癒しは子供たちのパン

 マルコ 7:27「するとイエスは言われた。「まず子供たちを満腹にさせなければなりません。子供たちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くない事です。」

 イエスに自分の娘を癒して下さるようにと頼んだカナン人は、ユダヤ人ではなかったので、癒しを受け取る権利はありませんでした。イエスはその事を彼女に言う為に、彼女を「子犬」扱いされました。彼女はそれでも諦めませんでした。自分が契約の下にいない者、選ばれた民ではない事を承知の上でイエスに頼み、子犬と呼ばれたのに対しても文句も言わず、子犬でも何かをもらえるはずだと主張しました。その粘り強い信仰の結果、彼女は彼女の娘を癒してもらったのです。

 「子供たちのパン」とは癒しを意味します。イエスご自身が天からのパンであり、それはみからだを象徴していて、自らの体に受けた傷によって、私たちの癒しが保証されている事を意味します。

 第一ペテロ  2:24「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義の為に生きる為。その打ち傷のゆえに、あなた方は癒された。」

 罪の赦しが完全に十字架によって贖われたように、全ての病気も贖われました。ペテロはイザヤ書の53章にある、罪の赦しと病の癒やしの両方をここで書いたのです。しかし、多くの人々は、神は全ての罪を赦しても、全ての病気を癒す事はないと考えています。多くの場合、信じるだけでは足りず、何かをして神を説得させたら、癒やされると考えているのです。

 悔い改めや熱心な祈りがなければ、神に癒してもらえないという考えは典型です。しかし、そうした事を純粋な心から行ったとしても、そうする事によって神を満足させ、神に癒してもらうという考えは必要ありません。何故なら、イエスが受けた打ち傷は、私たちの病、患い、痛みであって、既にそれらを代わりに背負って下さったからです。

 ある人は、第一ペテロの手紙 2:24 がイザヤ書の53章からの引用だという事で、その意味を病気からの癒しではなく「霊的な癒し」と間違って捉えてしまい、肉体的な癒しという解釈にはならないとしています。

 マタイ 8:16-17「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスは言葉をもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒された。これは、預言者イザヤを通して語られた事が成就する為であった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」

 マタイもペテロと同様に、同じイザヤ書の53章から引用して、病に対する癒しと解釈しています。ですから、肉体的な病に対する癒しが正しい解釈なのです。又、イエスが癒し主である事は明らかです。イエスは今日も、私たちの癒やし主であって、変わる事がありません。

 イエスを信じる事によって私たちは神の子供とされています。癒しというのは、神の子供たちのものなので、「子供たちのパン」という事ですが、パンは「日々食べる糧」ですから、ごく日常的なものです。つまり、神に特別扱いされて、癒されるという事ではなく、癒しという祝福は神の子供としてごく日常的なものなのです。

 私たちの熱心な祈りが直接癒しをもたらすのなら、それは報酬になってしまいます。イエスご自身が天からのパンであり、その体を私たちの為に捧げられたので、その御業を信じる事によって私たちは癒しの祝福を受け取る事ができます。イエスの受けたみからだの打ち傷は私たちの病の為で、全ての病を背負って下さったので、私たちはもはや病を患う必要はないのです。

 私たちの祈りや悔い改めに対して神が動いて、それから神の憐みによって癒しが起こる、という順序ではありません。神に「病気を治して下さい」と祈る以前に、癒しの祝福は私たちのものという約束になっています。何故なら、十字架の御業は既に完了したからです。私たちの罪が既に十字架の御業によって取り除かれているように、病もキリストの打ち傷によって取り除かれています。それ故、私たちには、癒されているという約束が保証されているのです。問題は、その恵みを信じるかどうかです。

 イエスの十字架の恵みは信者だけでなく未信者にも及びます。何故なら、イエスは十字架で全ての人の罪と病の為の代価を払って下さったからです。しかし、「子供たちのパン」は、まず私たち信者に対する特権です。クリスチャンは聖餐式であずかるパンを食べる事によって、癒しを体験できるという特権があり、この恩恵は未信者には当てはまりません。主の十字架を信じる者にとっての聖餐式だからです。

 サタンの敗北は御言葉によって確定しているのにも関わらず、この地上で悪を続けています。間接的なものを含めると、全ての病気はサタンが原因です。何故なら、神が天地を創造した時には、病の原因である菌やその他の悪影響を及ぼすものはなかったからです。それらは、地上を破壊して来たサタンによってもたらされたのです。

 ですから、私たちは病気を自然の一部などとして考える必要はありません。イエスの御名で、病気や悪霊に命じて追い出せば良いのです。私たちには、イエスの権威が与えられているので、あらゆる悪(病気も含む)に打ち勝つ事ができるのです。

 癒しに対して不信仰になりがちになるのは、私たちが癒しに関する御言葉をしっかりと握りきれていないからです。揺らぐ事なく、信じ続ける事が勝利の鍵です。私たちの内におられるイエスに目を向け、主を信頼するだけで良いのです。目に見える現実ではなく、御言葉の真理に目を向ける事が信仰です。

 薬は病気を癒すというよりも、症状を抑えたりするものです。薬を服用してもしなくても、十字架でイエスが打ち傷を受けた真理は揺るぎません。これを理解すれば、例え薬を飲んだからといっても、それが不信仰になっているとは限らないのです。ですから、賢く薬を用いて、症状を抑えたり、痛みを和らげて、それから信仰の祈りをすれば良いのです。

 私たちの目指す所は、薬に頼らずに神の癒やしをもっと体験して行く事です。その信仰の歩みの中で、時には薬を賢く使う事は悪くありません。しかし、クリスチャンの特権である「子供たちのパン」を食べて祝福されるチャンスを逃す事はありません。主も私たちが信仰を持って歩めるように望んでおられます。ですから、すぐに薬に頼るのではなく、まずは聖書の真理に目を向ける事が先です。病気に向かい、御言葉を用いて勝利の宣言をして、信仰がどのようにして働くかを学ぶ必要があります。クリスチャンは病気になって苦しむ必要はありません。これは神からの祝福であり、イエスが伝えた御国の福音なのです。