ステップ4
御言葉を宣言する。肉の思考に対して戦うには、御言葉を武器として用いるのが最も効果的です。御霊の剣は要塞をも打ち破る事ができます。例えあなたが長年ずっと考えてきた悪習慣として確立した思考(要塞)でも、御言葉によって打ち破る事ができます。不安の考えによって悩まされているなら、平安の御言葉を宣言するのです。病に対しては健康や癒しの御言葉を用います。このステップは御言葉を知らないといけないので、普段から聖書を読んで御言葉を蓄えておく必要があります。
ただ口で御言葉を宣言すれば、自然と思考が一新されるという事もあります。何故なら、御言葉に既に神の力があるからです。従って、信じてはいないけれども、とにかく御言葉を口ずさむ事をしていても効果は幾らかはあるでしょう。しかし、思考を一新させる事は魂の領域の働きなので、知性がうまく機能するには物事が理路整然としていないとなかなかスムーズに行きません。従って、「ただ口で御言葉を宣言する」という考えで行うよりも、御言葉が信じるに値し、最終的な権威を持っている事などをまず知るなら、私たちは御言葉に頼る事に納得するでしょう。その納得・理解の上で御言葉を宣言するのなら、あなたのその時の態度はもっと積極的になるので効果的になります。知性は、何故そうする事が必要か・どんな意味があるのかを知りたがります。それで、そのプロセスとかメカニズムが分かると納得します。納得した人は、それを信じて実践する傾向があります。
ステップ5
宣言した御言葉通りに行動に移します。最初の一歩は小さくても良いのです。御言葉を宣言して信じるなら、その結果として何かの行動をするのが自然になるまで、御言葉によって思考を一新させます。肉の思考を口にするのではなく聖書の言葉を語り、それに伴う行動をします。不安であっても信仰によって喜び賛美し、苦しい時でも主の平安を宣言して思い煩いを止めます。ついつい肉のままに流されてしまうようでも、御言葉の真理に頼る事が鍵です。
最後は、1から5のステップをしばらくやってみて、自分にどう変化があったか、そしてどこを修正すればより良い結果が望めるか、などといった評価をします。改善の為の調整は各個人の判断によって異なりますが、これらのステップを根気強くやらなければいけない点は共通しています。最低でも毎日30分、集中してやるなら、1週間くらいで何らかの良い変化が期待できます。2週間もすれば、新しい思考パターンがあなたの中で強くなっているのを実感するでしょう。一か月後には、その健康的な考えによるライフスタイルが確立され、早ければ90日を過ぎる頃には、前に考えていた古い肉の思考に悩まされる事がなくなっているはずです。そして、その新しい思考は御言葉によって支えられ、しっかりと根がついているでしょう。
まとめ
多くのクリスチャンの持っている霊の戦いの認識は、問題が表面化しているのを見た後で「サタンに攻撃されている」と言う様なものです。事が大きくなってから、或いは、事が起こってからそれはサタンの仕業だという認識ではあまり意味がありません。ちょうどエバが罪を犯したのはサタンが誘惑したからだと言い訳したのと同じです。散々あれこれと罪に関与した挙句に、そうなってしまったのはサタンの攻撃があったからだとするのは、あまりにも気づくのに遅いのです。車がぶつかった後で事故が起きましたと言ってもしょうがありません。事故になる前にその前兆を認識して、ブレーキを早い段階で踏んで事故を未然に防ぐのと同様に、サタンの攻撃を認識してブレーキを踏む(攻撃を打ち破る)為には、サタンの攻撃とそのやり方を知る事がまず必要になります。
サタンが戦いの場として選んだ所は彼の得意とする領域です。それは私たちの思考の中です。サタンは長い間人を見てきたので、私たちが肉の思考に弱い事をよく知っています。空中で天使と悪霊が戦っている様なものが霊の戦いの主な戦場ではありません。教会の歴史で同じ失敗が繰り返されてきた大きな理由の一つは、霊の戦いの戦場に気付いていないクリスチャンが多いからです。サタンは賢いので自身の存在を見せずに攻撃します。地域の縛っている霊をとりなしの祈りで追い出す事よりも、まず私たちの思考の中でサタンの攻撃を打ち砕く必要があります。
思考の中でやられてばかりのクリスチャンの集いには、あまり力がありません。そうした人たちが集まって祈っても信仰による行動を起こさないので、その結果いつも神様に事をして下さいとお願いする祈りになっています。その集いの祈りはただひたすら、主の油注ぎ、聖霊の臨在、或いは不思議なしるしやリバイバルを祈って待っているだけの受け身の態度です。しかし、神様の子供であるというアイデンティティーの認識と、私たちのうちにおられるキリストが思考の一新によって主の祝福を現実化するなら、私たちは大胆に歩む事ができるのです。事実、神様が私たちの信仰による一歩を待っておられるのです。私たちの宗教的で熱心な希望の祈りが神様を動かすのではありません。そもそも祈り自体が神様を動かすのではなく、信仰による大胆な祈り(宣言・誓い・命令)が山を動かし、それによって既に私たちのうちにある祝福(霊的に既に存在している祝福)を現実化させるのです。
思考を一新する(考えを変える)事によってのみ、私たちは肉の思考(サタンの攻撃)を排除できます。それは日々の霊の戦いであり、それはまた聖化という信仰の成長なのですが、私たちはそれをゼロからスタートするのではなく、既に聖なる者とされているという真理からスタートします。難行苦行を経て到達するという宗教的な努力ではありません。聖化とは既に与えられた恵みを思考の一新(考えを変える事)によって外に表していくというもので、御言葉を信じる事から始まります。今までの悪い習慣による肉の思考を排除するには時間が掛かるでしょう。これは信仰の戦いです。信仰が鍵です。敵の火矢を打ち消す信仰の大盾は、唯一私たちがサタンの攻撃を受けてもダメージを受けない防具です。
思考の一新は根気強くやる事はもちろん、それ自体が成長のプロセスなので時には失敗もあるでしょう。しかし私たちクリスチャンにとって、各個人の霊の戦いは、キリストの十字架によって最初から勝てるという前提に立っています。思考という私たちの弱い領域を、サタンは主な霊的戦いの場として選んだのですが、私たちの自由意志はとても強いものです。特にクリスチャンの場合は、キリストの思考によって自由意志が良い方向へ働くように影響されているので、後は御言葉に沿って考えて変えるだけなので勝利の道を突き進む事ができるのです。パウロはそれを悟ったので目標に向かって走っていました。サタンや悪霊は私たちの無知ゆえに強いのであって、私たちが御言葉を心に刻んでいけば、敵は弱くなって行きます。クリスチャンの成長の全ては神次第ではなく、その半分は私たち次第なのです。これが、新約聖書でパウロが説き明かした偉大な奥義の一つです。
思考の一新 6
自分の中の考え
多くのクリスチャンでも、自分の中にある全ての考え(良いのも悪いのも)は、自分自身で思いついていると思っています。しかし、先に書いたように、クリスチャンの根本的な思考は既にキリストの心(思考)であるので、自ら悪い事を生み出す事はありません。肉の思いは、サタンが私たちにその悪い思考パターンを思い出させているケースもあります。
肉の思いとは、あなた自身が肉的に深く考えた結果ではあります。しかし、最初にその悪い考えや発想を入れたのは、サタンであるケースもあります。サタンが悪い考えを入れた事に気付かないなら、それを自分のものとして扱うでしょう。それは、サタンが入れた肉の考えに同意する事と同じです。あなたが同意した時点で、あなたは戦いに負けたのです。最初のうちは、肉的な考えがサタンから来たのかどうか、よく分からないかもしれません。しかし、肉的な考えは全て敵の攻撃と見なして排除しましょう。それが大事なポイントです。参考として、サタンがクリスチャンに対して肉の考えを入れるケースを紹介します。
ケース1
一つ目は、肉の考えが突然頭の中に浮かんでくるようなケースです。急に悪い事を思いついたのなら(実際にはあなたが思いついたのではないのですが、そのような錯覚はあります)、それはその考えが外から入って来た証拠です。また、自分では考えたくない悪い考えに悩まされる場合もそうです。自分では考えたくないのに、何故かその事が頭に浮かんでくるようなものはサタンからの攻撃です。
ケース2
私たちが他人の事について考える場合です。他人に対する見方は、偏見になりやすいです。偏見に妄想を加えて、さらに極端にしてしまうと、相手に対する憎しみなどが大きくなります。想像の中でその人と口論し始めるかもしれません。その口論がヒートアップするような展開が思考の中で起きているなら、その声はサタンからのものです。サタンは、その人に対する間違ったイメージをあなたの中に入れようとしているのです。
敵が悪い考えを持ってくるケースもあるという事を覚えておいて、それを見抜けるようになれば、「自分で悪い事を思いついた」という勘違いからすぐに解放されます。私たちはそうした肉の考えに浸るのではなく、それを追い出します。最初は一日のうちに、何度もそれをしなければならないでしょう。長年パターン化された肉の考えは、あなたの一部となっているので、ついその考え方をしてしまうものです。しかし、それを徹底的に締め出す忍耐が必要です。誰でも意図をもって悪い事を考え、それを行動に移そうという自由意志はありますが、そのような事をするのは基本的に未信者だけです。
第一ヨハネ 3:9「神から生まれた者は誰も、罪を犯しません。神の種がその人の内に留まっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯す事ができないのです。」
新しくされた私たちの霊は、罪を犯す事はできません。クリスチャンが罪を犯すのは、魂と体においてなのです。未信者は新しい霊と、そのうちにあるキリストの思考を持っていない為に、罪を犯す方向に進む傾向が強いです。人が犯した罪は事実ですが、幸いな事に、全ての罪は既に赦されているという真理があります。そして、キリストの聖なる血を受けた私たちには、罪に打ち勝って生きていく道をも用意されているのです。パウロによって明かされたこの奥義はとても重要です。
その勝利の生き方は、思考の一新を主とする、魂の成長という過程を経て現実化して行くものです。既に罪と死の原理から解放されたという、霊における真理を魂と体の領域においても現実化する事です。キリストにおいて、私たちは全ての霊的祝福を霊の内に頂いていますが、それを魂と体の領域に表すには、私たちが成長の道を進んで行かなければなりません。既に霊において癒されている真理に対して、信仰を働かす事によってその癒しを魂と体において現実化するのは、私たち次第とも言えるのです。
思考の一新 7に続きます。
多くのクリスチャンでも、自分の中にある全ての考え(良いのも悪いのも)は、自分自身で思いついていると思っています。しかし、先に書いたように、クリスチャンの根本的な思考は既にキリストの心(思考)であるので、自ら悪い事を生み出す事はありません。肉の思いは、サタンが私たちにその悪い思考パターンを思い出させているケースもあります。
肉の思いとは、あなた自身が肉的に深く考えた結果ではあります。しかし、最初にその悪い考えや発想を入れたのは、サタンであるケースもあります。サタンが悪い考えを入れた事に気付かないなら、それを自分のものとして扱うでしょう。それは、サタンが入れた肉の考えに同意する事と同じです。あなたが同意した時点で、あなたは戦いに負けたのです。最初のうちは、肉的な考えがサタンから来たのかどうか、よく分からないかもしれません。しかし、肉的な考えは全て敵の攻撃と見なして排除しましょう。それが大事なポイントです。参考として、サタンがクリスチャンに対して肉の考えを入れるケースを紹介します。
ケース1
一つ目は、肉の考えが突然頭の中に浮かんでくるようなケースです。急に悪い事を思いついたのなら(実際にはあなたが思いついたのではないのですが、そのような錯覚はあります)、それはその考えが外から入って来た証拠です。また、自分では考えたくない悪い考えに悩まされる場合もそうです。自分では考えたくないのに、何故かその事が頭に浮かんでくるようなものはサタンからの攻撃です。
ケース2
私たちが他人の事について考える場合です。他人に対する見方は、偏見になりやすいです。偏見に妄想を加えて、さらに極端にしてしまうと、相手に対する憎しみなどが大きくなります。想像の中でその人と口論し始めるかもしれません。その口論がヒートアップするような展開が思考の中で起きているなら、その声はサタンからのものです。サタンは、その人に対する間違ったイメージをあなたの中に入れようとしているのです。
敵が悪い考えを持ってくるケースもあるという事を覚えておいて、それを見抜けるようになれば、「自分で悪い事を思いついた」という勘違いからすぐに解放されます。私たちはそうした肉の考えに浸るのではなく、それを追い出します。最初は一日のうちに、何度もそれをしなければならないでしょう。長年パターン化された肉の考えは、あなたの一部となっているので、ついその考え方をしてしまうものです。しかし、それを徹底的に締め出す忍耐が必要です。誰でも意図をもって悪い事を考え、それを行動に移そうという自由意志はありますが、そのような事をするのは基本的に未信者だけです。
第一ヨハネ 3:9「神から生まれた者は誰も、罪を犯しません。神の種がその人の内に留まっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯す事ができないのです。」
新しくされた私たちの霊は、罪を犯す事はできません。クリスチャンが罪を犯すのは、魂と体においてなのです。未信者は新しい霊と、そのうちにあるキリストの思考を持っていない為に、罪を犯す方向に進む傾向が強いです。人が犯した罪は事実ですが、幸いな事に、全ての罪は既に赦されているという真理があります。そして、キリストの聖なる血を受けた私たちには、罪に打ち勝って生きていく道をも用意されているのです。パウロによって明かされたこの奥義はとても重要です。
その勝利の生き方は、思考の一新を主とする、魂の成長という過程を経て現実化して行くものです。既に罪と死の原理から解放されたという、霊における真理を魂と体の領域においても現実化する事です。キリストにおいて、私たちは全ての霊的祝福を霊の内に頂いていますが、それを魂と体の領域に表すには、私たちが成長の道を進んで行かなければなりません。既に霊において癒されている真理に対して、信仰を働かす事によってその癒しを魂と体において現実化するのは、私たち次第とも言えるのです。
思考の一新 7に続きます。
思考の一新 5
ステップ1
クリスチャンの場合、新しい霊によってキリストの心(思考)があるので、肉の思考で歩む必要がありません。ですから、まず私たちがする事は古い人は既に死んでいるという真理を信じる事です。古い人は罪の性質と肉の思考によって、そのアイデンティティーが確立されていたので、罪を犯してしまう奴隷として歩んでいました。その古い人はキリストと共に十字架につける必要があったのは、肉の思考も捨てる必要があるという事を示唆しています。そして、新しく生まれ変わったクリスチャンは御霊の思考を選択できる自由が与えられています。これらを知い、信じる事が最初のステップです。
I コリント 2:16「誰が主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。」
新改訳聖書ではキリストの心という訳になっていますが、ギリシャ語では kardia ではなく nous になっています。ですから、より適切な訳は「キリストの思考」でしょう。
ステップ2
普段から肉の考えで色々と考えずに、すぐに聖書の御言葉を思い出す習慣をつけるようにします。相手の欠点を見てそれを肉の思考であれこれ考えると、次第にエスカレートしてその人に対する間違ったイメージが作られてしまいます。サタンはこのように仕向けるのです。そのような否定的な思いが入ったらすぐに止める事です。日常でこうした注意を敏感に払っていれば、次第に何が肉の考えなのか特に聖書に詳しく書かれていなくても分かるようになります。
肉の行ないは比較的明確なものです。パウロも次の箇所でそう言っています。
ガラテヤ 5:19-21「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなた方に予め言っておきます。このような事をしている者たちは神の国を相続できません。」
聖書から御霊の思考(霊的思考)を学ぶ事によって、何が逆に肉の思考かを知る事もできます。
ガラテヤ 5:22「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」
ステップ3
次に、自分の考え方をチェックして、その中で何が肉のものかを見極めます。基本的に良心が痛むようなものは肉の考えです。何らかの形である罪の行いを理論的に正当化できたとしても、良心が痛むような事をしたのなら、それは罪であって肉的考えである事が分かります。自分の思考を分析する方法の一つとして、自分の考えた事をノートなどに書いてみると良いかもしれません。思っている事を書き始めると、どういった思考の過程だったかまで思い出す事もあります。最初は面倒かもしれませんが、このステップはとても重要なので、日記を書くつもりで習慣づけると良いでしょう。多くの御言葉が分かって来ると、自分の考えをチェックする時に、毎回ノートに書いてみなくても、何が肉的な考えかすぐに分かるようになります。肉の考えかどうかをいかに素早く見極められるかが成長の鍵です。気づくのが遅い程、肉の考えを放置している時間が長くなり、ついには、肉の歩みになってしまうのです。
思考の一新 6に続きます。
クリスチャンの場合、新しい霊によってキリストの心(思考)があるので、肉の思考で歩む必要がありません。ですから、まず私たちがする事は古い人は既に死んでいるという真理を信じる事です。古い人は罪の性質と肉の思考によって、そのアイデンティティーが確立されていたので、罪を犯してしまう奴隷として歩んでいました。その古い人はキリストと共に十字架につける必要があったのは、肉の思考も捨てる必要があるという事を示唆しています。そして、新しく生まれ変わったクリスチャンは御霊の思考を選択できる自由が与えられています。これらを知い、信じる事が最初のステップです。
I コリント 2:16「誰が主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。」
新改訳聖書ではキリストの心という訳になっていますが、ギリシャ語では kardia ではなく nous になっています。ですから、より適切な訳は「キリストの思考」でしょう。
ステップ2
普段から肉の考えで色々と考えずに、すぐに聖書の御言葉を思い出す習慣をつけるようにします。相手の欠点を見てそれを肉の思考であれこれ考えると、次第にエスカレートしてその人に対する間違ったイメージが作られてしまいます。サタンはこのように仕向けるのです。そのような否定的な思いが入ったらすぐに止める事です。日常でこうした注意を敏感に払っていれば、次第に何が肉の考えなのか特に聖書に詳しく書かれていなくても分かるようになります。
肉の行ないは比較的明確なものです。パウロも次の箇所でそう言っています。
ガラテヤ 5:19-21「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなた方に予め言っておきます。このような事をしている者たちは神の国を相続できません。」
聖書から御霊の思考(霊的思考)を学ぶ事によって、何が逆に肉の思考かを知る事もできます。
ガラテヤ 5:22「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」
ステップ3
次に、自分の考え方をチェックして、その中で何が肉のものかを見極めます。基本的に良心が痛むようなものは肉の考えです。何らかの形である罪の行いを理論的に正当化できたとしても、良心が痛むような事をしたのなら、それは罪であって肉的考えである事が分かります。自分の思考を分析する方法の一つとして、自分の考えた事をノートなどに書いてみると良いかもしれません。思っている事を書き始めると、どういった思考の過程だったかまで思い出す事もあります。最初は面倒かもしれませんが、このステップはとても重要なので、日記を書くつもりで習慣づけると良いでしょう。多くの御言葉が分かって来ると、自分の考えをチェックする時に、毎回ノートに書いてみなくても、何が肉的な考えかすぐに分かるようになります。肉の考えかどうかをいかに素早く見極められるかが成長の鍵です。気づくのが遅い程、肉の考えを放置している時間が長くなり、ついには、肉の歩みになってしまうのです。
思考の一新 6に続きます。
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