この箇所を引用して、「永遠の保障」を主張する人もいるようです。しかし、その内容はむしろ「神の愛」です。神の愛を引き離すものは、何もないという事ですが、それを「永遠の保障」と解釈するのは、飛躍し過ぎでしょう。多くの人が気づいていないかもしれませんが、実は、人が自ら地獄の道を選んだとしても、その人に対する神の愛は変わらないのです。天国に辿り着いた者だけが神に愛されているわけではありません。私たちが常に注意を払いたい点は、神が人を天に導く事ができるかどうかではなく、それを選択する私たちの信仰があるかどうかなのです。
「永遠の保障」は「神側」からは確定しているという事ですが、この部分は正解です。しかし、恵みは「神側」なのですが、信仰は「私たち側」にある点を忘れてはいけません。新しい契約は、イエスの方では破る事はありえません。しかし、私たちが信仰を捨てて(イエスを捨てて)、別の道へ行くなら、私たちは自ら滅びの道を選ぶ事になります。神は、私たちの自由意思を尊重します。神は、人の意志を捻じ曲げて何かをする事はされません。私たちをロボットとして扱うのはアガペーではないからです。しかし、滅びの道を選んだ人さえも、主は愛しておられます。何故なら、アガペーは無条件で人を愛するからです。
イエスを信じて救われたからといって、私たちは自分の信仰を誇る必要はありません。自由意志による信仰は、「人を高ぶらせる」とする考えは、論点がズレています。彼らのこうした極端な考えは、「信仰は神の賜物」と主張する点にも見られます。しかし、パウロがここで言っている「神の賜物とは、信仰の事ではなく、恵みです。この誤解があるのも、自由意志による信仰について、極端に否定的に考えるからでしょう。
「自由意志は人間を高ぶらせる」と懸念する人々は、その自由意志で「高慢を拒む」という「選択の意思」ができる事に気づいていません。それに、信仰の主張が「高ぶりを引き起こす」という事については、パウロも次の箇所で既に忠告してあります。
へブル 3:12-14「兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、誰も罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。」
「兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」という忠告があるのは、信者が不信仰になり、神から離れるケースもあるからなのです。ここはかなりストレートに書かれているので、強引な解釈を持って来ない限り、別の意味として捉える事は難しいでしょう。
恵みから落ちる
「一度救われたらずっと救われている」事を示唆しているような箇所は、聖書にありますが、よく見ると、はっきりとは書かれてありません。一方、その反対の事を示唆しているような箇所は、先程の聖句のように、ストレートな表現が見られます。次の聖句も同様です。
ガラテヤ 5:4「律法によって義と認められようとしているなら、あなた方はキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」
ἐκπίπτω の動詞は ἐκ(前置詞 out of)πίπτω(落ちる)から成り立っています。ここから明らかなように、「一度救われたらずっと自動的に救われている」わけではなく、もし誰かが「律法によって義と認められようとしている」なら「恵みから落ちてしまう」のです。律法主義や宗教によって義と認められようとする行為は、恵みを拒否するからです。パウロは、ガラテヤの手紙の中で、彼が教えているものとは異なる福音を教えている人たちは、呪われるべきだと二回も言いました(ガラテヤ 1:8-9)。
「永遠の保障」は「神側」からは確定しているという事ですが、この部分は正解です。しかし、恵みは「神側」なのですが、信仰は「私たち側」にある点を忘れてはいけません。新しい契約は、イエスの方では破る事はありえません。しかし、私たちが信仰を捨てて(イエスを捨てて)、別の道へ行くなら、私たちは自ら滅びの道を選ぶ事になります。神は、私たちの自由意思を尊重します。神は、人の意志を捻じ曲げて何かをする事はされません。私たちをロボットとして扱うのはアガペーではないからです。しかし、滅びの道を選んだ人さえも、主は愛しておられます。何故なら、アガペーは無条件で人を愛するからです。
「条件付きの保障は、救いの為に自分で何か貢献したと信じる人たちにだけ受け入れられる」などと、否定的に考える必要はありません。殆どの場合、アルメ二ウス主義が強調するのは、「自由意志による信仰」についてです。もちろん、極端なアルメ二ウス主義者は、クリスチャンが罪を犯したら再び罪人に戻り、救われる必要があるなどと言いますが、それは間違いであり、ここのテーマとは無関係です。
また、アルメ二ウス主義が、エペソ 2:8-9 に矛盾しているいう主張も、極端な考えでしょう。
エペソ 2:8-9「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。誰も誇る事のない為です。」
また、アルメ二ウス主義が、エペソ 2:8-9 に矛盾しているいう主張も、極端な考えでしょう。
エペソ 2:8-9「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。誰も誇る事のない為です。」
イエスを信じて救われたからといって、私たちは自分の信仰を誇る必要はありません。自由意志による信仰は、「人を高ぶらせる」とする考えは、論点がズレています。彼らのこうした極端な考えは、「信仰は神の賜物」と主張する点にも見られます。しかし、パウロがここで言っている「神の賜物とは、信仰の事ではなく、恵みです。この誤解があるのも、自由意志による信仰について、極端に否定的に考えるからでしょう。
「自由意志は人間を高ぶらせる」と懸念する人々は、その自由意志で「高慢を拒む」という「選択の意思」ができる事に気づいていません。それに、信仰の主張が「高ぶりを引き起こす」という事については、パウロも次の箇所で既に忠告してあります。
ローマ 11:20「その通りです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がる事なく、むしろ恐れなさい。」
この聖句の通り、信者が思い上がる事のないようにすれば、救われていない人々に対して軽視する事はありません。信者は、自分がイエスを信じた事による救いについて、特に誰かに自慢する必要もありません。
信仰を主張し過ぎて、それが高ぶりに繋がる危険性を心配するよりも、信仰によって救われるという、そのシンプルな真理に目を向ける方がもっと重要です。実際、信仰の大切さを強調する事は何も悪くありません。それが「高ぶりになる」というのであれば、信仰について書いてある聖書自体も、「高ぶり」に引き寄せているという事になってしまいます。まさに、そのような否定的な思考が問題そのものなのです!もっと単純に考えましょう。信仰は神が喜ばれるものです。
ヘブル 11:6「信仰がなければ、神に喜ばれる事はできません。神に近づく者は、神がおられる事と、神がご自分を求める者には報いて下さる方である事を、信じなければならないのです。」
さて、信仰について強調する理由があるのは、このテーマに関連させて言うならば、実は、不信仰に陥らない為です。
さて、信仰について強調する理由があるのは、このテーマに関連させて言うならば、実は、不信仰に陥らない為です。
へブル 3:12-14「兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、誰も罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。」
「兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」という忠告があるのは、信者が不信仰になり、神から離れるケースもあるからなのです。ここはかなりストレートに書かれているので、強引な解釈を持って来ない限り、別の意味として捉える事は難しいでしょう。
恵みから落ちる
「一度救われたらずっと救われている」事を示唆しているような箇所は、聖書にありますが、よく見ると、はっきりとは書かれてありません。一方、その反対の事を示唆しているような箇所は、先程の聖句のように、ストレートな表現が見られます。次の聖句も同様です。
ガラテヤ 5:4「律法によって義と認められようとしているなら、あなた方はキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」
ἐκπίπτω の動詞は ἐκ(前置詞 out of)πίπτω(落ちる)から成り立っています。ここから明らかなように、「一度救われたらずっと自動的に救われている」わけではなく、もし誰かが「律法によって義と認められようとしている」なら「恵みから落ちてしまう」のです。律法主義や宗教によって義と認められようとする行為は、恵みを拒否するからです。パウロは、ガラテヤの手紙の中で、彼が教えているものとは異なる福音を教えている人たちは、呪われるべきだと二回も言いました(ガラテヤ 1:8-9)。
パウロによれば、クリスチャンでもキリストから離れ、恵みから落ちる事が可能だというのです。もちろん、信者がキリストを信じ、その信仰の通りに歩むのなら、その人は救われているという状態を保つ事になります。そこには、当然神ご自身の関わりもありますし、その人の信仰もあります。そして、この二つを知る事がこの種のテーマに答えをもたらす鍵です。すなわち、神が私たちを守ってくださり、成長させて下さる一方、私たちもまた、神を信頼し、絶えず神の教えに沿って歩むという選択をしなくてはならないという事です。