召しについて 1

 聖書の言う「神の召し」とは、私たちが成長して、キリストのようになる事を指します。各信者が教会の体の一部として働く役割の事ではありません。神は特定の役割に従事するように指示する事はあります。しかし、それは「神の召し」ではなく、ただ神が特定の奉仕の働きをするように指示しただけです。それは、あなたの「宿命」ではありません。

成長に応じる役割

 全ての信者は教会において何かしらの役割を持つ事になります。その役割はあなた自身が知っていたり、周りから言われたり、集会のリーダーから任せられたり、或いは、神から直接、示される事もあるでしょう。あなたがするべき役割を実行するのはとても重要です。しかし神は、あなたがするべき事を一つの働きだけだに限定してはいません。あなたが成長してより責任の重い役割をこなす事ができるにつれ、神は様々な働きをお任せになります。

 しかし神は、率先して御心を実践する人も望んでおられます。つまり、神は私たちが自由に正しい選択をして、自ら責任を取って奉仕の働きをする事を望んでおられるのです。サタンは、私たちの自由を奪ってコントロールしようと試みますが、神は私たちを強いて動かそうとはしません。神は人がやりたくない事を強いてさせるお方ではありません。このように、役割は様々で、成長につれて変化しますが、神の召しは一つであり、それは私たちがキリストへと成長する事です。

 へブル 5:12「あなた方は、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げた言葉の初歩を、もう一度誰かに教えてもらう必要があります。あなた方は固い食物ではなく、乳が必要になっています。」

 教師は教えます。それはリーダー的な役割です。普通に成長しているクリスチャンなら、いずれ教える側に立つべきです。信者は全員が成長を目指して、主の為により多くの働きに務める意識を持つべきです。ただキリストの再臨を待つだけの「一般信徒」として安住してしまっているなら、その人は霊的成長の大切さを理解していません。クリスチャンの多くは、一部の人だけが献身するという誤解を持っています。皆が弟子としてイエスの後に従う事を知りません。皆が神の子として歩む事が神の御心であって、それは霊的成長の道を歩む事であり、キリストの満ち満ちた身たけに達する事です。この目標に到達するには、弟子訓練の道を通る事が必須になります。

 一方、成長しているクリスチャンは教会の徳を高める為に色々な手伝いに積極的になります。あなたの成長次第で役割が違ってきたり、より責任の重い事を任されたりします。つまり、誰でもリーダーとして責任を持ってできるなら、どの役割でもこなす事が可能なのです。これは全ての信者が成長の道を進む限り、誰もがリーダーになるという事を意味しています。なぜなら、神の子はイエスのように行動するからです。

 リーダーの役割をしている人たちは、神から特別に召された者、特別な霊的エリートなどではありません。もちろん、誰でもすぐにリーダーの役割をこなすわけではありません。御言葉による土台はもちろんの事、キリストに従う道に入った人でないとリーダーにはなれません。また、真のリーダーたちは、自分のタイトルや栄光を求めず、やるべき事が何であるかをしっかりと見つめ、「誰かがやらなければ何も始まらない」という積極的な態度を持って行動します。こうした考えは主からのものです。こうして責任を取って、やるべき事をやろうと積極的に考える人、すなわち、古い人に死んでいるクリスチャンは多くはありません。

アイデンティティー

 いつの時代でも、ヨシュアのように、主のなさる事に心を留めている人は多くありません。ダビデのように戦いの前線に向かう人もあまりいません。多くの人の選択は、リスクの少ない安易な生活ばかりです。意外かもしれませんが、過去において、リーダーになった人たちは、神から指示された役割(牧師、伝道者など)を拒んだ人が多くいます。彼らは長い間逃げ回って、ようやく神に応答して、リーダーとなりました。何故なら、自ら積極的に何か新しい事をやろうとする人たちは、過去をさかのぼる程、より少なかったからです。その理由は、私たちが神の子として、この地上を治めるという真理を彼らがまだ良く知らなかったからです。

 近年、クリスチャンとして、自分のアイデンティティーを理解している人が増えて来ました。御国の前進の為なら何でもやるという積極的な考えを持っている人が出始めているという事です。そういう人たちは、自分たちが神の子であるという認識をしっかりと持っているので、五職の中の役割にこだわらずに様々な事をします。それはちょうど、「御霊の賜物」にこだわらずに、何でもやろうとする考えと同じです。多くの人々は、全ての信者が成長すれば、イエスのように何でもできるという事を理解できていません。神が示さないと、どの役割をするべきかを知らないほど、幼いのです。この考えの背景には、神に示されるないと、神の御心を知る事ができない、という考えがあるからです。神の御心は、イエスの教えの原則に沿うものです。誰がどの役割を果たすかという、詳細が聖書に書かれてはいませんが、成長するにつれて、それを知る事ができるものなのです。

それぞれの働き

 さて、教会の中で果たすべき役割は、各自一つある事が基本であり、各自が違う働きをこなす事が必要なので、皆が一斉に使徒、預言者、教師などの働きをしてしまうと、バランスが悪くなります。そして、例えそれらのリーダー的な役割をする場合でも、神に何か特別なしるしを求める事は必須ではありません。多くの人は、しるしばかりを気にして、その責任負う事と、その仕事をこなせる能力があるかどうかに気を配りません。しかし同時に、責任を負う事の大切さを心がけている人、自己の肉において死んでいる人は、神から自然と何をどうすれば良いかを尋ねているのです。

召しについて 2に続きます。