教会の指導者に従う? 2

 これまでの解説から、ヘブルの13章17節は「あなたがたの指導者たちにの言う事に説得されて(確信されて)、又、似るようにしなさい」という意味になります。

 ヘブルの13章7節では、御言葉を聞いた人たちが、それを話してくれた指導者たちの信仰に倣うようにと言っています。17節はその後に続いて、同じ内容の事を繰り返しているのが分かると思います。一貫して同じ事を言っているのです。

 結論として、へブル 13:7 は「教会の上に立つ人の権威に服従する」という事を言っているのではありません。「権威」という単語がそもそも出てこないですし、教会の指導者たちは教会という、キリストの体の上に立つ人たちでもありません。彼らはキリストの体の土台として、他の人々に仕える人たちであり、下から支えるリーダーであって、ピラミッドの頂点にいる存在ではありません。建物の土台は、上ではなく下に据えます。

リーダーの権威

 第二コリント 10:8「あなた方を倒す為にではなく、建てる為に主が私たちに与えて下さった権威について、私が多少誇り過ぎる事があっても、恥とはならないでしょう。」

 パウロは、「あなた方を倒す為にではなく、建てる為」に主が与えて下さった権威だと言っています。「建てる」と訳されている単語は οἰκοδομή(oikodomē)であり、これは預言や異言の祈りによって「築き上げる、成長させる」の意味で使われている語です。次の聖書の箇所でも「使徒の権威」と「築き上げる」事について書いてあります。

 第二コリント 13:10「そういうわけで、離れていてこれらの事を書いているのは、私が行った時に、主が私に授けて下さった権威を用いて、厳しい処置をとらなくてもすむようになる為です。この権威が私に与えられたのは、建てる為であって、倒す為ではありません。」

 ここでも、パウロが使徒として与えられた権威をは、他の人を「建てる為」だと書いています。

 第一テサロニケ 2:6「又、キリストの使徒たちとして権威を主張する事もできたのですが、私たちは、あなた方からも、他の人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。」

 パウロは、人々から名誉を受ける為に、使徒としての権威を主張しませんでした。

 使徒たちは、与えられた権威を用いて他の人の模範となって、導き、彼らに仕える働きがあります。「平信徒」が、問答無用に使徒たちに従い、彼らのビジョンを手伝って、何かを成し遂げようとするのではありません。教会は、集まったクリスチャンを指しているのであって、組織自体ではありません。集まる目的は、指導者が信者を教え、一人一人もまた、成長の為に助け合って、励まし合う為です。

何に従うのか?

 教会内では「従う」必要が全くないのかと心配する人もいるでしょう。

 第一ペテロ 2:13-14「人が立てた全ての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、或いは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめる為に、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。」

 「主のゆえに従いなさい」という事が鍵です。人によって設立された制度(ルール)でも、主のゆえに、つまり、主の教えに沿っている事を前提に従うべきです。あくまで人の制度やルールが「主の御心に沿う」なら問題はありません。ですから、真理の教えに反するルールである場合、「主のゆえに従う」事はできないのです。

模範

 リーダーの資格は仕事のスキルよりも、信仰や愛に基づく良い模範になっているかどうかが重要です。品格はスキルよりも大事です。御霊の実が大事だと言われる通りです。よく指導者が言う、「上の人に従いなさい」は、彼らにとって便利なフレーズとして、しばしば乱用されて来ましたが、その結果、本来の教会が形成されずに、人間的な組織が出来上がってしまいました。

 良い模範を示しているリーダーが、「従いなさい」と言って、個人的な何かを主張する目的で権威を利用する場合ですら、聖書的ではないのです。それならば、良い模範を示していない人が、その人の権威に従うようにと命じたのなら、どうなるでしょうか。誰も、「説得させられない」ばかりか、真理でもないので、違和感しか感じられないはずです。