一度救われたらずっと救われている? その1

「永遠の保障」、「聖徒の堅忍」、「聖徒の保護」などと言われているものは、カルヴァン主義に基づいている教えであり、「一度救われたらずっと救われている」などのような主張します。*国語辞典によれば、「保障」は保護の視点で、「保証」は責任の視点を持つようです。この記事では「永遠の保障」とします。

永遠の保障

永遠の保障の教理の議論はかなり昔からあるもので、プロテスタント教派の中で最も議論がなされたものでしょう。この神学論を真理だと考えている人たちは、「聖書でこう言っているから」という自身の聖書的な立場をあまり主張せず、「私たちがこれを信じるのはこの神学的解釈を信じているから」という事を主張します。従って、あるグループに特有な教理などを一旦置いて、聖書が何を言っているかをストレートに読まないと、真理は分からないままになります。さて、
一部のグループの人々が「一度救われたらずっと救われている」と主張するのは、多くの場合、彼らの神学がカルヴァン主義に影響されているからです。この神学論を土台に発展した教団は多く存在します

例えば、アメリカで有名な牧師、ジョン・マッカーサーもその影響を強く受けている一人です。「救いの保障」という彼の説教の冒頭で、彼は次のように書いています。

「救いが失われる事もあるとする教理は、救いを条件付きにしています。その教えは、神が私たちを救って下さったので、「神の基準」に合わせてその救いを維持しましょうと言います。しかし、私たちが失敗する時には、いつでも救いを失うと教えます。このような教えは、行いによる義の視点です。」

さて、この中に間違いがあるのが分かるでしょうか?

答えは、「救いは無条件」だと暗示する彼の主張です。彼は、恐らく、無条件である「神の愛(アガペー)」と混同したのではないでしょうか。この冒頭の後、彼は次の箇所を引用します。

エペソ 2:8「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。」

この箇所は、まさに「救いが条件付き」である事をそのまま示している聖句です。ただ恵みによってではなく、私たちがイエスを信じたので救われたのです。ジョンは、救いが「恵みだけ」によると勘違いしたのか、それとも、恵みばかりを強調し過ぎて「信仰」を忘れていたのか分かりませんが、救いは無条件でない事は確かです。

その後の彼の主張の内容は(冒頭の滑りとは裏腹に)信仰義認、神と人との和解、仲介者であるキリスト、神の恵みなど、いずれもオーソドックスな内容で説明しています。しかし、何故かローマの5章は永遠の保障を示していると説明もなしに主張しています。更に、次の箇所を引用して、私たちの「永遠の保障」が「神の御力によって守られている」と言います。

I ペテロ 1:5「あなた方は、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いを頂くのです。」

ペテロは、この聖句で「永遠の保障」について何か言っているのではありません。私たちが「神の御力によって守られている」のは「信仰により」とはっきりと書いてあるので、信仰がここでも鍵というのが明らかです。

ジョンの説明や弁証は、正しいものも多くありますが、説明不足なものや、強引に結論づけるような箇所も幾つかあります。だからといって、彼は偽教師ではありません。問題は、カルヴァン主義の教理であり、こうした真理ではない教えの修正が必要なだけです。

一度救われたらずっと救われている? その2に続きます。