新しい戒め その2

 ヨハネの福音書 13:34~35「私はあなた方に新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなた方が私の弟子である事を、全ての人が認めるようになります。」

 イエスは「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と弟子たちに言いました。ですから、キリストの愛は、まず最初に、弟子たちの間で見られるべきものである事が分かります。

 愛を実践するように教えている教会は数多くあります。しかし、神の愛で人を愛する事だとはっきりと教えている所は、まだ少ない方です。実際に、人間的な愛で人を愛そうとしているクリスチャンが沢山います。それが理由で、信者間での愛は、周りが認めるような力強いものでもありません。

キリストの弟子

「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなた方が私の弟子である事を、全ての人が認めるのです」とイエスが言われたように、キリストの弟子たちである、私たちクリスチャンの間に神の愛があるなら、それによって「全ての人」が私たちをイエスの弟子として認めるの事でしょう。注意したいのは、全ての人が私たちを「クリスチャンとして認める」とイエスが言っていない事です。私たちクリスチャンは、自分自身のアイデンティティーを漠然とした「クリスチャン」にしていますが、本来は、「キリストの弟子」であるべきなのです。

弟子の単語は、ギリシャ語の mathētēs が示すように、「学んでいる者」という意味があります。従って、キリストから学んでいる者がキリストの弟子になります。残念な事に、多くのクリスチャンは、キリストから学んでいる者ではなく、「何らかの良い基準」に漠然と歩んでいる者です。殆どのクリスチャンは、聖書を学ぶ事をしません。日曜日、毎週欠かさず教会に行く事だけで、クリスチャンとして十分やっていると考えている人たちは多いものです。しかし、こうした上辺だけで良いはずがありません。この程度で、クリスチャンが「キリストに似た者」として歩めているはずがありません。イエスが言ったように、私たちがアガペーの愛をお互いの間で示さないとするなら、周りの人たちは彼らを「キリストの弟子」として認識できません。実際、人々は私たちの事をクリスチャンと呼ぶかもしれませんが、誰もキリストの弟子と呼ぶ事はないのです。私たちの間で神の愛を示していないのなら、どうして彼らはキリストの愛が分かるでしょう。そして、その愛なしに、どうやって彼らを救いに導く事が可能なのでしょうか。

 キリスト教の中では、「献身者は一部の人たちだけ」という考えが一般的になってしまいましたが、それは間違いです。私たちクリスチャンは本来、全員がキリストの弟子となっているべきなのです。従って、本来は「クリスチャン=キリストの弟子」であって、ただイエスを信じている者というような漠然としたアイデンティティーなのではありません。誰でもキリストを「信じる者」としてスタートしますが、それ自体がゴールなのではないのです。キリストから学んで、キリストに従う者、キリストと共に歩んで行く弟子になるべきなのです。人はキリストを信じた瞬間に、人生のゴールに到達するのではなく、そこから成長して新しい歩みが始まるのです。

内側から

 クリスチャン、つまり、キリストの弟子の間に愛がないのなら、それを見た未信者は私たちと関わりたくないと思うでしょう。従って、まずは教会の内側から神の愛を示す必要があります。聖書の教えはいつでも、「内側に起こる良い変化が外に表れる」原則になっています。

 マタイによる福音書 23:26「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側を清めなさい。そうすれば、外側も清くなります。」

 内側が清められて初めて外側も清くなれます。この聖書の法則は、私たちの心の一新(正しくは思考の一新)の事です。心が清い人は良い言葉を出し、心が汚れている人は悪い言葉を出すとイエスは語られました。心理学的な行動療法による人格の改善方法の事ではありません。そうした人間的な努力は、ある程度、思考の一新に基づくものですが、根本的な内側の変化には至りません。人が本当に変わるのはその人の内側が変わるからです。ですから、神はまず、私たちの古い人をキリストとの十字架と共に葬る(死ぬ)という事に導き、キリストの復活と共に新しい霊を私たちの内に創造する必要があったのです。そうしなければ、私たちは新しい霊的歩み方ができなかったからです。ただし、私たちの霊は新しく創造されたのですが、思考の方は、その大部分が古いままなので、新しくされる必要があります。

 さて、キリストにある者は全て新しくなっていますので、新しい人としてキリストの弟子として、アガペーの愛によって歩む事ができます。「イエスを信じるが、自分はキリストの弟子ではない」という考えを持つ人は、聖書を正しく教えられていません。キリストの弟子であるという意識は、漠然としたクリスチャンというアイデンティティーよりも、もっと明確な目標や使命を私たちに与えます。そうした土台から、私たちは神の愛を実践できて行けるのです。そして、主にある兄弟姉妹に対してその愛を示す事から全てが始まって行くのです。当然、外に出て福音を宣べ伝えるる事も大事ですが、キリストに呼ばれた者たち(エクレシア)の集りでお互いを愛し合う事から始めるのが正しい順序です。 

現在のキリストの体である教会は、そこに集う人々がクリスチャンであっても、キリストの愛で愛し合ってはいません。私たちは、イエスの示した隣人の定義ではなく、パリサイ人や律法学者の定義する隣人で、誰かを愛そうとしているのです。それは、感情に基づく人間的な愛であり、究極的には、愛とは呼べないものです。少なくとも、アガペーではありません。私たちの間にこの愛が見られなければ、いくら外で伝道したとしても、キリストの愛が伝わる事はないでしょう。

 では、クリスチャン同士が互いに愛し合うにはどうしたらよいでしょうか?それには、まず、私たちがキリストの弟子であるという認識を持たなければなりません。「弟子」は「キリストから学ぶ者」であるのなら、キリストの愛を模範として生きる者です。そこから、アガペーが自己犠牲の愛であり、他の人を常に優先させて考えるものだと分かってくるのです。 キリストの愛で人を愛するには、自分の肉の思いに対して死んでいる事が絶対条件になります。キリストの弟子には、その様な心構えがあります。何故なら、自分の肉の思いに死ぬ(古い人に死ぬ)という、自らの十字架を背負って歩む事が、キリストの弟子としての歩みだからです。

 キリストの弟子である事、そしてそれ以上に、私たち自身がキリストにあって何者であるか、という事を知らずに「御霊の実を結ぶ」という名目で慈善をしましょうと教えても意味がありません。「立派なクリスチャン」という、人が作った曖昧な基準を目指して良い行いをするという考えは宗教であって、イエスの教えではありません。私たちの生き方、考え方の模範はいつでもイエスです。自分を愛せないと人を愛せないという教えにこだわる事もズレています。自分の存在を忘れるくらい、相手の霊的な成長を促す事を優先させるのが理想です。その様な考えを持てないのは、私たちの多くがキリストの弟子という意識がないからです。

愛するとは

 隣人愛の第一義的な定義は困っている人を助けるという事です。良きサマリヤ人の話でイエスが示したように、困った人を助けてあげる事が愛の行いです。「自分にしてもらいたい事は、他の人にもそのようにしなさい」という教えも同じです。イエスが言っている「良い行い」は箇条書きになっているモーセの律法とは違って、私たちが大人の考えと信仰をもって行うものです。「書いてある事、言われた事以外はやらない」というものではありません。

 私たちがキリストの弟子としてイエスに従う事を考えないで、どうやってアガペーの愛で人を愛する事ができるでしょうか。まずは、そこの意識改革が必要です。私たちがキリストの弟子としてアガペーの愛を実践しようとするなら、それが可能になって行きます。そうした私たちの姿を未信者が見る時に、その仲間に加わりたいと彼らは思うようになるのです。キリストの弟子である私たちがお互いに愛し合うのは、キリストに対する証しとして大きなインパクトがあるものだからです。

 ガラテヤ 6:10「ですから、私たちは、機会のあるたびに、全ての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」

 パウロも同じような事を言っています。まず、信仰の家族の人たち、信者同士の間にキリストの愛があるべきです。その愛を未信者も見たいと望んでいるのかもしれません。彼らがクリスチャンに対して「完璧さ」を求める傾向が強いのは、キリストのアガペーの愛に答えがあると期待しているからです。ただし、私たちが肉の行いによって何かを示そうとすると失敗します。しかし、私たちが肉(古い人)に対して死に、私たちの思いが御霊の思いになるなら、神の愛を実践できるようになります。このような考えは、一般的には、キリストの弟子として歩んでいるクリスチャンだけが、持っているものです。