召しについて 2

神のしもべと神の子

 五役者、正確には教師が羊飼いの役割をするので、四役者です。やるべき事は、五つあります。ここでの問題は、それらの役割やタイトルにこだわり、それらの奉仕の働きを「神からの召し」だと勘違いしている事です。その原因の一つには、人々が「神のしもべ」の意識を強く持っているからです。奉仕の働きは色々ありますが、信者のアイデンティティーは神の子だけです。私たちは、神の子としてそれらの働きをしますが、それらの働き自体が私たち自身ではありません。クリスチャンが自分のアイデンティティーをよく知らないのは、その教えがあまり浸透していないからでしょう。又、「神の召し」を「絶対的な任命」として教えられているのは、次の聖書の引用が原因になっている事もあります。

 ローマ 11:29「神の賜物と召命は、取り消される事がないからです。」

 この箇所はよく誤解されています。ローマ人への手紙 11章はイスラエルの救いについての内容が書かれており、29節の「神の賜物と召命」とは「選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者」、つまり、イスラエル人の救いに関する神の約束を指しています。ここで使われている「賜物=恵みの現れ」を「御霊の賜物」や五職として解釈してしまっているケースがしばしばあります。パウロはその前の節までイスラエルの救いについて書いているのに、この節で突然、御霊の賜物や五職について語る事ができるでしょうか?話の流れを無視して、それらをここで説明する(一般的にそう誤解されている)という事はあり得ません。又、「賜物」の直訳は「恵みの現れ」なので、文脈から判断すると、イスラエルの救いが神による恵みの現れだと分かります。

 更に、κλῆσις(召命)の単語は「招待」の意味を持ちます。新約聖書では「救いへの招待」という意味で主に用いられ、この箇所では神がイスラエル人の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブに約束された救いの招待について考えを変えない(ἀμεταμέλητος)という意味なのです。 新改訳では、「取り消されない」の訳になっていますが、使われているギリシャ語は、ἀμεταμέλητος であって、μεταμέλομαι(考えを変える)という動詞に否定の意味を持つ α が前についている形です。直訳は「考えを変えない」です。この語は、新約聖書で「悔い改め」と訳されていますが、μεταμέλομαι のより正確な訳は「考えを変える」です。

 従って、ローマ 11:29 をもとに、神から五職のうちのどれか、として召されたしてしまうと、その奉仕の働きが永遠に変わらないという誤解になります。実際には、その人の成長と共に神は仕事をお任せになるのです。五職の働きですら、同時に二つも三つもこなす人も実際にいますし、教会の外でなら、より多くの働きをする人々もいます。リーダーは複数の役割をこなすのが理想であり、パウロもそうしました。もし、リーダーが自分のポジションやタイトルを気にして、やるべき事ができないのなら、その人は旧約時代の神のしもべのように考えていて、自分が神の子である事を忘れているのです。

 とはいえ、現時点では複数の役割をこなすリーダーも多くはいません。それ相応の成長が必要だからです。各自がキリストの体の部分として、最低でも一つの役割を果たすべきですが、リーダーは成長しているという意味で、雑用を含めた、複数の仕事もこなさなければなりません。時には、五職の中の二つもやらなければならないようなニーズがあります。私たちのアイデンティティーは神の子であり、ミニストリーの模範はパウロであり、究極的にはイエスなので、何でもできるように成長し、実践して行かなければいけません。しかし、その成長に合わないのであれば、責任の重い仕事を引き受けるべきではありません。実際、リーダーとして仕事は責任の重さが他よりも大きいので、使徒が預言者としての役割もこなすという事は、多く見られないのです。
一般には、一つの働きに専念している事が多く、私たちは自分の出来る所から始めるのと良いでしょう。

 結論として言えるのは、いわゆる「御霊の賜物」による奉仕の働きや五職は、私たちのアイデンティティーではないという事です。誰か使徒の働きをしているから、或いは、癒しの賜物を持っているからといって、その人を何か特別扱いするような考えから卒業し、その奉仕者も同じ主にある者として見なければなりません。又、奉仕者は、自分の働きによって自分自身に注目を集める事をせず、イエスに導くように心がけなければいけません。それが大人の考えであり、神の子の考え方なのです。

召しについて 3に続きます。