狭き門について

狭き門という表現は聖書から来ています。これは大学などに「入る事が難しい」という意味として理解されて使われていますが、聖書でも同じ意味で使われているのでしょうか?

 ルカによる福音書 13:23-24「すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」イエスは人々に言われた。狭い門から入るように努めなさい。あなた方に言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなた方が外に立って戸をたたき始め、『ご主人様、開けて下さい』と言っても、主人は、『お前たちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。すると、あなた方はこう言い始めるでしょう。『私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教え下さいました。』しかし、主人はあなた方に言います。『お前たちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け。』あなた方は、アブラハムやイサクやヤコブ、また全ての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」

 「救われる人は少ないのですか」との質問にイエスが答えられたので、狭い門とは、真理に至る門、救いに至る門の事です。しかし、救われる事自体が難しいという意味で、「狭い門」という事ではありません。人が救われるのが難しいかどうかは、実は、その人の持つ視点によって変わります。もし律法によって救われようとするなら、それは難しいのです。つまり、「金持ちの青年」のように自分で救いを獲得しようとするならば難しい、というよりも不可能なのです。しかし、恵みゆえにそれを信じる事によって救われようとするなら、それは簡単な事です。何故なら、その方法は神の恵みと憐れみに頼るからです。主に助けて頂くのなら、救いそのものは非常に易しいのです。

 狭い門に入る人が少ないのは、信じる人よりも、信じない人々が多いからです。大学入試のように、競争相手が多い為に、入るのが難しいという事ではありません。ただ、神を信頼するという、単純な真理を見出す人々が少ないというだけです。これは特に、全てのユダヤ教徒と、モーセの律法に頼って生きて来た当時のユダヤ人にとってはそうです。彼らの数よりも、遥かに多くの異邦人の方が先に救い主を信じて救われていますし、今後もその比率は変わらないでしょう。多くのユダヤ人が救われるには、これまでのユダヤ人として誇りとして持っていたものを捨てて、信仰によって歩まなければなりません。パウロはそれの良い模範者でした。

 ヨハネの福音書 1:17「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 真理はイエスによって明らかにされました。つまり、救いの真理はイエス・キリストの教えにあり、その教えを信じる事によって救われるのであり、それは複雑でも、難しくもありません。それを複雑に考えるのは、人間的なものを加えるからです。実際に、救われるのは難しいという考えから、「では何をすれば良いか」と人間的に考えてしまうと律法主義に戻ってしまいます。救われるのが難しいのは、自分でそれを獲得しようとするから考えがあるからです。多くの人々は、神に頼るという謙遜の道を退け、自分の考えに頼るという道を選ぶのです。

 世のあらゆる宗教は自己の鍛錬に頼って何かを得ようとします。これは人間本来の弱さとも言える宗教的な考えであり、肉の思いです。自身の弱さを認める素直な気持ちが必要なのに、それを自分で克服しようと考え、自己の義で救いを得ようとしているのです。しかし人は、自分の義を獲得する事ができなません。中には、クリスチャンでさえも、既に狭い門であるイエスを通ったのに、モーセの律法を守る事によって、その救いを維持しようします。しかし、救いは神の恵みを信じる事によるのであり、その救いの維持も信じ続けるだけなのです。

 イエスだけが完全にモーセの律法を守ったお方でした。ユダヤ人の多くがイエスの福音を聞きました。しかし、その教えは長年にわたるモーセの律法の影響で、彼らにとってはとても信じ難いものでした。まるでモーセの律法を否定するような教え、それとは全く逆の教えに聞こえたはずです。 しかし、イエスはモーセの律法を悪いものと定義したのではなく、むしろ、それは不完全で人を救う事ができないという事を示されました。ユダヤ人に限らず、人々が理解に苦しむ部分は、神の恵みが救いの鍵だという単純な真理です。何故なら、その神の恵みは私たちの理解を超えているからです。

 人は、律法による裁きの正当性と義を良いものとし、それを追求してしまう傾向があります。先に言ったように、それは人間的な考え、肉の思い、人の弱さであり、悪魔が促すものです。しかし、人に対する神の義とは、ただ善悪という判断だけでなく、恵みと憐れみを与えるものです。人に対する神の義の裁きとは、無罪を宣言し、救いをもたらすものです。サタンや悪霊に対する神の律法の義は、火の池に投げ込むというものです。

 狭い門はイエスですが、その他の宗教、イエス以外のものは全て滅びに至る大きい門です。その救いを見出す者があまりいないのは、それを見つける事が難しいというよりも、多くの人が自分で難しく考え、自分の考えで歩もうとするので、結果的に、狭い門となっているのです。

 マルコによる福音書 10:26-27「弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、誰が救われる事ができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできない事です。しかし、神は違います。神にはどんな事でもできるのです。」

 「それは人にはできない」の「それ」とは、救いの事です。人は自分を救う事ができないのですが、神はできるのです。「神にはどんな事でもできるのです」このイエスの言葉は「誰が救われるか」の答えです。