神の恵みと信仰 その1

クリスチャンが行うべき、正しい考えと動機に基づいた、正しい努力というものがあります。その努力とは、私たちが神の恵みを信じる事です。クリスチャンとしてやるべき事は、様々ありますが、それらは全て神の恵みに対する信仰によります。ここで重要なのは、恵みが神からの一方的な好意である事をよく理解する事です。そうでなければ、何が宗教的な行いなのか、信仰に基づく行いなのか分からなくなる事もあるでしょう。

エペソ 2:8「この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出た事ではなく、神の賜物です。」

まず、神が恵みを示して下さいました。その恵みは、旧約時代には多くの人には明らかにされていなかったのですが、約二千年前のイエスの十字架の御業において、今は私たちにはっきりと示されています。イエスの十字架の御業に、神の恵みが示されていますが、それを信じる事によって私たちは永遠の命を得る事ができるのです。しかし、この贖いに対する信仰は、未信者が永遠の命を得る為だけに適応されるのではなく、信者が神の子として歩む事の全てに関わります。

例えば、私たちが信じて義と認められる事そのものが恵みです。ですから、私たちの努力次第で祈りが聞かれるわけではありません。私たちが義と認められたのは、私たちの熱心な祈りによってではないからです。鍵となるのは、恵みと信仰が常にセットになっているという事です。つまり、神のする事と、人のする事があるのです。神は恵みを与え、人はその恵みを信じる責任があるという事です。

神の恵みは既に完全に現れています。ですから、全ての人はイエスを信じるだけで救われるのです。神の恵みに対する正しい応答とは、信仰によってその恵みを受け取るという事に他なりません。信じる事は私たちの責任です。私たちが信じた時にのみ、救い、癒し、その他の祝福を見る事ができるのです。神の恵みを信じるという事が、私たちの唯一のすべき「努力」なのです。ただし、信仰は行いが伴います。信仰による行いは、単なる行いだけのもの、宗教的な、形だけの行いや、間違った動機に基づくものとは違います。信じているがゆえに、それが行いとして自然と外に現れるという事です。