聖書的な教会 1

 教会「Ekklesia」という語は、「呼ばれた者」(クリスチャン一人一人を指す)ですが、集合体の「呼ばれた者」なら、パウロが言うように、「キリストのからだ」となります。キリストに「呼ばれた」人々が集まると、「キリストのからだ」として、キリストの体の器官の働きをします。この場合、集まる人たちが「キリストのからだ=教会」であって、集まって出来た組織そのものや、教団がキリストのからだとしての本来の機能を果たしていないのなら、教会ではないのです。

 クリスチャンがお互いを励ましたり、成長する為に共に集り、その為の活動をするのが、「キリストのからだ=教会」であって、単なる組織を持つ集団の場所に集うという考えではありません。組織や教団を発展させるのではなく、お互いを成長させる目的で集まります。組織は秩序の為に必要ですが、組織の為にクリスチャンが集まるのではなく、クリスチャンが正しい目的を持って集まると、キリストのからだとしての機能が始まるので、当然、そこには何らかの組織的なものがあります。

使徒たちの手紙と教会

 福音書には、キリストのからだ(教会)についての話は、殆ど触れていません。宣教命令などを除けば、福音書は全て十字架の完了とイエスの復活で終わっています。話の続きは使徒言行録から知る事ができますが、そこで私たちは、教会がどのようにして生まれたかを知る事ができます。信者の成長に焦点を当てた信者の集会(教会)が、本来どのようにして機能するべきかについて詳しく書いてあるのは、使徒たちによる手紙を見れば分かります。使徒たちの手紙は、各教会に書いたものであり、その内容や目的も、各教会にいるクリスチャンたちへのアドバイスです。そういうわけで、聖書的な教会を考える場合、私たちは使徒たちの手紙を中心に見なければいけないのです。

1.祈りと聖書の学び

 使徒 6:4「私たちは祈りと、御言葉の奉仕に専念します。」

 教会が始まったばかりの時には、信者が何を、どのようにするべきかといった具体的なアドバイスすらありませんでした。それでも使徒たちは、祈りと御言葉の奉仕の大切さだけは理解していたようです。聖書の学びと祈りが欠けている信者の集い(教会)は致命的ですが、それらがあったとしても、実際に信徒の成長が見られないなら、意味がありません。御言葉と祈りの重要な点は、私たちの信仰の成長にあるからです。

 聖書の学びと言っても、旧約時代のような律法主義の考えから、聖書を学ぶ事ではありません。新しい契約の下での聖書の学びは、イエスの教えに従うという事であり、御霊によって御言葉が生かされるものです。同様に、祈りも儀式として行うものではありません。聖霊が豊かに降り注がれた恵みの下では、大胆な祈りに変わっています。律法の下では出来なかった御霊による祈りが、今は可能になっているのです。

異邦人信者に対して

 最初の教会がスタートした時には、まだ異邦人のクリスチャンがいませんでした。しかし、すぐに救いの御言葉が異邦人たちへ伝えられるようになります。この時に、割礼の問題が起こりました。いわゆるエルサレム会議において、異邦人の教会では、以下の内容の事を最初のルールとしました。

 使徒 15:29「すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避ける事です。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」

 異邦人たちは、基本的に皆が偶像礼拝者でした。ですから、まず偶像礼拝に関わる事を止めさせる必要がありました。次に、不品行を止めさせる事を使徒たちは決めています。この二つが、当時の異邦人の特徴的な行動でした。注意したいのは、これらを禁じたのは、使徒たちが彼らにモーセの律法を守るようにする為ではありません。エルサレム会議は、異邦人にも割礼を受けるように教えるかどうかを議論する為に集まったものです。会議の結論は、異邦人にモーセの律法を守るように教える必要はないというものであり、信仰によって義と認められたという、キリストの福音によって生きる事を悟った使徒たちは、律法と恵みの違いを理解し始めていたのです。

 使徒 15:21「モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

 この箇所は、「異邦人が、昔からモーセの律法を聞いていたから、律法を守るべきだ」とヤコブは言っているのではありません。彼らが昔からモーセの律法について聞かされるという、圧力を受けていたので、もうこれ以上、律法によって彼らを苦しめる必要はないとヤコブは言っているのです。今やその異邦人たちは、福音を聞いて救われて義となり、恵みの下にいるのなら、モーセの律法(文脈から割礼)は必要ないという事です。

 使徒たちが早い段階から決めた事は、教会で異邦人に割礼を受けさせる事の禁止です。すなわち、それまでイスラエル人がモーセの律法を守り、それにより自己の義を得るという、自分たちにはできなかった律法主義を異邦人に強いる事を禁止にしたのです。イスラエル人が理解していたモーセの律法は、イエスを信じた者たちにとっては、廃棄になったのです。この場合、モーセの律法に問題があるという理由からの廃棄ではありません。モーセの律法はイエスによって成就され、それは神を愛する事と隣人を愛する事によって完成されたのです。

 ローマ 13:10「愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。」

聖書的な教会 2に続きます。