罪を赦された罪人?

 信仰義認という神学用語があります。これは、ルターがローマ書を基に「イエス・キリストを信じる事によって義と認められる」として、ローマ教会に抗議した事から始まりました。いわゆる宗教改革の三大原理の一つです。免罪符(贖宥状)にとても批判的な立場だったルターは、ローマ・カトリックに立ち向かった教会史の中でも最も重要な一人です。プロテスタント教派の起源はルターの大きな貢献、そして彼を通して働いた神の恵みによるものです。ルターの活躍により、信仰の真理は、より多くの人に正しく伝わるようになりました。

 キリストの十字架の御業を信じる事によって、神に義人として認められる事が信仰義認であり、そして、それが救いでもあります。しかし、皮肉にも「クリスチャンは赦された罪人」という表現も彼によるものでした。彼のこの発言は多くの人にとって、「クリスチャンは罪が赦されていても罪人と変わらない」と誤解されています。

 実際には、ルターは、義人となったクリスチャンでも罪を犯す事があるという事実を認めているだけであり、「義人ではなく罪人のままである」とまではしていません。彼は、クリスチャンでもまだ「罪の性質」が残っているとし、「将来的に義人」としての望みがあるだけで、現実には罪人だとしました。つまり、罪人の状態のままでいる事はなく、神がいつの日か罪を全く取り除いて、義として下さるという考えを持っていました。

 彼の説明は、彼自身、信仰義認を完全に理解していないという事が明らかです。「神から見ると義人」でも、「人の目から見ると罪人」だという視点がまず聖書的ではありません。もし、神がクリスチャンを義人と定義するなら、どうして人間的な見方をして、その逆の主張ができるでしょうか?できるとしても、それは神の言った事に対して反対する事になるのです。主が私たちを義とするなら、それに対して「アーメン」と主の御言葉を信じるのが謙遜な態度です。

 一見すると、自分の罪を認め、自分はまだ罪深いと言う人の方が謙遜のように思われるのですが、例え、自他共に認める罪があったとしても、信仰によって「私は罪赦された義人です」と宣言するのが正しい理解なのです。人が誰かの犯した罪を見れば、その人を罪人だとするでしょう。しかし、イエスの十字架の御業を見て、クリスチャンの罪を見るなら、その人は義人だと宣言できるのです。この理解はとても重要です。

 ルターの誤解は結局、義人になるには「聖化」というプロセスを経て完成されるという誤解が根底にあります。義としての立場が与えられつつも、それの完成は聖化という神の働きを経る必要があるとしています。彼のこうした聖化に対する誤解があった為に、ルターでさえ聖書的な義についての理解は十分ではありませんでした。これはつまり、私たちが義を正しく理解するのには、聖化もきちんと知る必要があるのです。これらをはっきり理解していないなら、救いの定義も揺らいでしまいます。

 ルターは以下の三つを理解していたのですが、その理解は少し浅かったようです。
  1. 信仰によって神によって義と認められる
  2. 義人であるクリスチャンでも罪を犯す事はある
  3. 聖化はプロセスである
上の三つの中で彼が間違っていた部分は以下です。
  1. 神の目から見たら義人でも、人から見れば罪人である
  2. クリスチャンは義人であり罪人でもある
  3. 聖化の完成は地上ではない
 1は既に少し解説したのですが、次の聖書の箇所を見るだけでも問題が解決されます。

 ローマ 8:33‐34「誰が、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めて下さるのです。誰が、私たちを罪ありとするのですか。死んで下さった方、いや、蘇られた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちの為に、とりなしていて下さるのです。」

 罪に定めようとするのは、まずサタンがいます。次に人です。人というのは他人もそうですし、自分自身も罪に定めようとします。しかし、神はそうしません。この理解はとても重要です。イエスの罪の赦しを軽く考えてしまうと、十字架の御業よりも自分勝手な判断に頼る事になり、その結果、罪の赦しの恵みを台無しにしてしまうでしょう。神が義と認めたのなら、それでもう終わりなのです。例え罪を犯しても、イエスが私たちの為に執り成して下さるのです。それでも「私は罪人だ」と言うなら、その発言が御言葉よりもその人の中で上位になっていて、その考えを神の言葉としているようなものなのです。御言葉に反するものを神とするなら、それはもはや偶像崇拝です。

 クリスチャンでも罪を犯すという現実はありますが、それだからといって、クリスチャンが神の子であるというアイデンティティーを失う事はありません。ですから、罪を犯したとしても私たちは義人なのです。これには違和感を感じる人もいるでしょう。しかし、これがまさに驚くばかりの恵みなのです。神の恵みゆえに、私たちはイエスを信じる事によって義人となったのです。もちろん、罪を犯したのなら、考えを変えて、歩むべき道を修正しなくてはいけません。

 クリスチャンの場合、たとえ罪を犯しても、罪人に逆戻りする事にはなりません。もし、クリスチャンが罪を犯すたびに、罪人に再び逆戻りするなら、イエスの血には力がないという事になります。それなら、動物のいけにえの血と同じであり、モーセの律法にあるように、毎年いけにえが必要になる事になります。恵みの真理がモーセの律法よりも勝っているのは、刑罰やいけにえよりも、主の憐みが永遠だからです。

 真理によれば、イエスの血には、全ての罪を取り除く力があります。過去の罪、現在も未来の罪も全てです。イエスの十字架の贖いは一度だけです。人の罪は、動物のいけにえの血によっては赦されませんでした。その儀式が人を義人にする事もできませんでした。イエスの十字架の御業のみが人を罪から解放したのです。しかし、罪が既に赦されているからと言って、罪を犯しても良いという考えではないとパウロも言っています。

 そこでカギとなるのが、聖化の理解です。私たちが罪を犯しても、私たちの新しいアイデンティティーは義人である為に、本来の聖書の通りの生き方をすれば、「既に聖化された」神の子の性質が外に現れてくるのです。一般に、聖化はクリスチャンになった時、ゼロからスタートすると考えられています。そして、ルター派などでは聖化の完成は生きている間はないと言います。そして、聖化されていない義人であるクリスチャンでも、死んだ場合なら、突然、聖化の完成に達して天国へ行くと教えています。それはそれで、多くの混乱を招くでしょう。 

 義化と聖化は別ですが、それらは、霊において同時に起こるのが聖書の真理です。「完成された聖化」が外に現れるには、成長というプロセスを経ます。新しく生まれ変わるという事が分かれば、この事がはっきり理解できるでしょう。すなわち、新しく生まれ変わったクリスチャンの霊は、アイデンティティーが罪人から義人になったという事であり、同時に聖くされた者(聖化)でもあるのです。生まれ変わったクリスチャンは神の子であり、神の子が聖化されていないというのはあり得ません。クリスチャンは、イエスを信じた瞬間に神の子となり、その霊において聖化されたのです。しかし、魂の変化は殆どなく、思考はあまり変わっていません。この部分の成長は必要です。ですから、魂における聖化は、過程を経ます。

 第一ヨハネ 3: 1-2「私たちが神の子供と呼ばれる為に、御父がどんなに素晴らしい愛を与えて下さったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子供です。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」

 クリスチャンの新しいアイデンティティーの形成は瞬間的です。何故なら、新しい霊によって生まれたのは瞬間的であり、それから魂が成長してそのアイデンティティーをより外に現して行く事も聖化です。この理解が鍵です。人の成長を例えにしましょう。人は赤ちゃんであっても、大人であっても、人というアイデンティティーは同じです。成長する過程を経て「より人間らしくなる」という事は言えるかもしれませんが、生まれた瞬間から人です。

 ところで、子供は食べる事によって成長します。もし子供が何も食べないなら成長しません。睡眠や運動などの条件も挙げるべきかもしれませんが、食べる事よりもそれらを優先に考える事はないでしょう。ある意味、普通に食べてさえいれば、子供は自然に成長します。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」という聖書の言葉からも、私たちが生きて行く上で大切なのが食べる事と関係しているのは明らかです。この場合、いわゆる霊の糧である御言葉(レーマ)が食物よりも重要であるのは明白です。 

 聖化と、御言葉を食べる事によって私たちの魂が成長する事には共通点があります。しかし、私たちのアイデンティティーは霊において確立されています。それだからこそ、罪の生活をやめて、神の子として、義の奴隷として歩むようにとパウロは勧めているのです。その歩みは、律法の行いによるものではなく、新しい人としての歩みです。私たちは罪から離れて聖い生活ができるのです。新しい人の奥義はそれほど偉大なのです。キリストの贖いによって、私たちはもう古い人のまま歩んで、罪を犯さなくても良いのです。キリストの心(思い)によって歩めるように生まれ変わりました。キリストと共に歩むという完璧な環境は整っています。ただし、そうした良い環境の中にいても、食べる事をしないなら成長はありません。御言葉を読まないのなら成長せず、既に霊において聖化されたアイデンティティーの実を結ぶ事はありません。つまり、イエスに繋がっていないなら実を結ぶ事もないのです。イエスに繋がるとは、イエスとイエスの教えに留まる事です(ヨハネ 15:7)。