マタイ 11:2-3「さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じてイエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」
生まれながらにして自分のするべき事を知っていたヨハネでも、捕まってしまった時には疑いを持ったのです。救い主が来られたのにも関わらず、彼の人生は順調に行ってはいなかったのです。獄中にいて自分の身が危険にさらされている立場からすれば、何かがおかしいと感じたのも無理はありません。ついにはイエスが本当に救い主かどうかさえ疑ってしまいました。ヨハネは、自分で「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と大胆に宣言したのにも関わらずです。この事はある重要な意味を持っています。
神に特別な召しを受けていても、その人の信仰次第によって、その人生に何か大きな影響を与える事ができるという事です。ある人が「特別な選びの者」であるとしても、失敗するか成功するかは、その人の信仰次第なのです。神が選んだからといって、全てがそのまま自動的に何もかも上手く行くとは限らず、あくまでもその人の信仰が鍵であり、ある意味全ては神次第ではなく、自分たちの信仰次第でもあるのです。
マタイ 11:4-6「イエスは彼らに答えられた。「あなた方は行って、自分たちが見たり聞いたりしている事をヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちが清められ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。誰でも、私につまずかない者は幸いです。」
これがイエスのバプテスマのヨハネに対する答えでした。疑いを持ってしまったバプテスマのヨハネに対して、「安心しなさい。私が神の子です」などと言って、ご自分がキリストであると言い、彼を安心させるような言葉は言いませんでした。イエスはバプテスマのヨハネの弟子が立ち去った後に、群衆に対してご自分について次のように話されました。
マタイ 11:7-9「この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなた方は何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。私はあなた方に言います。預言者よりも優れた者を見に行ったのです。」
預言者よりも優れている者とは、イエスご自身の事です。では何故、このようにバプテスマのヨハネの弟子に、ヨハネにそう伝えるように言わなかったのでしょう?
イザヤ 35:5-6「その時、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。その時、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。」
この個所はイエスがバプテスマのヨハネの弟子に言った内容と同じです(マタイ 11:4-6)。イエスはイザヤ書 35:5-6 を完全に引用したのではなく、その聖句の内容を語られたと見るのがより正確でしょう。この2つの節は「その時」と始まりますが、これはその前の4節を見ればわかります。
イザヤ 35:4「心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなた方の神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなた方を救われる。」
「その時」とは、「神は来て、あなたがたを救われる」時に他なりません。つまり、イエスが救い主として来る時です。当然ながら、イザヤ書のこれらの節はイエスについての預言です。そして、イエスはこの個所をヨハネに伝えるようにとバプテスマのヨハネの弟子たちに言ったのです。ここから一つ分かる事があります。それは、イエスがバプテスマのヨハネの疑いに対して、イザヤ書から御言葉を使ったという事です。
イエスは、しるしと不思議な業でバプテスマのヨハネを説得する事もできたのですが、あえて御言葉を信じるようにと彼の弟子たちに言ったのです。これは悪魔がイエスを誘惑した時と同じです。サタンも「あなたが神の子なら・・・」と言って誘惑しました。サタンに会う直前にイエスは聖霊を受けました。そして、聖霊が鳩のように下りた時に父なる神から「これは私の愛する子」と宣言されていました。その霊的体験をサタンに言い聞かせる事も可能でした。或いは、偉大な力でその場でサタンをねじ伏せて、ご自分が神の子であると証明できたでしょう。しかし、主はあえて書かれた御言葉を使って対処されたのです。
人間的には、より大きなしるしを見れば、より信じられると考えてしまいがちです。その傾向は確かにあるでしょう。しかし、どんなしるしを体験しても信じない人は信じないのです。もちろん、不思議な業やしるしは人を信じるように促す事は可能です。パロが心をかたくなにしたように、人は神の御業を見ても「信じない」と自由意思で決断できるのです。
「信仰を増して下さい」と弟子たちが願ったように、多くの人々は信じる事ができるように願っています。ところが、人が神を信じる事ができる最も効果的な方法は、大きなしるしや不思議ではありません。人が最も効果的にイエスを信じる事ができるのは御言葉です。
ローマ 10:17「ですから、信仰は聞く事から始まります。聞く事は、キリストについての言葉を通して実現するのです。」
真理を知る事によって、疑いからの解放も体験できます。イエスも、バプテスマのヨハネに対して、救い主について預言されているイザヤ書の御言葉を疑う事なく信じなさいと教えられました。その聖句はバプテスマのヨハネも知っていたはずです。彼が来たるべき救い主の預言者として使わされていたのですから、彼はその御言葉によって勇気づけられたに違いありません。ペテロも、信仰について同じように正しく理解していました。
2ペテロ 1:17-19「この方が父なる神から誉れと栄光を受けられた時、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。『これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。』私たちは聖なる山で主と共にいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。また私たちは、さらに確かな預言の御言葉を持っています。夜が明けて、明けの明星があなた方の心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めていると良いのです。」
「私たちは聖なる山で主イエスと共にいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです」と書いてある通り、ペテロは素晴らしい霊的体験をしました。直接神の声を聞いたのです。ところがペテロは、「また私たちは、さらに確かな預言の御言葉を持っています」と言っています。神の声を直接耳にしたという霊的体験よりも優れているのが「預言の御言葉」であると彼は言うのです。つまり、彼にしてみれば、そのような体験よりも御言葉は更に重要だと言うのです。
霊的体験が悪いと言っているのではありませんが、御言葉の真理はそれよりも優れているのです。体験を重視して聖書を解釈してしまうと、聖書の中にある真理とは違った解釈になってしまいます。主観的に御言葉を見てしまうと良くありません。ですから、個人的な体験を御言葉の解釈に利用する時には、細心の注意が必要です。聖書の真理を正しく解釈している場合にのみ、個人的な霊的体験の利用は正しいのです。従って、真理を知り、それを証明している霊的体験だけが重要なのです。
霊的体験はあくまでも、私たちが真理をよく分かるように主が用いる一つの手段とも言えます。イエスも「たとえ私が信じられなくても、私のわざを信じなさい」と言いました。御言葉の真理をすぐに受け入れる事ができないのなら、不思議なわざやしるしを見て信じるように教えています。ただし、見ないで信じる者は幸いであり、より多くの祝福を受けるのです。
疑いを克服する究極的な方法は、御言葉の力に頼るという事です。五感による捉え方でもなく、個人の霊的体験を重視する事でもありません。私たちは、御言葉が他の何よりにも勝って神について教える事ができると悟る必要があります。百人隊長がイエスに言った言葉を思い出して下さい。
霊的体験はあくまでも、私たちが真理をよく分かるように主が用いる一つの手段とも言えます。イエスも「たとえ私が信じられなくても、私のわざを信じなさい」と言いました。御言葉の真理をすぐに受け入れる事ができないのなら、不思議なわざやしるしを見て信じるように教えています。ただし、見ないで信じる者は幸いであり、より多くの祝福を受けるのです。
疑いを克服する究極的な方法は、御言葉の力に頼るという事です。五感による捉え方でもなく、個人の霊的体験を重視する事でもありません。私たちは、御言葉が他の何よりにも勝って神について教える事ができると悟る必要があります。百人隊長がイエスに言った言葉を思い出して下さい。
マタイ 8:8-10「しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば私のしもべは癒されます。と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなた方に言います。私はイスラエルの内の誰にも、これほどの信仰を見た事がありません。」
イエスはこの百人隊長の信仰を見て驚かれ、そして公然とお褒めになりました。彼が、「ただ、お言葉を下さい」と言ったからです。通常だったら「祈って下さい」、「手を置いて癒して下さい」、或いは、マルタのように、「主よ。もしここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言うでしょう。ところが、百人隊長はイエスの言葉だけで十分だと考えました。実際に、神の言葉には力があります。その言葉によって全てが造られたのです。
一方で、イエスの弟子の一人であったトマスは、信仰の模範としては失格者でした。彼は、イエスが蘇った時でも自分の目で見てイエスの体に触れるまでは信じないと頑固な態度を取っていました。イエスは「見ずに信じる者は幸いです」と言われました。私たちも、不思議としるしを見ずに信じる事ができるようにしましょう。神の超自然的な力を否定するわけではありませんが、それらを追っかける必要はありません。むしろ、信じる者にしるしが伴うように信仰によって歩むべきなのです。
イエスがバプテスマのヨハネに慰めの言葉をかけなかったのは、彼を気遣わなかったわけではありませんでした。むしろ、彼にとって最も良い方法で彼が信仰を持てるように励まされたのです。もしかすると、あなたは今信仰を求めて祈っているかもしれません。神に求めれば信仰が増すと考えているかもしれません。主の御業を見てから信じるのも一つの方法です。しかし、信仰を促す力と疑いを克服できる力は御言葉にあるのです。