基礎から学ぶ神の恵み

 全ての宗教は共通して概ね良い事を教えています。しかし、聖書が教えている良い知らせ(福音)は、他の全ての宗教と違ってある決定的なものがあります。それは神の愛です。神の愛は、一方的な神の好意によって与えられるもので、それは恵みと呼ばれます。今回は、この神の恵みについて学んで行きましょう。

 自己の義に焦点を置く宗教は、あなたの行いによってあなた自身が「良い人間」になれるような事を教えます。しかし聖書では、キリストの贖いの業を信じる事によって、キリストの義を獲得できるという神の恵みについて教えています。パウロも、この福音を「恵みの福音」と呼びました。

 使徒 20:24「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分の命は少しも惜しいとは思いません。」

 滅びに向い、病んでいる世が最も必要としているものは神の恵みです。福音の恵みは希望を失った人に希望を与え、見捨てられた人には慰めとなり、弱い人にとっては力となります。また、クリスチャンである私たちは、救われて恵みの中にいるので、大胆に歩む事ができます。

 恵みとは、先程も言いましたが、受け取る側である私たちから見える神の愛です。これこそが私たちを引き付ける神の力です。この恵みは、私たちが信じた時に、私たちのものとなります。しかし、信じて恵みを受け取ったと同じように、信じ続けてその恵みを保つ事も必要です。

 神の愛は、キリストの十字架において人に完全に明らかにされました。またヨハネが言うように、神ご自身が愛である為に、イエスキリストご自身が愛なのです。すなわち、恵みゆえに私たちの彼に対する信仰によって、私たちは永遠の命を持つ事ができるのです。

自己の義ではなく恵み

 まことの神は、自らの行いによって義を得た者が天国に入れると言われませんでした。そうではなく、ご自身の恵みによって、イエスを通して救いの道を示して下さいました。モーセの律法よりも遥かに優れた道をイエスによって示して下さったのです。

 ヨハネ 1:17「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 神の恵みは論理的に分かるものではありません。それは神学や教理を超えた神の御業であり、また神自身の性質に関わるものなので、私たちがはっきりと神の恵みを理解するには、霊的な道を歩んで行く時に始まります。成長してクリスチャンの道を歩むにつれ、私たちはより神の恵みを理解できるようになります。

 神の恵みは、私たちに新しい生き方を示し、また新しく生きていく力をも与えて下さいます。もし天国に行けるのが立派な人だけだとしたら、誰も天国にたどり着ける自信がないはずです。自分で自分の義を主張しても、それはその人の尺度で測っているだけです。しかし、神が恵みによって私たちに道を示して下さったのなら、私たちは大胆に救いへの道に入る事ができるのです。神が恵みによって私たちを義と認めて下さるのなら、私たちは恐れがありません。

 ローマ 8:33-34「誰が、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めて下さるのです。誰が、私達を罪ありとするのですか。死んで下さった方、いや、蘇られた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私達の為に、執り成していて下さるのです。」

恵みに留まる

 私たちは恵みによって自由になれたのなら、恵みのうちに留まるべきです。再び律法の束縛に入る必要はありません。現在ある、様々な教えは宗教的な要素が混ざっているので、多くのクリスチャンは、気づかないうちにそうした束縛の中にいる事もあります。

ガラテヤ 3:3「あなた方はそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなた方が、今、肉によって完成されるというのですか。」

 ガラテヤの教会では割礼を教えていたユダヤ人の影響で、そこの信徒たちが律法主義に戻っていたのでした。この事件の為に、エルサレムで使徒たちが異邦人の教会のクリスチャンはどうするべきか議論したのです。パウロによれば、私たちは一度信仰によって恵みを受け、また約束の御霊を受けて新しい人生が始まったのなら、同じ信仰によってそのまま恵みの中でしか私たちは完成されない(霊的に大人になれない)のです。再び律法に戻る事は、肉に戻る事と同じであり、御霊で始まるものが肉によって完成されるはずがないという事です。

 2コリント 3:6「神は私達に、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」

 新しい契約に仕える者とは、私たちクリスチャンの事です。ですから、私たちは文字(律法)に仕える者ではなく、与えられた御霊に仕える者です。律法は私たちの罪を指摘し、刑罰を要求します。しかし、御霊は私たちに命を与えます。命の御霊から離れて、再び律法に戻るなら、私たちは恵みから離れてしまうのです。クリスチャンになった私たちは恵みによって生かされているのですから、恵みの中で歩む必要があります。

恵みにおいて成長する

 2ペテロ 3:18「私達の主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。」

 クリスチャンの新しい生き方はイエス・キリストの恵みと知識において成長する生き方です。ちょうど赤ちゃんの成長が欠かせないように、私たちも霊的な成長が必要です。

 1ペテロ 2: 2「生まれたばかりの乳飲み子の様に、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得る為です。」

 ペテロはここで、聖書の言葉を「乳」という表現をしています。みことばは、私たちの霊的成長に欠かせない食物です。神の恵みは、新約聖書から学ぶと効果的です。それによって私たちは成長していきます。何故なら、イエスの言動が記録されている福音書とその福音の解説をしたパウロやその他の使徒たちの手紙は全て福音の恵みを語っているからです。