励ましの言葉

 第一コリント 14: 1「 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言する事を熱心に求めなさい。」

 「愛を追い求める」事と「預言する事を熱心に求める」事が同等の関係性を持つ事を、パウロはここで示しています。第一コリント人への手紙の13章で、パウロは「預言ができても愛がないなら意味がない」と言っていますが、預言も異言も、その他の恵みの現れ(御霊の賜物)による奉仕も、愛がないのなら、虚しいものだとパウロは言いました。

 第一コリント人 14:3-4「しかし預言する人は、人を育てる言葉や勧めや慰めを、人に向かって話します。異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。」

 預言は相手を思う心から来るべきです。何故なら、人を育てる言葉、勧めや慰めを与える言葉は、愛に基づくべきであるからです。ですから、預言の賜物は特に愛に関係していて、他の人を成長させる事に焦点を当てます。預言の言葉は、それが純粋であるほど、それを受ける人に大きな力となります。そのような理由で、パウロは、預言の賜物を最も価値のある恵みの現れ(御霊の賜物)として見ていました。
 
 本来の預言は、「未来の事をそれとなく当てる」という種類のものではありません。それを受け取る人にとっては、非常に大きな助言や励ましになるものであって、聞いて理解できないような、ミステリアスなものではありません。残念ながら、多くの預言は、それを聞いた殆どの人が理解できず、特に大きな助けにはなっていません。その大きな原因の一つは、預言者の成長が幼すぎるからです。曖昧な預言は、その内容が漠然としたもので、どのように適応させれば良いか、言った本人も、受けた人も理解できないものです。しかし、本来の預言(本物の預言を含む)はそのような薄っぺらいものではありません。本来の預言は、愛に根ざし、愛に土台を置いたものなのであり、預言者は愛について良く理解しているべきであり、御言葉の真理を理解している者であるべきなのです。

 従って、預言に興味を持つ人は、人を愛する事に興味を持つべきです。しかし、相手を愛せるようになるには、まず神によって、そして誰かによって愛され、励まされる必要もあります。基本的に、一度も励まされた事のない人は、他人を励まそうという気持ちが起こりません。相手に良い事をしようという気持ちが起こる為には、まずあなた自身が誰かによってその模範を示される必要があるのです。その経験をすれば、今度はあなたが人を助けるチャンスがあった時に、相手を助ける事ができるのです。

 パウロによると、賜物としての預言は、信者であるなら誰でもできるとしています。これはお互いが励まし合う為です。いわゆる「個人的な預言」とは、人を育てる言葉、勧めや慰めの言葉を話します。相手の未来についての細かい啓示や召しに関わるもの、教会全体に対するものや、警告の預言などは、通常、「預言者」の役割をしている人にしかできません。

 励ましの言葉は、個人的預言として誰でもできます。そして、それは相手を愛するという動機から始まります。そのような態度を常に持っていれば、自然に預言の言葉が出てくるでしょう。これは個人的預言をする上で最も大切な部分です。興味本位だけで預言をしたいという動機で行うなら、肉の思いからの言葉ばかりになりがちです。そうしたものは表面的には良い言葉であっても、霊的な力がない為に、インパクトは弱いものです。預言の言葉が霊から語れる時、それは人を育てる言葉となり、相手にとって価値のある言葉となるでしょう。そのような預言はその人を変えるきっかけにもなります。