解釈の問題
仮にサタンが勝つようなパターンを考えてみましょう。「神がサタンに許可を与えられ、サタンはヨブを苦しめ、ヨブはとうとう神を呪った」というシナリオです。つまり、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者」であっても、「神の許可次第」で正しい人が悪魔から苦難を受け、その結果、その正しい人が神を呪う事もあるというものです。ヨブ記のストーリーがもしそうであったなら、それを読む人は誰も神を信頼する事はないでしょう。もう一点考える所は、ヨブ記が旧約時代の書物であったとしても、聖書はどの書物も必ず「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」になる為に存在しているという事です。聖書は、クリスチャンが良い働きの為に十分に整えられる為に書かれているはずです。そうすると、「教えと戒めと矯正と義の訓練との為に有益」にならないような聖書の解釈は間違っている事になります。
「神でも時には悪魔に許可を与え、病気という試練を私たちに与える」という解釈は、私たちにとって有益ではありません。何故なら、そのような事を信じている人は、信仰に立って病気と戦う事をしないからです。癒しに対する信仰を促さないような解釈は、正しいものではありません。しかし、私たちが悪魔がこの世の支配者として好き勝手にしているという事実を知らず、神が悪魔に許可を与えるとし、神が病気を試練として私たちに与えられるなどと考えているなら、私たちはまだ霊的に幼いのです。何故なら、そのような間違った考えを持っていると善悪を判断する事ができないからです。
古い契約の視点 vs. 新しい契約の視点
解釈の問題の根底には、多くの場合、古い契約の視点が絡んでいます。古い契約の視点でヨブ記を読むと、神がサタンに悪事をしてもよいという許可を与えたと見えてしまいます。何故なら、当時の人々は神が全てをもたらすと考えていたからです。しかし、新しい契約の中にいる新生したクリスチャンなら、そうではない事を私たちは知っているべきです。何故なら、私たちは神を「アバ、父」と呼ぶ程の信頼関係を持ち、御父の御心を知っているべきだからです。私たちが御父にパンを下さいと言えば、御父はそれを与えて下さると知っています。それならば私たちは、ヨブ記を読む時であっても、神は良いお方だという定義を崩さずに読む必要があります。
未来が見える神の視点
翻訳された聖書では、「彼をおまえの手に任せる」となっていますが、原文では「手の内にある」となっています。仮に原文を知らない場合でも、未来が見えている神はサタンの思い通りにはならない事を既に知っていたのですから、神が「彼をおまえの手に任せる」と言ったとしても、それはサタンに「許可」を与える事にはならないのです。
あなたが未来の結果を知りつつ、誰かに「あなたの思う通りにしなさい」というなら、それを知らない人にとっては「許可」に見えますが、あなたにとっては「許可」を与えている事にはなりません。このような見方は、古い契約の視点で考えている人にはできません。
恵みが見えない
古い契約の視点からでは、私たちは神の恵みを知る事もありません。神の恵みを知るなら、神がいかなる人に対してもサタンに「許可」を与えて苦しめる事をしない事が分かるでしょう。同様に、ヨブが潔白で正しい人だからだという理由で神が彼を祝福されたのではありません。「正しい人が祝福を受けるにふさわしい」という考えは古い契約に基づく見方です。新約聖書をよく読んでイエス・キリストについての御言葉をたくさん蓄えている人は、神が人を祝福する唯一の理由を知っています。それは、神が恵みに満ち溢れているお方だからです。
ヨハネ 1:17「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」
イエス・キリストの十字架を見るまでは、人は完全に神の恵みを理解する事は不可能です。従って、ヨブやその他の多くの旧約時代の人たちには、神の恵みに対する理解が限られていました。恵みと神の性質に関するものです。究極的に言えば、恵みはもはや神ご自身なのです。恵みとはイエス・キリストに他なりません。すなわち、父なる神が私たちに与えた恵みは、私たちの人間的な考えによって定義されるようなもの、私たちが目に見える形で受け取れるものだけではなく、イエス・キリストというご自分の御子であり、私たちにとっての主なのです。
恵み(イエス・キリスト)をよく知らないでいると、ヨブのように「命を与える神は命を取る」という不信仰の考えに陥ります。しかし、イエスは一匹の羊の命を救う為にもご自分の命を捨てるお方なのです。
悪いものを良いものに変える
ヨブ記 2:6「主はサタンに言われた。「では、彼をお前の手に任せる。ただ、彼の命には触れるな。」神はあえてサタンの思うようにさせているのが分かりますか?逆にそうとも知らないサタンは、神から「許可」をもらえたと考え、自分が有利な立場に立ったと思ったのです。ところが、それはサタンにとって有利にはなりませんでした。
サタンは彼の自由意志によってヨブを殺す事もできました。しかし、神はサタンがヨブを殺す事はしないという事も既に知っていました。次の二か所からもヒントがあります。
ヨブ記 1:11「しかし、手を伸ばして、彼の全ての財産を打ってみて下さい。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」
ヨブ記 2: 5「しかし、手を伸ばして、彼の骨と肉を打ってみて下さい。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」
サタンは二度もヨブが神を呪う事を願いました。これが彼の悪意です。ヨブの持ち物を全部滅ぼしても、サタンにとっては何の得にもなりません。地上の全ては既に彼の支配の下にあったからです。ヨブの命さえも、サタンにとってはどうでもよい事だったのです。ヨブが死んだからといって、特にサタンが何かの益になるわけではありませんでした。サタンがこだわったのは、ヨブが神を呪う事、つまり、ヨブの自由意志を悪い方へ向ける事でした。神は、サタンがヨブの命を狙ってはいない事を最初から知っておられたのです。
元々、サタンは彼の自由意志によって勝手に何でもできました。ヨブを殺す事もです。しかし、サタンはヨブの自由意志を動かしたかっただけなので、ヨブを殺すに興味を持っていなかったのです。その思惑を既に知っていた神は、あえてサタンに「許可」を与えたように「彼をおまえの手に任せる(直訳では手の内にある)」と言ったのですが、神が知っていたのはサタンの悪意だけでなく、ヨブが神を呪う事をはしない事、つまり、サタンの作戦が失敗に終わる事も全て知っておられたのです。
神はサタンに悪事をして良いという「許可」を与えたのではありません。むしろ、サタンから「許可」を取ったのは神なのです。どのような「許可」でしょうか?それは、サタンがヨブの命をとらないとするものです。元々、サタンはヨブを殺そうとする気がなかったので、神にすぐに同意できたのです。
ヨブ記 1:12「主はサタンに言われた。「では、彼の財産を全てお前の手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。」
神は最初のサタンの挑戦の結果を知りつつ、「彼の身に手を伸ばしてはならない」と言いました。サタンは律義にもその命令を守ります。
ヨブ記 2:6「主はサタンに言われた。「では、彼をお前の手に任せる。ただ、彼の命には触れるな。」
神は2回目のサタンの挑戦の結果も知りつつ、「ただ彼の命には触れるな」と命令しました。サタンは行儀よくその命令に従います。
ヨブが一度も神を呪ってない事実はサタンの敗北を示します。確かに、ヨブは自分の生まれた日を呪いました。また、ヨブは自分の義を主張してそれが彼の罪となったのですが、神を呪う事はしなかったのです。
まとめ
神はサタンに悪事ができる許可を与えたという見方は間違いです。神は被造物に自由意志を与えられました。サタンは既にアダムから権威を奪っていたので、彼は何でも悪い事をしていました。ですから、既に許可なしに悪い事をずっとしていたのです。神は自由意志をコントロールしません。それをコントロールすると、それはもはや「自由」ではないからです。しかし、被造物が自由意志で悪い事を企んでいる時に、神はそれを修正して良いものに変えようとしたり、何らかの解決の方法を備えて下います。そのような神の良い計画があったという事がヨブ記から学べるのです。
サタンは私たちを自由に攻撃をする事が可能なのです。私たちはサタンの攻撃をしっかりと認識して、立ち向かって戦う必要があるのです。私たちが油断しているなら、私たちが戦いに負けてしまう事もあります。ヨブは信仰がなかった為に、サタンにその弱点を突かれました。アブラハムのように「神はいつも正しい」と考えていませんでした。ですから、「病気という試練を受けた義人ヨブ」ではなく、「自らの不信仰でサタンに機会を与えてしまったヨブ」が教訓となるのです。
神はサタンや人の自由意志によるその悪事をそのままにしておく事はありません。悪いものを良いものに変えるのが神の御心です。もちろん、神の御心や計画が完全でも、全て上手く行くわけではありません。人の信仰がないなら、その人はサタンの誘惑に負けるのです。ヨブ記では、サタンの計画は失敗に終わったというものです。しかし、サタンが大成功したケースの代表としては、多くのイスラエル人をつまずかせた事でしょう。しかし究極的に言えば、「サタンの計画 vs. 神の計画」は常に人間の自由意志次第なのです。
そういうわけで、「時には神は私たちに病いという試練を与える」という趣旨のメッセージは間違いです。その解釈は「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」になりません。そのような教えは、単に「神の御心は全く分からない」とし、病気を感謝するというおかしな信仰さえ植え付けてしまうほど悪質なものです。
「病気はサタンから来るけれど、それを許可しているのは神」とした場合でも、それを信じている人は悪魔に立ち向かう事をしません。しかし、神の武具を身に着けて御霊の剣を使って戦う事をよく理解している新しい契約にいる信者は、癒しは霊の戦いという事を知っています。
恵みが十字架によって明らかに示された後では、クリスチャンはサタンの悪事をストップさせ、地上を神の国に変えていく仕事をします。それは信仰のなかったヨブにはできなかった事ですが、神の子供として大胆に歩む者たちにできる事なのです。