信仰とは、ただ神ご自身や、神の力を信じるだけでなく、主の教えを理解して、その原則を信じるという事も含まれます。御言葉にある原則を無視して、私たちの良い行いに応じて、神が祝福されるという漠然とした考えは宗教です。そこには信仰がないからです。熱心な悔い改めによって、神に赦されようとする必要もありません。私たちの悔い改めに応じて、神が赦して下さるという事ではないからです。
聖書では、私たちがまだ罪人であった時から、私たちの罪は赦されていると教えています。
ローマ 5:8「しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死なれた事によって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
私たちの罪は、イエスの十字架に御業によって、既に取り除かれているのです。神は、私たちが悔い改めた後に私たちの罪を赦して下さったのではありません。悔い改めとは、「考えを変える」という意味なので、罪を赦してもらう為の行為ではないのです。悔い改めは、既に赦された私たちが、神の子として生まれ変わる為の最初の方向転換(考えを変える事)なのです。
恵みをよく理解していないクリスチャンは、気づかない所で宗教的な行いをしてしまっています。祈りが足りないから、聖書をよく読んでいないから神が祝福して下さらないと考えています。しかし、実際には、神の恵みゆえに、神の祝福は既にクリスチャンに与えられているのです。私たちが病気になる前に、神は癒しを用意されました。経済的な祝福も、私たちが必要とする前に、あらかじめ恵みによって用意しておられたのです。
神の恵みが先に示されたのは、神が私たちの必要を既に知っていたからでした。ですから、後はただ信仰によってそれらの祝福を実現させるだけで良いのです。祈りも聖書の通読も、献金や教会に熱心に通う事などは、全て恵みを受け取る条件ではないのです。
救い、癒し、解放は、既に示された十字架の恵みによって、私たちの手の届く所にあります。私たちがそれらを信じて、正しい行動する時にそれらが実現します。これが御言葉の原則です。約二千年前に、癒しの恵みが十字架の御業を通して明確に現れたのですから、私たちの宗教的な努力によって奇跡が起こる事はありません。
神に対する間違った見方を持っていると、恵みを体験できません。悪い事も全て神から来ているとする考えは多くの人々の希望を破壊し、全ての事において消極的にさせてしまいます。そのようなものを神からの試練だと考えるクリスチャンは、サタンを喜ばせているのに気付いていません。それは、サタンに栄光を帰しているのです。私たちの主は、癒しや解放によって栄光を受けるのであり、人間が病気などで苦しむ事によって栄光を受けるのではありません。病気や苦しみは、サタンの栄光なのです。
ヨハネ 9:2-3「弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れる為です。」
「神のわざが現れる」という意味は、盲人が盲目である事ではなく、神の癒しが現れるという事です。実際、この盲人は目が見えるようになり、その癒しは明らかに、神のわざです。
サタンの悪事の裏に神の許可があるという考えも間違いです。それならば、結局、サタンではなく神から悪が出ている事になります。この間違った考え方で見落としている点は、サタンも自由意志を持つという事、サタンは神の許可を得て動いていないという事実です。サタンは、いちいち神の許可を得て行動しているわけではありません。
イザヤ 5:20「わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。」
人が病気になったり経済的に困ったりするのは、神からの試練であり、それを経験している人を教えたり、謙遜にさせているという考えは聖書的ではありません。これはまさに悪を善と言っているのです。
ヤコブ 4:7「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。」
私たちは神に従うべきであり、悪魔に対抗するべきです。病気に対して戦うべきです。また、サタンに対して「どうか私たちを苦しめないで下さい」というような発言は、サタンに対抗する姿勢ではありません。サタンに対して聖なる怒りを燃やし、徹底的に戦う事が必要です。悪は神から来ていると信じてしまうなら、誰もサタンと戦いません。それはまさに、サタンの思うつぼです。
神の御心の通りに、全て完全に行われているのは、天においてのみです。そして、私たちは御国が地上にも来るように宣言し、この地上を治める神の子になりました。神は私たちに祝福を与えておられますが、それらは、全て自動的に私たちの生活で現されているわけではありません。私たちは主からの祝福を、信仰によって現実化させる必要があります。
使徒の働き 10:38「それは、ナザレのイエスの事です。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスと共におられたからです。」
神の御心とは、全ての人が癒される事です。イエスは良いわざをなして、全ての者を癒されたのです。私たちの神は、そのようなお方なのです。しかし神は、クリスチャンの信仰を通して力を現したいと望んでおられます。
全ての良いものは私たちのものです。それを信仰によってどんどん実現化させて、この地上を天の御国に変えて行きましょう。恵みの福音とはこれほどまでに良い知らせなのです。ですから、良いものと悪いものを混ぜてしまうような考えは禁物です。私たちは、神の恵みを素直に感謝し、信じて受け取るべきです。
こういった正しい見方をしていれば、私たちの祈りが現実化していきます。しかし、神に対する間違った見方そのものが、信仰の働きを妨げているのです。「神の主権」や「神の性質」に関してしっかり理解して大胆に信仰を持つならば、勝利のクリスチャン生活を経験できます。
最後に、恵みと信仰にはバランスがあります。恵みばかりを強調しすぎて、全ては神がやって下さると考え、何もやらないでよいという教え(ハイパー・グレイス)もあります。神のして下さった事と、私たちのすべき事をしっかりと認識しましょう。恵みは神からのものであり、それに対する正しい応答が私たちの信仰です。そして、恵みと信仰が合わさる時に私たちは神の御業を現す事ができるのです。
ヨハネ 6:29「イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなた方が信じる事、それが神のわざです。」
神は、時には私たちの信仰なしに御業を現す事もあります。しかし、私たちの信仰を通して、大いなるわざを成したいと望んでおられます。もし、神の全ての御業の現れが私たちの信仰と関係がないとするなら、私たちは一切宣教の働きをする必要がありません。もし、私たちの信仰を通して神の御業を見るというのが稀な方法だとしたら、どうして聖書では信仰を持つように教えるのでしょう。しかし主は、私たちが主に信頼する事を期待しておられるのです。