御霊の賜物を理解する その3

「御霊の賜物」は聖霊という神の恵みであり、それが様々な形で現われるというものです。今回は、同じ恵みの現れでも、それが教会における信者の役割とは異なるケースについて見て行きます。

さて、先にも言ったように、恵みの現れを「霊的能力」として見てしまいがちですが、より重要なのは、神から与えられた聖霊です。聖霊は私たちを通して様々な形でご自身の力を現すだけなのです。

ルカ 11:13「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

「良いもの」と訳されている語は、「ギフト」を意味するギリシャ語「doma」であり、それと聖霊を比較させて、主は説明されています。文脈から、聖霊が神からの賜物(ギフト)である事が分かります。しかし、第一コリント12章の御霊の賜物と訳されている「賜物」は「恵みの結果、効果、現れ」が正しい訳なのです。「charismata(複数)」が「ギフト」として訳されてしまった為に、様々な誤解が出て来たのです。しかし、同じ聖霊が恵みを現すケースでも次の箇所は別の事を意味しています。

ローマ 6:23「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

ここの「賜物」は
「charisma」であり、第一コリント人への手紙12章に出て来るものと同じ恵みの現れの意味を持ちます。この聖句での神の賜物とは永遠の命の事ですが、それは9つの奉仕の役割と同じ種類の恵みの現れではありません。「賜物」として考えると混乱するかもしれませんが、「charisma」を「恵みの現れ」という意味で読むと良いのです。永遠の命は、まさに、神の恵みが現わされた事です。

ローマ 11:29「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」

この個所も、文脈を完全に無視してよく引用されます。ここの「charisma(単数)」を「9つの役割」と同じなどと考えていると、神から一度与えられた役割の一つは、人の上に永遠に留まる、などの解釈に至ります。実際に、あるグループの人々の間では、こうした考えが一般となっています。

ここ の「賜物」も「charismata(複数)」となっているので、「恵みの現れ」という意味です。もう一度言いますが、これはギフトという意味の語ではありません。さて、この聖句の解釈は、前の節から見て判断するべきです。

ローマ 11:26-28「こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。」彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。」

この後に、29節の「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです」と続くのですから、ここの「charismata(複数)」は第一コリント12章にある「9つの役割」とは違う聖霊の現れです。それとも、パウロはここで語っている主題とは無関係に、ランダムに教会の役割について書いているのでしょうか?

聖霊の現れを「教会における9つの役割」と定義するのではなく、恵みを様々な形で現わす聖霊の働きと捉えましょう。そうすると、福音に関して言えば、神に敵対している者に見えても、父祖たちのゆえに、神に愛されているイスラエル人の救い、彼らから不敬虔と罪を取り除く事が「神の恵みの現れであり、召命である」と分かります。

聖霊が与える?

第一コリント 12:7「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」

「charis(恵み)-mata(効果、結果、現れ)」という語を使ったパウロは、「恵み=聖霊」とし、その御霊の効果、結果、現れだと表現しました。ここでは、「恵みの現れ」が「皆の益になる為」に与えられているとあります。次の聖句も似たような事を言っています。

第一コリント 12:11「同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。」

ここに出てくる「bouletai」という動詞を正しく把握しなければなりません。この語は、「~するつもり」という「意図」を意味しており、これが「みこころのままに」と日本語に訳された理由です。「聖霊が意図する」という事であるなら、「御霊は、みこころのままに」という訳で間違いありません。英語でも、「as He wills(聖霊が意図するままに)」という訳になっています。

ところが、この「bouletai」は受け身の形になっています。つまり、主語が「意図する」のではなく、「意図される」と訳されるべきなのです。ですから、「主語が~される」という事になります。そうすると、聖霊が「意図される」とはなりません。つまり、別の主語が「意図される」のです。前の説を見れば一目瞭然です。

第一コリント 12:8-10 「ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」
ここでの「charisma」は、同じ恵みの現れでも、教会における信者の役割として聖霊が助けて下さるという聖霊の現れであり、それが一人一人に与えられるという事なのです。ですから、11節の「意図される」のは、聖霊ではなく、これらの役割が意図されるという訳が最適なのです。

聖霊がどの様にしてその力を現すかは、聖霊の気分次第ではなく、そのニーズ次第なのです。つまり、聖霊が意図する(決める)のではなく、恵みの現れが「決められる」のです。必要が神の力を引き出すという視点です。長血を患った女も、イエスからその力を引き出しました。イエスが癒そうと決意する前に、彼女がその力をイエスから引き出したのです。

一般には、人間の必要とは関係なく、神の絶対的な主権により何かが決められると考えられていますが、それは間違いです。まず、主は私たちの必要を知らない事はありません。その必要を無視して、それとは異なる事を決断するお方でもありません。むしろ、主は私たちの必要を知っておられ、予め用意なさって下さるお方です。ですから、病人が苦しんでいる状況においての最適な恵みの現れは、癒しという形であり、知恵が必要な人に対しては、知恵の言葉が最適な神の恵みなのです。この様にして、助け主である聖霊は、私たち全ての益を考えておられます。この恵みは、無限の恵みです。

この真理には幾つかの重要な意味があります。すなわち、恵みの現れは神の恵みを必要としている人たちのニーズに応じて、形が変わるという事実です。ですから、キリストの信者が、「私はこの賜物は持っていないから助けてあげる事ができない」という考えは、的が外れているのです。或いは、パウロの挙げた幾つかのものだけが「恵みの現れ」でもありません。恵みの現れは、全て恵みを必要としている人に神が応えるものです。神の恵みはとても豊かであるが故に、人のあらゆるニーズに応える事ができます。ですから、聖霊による恵みの現れは、人のニーズに応じて現れされるものであり、制限がないのです。

御霊の賜物を理解する その4に続きます。