御霊の賜物を理解する その1

第一コリント人への手紙12章などで使われている「賜物」は、ギフトを意味するギリシャ語ではありません。ギフトの意味を持つギリシャ語は、「doma」と「dora」です。第一コリント人への手紙12章に出てくる御霊の「賜物」と訳されている語は「charis-mata」です。「charis」は恵みです。ですから、この語は恵みと関係しているのです。興味深い事に、ジョン・ウィクリフによる最初の英語の聖書では、もっとギリシャ語に忠実に、「恵み」と訳されています。


「charis-mata(複数)」の「-mata」の部分が「複数の結果・効果」という意味を持つので、直訳ならば、「恵みの複数の結果・効果」という訳が最適です。パウロは御霊の賜物を「聖霊の現れ」とも呼んでいます。ですから、パウロはここでの恵みを聖霊だと言っているのです。しかし、恵みの聖霊が力を現す事は、全て聖霊次第というわけではありません。多くの人々は、賜物が癒しや奇跡の鍵だと言ってそれを必死に求めているのですが、同時に、全ては聖霊次第とも言います。こうした考え方は、御霊の賜物についての誤解が原因になっています。


私たちは、御霊の賜物についてそこまで強調する必要はありません。パウロが言っているように、御霊の賜物というのは一時的なもので、いずれは廃れて行くもの(或いは、そうでなるべきもの)だからです。一方で、確かに賜物について知っておくべき事もあります。パウロも次の様に言ってから、御霊の賜物についてコリントの信者に助言しています。


第一コリント 12:1「さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。」


ここの「賜物」の直訳は「霊的事柄」です。パウロによると、この後に出て来る様々な「聖霊の現れ」は、「霊的事柄」なのです。パウロが第一コリント12章で言っている聖霊の現れ(一般には御霊の賜物という訳)は、様々な形で御霊が現わす神の力でもありますが、同時に、教会における信者の働き・役割の事です。体の各器官がバランスよく機能するように、キリストの体の各器官(各信者)も、お互いの益になる為にあります。


各信者がお互いの益になるように、9つの働きがキリストの体においてあるとパウロは言っています。恐らく、この9つが代表的な聖霊の現れとしてよく認識されていたのでしょう。これらは信者を通して働かれる様々な聖霊の働きであり、教会における役割ですから、皆が使徒や預言者ではなく、それぞれが異なる役割をする必要があるとパウロは教えました。キリストの体における奉仕の働きは、バランスと秩序があるようにとパウロは言いました。これが、第一コリント人への手紙12章から14章にかけてのパウロの教えです。


パウロがそのようにコリントのクリスチャンに教えていた理由は、コリントの教会では分裂が起きていて、多くの混乱があったからです。彼らの集会には秩序がありませんでした。パウロが彼らに注意した内容を見れば、彼らがどの様な事をしていたかを知る事ができます。彼らは皆が使徒や預言者になりたがっていました。初心の者が来た時にも、異言で話し、また、異言を解き明かす事も、預言する事も怠っていました。


さて、私たちは「御霊の賜物(正しくは、恵みの現れ)」を変に強調し過ぎています。ここで、それがあまり意味のない事を一つ挙げます。例えば、パウロ自身でさえ、知恵の言葉とはどういうものかを説明していません。9つの御霊の賜物についての一般的な教えは、それらがどういったものかを説明している部分においては、殆どが個人的な体験に基づいています。預言の賜物、異言、異言を解き明かす賜物以外の御霊の賜物については、パウロは特に説明していません。実はここに、ヒントがあります。パウロでさえ特に詳しく説明していないものは、私たちも特にそうする必要がないという事です。パウロは細かい事にこだわっていませんでした。これが理由で、ローマ書12章では異なる「恵みの現れ」が挙げられているのです。


パウロによれば、これらの教会での役割は一時的なもので、愛に基づいた行動が最後まで残るという事でした。コリントの人々は、霊的な幼子であった為に、必要以上にこれらの役割こだわってしまい、肉の思いから使徒や預言者になりたがっていたのでした。結果、彼らの働きには愛が無くなっていたのです。一時的なものであるものや、そこまで重要でないものを強調し過ぎてしまうと、本質である神の愛を見逃してしまうでしょう。だからと言って、これらの重要な役割を教会から排除してしまっても良いという事ではありません。ポイントは、全ての奉仕の働きを愛によって行う事がより重要なのであり、教会が地上に存在する限りは、恵みの現れであるこれらの役割は存在するべきです。 


御霊の賜物を理解する その2に続きます。