ヨブの忍耐 2

ヨブの忍耐

実は、ヤコブはヨブを「忍耐の人」とは言っていません。ヤコブによれば、忍耐の模範とすべき人たちは、主の御名によって語った預言者たちでした。ヨブの忍耐は預言者の忍耐とは全く別です。ヤコブは「ヨブの忍耐」という表現を使って皮肉を言っているのです。「ヨブの忍耐」に対してさえ、「主は慈愛に富み、憐われみに満ちておられる方」だとヤコブは示したのです。

ヤコブ  5:10-11「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐の事を聞いています。また、主が彼になさった事の結末を見たのです。主は慈愛に富み、憐れみに満ちておられる方だという事です。」

「耐え忍んだ人たちは幸いである」のであって、10節によるとそれは過去の預言者たちでした。

ヤコブ 5:9「兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。裁かれない為です。見なさい。裁きの主が、戸口の所に立っておられます。」

文脈上、ここの「つぶやく」は不信仰から来るものです。ヨブも3章から自身に起きた災いについてつぶやき始めました。ところが、そのような「ヨブの忍耐」にも関わらず、私たちの神は愛に満ちておられるのです(10節)。

ヤコブは、「神は愛のお方だから忍耐する必要はない」と促してはいません。例え私たちが忍耐を失っても神は変わる事がありません。だからこそ、「諦める必要はない」とヤコブは言いたいのです。主は「ヨブの忍耐」を評価してヨブを祝福したのではありません。神がヨブを祝福されたのは、ヨブが自分の間違いを認めて悔い改めたからです。
耐え忍んだ人たちは「幸い」なのですが、忍耐を失ったとしても主は憐み深いのです。主の憐みは変わる事がありません。主の恵みは信仰がある人も、不信仰な人の上にも豊かなのです。

しかし、そうだからと言って、信仰がなくても良いと考えるべきではないでしょう。「ヨブの忍耐」は子供の忍耐(つまり忍耐がない)と同じです。ヨブのように散々神に文句を言ったとしても、神は愛の方なので、私たちの子供のような態度も既に赦しておられます。

ところが、主に信頼せずに祝福を得ようとするキリストにある幼子は、必ずしも「幸い」ではありません。私たちは自分勝手な考えで生活しながら、神の祝福を受けたいと考えます。そんな中で神が祝福して下さるとしても、常にそうなるわけではないと私たちは知るべきです。

主は私たちの成長を強く望んでおられ、私たちが信仰によって歩む事を期待しています。私たちは自分たちの人生のスケジュールの枠に神を入れる傾向がありますが、むしろ、私たちの人生を主の計画の中にゆだねるべきなのです。主の計画のうちに歩む人は、多くの悪から自然と守られ、勝利の生活を送れます。信仰によって歩んでいないなら、私たちは肉に従って歩む事になり、そこに隙がある為にサタンから攻撃されるのです。肉によって歩んでいるなら、その攻撃に耐えられず、私たちは多くの祝福を盗まれるでしょう。

へブル 10:36「あなた方が神の御心を行なって、約束のものを手に入れる為に必要なのは忍耐です。」

私たちは、時には、祈りの結果をすぐに見る事ができない事もあります。「約束のものを手に入れる為に必要なのは忍耐」だとある以上、私たちは信仰を持つ必要があります。ここで注意したいのは、ただ我慢すれる事が忍耐ではないという事です。私たちの我慢に対する褒美として、神が祝福される事はありません。聖書の言う忍耐とは、信仰を貫いて待ち望む事によって、神の約束を手に入れる事です。これが聖書的な忍耐の定義です。

ヨブの忍耐が皮肉の意味で使われている事を証明する為に、ヨブについてもう少し見ていきましょう。

ヨブ 1:22「ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」

ヨブ 2:10「... ヨブはこのようになっても、罪を犯すような事を口にしなかった。」

上の二つの箇所を比較すると、単に「罪を犯さなかった」という表現が、罪を犯すような事を「口にしなかった」というものに変わっています。これは、ヨブが心の中で罪を犯していた可能性を示唆しています。実際、ヨブは愚痴をこぼしてしまいました。彼の内側で起きていた事が外に表れたのです。「罪を犯さなかった」から「罪を犯すようなことを口にしなかった」に変わりました。

一見すると、最初の彼の忍耐は私たちも見習うべきだと考えてしまいがちですが、その忍耐を彼が保ち続けてわけではないものなのです。ここで重要な部分は、神に対する信仰がなかったというところです。最初はヨブも愚痴はこぼさなかったものの、彼の神に対する信仰がなかったがゆえに、サタンの攻撃が来た時には、忍耐を働かせる事ができなかったのです。つまり、彼の忍耐は単なる肉による我慢だったわけです。ヤコブも、自分が書いた手紙の中で、忍耐そのものについて教えているのではなく、信仰について教えています。

ヨブがもし主に対する信仰があったなら、災いが神から来るという事を言わなかったはずです。アブラハムの場合を考えてみて下さい。アブラハムは、主が正しい人の為にソドムとゴモラの町を滅ぼす事はないと知っていました。いかなる災いも主から来ないという事を信じていたのです。これに対して主を信頼していなかったヨブは、自分が正しい事さえすれば、とりあえず祝福されると思っていたに過ぎません。しかし、信仰に基づかない忍耐は肉の努力なのです。ヨブは、自分の我慢の限界が来た時に、全て自分に焦点を当てて、自分の義を主張してしまいました。その間、ヨブは神について一言も言いませんでした。彼は律法の下にはいませんでしたが、彼の考えは律法主義だったのです。律法的な考えで良い行いをして自分の義を見せておけば、祝福されるだろうという考えです。

主の前に正しい人は確かに祝福を受けるでしょう。でもそれは人の義が主に認められるからではありません。私たちが目を向けるべきものは、自分たちの義や努力ではなくキリストの義であり主の愛です。そして主の愛を知るからこそ、結果として良い行いをすべきであり、それは主に対する信仰に基づく良い行いであり、それをヤコブは教えています。

私たちの信仰がサタンや人々から試される時、ヨブの忍耐ではなく、アブラハムの忍耐を見るべきでしょう。アブラハムは現状を見ず、信仰をもって約束を待ち望んだのです。サタンの攻撃(病気や災難など)に気付かずに、それを我慢していても意味がありません。忍耐とは、主の約束を信じ、その信仰を保ち続けるという事です。主の約束を信じていない事に対する忍耐の事ではないのです。

ヤコブ 1:4「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」