完全なもの

 第一コリント 13:10-11「完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であった時には、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になった時、幼子の事はやめました。」

 「完全なもの」の意味を「聖書(聖典とされている66巻)」だとする見方があります。確かに、聖書には私たちが知るべき全ての真理(信者が生きる為の原則)があり、真理は完全です。しかし、10節と11節を「字義通り」に読んでも、そのような意味は取れません。パウロはそのような解釈をするべきだとするヒントを与えているのでもありません。

 この教えを主張する人々は、いわゆる終焉説というものを主張しているのです。「聖書66巻=完全なもの」とする事によって、終焉説を確立させようとしているのです。一部の人々がこの解釈に至った理由は、いわゆる「御霊の賜物」は廃れたものと主張したいからであり、その発端はカリスマ・聖霊派のグループの行き過ぎた行動に対する批判も含まれます。

 カリスマ・聖霊派のグループによる過剰なものがなかったのなら、人々は必ずしも御霊の賜物に疑問を持つ事はなかったでしょう。つまり、単なる教義の違いの主張だけではなく、彼らの行動に対する批判が主な原因の一つでもあったのです。しかし皮肉にも、批判する側も、いつの間にか過剰になってしまい、終焉説を考えだした事によって、適切な批判や反論という一線を超えてしまいました。終焉説は、神の真理に対する批判となってしまい、自らが曲解したものを真理と訴える存在になったのです。

 第一コリント 13:8-9「愛は決して絶える事がありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」

 終焉説はこれらの聖句を土台に、御霊の賜物は今日では「廃れたもの」とみなします。それらが廃れるという事に関しては、パウロがそう言うように正しいのです。しかしその理由を、「聖典が完成されるから」という根拠はどこから来ているのでしょうか?もし、その根拠をパウロ以外の所から来ているとするなら、著者であるパウロの書いたものを、そのように自由に解釈して良いのかという事になります。しかし、パウロが意味している「完全なもの」は、文脈から明らかです。

 第一コリント 13:11-12「私は、幼子であった時には、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になった時、幼子の事はやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見る事になります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じ様に、私も完全に知る事になります。」

 人が幼子のうちは、幼子として思い、幼子として考えるしかありません。大人として理解できないからです。パウロはその事を「鏡にぼんやり映るものを見ている」と表現しました。鏡を見ると、自分自身が映るのですが、霊的に幼いうちは、自分の姿を「ぼんやり」と映るものを見ているとパウロは言いました。しかし、「その時には」、つまり、完全に成熟した時には「顔と顔を合わせて見る」事になります。何故なら、成熟して大人になる時には、幼子の事(ぼんやりと映るものを見る事)をやめるからです。

 第一コリント 13:13 「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。」

  「こういうわけで」とあるので、この節とそれ以前に書いた内容と関係している事が分かります。つまり、この節の前の内容と「愛」は深く関係しているという事です。前の内容と関連させて読むなら、パウロが言っている事が理解できるでしょう。つまり、パウロは愛によって考え、行動する事を「大人になる事」とし、そうでない間は、「幼子」としているのです。ですからパウロは、愛を知って、その愛によって歩むという成熟に至る時には、「私が完全に知られているのと同じ様に、私も完全に知る事になる」と言ったのです。

 「完全に知られている」とパウロが表現したのは、この手紙を書いた時のパウロは、キリストの満ち満ちた身丈にまで到達していませんでした。しかしパウロは、自分がいずれは大人になる事を、神に完全に知られていると知っていました。実際、神は未来を知っています。しかしパウロは、「私も完全に知る事になる」と言って、自分の成長を確信していました。

 第一コリント 13:10-11「完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。

 「完全なもの」は、teleion(欠けのない、成熟した)という意味のギリシャ語です。この語は、次の聖句にもあります。

 エペソ 4:13「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまでたちするのです。」

 この箇所以外でも、人に対して(欠けのない、成熟した)という意味で「teleios」が使われています。キリスト者(クリスチャン)の私たちが幼いうちは、鏡を見てもそれに映るのは、まだ幼いままの私たちであり、本来の成長した姿ではありません。しかし、私たちがキリストの満ち満ちた身丈にまでに達すると、成熟した者になります。成長すると、御霊の賜物を用いての奉仕の働きは必要なくなります。何故なら、御霊の賜物は肉に属する、キリストにある幼子のが用いるものだからです。そして、私たちの成熟した姿を鏡で見るなら「顔と顔」とを合わせて、イエスを見るようになります。何故なら、私たちの中におられるイエスが、私たちの成熟を通してご自身が私たちの人生を完全に歩む事になるからです。