基礎から学ぶ十字架の贖い

 福音の土台はキリストの十字架の御業にあります。それは神の恵み、憐れみと愛を完全に示したものであり、人間の罪の贖いであって、そこに全てを解放する力があります。イエスは私たちの為に十字架に掛かって私たちを罪の刑罰から救う為に来られました。それは、モーセの律法ができなかった「神の義」を与える事と、永遠の命を与える事を可能にしたもので、世の基が定められる前からの神の計画でした。

罪からの解放

 キリストの十字架での贖いは二つの解放を約束しています。まず一つには、私たち自身の犯した罪からの解放です。キリストは完全な子羊としてその聖なる血を流されました。それは、全ての罪を取り除く力があります。私たちの罪と罪の奴隷としての解放が約束されているのは、キリストの血によります。また、それは新しい契約の象徴でもありました。キリストの血によって私たちは聖い者とされています。いわゆる聖化はクリスチャンになった後から始まるのではなく、クリスチャンとして生まれ変わった時に、私たちの霊において完成しています。その完成を外に表すのが霊的成長であり、聖化なのです。聖別は終わっているのですが、新しい人として歩む中で、私たちの思考は一新され、それに応じて聖さが表れてくる必要があります。それは、私たちが世の光、地の塩となる為であり、キリストに倣う者として、人々を救いに導く為です。

 キリストの血による聖別が、新約聖書での「油そそぎ」の儀式なので、それ故に私たちは聖霊を受ける事ができます。私たちクリスチャンは、油注がれた祭司であり王です。誰かが特別な霊的エリートというわけではありません。信者は皆が油注がれている神の子供たちなのです。

 第二コリント 1:21「私たちをあなた方と一緒にキリストの内に堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。」

病いからの解放

 私たちの病いから解放したのもキリストの十字架の御業の一部です。贖いの中に癒しがあります。これはイザヤの預言よりも遙か前にダビデによって預言されていました。

 詩篇 103:3「主は、あなたの全ての咎を赦し、あなたの全ての病を癒し、」

 第一ペテロ 2:24「キリストは自ら十字架の上で、私達の罪をその身に負われた。それは、私達が罪を離れ、義の為に生きる為。その打ち傷のゆえに、あなた方は癒された。」

 この聖句は、キリストが私たちの罪を負う為、そして、打ち傷によって癒やされる為に十字架に掛かった事を最もよく示しています。多くのクリスチャンは十字架によって罪が赦されて、罪から解放されている事を知っていますが、罪から離れて義の為に生きる事をよく理解していません。また、病いが癒やされていて、病いから解放されている事も知りません。癒しが神の御心である事を知らないという致命的な無知がある為、癒しの体験がないのです。多くの場合、信者でさえも「神の御心」なら癒やされると考えています。その考え方は、人の罪が赦されるのも「神の御心」次第と言っているようなものです。

聖餐式

 正餐式はキリストの十字架の御業を思いだし、神の恵みを思いながら歩む事を促します。その目的の為に私たちは正餐式をします。理解なしに、ただ儀式として行うのであれば、それは宗教になります。聖餐式の実践的な側面は、十字架の恵みに立ち返って罪から離れ、聖い生活を送る事を可能にするだけでなく、病気の癒し、健康を保つという恩恵もあります。多くのクリスチャンが罪の中に浸り、病気で悩んでいるのは、聖餐式を単なる儀式として行っているからです。今では、聖餐式を通して人が癒やされなくなったのも普通になってしまいました。

十字架の前後

 十字架は古い契約の終わりと新しい契約の始まりを意味しています。一方では旧約聖書のモーセの律法と預言者が成就し(マタイ 5:17)、もう一方では新しい契約が成立しました。イエスの贖い、イエスの流された血によって何がどう変わったかを知らないと、私たちはどちらの契約が大事かを見失う事になります。

  • キリストの血によって私たちは義と認められている(ローマ 5:9)
  • キリストの血によって近い者とされた(エペソ 2:13)
  • 永遠の贖いを成し遂げられた(ヘブル 9:12)
  • 私たちの良心を清め、死んだ行ないから離れさせる(ヘブル 9:14)
  • イエスの血によって、聖所に入る事ができる(ヘブル 10:19)

 上の他にもヘブル人への手紙では、十字架でのキリストの血について色々説明しています。イエスが血を流された以上、何かが変わった事は明らかであり、それは古い契約の時代にはなかったものです。

 又、十字架でキリストが死んだように私たちの古い人も死んでいるべきです。

 ローマ 6: 6-8「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる為です。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きる事にもなる、と私たちは信じています。」

 十字架がもたらした最大の変化は、私たちの古い人が死んで、新しい人として歩む為にキリストと共によみがえった事、新しい霊が私たちの内に創造されて、私たちが新生した事です。もしこの真理を知らないのなら、解放されている私たちが、再び古い人によって歩んでしまうでしょう。古い人の歩みとは、古い契約に基づくもの、肉の欲求を満たすもの、或いは、宗教的な考え、肉の思いによって歩む事です。しかし、私たちの内にはキリストの思い(新改訳ではキリストの心と誤訳)があるのです。

 ガラテヤ 5:24「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望と共に十字架につけたのです。」

 キリストを主とし、その贖いのわざを信じているなら、私たちは新生しています。それならば、新しい人として歩まなければいけません。何故なら、私たちの古い人は死んでいるべきだからです。そして、新しい人として歩むには心の一新(考えを変える事)が必要になります。

 ガラテヤ 2:19-20「...私はキリストと共に十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私の為にご自分を与えて下さった、神の御子に対する信仰によるのです。」