的な機能を持っており、教会の徳を高めるという愛の行動に関係する役割だったからです。ですから、パウロが注目しているのはこれらの役割自体ではなく、むしろ、愛に基づく行動なのです。
第一コリント 13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」
12節はイエスの再臨の事についてではありません。恵みの現れのテーマから逸脱して、パウロはここで突然、全く異なる事を書く事ができるでしょうか?パウロは「鏡にぼんやり映るものを見ている」という表現を使って、いかに幼子の時には一部分しか見えず、視野が狭くて小さなものばかりにこだわっているかを言っているのです。しかし、大人になって成長した時には、全てのものが理解して分かるようになるとパウロは言っています。その時には、鏡で映るものがはっきりと分かるようになります。
ここの「鏡」とは御言葉を意味します。御言葉を良く理解している人にとっては、御言葉によって自分自身を理解します。ところが、霊的に幼いクリスチャンは本当の自分の姿(アイデンティティー)を知らないので、鏡(聖書)を見た時、それをまだ理解出来ていない為に、ぼんやりと自分を見る事になります。彼らにとっては、真の自己の姿が鏡(聖書)にはっきり映って見えないのです。
第一コリント 13:8-11「愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。」
恵みの現れという聖霊の働きも廃れます。それは、それ自体が虚しいものだからではなく、幼子が必要とする一時的なものだからです。聖霊が幼い信者を助けて、様々な教会の役割が機能するという、この種の聖霊の働きは、「廃れるべき理由」があります。それは、私たちが大人になる必要があるからです。パウロは、恵みの現れについて、「大人になった時、幼子の事をやめた」と言って、取るに足らないものと結論付けています。実際、霊的に成長してしまえば、その信仰が成長し、幼子が頼るような聖霊の働きは、もはや必要としなくなるからです。霊的な大人は、信仰も成長しており、助けるべき人を優先して愛の動機で彼らを助けます。パウロはこうした考え方を持っていた為、時間をかけて一つ一つの役割がどういうものか、詳しく解説しなかったのです。パウロはむしろ、愛によって行動して人を助けるように、大人の考え方を持つように促したのです。
パウロが詳しく説明したのは、預言や異言に関しての賜物だけであって、その他が重要ではありませんでした。それは、それらの賜物だけが預言的な機能を持っており、教会の徳を高めるという愛の行動に関係する役割だったからです。ですから、パウロが注目しているのはこれらの役割自体ではなく、むしろ、愛に基づく行動なのです。
第一コリント 13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」
12節はイエスの再臨の事についてではありません。恵みの現れのテーマから逸脱して、パウロはここで突然、全く異なる事を書く事ができるでしょうか?パウロは「鏡にぼんやり映るものを見ている」という表現を使って、いかに幼子の時には一部分しか見えず、視野が狭くて小さなものばかりにこだわっているかを言っているのです。しかし、大人になって成長した時には、全てのものが理解して分かるようになるとパウロは言っています。その時には、鏡で映るものがはっきりと分かるようになります。
ここの「鏡」とは御言葉を意味します。御言葉を良く理解している人にとっては、御言葉によって自分自身を理解します。ところが、霊的に幼いクリスチャンは本当の自分の姿(アイデンティティー)を知らないので、鏡(聖書)を見た時、それをまだ理解出来ていない為に、ぼんやりと自分を見る事になります。彼らにとっては、真の自己の姿が鏡(聖書)にはっきり映って見えないのです。
あなたが肉の目で見ているなら、鏡である聖書を土台としていない事になります。そうすると、一時的なものにこだわったり、一部分のものを極端に重視したりしてしまうでしょう。そうではなく、本来あなたが聖書から見えるべきものは、本当のあなた自身です。それはあなたの中におられるイエス・キリストであり、それゆえに、あなたが神の子として悟り、霊的大人として歩んでいる本来のあなたなのです。