基礎から学ぶ信仰

 ローマ 1:17「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてある通りです。」

 福音には「神の義」が啓示されているとパウロは言ってます。それは、私たちがイエス・キリストを信じる時に与えられるものです。

 ローマ 3:22「すなわち、イエス・キリストを信じる事によって、信じる全ての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」

 誰でもイエス・キリストを信じるなら、神の義を与えられ、神に義人と認められるます。これが福音の土台です。しかし、多くのクリスチャンの信仰はここで止まっています。クリスチャンとしてイエス・キリストを信じた後も、その信仰によって進んで行く必要があります。いわゆる霊的成長の道があるのです。信仰とは義とされ、永遠の命を頂く為のものだけではありません。信仰によって始まった私たちの歩みは信仰によって進んでいく必要があるのです。

 信じて救われた後は、ただキリストの再臨を待ち望めば良いという事ではありません。霊的成長に関しての教えを受けないのなら、神に対する信仰も弱くなってきます。多くのクリスチャンは成長を遂げてキリストのみたけまで達するという事をせずに、困難と試練から逃れる事ばかりを考えているのです。信者はキリストの弟子であるという事さえも理解していません。献身する人は一部の人で良いという間違った常識は、私たちのなまぬるい歩みを大きく助長させてきましたが、もう、その様な幼い考えから卒業する時が来ています。


 さて、信仰を一言で分かりやすく言えば、それは私たちが主に信頼する事、御言葉を信じて行う事です。「どうにかなるだろう」というような漠然とした神に対する信頼ではなく、個々の状況に応じて適切な解決に至るようになる事を強く期待し、そうなると
宣言する事が信仰です。すなわち、信じている人は信じている事柄を宣言する(祈る)のです。多くの場合、クリスチャンは「神様がなんとかしてくれるだろう」という受け身的な考えを持っているだけで、積極的に問題を排除するような信仰を伴った行動に移しません。

 例えば、泥棒が家に入ったのを見たなら、誰でもその泥棒に対してアクションを起こすでしょう。警察を呼んだり、自分でその泥棒を捕まえたりするはずです。ところが、多くのクリスチャンは、その泥棒をそのままにしておいて「神がなんとかしてくれるだろう」と言って、漠然と良い事を期待するのです。私たち神の子が、地を治める事を忘れてしまったのかもしれません。私たちのうちには全知全能の神の聖霊が宿っています。それとも、その聖霊の力より大きい問題がこの世に存在するでしょうか?

 従って、神様に信頼しているからこそ、大胆に多くの問題を解決していく積極的な態度になるべきなのです。そうなっていない、主な原因は、成長へと促す教えがないからです。圧倒的勝利者として歩めないクリスチャンが多いのは、悲しい事に、ただの組織として機能している諸教会の至らなさがあるのです。諸問題に立ち向かう為の実践的な教えをせず、再臨のメッセージばかりを説く教会では、様々な問題を抱えている人で溢れています。私たちの信仰は再臨オンリーに向けられるものではありません。私たちはこの世に勝利した者であって、ただこの世から逃れる為に再臨を待ち望んでいる者ではありません。

 第一ペテロ 5: 8-9「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなた方の兄弟達が同じ苦難を通ってきているのです。」

 ペテロは、悪魔を「吼えたける獅子」のようだと表現しています。百獣の王と言われる獅子が吼えたけるなら、それはとても強い者として私たちはイメージするでしょう。実際に、聖書のあらゆる箇所で獅子は強さを象徴しています。しかし、「この悪魔に対抗しなさい」とペテロは言っているのです。積極的に悪魔に対抗できるのは、神の子である私たちがさらに強いからです。逃げる必要はありません。ただし、堅く信仰に立つ事が鍵です。それは神を信頼して、御言葉に沿って考えて行動する事です。

 悪魔が吼えたけるのは強く見せる為であって本当に強いからではありません。ユダの獅子であるイエス・キリストが最も強いお方です。そして、イエスは私たちの中にいるのです。主が共におられるという認識をありとあらゆる場面で私たちは思い出し、信仰による一歩を踏み出して物事を解決していく事、そして御言葉を実践する事が信仰の歩みです。問題ばかりを見ていては問題に押しつぶされてしまいます。しかし、私たちはイエスを見ているべきです。

 ヘブル人への手紙 12: 2「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びの為に、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」