教会の指導者に従う? 1

 へブル 13:17「あなた方の指導者たちの言う事を聞き、又、服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなた方の魂の為に見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでその事をし、嘆きながらする事にならないようにしなさい。そうでないと、あなた方の益にはならないからです。」

 この箇所は、教会の指導者たちが、「教会の上に立つ人の権威に服従しなさい」と言いたい時に、よく引用されます。しかし、ここには、「権威」という単語すらありません。

πείθω(peithō)

 まず、「言う事を聞き」の箇所は πειθεσθε(中態)であり、(πείθω=peithō)の変形で基本の意味は、「説得する、確信する」です。

 へブル 13:18「私たちの為に祈って下さい。私たちは正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動したいと思っているからです。」

 「確信しており」は(πείθω=peithō)です。17節では「言う事を聞く」の訳ですが、ここでは「説得する、確信する」という意味で用いられています。

 peithō が「言う事を聞く」の訳に発展する場合は、誰かに「説得させられる、確信させられる」時です。何故なら、人に何かを説得させられ、確信させられたのなら、その人に同意する、「言う事を聞く」事になるからです。それでは、peithō が「従う」と訳されている箇所が、「権威に服従する」という意味のものかを調べてみます。

 使徒 5:36「先ごろテウダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどになりました。しかし彼は殺され、従った者たちはみな散らされて、跡形もなくなりました。」

 「従った」は epeithonto であり、ここも受態になっています。ここの「従った者たち」は「説得させられた」ので、ついて行った人たちです。この場合の「従う」は権威に従うというものではなく、「同意する」意味の「従う」であり、その理由は epeithonto が「説得させられた(受け身)」からです。 

 ローマ 2:8「利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。」

 ここの「従う」という訳も peithomenois(中態)なので、「説得させられる」という意味から「同意して従う」となっています。ここでも権威に対して従うなどの「服従(submission)」を意味するものとは違います。真理に従わずとは、真理に同意せず、「説得させられず、確信させられず」です。

 ガラテヤ 5:7「あなた方はよく走っていたのに、誰があなた方の邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。」

 ここも peithesthai(受態)です。直訳は「誰があなた方を真理から妨げ(アオリスト)説得させられないようにしているのか」です。

 ヤコブ 3:3「馬を御する為には、その口にくつわをはめれば、馬の体全体を思い通りに動かす事ができます。」

 ここでは「馬を御する為」という訳になっていますが、直訳は「馬が私たちに説得させられる為」です。この箇所は「服従」という語にしても構わないのですが、従わせる対象が「馬」である点に注意です。

 以上、見てきたように、(πείθω=peithō)は説得させられるという意味で出現している事が多く、「従う」と訳されている箇所でも、それは「服従する」とは違う事が明らかです。

ὑπείκω(hypeikō)

 へブル 13:17「あなた方の指導者たちの言う事を聞き、又、服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなた方の魂の為に見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでその事をし、嘆きながらする事にならないようにしなさい。そうでないと、あなた方の益にはならないからです。」 

 今度は、「服従しなさい」の動詞を取り扱います。ὑπείκω(hypeikō)はへブル 13:17 にしか出てきません。他の聖書の箇所で参照する事ができないので、注意して調べてみる必要があります。まず、ὑπό (hypo)が「下に」という意味を持ちます。英語の前置詞の under と同じです。この語に eikō がくっつくようですが、ストロング・コンコーダンスの Strong's G1502 では、eikō は「屈する」ですが、Strong's G1503 だと「似る」という意味になっています。「屈する」の eikō は、新約聖書中、次の一か所しか出てきません。

 ガラテヤ 2:5「私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服したりする事はありませんでした。それは、福音の真理があなた方の元で保たれる為でした。」

 次に、「似る」の eikō を見ましょう。こちらも新約聖書中二回しか出てきません。

 ヤコブ 1:6「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」

「海の大波のようです」の部分は「似る」の eikō が使われています。つまり、「海の大波に似ている」とヤコブは言っているのです。

 ヤコブ 1:23「御言葉を聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。」

 ここでも「眺める人のようです」の箇所に、eikō(似る)が使われています。

 さて、へブル人への手紙 13:17 で訳されている「指導者たちに服従しなさい」はどちらなのでしょうか?(屈する)eikō か、それとも(似る)の eikō かです。この先は文脈から判断します。へブル人への手紙の13章の最初から読んで行き、7節に注目が行くなら、それが手がかりになるでしょう。

 へブル 13:7「神の言葉をあなた方に話した指導者たちの事を、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。」

 17節と同様、「指導者たち」について書いてありますので、それに気づくのは難しくはありません。ここでは、指導者達の信仰に倣いなさいと書かれています。「倣う」とは、μιμέομαι(mimeomai)のギリシャ語で、「真似る」という意味の動詞です。模範にする、見習うという訳にもなります。「似る」の eikō がこの節と関係している可能性は非常に高い事が分かると思います。この「指導者に倣う事」に関して、パウロも同様に教えています。

 第二テサロニケ 3:7「どのように私たちを見習うべきか、あなた方自身が知っているのです。あなた方の間で、私たちは怠惰に暮らす事はなく、」

 第二テサロニケ 3:9「私たちに権利がなかったからではなく、あなた方が私たちを見習うように、身をもって模範を示す為でした。」

 ピリピ 3:17「兄弟たち。私に倣う者となって下さい。又、あなた方と同じ様に私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めて下さい。」

 第一テサロニケ 1:6「あなた方も、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」

 第一コリント 4:16「ですから、あなた方に勧めます。私に倣う者となって下さい。」

 第一コリント 11:1「私がキリストに倣う者であるように、あなた方も私に倣う者でありなさい。」