神の性質

 私たちが本当に神の素晴らしさを知るなら、神を愛し、神の為に生きて行こうとするでしょう。そうなったら、きっと世界のあらゆる問題を解決する事に繋がるはずです。しかし、多くの人は神に対して間違った考えや意見を持っています。殆んどの人は、神を良いお方として理解していないのです。

 その原因の一つに、モーセの律法に対しる誤解が挙げられます。律法はモーセによりますが、恵みと真理はイエスによって明らかにされています。モーセの律法は悪いものではないのですが、それによって人を義にする完全なものではありませんでした。そして、それが誤解されて利用されると、逆に神に栄光を帰すものではなくなってしまいます。

 イエスは、父なる神を私たちに完全に現わす事ができました。ですから、イエスは次のように言ったのです。

 ヨハネの福音書 14:9「...私を見た人は、父を見たのです...」


 ヨハネの福音書 5:19「イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなた方に言います。子は、父がしておられる事を見て行う以外には、自分から何も行う事はできません。全て父がなさる事を、子も同様に行うのです。」

 イエスは、御父のわざを行っていました。それは、人を愛するという事でした。そして、父なる神が愛のお方だと示されたのです。ところが、パリサイ人や律法学者は、イエスはモーセの律法を犯していると責めたのです。姦淫の現行犯で捕まった女を赦し、取税人や罪人と共に食事をした事などは、律法主義のユダヤ人がする事ではありませんでした。しかし、誰も見向きもしない人たちをイエスは助け、愛されもしない人たちを愛したのです。イエスは、イスラエル人が考えた事もなかった憐みと恵みを示されたのです。

 モーセの律法の目的をきちんと理解しないでいると、神に対して大きな誤解を持つでしょう。一部のクリスチャンは、神はモーセの律法を通して私たちとの関係を望んでいると勘違いしています。しかし、神は憐れみを好み、律法によるいけにえを好みません。モーセの律法が現れたのは、私たちの罪を指摘し、それから救われる必要があるのを悟らせる為でした。それによって、人が罪の奴隷として歩んでいる事を教える為であり、それから人が解放されるには、神の助けが必要であるのを悟らせる為でした。

 モーセの律法の意味を悟れなかったイスラエル人にとっては、モーセの律法は返って、神から遠ざけてしまう要因になりました。それは宗教的な考えをイスラエル人に植え付けさせ、自己の義を追及する教えとして受け入れられてしまったからです。

 ガラテヤ 3:19「それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られる時まで、違反を示す為につけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。」

 ガラテヤ 3:24-25「こうして、律法は私達をキリストに導く養育係となりました。それは、私達が信仰によって義と認められる為です。 しかし、信仰が現れたので、私達はもはや養育係の下にはいません。」

 イスラエルの人々は、モーセの律法を守る事によって神の罰則を逃れるという事を学習しました。そこからさらに、神から祝福を受ける為の儀式、そしてそれを守る事によって、自分の義さえも求めるように考えたのです。しかし今は、十字架の贖いの完成によってモーセの律法が成就され、神と人との間にあった敵意がなくなっているのです。十字架によって、神の恵みがキリストを通して、人に完全に明らかにされたので、モーセの律法はもはや必要ありません。クリスチャンであるなら誰も、古い律法の時代の神としてのイメージをもう持たなくて良いのです。

 モーセの律法は、キリストの新しい戒めによって変えられました。イエスの十字架を通して、父なる神の愛は完全に明らかにされているのですから、私たちは自信をもって御前に進む事ができます。新しい契約が始まった以上、私たちは古い契約を見る必要がありません。

 パウロによれば、イエスの福音は恵みの福音です。

 使徒 20:24「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分の命は少しも惜しいとは思いません。」

 神からの良い知らせは恵みであって、モーセの律法ではありません。福音がモーセの律法の教えと同じであったなら、イエスは地上に来る必要はなかったのです。モーセの律法と恵み、これら二つは相反するものです。そうであるなら、私たちはどちらかを選ぶ必要があります。しかし、古い契約に基づく考え方で神を知る事は不可能です。恵みによって神を知る時に、神が良いお方だという事を知り、私たちは信仰を保つ事ができます。