新しい戒め その1

 ヨハネの福音書 13:33-35「子供たちよ、私はもう少しの間あなた方と共にいます。あなた方は私を捜す事になります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなた方にも言います。私が行く所に、あなた方は来る事ができません。私はあなた方に新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなた方が私の弟子である事を、全ての人が認めるようになります。」

イエスがこのように弟子たちに話されたのは、十字架に掛かる前夜の「最後の晩餐」の時でした。それはイエスにとって、弟子たちとのしばしの別れの場面でもあり、とても大切な時でした。その時に語られたイエスのこの言葉は、単なる助言ではなく、彼らに対する戒めであったという事は、注目すべき所です。

 「互いに愛し合う」事は誰もが理解している教えです。しかし、現実にどれ程のクリスチャンが、互いに愛し合う事の大切さを知っているでしょうか?この愛は、神の無条件の愛「アガペー」です。それについて真剣に考え、実践しようとするなら、多くのクリスチャンは、人を愛する事は難し過ぎると思うでしょう。しかし、イエスは弟子たちに不可能な事をしなさいと命じたのではありません。では何故、愛の実践が私たちにとって難しいように思え、時には、それが不可能にさえ感じるのでしょうか。

 一般的に私たちが考えている愛とは、神の愛とは違って、条件付きの、人間的な、感情的な愛です。アガペーがまだ分からない間は、クリスチャンでも他の人に対して必要以上に批判的になったり、相手を言葉で傷付けてしまう事もあります。又、人の愛とアガペーの違いを、定義上十分に理解していたとしても、単なる知識となっている間は意味がありません。アガペーは、知性において理解するだけでは十分ではなく、信仰に基づいて、それを実践する事で学ぶものです。神の愛を体験するには、神があなたを愛しておられる事を、まず信じなければいけません。その後に、私たちは実際に人を愛する事ができ、その愛の実践を通して、アガペーを理解して行くのです。

 人は自分が愛されている分だけ、他の人を愛する傾向があります。一般に、愛を受けていない人は他の人に対しても愛を示す事ができません。クリスチャンでも神の愛を知らない人が多いのですが、その知らない分だけ、他の人を愛する事ができないのです。ですから、まず大事な事は、私たちは神に愛されているという真理を信じる事です。神の愛は私たちに無条件で与えられているのであり、私たちの努力や、品性、その他の人間的な基準とは関係ありません。信仰によって神に愛されていると知る時、人を愛せるようになり、それによってアガペー知るようになります。

 黙示録 4:11「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。御心のゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」

 万物が創造され、それらが存在しているのは、神の御心がそこにあるからなのです。人が創造されたのは、それを良しとした神の御心があったからでした。人の創造を良しとされた神は、私たちを愛しておられます。それが理由で、神は人との関係を持つ事を望んでおられ、親密な交わりを持つ事を望んでおられるのです。立派な行いに対する報酬として、神が私たちを愛しておられるのではありません。この愛の関係は「Give And Take」ではなく、無条件です。この事がきちんと理解されていないと、人は何かの条件を満たす事で、神の愛を得ようとします。

 アガペーによる神との正しい関係性を理解しないと、他人との関係も上手くいきません。私たちの多くは、まだ肉的な考えに大きく影響されているので、自らの努力や信仰深さに応じて、神は私たちを愛すると勘違いしています。その様な尺度でアガペーを測っていると、他人に対しても愛を制限してしまいます。「相手が自分を愛する分、自分もその人を愛する」という考えになってしまうのです。

 ローマ 5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちの為に死なれた事によって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

 神の愛はいつでも無条件です。その愛ゆえに、神は人を癒します。癒される為の条件を幾つも満たさないと癒やされない、という考えを持つべきではありません。或いは、聖化されなければといって、その達成の為に何か宗教的な行いが必要だと考えるべきではありません。一方的な神の好意によって与えられる愛を素直に受け取るだけで良いのです。それは、信仰によって受け取るという意味です。努力に応じた報酬は恵みではありません。恵みは神を信頼する事で得るものです。

 「こうしないとそれに応じた罰を受ける」というモーセの律法の考えに戻る必要もありません。神の愛は、恐れに基づく教えでも、強制的な教えでもありません。「~しなければならない」という考えに基づく教えではなく、自主的に喜んでする行為がアガペーなのです。神は私たちを自由にする事によってご自身の愛を示し、その愛を持って、私たちが他の人を自由に愛する事を望んでおられます。

 神は私たちの心を見ます。私たちの行いが素晴らしいものであったとしても、内側の動機が悪いものであったら、その行いがアガペーに基づいていない事も知っておられます。聖書の言う良い行いというのは、内側にある正しい心が外側に表れた結果なのです。そうするには、神の性質を知り、神との親しい交わりを持つ事によって、アガペーの愛を土台に置いて、その愛にねざさなければいけません。神の愛なしで良い行いに走ってしまうと、必ず宗教になってしまいます。

 神が無条件で私たちを愛して下さったという御言葉を読んで、信じましょう。神の愛に対する信仰を基礎に、私たちは他の人を愛していきます。そうすれば、私たちのこれまでの愛が、人間的な見方によって定義していたものであった事が見えてくるはずです。それは、多くの場合、感情的に判断したものなのです。聖書では、そのような人間的な愛で他人を愛しなさいとは教えていません。

 神の愛をよく知るにはどうしたら良いでしょうか?第一コリントの13章では、パウロはアガペーを端的に説明しています。しかし、神の愛は、あくまでもキリストの十字架が土台になっています。アガペーについて、もっと具体的に語っているのは、次のヨハネの言葉かもしれません。

 1ヨハネ 4:10-11「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪の為に、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛して下さったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」

 私たちがイエスの十字架に戻る時、私たちは神の愛を知る事ができます。そこに、神の愛が完全に明らかにされているのです。神の愛の基準はイエスの十字架にあります。そこから私たちは、神の無条件の愛が与えられている事が分かり、神が私たちを愛しておられる事が、神の御心である事も分かるのです。