安息の真理 1

 殆どのクリスチャンは、モーセの律法やローマ・カトリックの観点から「安息」を見ています。モーセの律法においては、週に一度、労働から休む為の日として安息日が設けられました。その後、ローマ・カトリックの影響による安息日の廃止によって、土曜日ではなく、日曜日に礼拝をする日と定められました。これが、「週に一度労働から休んで、教会に行く日」という「現代版安息日」の考えになったのです。しかし、ローマ・カトリックのそうした教えに異議を唱えた宗教改革者たちは、旧約聖書の安息日と日曜日は別である事を主張していました。

 実は、「安息日」の定義は、へブル人への手紙から読まないと、その真理を知る事にはなりません。そこに本当の意味が明かされているのです。

 へブル 3:9-12「あなた方の先祖はそこで私を試み、私を試し、四十年の間、私のわざを見た。だから、私はその世代に憤って言った。 『彼らは常に心が迷っている。彼らは私の道を知らない。』私は怒りをもって誓った。『彼らは決して、私の安息に入れない。』」兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」

 これは、荒野で主を試みたイスラエル人が、彼らの不信仰ゆえに、彼らが安息に入れなかった事について書かれてあります。

 へブル 3:18-19「又、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、誰に対してですか。他でもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰の為であった事が分かります。」

 この箇所で言っている「安息に入る」の意味は、「主を信じる」という事になります。つまり、「信仰によって入る安息」が真の意味であって、週に一度の「労働からの休み」というモーセの律法の定義ではないのです。パウロは、「安息に入れなかった」という表現を「約束の地に入れなかった」イスラエル人の歴史の話に基づいて使っています。

 へブル 4:3「信じた私たちは安息に入るのですが、「私は怒りをもって誓った。『彼らは決して、私の安息に入れない』」と神が言われた通りなのです。もっとも、世界の基が据えられた時から、御業は既に成し遂げられています。」

 クリスチャンは安息に入っています。何故なら、神を信じているからです。「神の御業が既に成し遂げられている」のは、神は世界の基が据えられる前から、神の計画した贖いの通りに、人が信仰によって安息に入る事を決められたからです(エペソ 1:4)。

 へブル 4:6-7「ですから、その安息に入る人々がまだ残っていて、又、以前に良い知らせを聞いた人々が不従順のゆえに入れなかったので、神は再び、ある日を「今日」と定め、長い年月の後、前に言われたのと同じように、ダビデを通して、「今日、もし御声を聞くなら、あなた方の心を頑なにしてはならない」と語られたのです。」

 この箇所から、もし人が福音を聞いて信じるならば、その人は「安息に入る」という事が分かるでしょうか?しかし、信じないのなら「安息に入れない」のです。神はこの事を、世界の基が据えられる前から決めておられました。労働から体を休める事(モーセの律法)は信じなくてもできますが、この聖句の「安息」は信仰によるものです。

 パウロは、不信仰で神に不平不満を言っていたイスラエル人は「安息に入れなかった」としています。これは彼らが荒野で神に対して不従順だったという、歴史上の事実に基づくものです。

 へブル 4:8「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。」

 ここでも、ヨシュアの導きでイスラエル人が「約束の地に入った」事が「安息に入る」事だとしています。しかし、それも究極の「安息」ではなかった事を示しています。実際に、神は「別の日」の安息があるという事を、ダビデを通して語られたました。しかし、真の安息は次のイエスの言葉が示すものです。

 マタイ 11:28「全て疲れた人、重荷を負っている人は私のもとに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。」

 一週間に一度は労働をしないという「安息」の定義は、モーセの律法においてです。初代教会の時代では、土曜日に教会に集っていた習慣が、ローマ・カトリックによって、日曜日にされてしまいました。現代のプロテスタント教会では、それを「安息日」と見なし、その定義を「週に一度教会」に行く日と考えています。しかし、新しい契約が始まってからは、ある特定の日が安息日ではない事をパウロは説明しているのです。

 パウロによれば、真の安息はイエスを信じ、その中に入るという事なのです。ですから、週に一度の休みという、漠然とした、狭い意味ではありません。主を信じて留まり、その中に「安息」を得るという事なので、それを実践する人にとっては、毎日が安息にもなれるのです。

 ルカ 6:5「そして彼らに言われた。『人の子は安息日の主です。』」

 イエスが「安息日の主」なので、「安息日」はイエスに従います。ですから、キリストによって安息日の定義が成される事になります。旧約聖書をどんなに調べてもこの真の安息を知る事はできません。何故なら、その時代にはまだ安息の真理が明らかにされていないからです。

わざを終える

 へブル 4:10-11「神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。ですから、誰も、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。」

 さて、この箇所には、私たちがどのようにして休むかについて、もう一つの事が書かれてあります。まず、「神がご自分のわざを休まれた」というのは、第七日目に「全ての創造のわざを休まれた」という事に基づいています。これが週に一度労働から休むという、モーセの律法になったのです。神がそれをモーセの律法の中に「安息日」として設けたのですが、その理由は、イエス・キリストの「影」とする為であり、真理についてのヒントをモーセの律法の中に置く為でした。モーセの律法の中の安息は、上辺の理解のものであり、儀式化されていたものでしたが、神は、その時はそれで良しとされたのです。しかし、イエスが表れた時には、真の安息として、神がご自分のわざを休まれたように、私たちは「自分のわざ」を終えて休む必要があります。

 「この安息」に入るように努めなさいとパウロは促しています(へブル 4:11)。「この安息」とは「信仰による安息」ですから、私たちが努める事とは、信じる事であって、モーセの律法を守る事とは違います。そして、「神の安息」に入った者は「自分のわざ」を終えて休むとあります。「わざ」というギリシャ語の単語は、ἔργον(ergon)で、「行い」と同じ意味です。

 同じへブル人への手紙で「死んだ行い」という表現が、その後に出てきます。

 へブル 6:1-2「ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、清めの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠の裁きなど、基礎的な事をもう一度やり直したりしないようにしましょう。」

 「死んだ行ないからの回心」はモーセの律法を守る事からの回心です。それは初歩の教えの一つです。パウロはモーセの律法に戻っていたへブル人クリスチャンたちにこの手紙を書きました。彼らが、モーセの律法を守るという死んだ行い(わざ)を終えて、休みに入る(信じる)なら安息を得られると説いたのです。私たちも、宗教的な行ない、肉による努力などを終えて、神のわざを信じないと休む事はできません。律法を守る事により、神の義を得ようとする事は、どんな人にとっても重荷です。しかし、その重荷を私たちの代わりに負って下さったのがキリストでした。私たち自身はもう重荷を負う必要がありません。しかし、私たちが重荷から解放されるには、自分でそれを背負うという自分のわざをやめて、イエスの十字架のわざを信じる必要があります。

 「安息日」を「週一度の礼拝の日」と定義している間は、イエスにあって安息があるという真理を掴む事はありません。正しい曜日に礼拝する事が、「安息日」でもありません。教会に来ないと「安息」が得られないというのも考えがズレています。教会という場所が「安息」を与えるのではなく、イエスに信頼を置く者が「安息」を得るのです。
自分のわざをやめ、イエスを信じ、イエスの教えを実践する事が安息に入る事なのです。

 本来は、クリスチャンは安息に入っていて、そこに留まっているべきなのです。一週間に一度だけ安息に入るような考えは古い契約の視点です。私たちは、あらゆる信仰の障害となるものを避けて、イエスを信じ、安息に入るよう努めなければなりません。そうでないと、古い考え方、モーセの律法、自分の勝手な行いに戻る事になるでしょう。それらは、宗教的な観点で安息を見ています。正しい理解を得れば、土曜日か日曜日かという無駄な議論もしなくなります。