御言葉の種

 神の祝福を望んでいるにも関わらず、それを体験できない理由の一つに、御言葉が心に植えられていない事が挙げられます。御言葉を心に植える事によって、私たちは信じる事ができます。御言葉を頭で理解するという事について話しているのではありません。信仰は、霊的な事柄について、私たちの心で信じるもので、御言葉を知性で理解するという事とは違いがあります。

 イエスは、神の言葉を「種」として、たとえ話しの中で表現していますが、それは私たちの心の中に植えられて始めて、実を結ぶ事を教えられました。ここで、自然の法則によって植物の種が、実を結ぶまでのプロセスを考えてみて下さい。それ自身は小さなもので、何も生み出しません。土の中に植えられないと成長しません。同様に、奇跡をいくら期待して祈っても、その奇跡を生み出す為の「御言葉の種」をまず植えなければ、その実を見る事は不可能なのです。

 マルコ 4:13「そして、彼らにこう言われた。「このたとえが分からないのですか。そんな事で、どうして全てのたとえが理解できるでしょうか。」

 さて、種蒔きと刈り取りの法則は、神様が定めたものですが、種を蒔いて芽が出るまでには、幾つかの過程があります。この過程を無視して実を結ぶ事はできません。つまり、御言葉を心の内に蒔いたとしても、その実を結ぶまでには時間が掛かり、刈り取るまでには更に時間が掛かるのです。

 マルコ 4:26-29「またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」

 ちょうど蒔いた種が土の中に留まっていなければならないように、神の御言葉も私たちの心の中に留まっている必要があります。直ぐに実を結ばないからといって、植えた種を疑って、それがどうなっているかと掘り出してみるなら、せっかくの成長を台無しにしてしまうかもしれません。それと同様に、心の中に御言葉の種を植えたなら、それが成長するまで、信じて待っておく必要があります。

 マルコ 4:28「地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。」

 私たちは忍耐がないので、直ぐに実が成るのを期待しますが、成長には幾つかの段階がある事を知らなければいけません。信仰を持って忍耐を働かせて、御言葉の種が成長するのを待つのです。そうしないと、神からの約束を実現化できません。

 神の国は神の法則に従っています。信仰も神の法則です。信じたものが実を結ぶ為には、御国の法則のプロセスを通る必要があります。このプロセスを幾らか早める事は可能です。逆に、間違った教えを信じていた場合は、思考の一新が遅くなる事が多い為、実を結ぶのに時間がかかるでしょう。ですから、なるべく早い段階で御言葉の真理を正しく理解し、それを心に植える必要があります。「木を植えるのに最もよい時期は 20 年前であり、二番目に良い時期は今です」という古いことわざが言うように、私たちは今から御言葉の種を植えておく必要があります。そして、
私たちの心を良い状態に保つ事が秘訣です。心が良い土地であるなら、私たちは御言葉を信じ続ける事ができ、忍耐を持って待てば、必ず実を結ぶ事になるでしょう。