召しについて 3

神からの依頼

 自分が御国の為に何をしたら良いか、よく分からないという人の多くは、「神に示されたら何かをやる」事に徹しているようです。この考え方はまだ主流かもしれませんが、次の世代のクリスチャンは違う考え方を持つようになります。もちろん、神は私たちにやるべき事を示して下さる事はあります。本来は私たちが成長し、大人として考え始め、その成長に応じた働きを自由に選ぶ事ができるのですが、この事を知らない場合でも、神は人々に役割を当てる事はあります。

 実際に、過去の偉大な人たちの多くは、神に何をすべきかを言われてから行動しました。しかし、これが神の召しに対する正しい行動ではありません。基本的に、もうしばらくの間は、「神のしもべ」の視点を持つ人が多い為に、神も彼らに何をすべきかを指示されるでしょう。神の子に目覚め、自主的に御国を前進させる為の働きに従事しようとする人々は、まだ少ないのです。本来は、私たち神の子が何をやるべきかを見極めるほどに成長して、自由に奉仕しても構わないのです。神は、むしろそれを望んでおられます。

 必死に祈らないと神は何をすべきかを教えてくれない、神から許可を得ずに行動を起こすと必ず失敗する、などの消極的な固定観念が根強いのは、多くの信者が旧約時代の「神に仕えるしもべ」の考えを持っているからです。逆に言えば、新しい契約の中にいる「神の子」という考えが弱いという事です。神の子は御父の御心を知っている存在として新しく生まれ変わっています。旧約時代の預言者たちは、神が御父である事、キリストによって彼らが神の子になれる事などを知らなかったので、様々な制限が彼らの人生にあり、その結果、消極的な考えを持っていました。しかし、現代の多くのクリスチャンは、まだ古い契約の下にいる者として自分を考え、御国を相続する神の子、地を治める為に贖われた者というアイデンティティーに目覚めてはいません。キリストにあって、圧倒的な勝利者であり、神の霊と共に歩む神の子は、自由に人々に奉仕し、積極的にやろうとします。この考えは、旧約時代の預言者の考えとは違います。

 例えば、リバイバルが起こるように「神にひたすら祈る」という考えは「神のしもべ」の考えですが、「行動してリバイバルを起こす」という考えは神の子が持つ考え方です。リバイバルの為に祈る事は必須ですが、祈った後は、やるべき事をするのです。自分の成長に見合う仕事が集会にあるか、何かのニーズがあるか、或いは、欠けた部分を探して、そこを補えるかという考えを持つのが大人です。しかし、消極的な考えは、御霊によって歩む事が分からない、神の御心が分からない考えから来ています。実は、そこの部分が原因なのです。

 「主の御心が分かれば動く」という束縛から出るには、神の御心を知る事で解決されます。そうするには、神の子として歩み、神と共に歩む中で、神の御心を知る事が必須となります。それは敬虔的な歩みとも言えます。しかし私たちの多くは、普段は御霊による歩みをせず、中途半端な人生を送りながら、神の御心を求めているのです。普段から神の御心から離れて歩んでいる為に、御心が分からないという現実を知らないのです。神の御心を知るには、イエスの教えを知り、思考を一新させ、神の子の意識を強く保ち、聖霊の中に浸かる歩みをする必要があります。御父は、神の子たちが、そうして自然と神の御心を知るようになり、自ら進んで様々な事にチャレンジして欲しいと願っておられるのです。

 神に召されないと、ミニストリーを始めてはいけないという考えにこだわるなら、ヨシュアを見習う方がまだ良いでしょう。モーセは神の召しを受けてから、行動しましたが、呼ばれた後でも一度は否定しました。何故なら、自ら進んでやろうとしなかったからです。ヨシュアの場合、モーセを通して働かれる神に注意して見る事によって、次のリーダーとして自分を整えていたのです。「言われたからやる」という、モーセの考えよりも、やらなければならない事を知り、自分を整えるという、ヨシュアの考えは優れています。しかし、私たちはイエスによって神の子とされたので、モーセやヨシュアを超えて、神の子として歩む中で、御心を知り、今自分が何をすべきかを知る事ができるのです。